『日本考古学協会第70回(2004年度)総会研究発表要旨』p209-212 日本考古学協会 2004年5月20日

考古学に関する記録写真資料の保存と研究への活用について

−大場磐雄資料を中心に−
山内利秋・加藤里美・椙山林繼・小林達雄


1:考古学系記録写真資料の状況
 明治期(あるいは幕末)以来、考古学に関連する文化財が記録された資料は国内には多数存在している。大森貝塚では調査資料そのものが重要文化財として指定されているが、多くの遺跡の調査資料は出土した遺物に比べて、その扱いは保存されたまま、時には放置されたままの状態にある。
 写真は調査時ないしは出土遺物の資料化、さらには調査者以外に状況を伝える手段として利用されてきた。しかしながら、調査報告がなされた後、あるいは報告が行われないままであっても活用されない状態にある資料が極めて多い。大抵はファイルに収められてはいるものの、ダンボールにつめられたままになっていたり、よしんば棚に収蔵された状態になっていたとしても、殆ど活用される事なく、劣化が進行してしまっている。特に長く一定の状態に詰められたまま保管されていると、強い酢酸臭を起こす所謂「ビネガーシンドローム」が発生したり、ネガカラーやリバーサルの場合−特にネガカラーの場合では−変退色が著しい。
 かつて鮮明なコロタイプ印刷で多用され、100年以上にもわたって活用されてきたモノクロのガラスプレート(ガラス乾板)は、画像そのものの保存状況は比較的良好な事もあるが、それでもかびによる退色や、画像周辺部分から酸化してくるミラーリング、ゼラチンの剥離やゼラチン同士の張り付き、基盤となるガラス部分の欠落等さまざまな劣化要因がある。明治期から昭和30年代までにかけての考古学関連の写真資料には、このガラスプレートで記録されているものも多い。
 國學院大學では、創立以来多くの研究者を輩出しているが、特にフィールドワーク系の研究者は写真を含め数々の調査資料を蓄積してきたり、寄贈を受けている。考古学・文化財系の研究者の資料を見てみると、和田千吉・神林淳・柴田常恵等の資料があり、彼等の資料には調査時の図面・拓本・野帳、さらには記録写真が残されている。
 折口信夫や桜井満といった考古学系以外のものも含め、これらのフィールドワーク系調査資料の多くは研究室や専攻毎に個別に保管されているケースが多く、個人研究資料として扱われてきたため、教員の退職等によって経緯・来歴が不明になってしまっているものが多い。過去の調査資料は現在の研究認識では活用し難い側面がある一方、反対に当時とは異なった観点からこれら過去の資料を確認してみる事によって、新たな見解が生じてくる可能性もある。
 そのような状況から、平成11年度から15年度にわたって文部科学省学術フロンティア研究事業にかかわる補助を受け、「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」と題した研究活動を実施した。
 研究活動はタイトル通り、過去から蓄積されたままの状態で劣化しつつある写真を中心とした記録資料を、オリジナルを保存しつつ、デジタル化して活用していこうというものであり、学内各所に保管されているさまざまな資料を扱っている他、他機関所蔵の資料もその対象としている。
 この一連の成果は、大学内のサーバにある、國學院大學学術フロンティア事業実行委員会のサイト(URLhttp://www2.kokugakuin.ac.jp/ frontier/ )から確認できる。
 今回はこの研究活動の最も主体的な部分を占めている、大場磐雄資料について紹介する。

2:大場磐雄資料について
 大場磐雄は大正14(1925)年に内務省嘱託となり神社局考証課に勤務する。昭和2(1927)年に伊豆吉佐美洗田遺跡から三倉山を望んだ事がきっかけとなって神道考古学への第一歩を踏み出した。以来、安房神社洞穴遺跡(昭和7年)、日光二荒山神社(昭和9年)等数々の遺跡を調査している。また、大場の研究にとって重要な分野となる神社関係の調査も盛んに行い、宮地直一の下で『考古学講座 第16巻 神社と考古学』を編集、昭和4年の遷宮を前にした神宮神宝の調査、鹿島宮神宝誌』『香取神宮宝物誌』等の編纂を行っている。
 國學院大學とのかかわりでは、大正7(1918)年に入学した後、大正11(1922)年に国史学科を卒業している。教歴としては昭和8(1933)年に附属高等師範部講師、昭和9(1934)年に予科講師、昭和10(1935)年学部講師、さらには昭和19(1944)年国学研究所研究員を経て、昭和24(1949)年には文学部教授に就任している。
 彼の記述した『楽石雑筆』に顕著なように、大場は自らの行程・調査内容等に関する記述を事細かに残している。國學院大學には大場の調査・研究記録である拓本・テキスト・実測図・写真類が多数残されている。
 特に写真資料に関しては、大場自身や大場周辺の研究者らが撮影した資料が多く、ネガに関しては、多量のガラスプレート(4,277点)が存在している。
 このガラスプレートに関しては、
 1) 内務省時代に関係した昭和初期の神宮神宝宝物調査資料、安房神社洞穴遺跡の調査写真資料等
 2) 登呂遺跡調査資料・平出遺跡調査資料等、大場が関連した学史上特に著名な遺跡調査写真資料
 3) 2)以外の大場の神道考古学の形成と展開に関わる関連写真資料
 4) 諸磯式等、大場の先史考古学研究に関わる写真資料
 5) 祭祀・民俗誌に関連する写真資料
 6) その他大場の学問的形成に関わる人間関係を記録した写真
 といったものが存在しており(当然、この中には上記1)〜6)までのうち、複合的な性格を持つものも多い)。『楽石雑筆』その他の資料と合わせて考えると、視覚的要素が加わり極めて興味深いものとなっている。
 これらの中でも長野県平出遺跡・静岡県登呂遺跡、さらには千葉県菅生遺跡の調査関連資料は写真資料数が多く、大場自身がこの調査に主体的に関与していた事をうかがわせる。
 登呂遺跡関連写真資料は90点あり、大場が関係した昭和18(1943)年から資料が存在している(写真1・2)。撮影内容は、現場の発掘状況、遺構確認状況および遠景、遺物の出土状況、主要な出土遺物等に及ぶ。さらに戦前・戦後の登呂遺跡付近の景観や作業に携わったり遺跡見学に訪れた人々なども記録されており、調査実施当時の時代背景の一端を読み取ることができる。第二次世界大戦での敗色が濃くなった昭和20年には、登呂遺跡は空襲を受け遺構等が直接的な被害を被っており、さらには第1次発掘調査の記録や遺物の一部、作成中の報告書原稿なども失われている。従ってこれら写真資料は、当時の調査状況を確認できる記録として重要であろう。
 平出遺跡調査に関連する写真資料は376点あり、大場が調査を実施した昭和25(1950)年前後の頃から、調査後に復元住居が構築され、その後展示施設が完成した後までの写真が存在している。
 菅生遺跡調査関連写真は約500点あり、これはその後の報告書刊行に際しても多く活用されている。

登呂遺跡水田址畦畔杭列(昭和18年撮影)
写真1 登呂遺跡水田址畦畔杭列(昭和18年撮影)

登呂遺跡出土木製品
写真2 登呂遺跡出土木製品

平出遺跡住居址(昭和25年)
写真3 平出遺跡住居址(昭和25年)
平出遺跡復元住居(昭和26年撮影)
写真4 平出遺跡復元住居(昭和26年撮影)

3:調査資料から判明した事例
 大場磐雄写真資料から明らかになった興味深い事例がいくつかある。

1) 平出遺跡の写真では、住居跡を俯瞰で撮影している構図が多用されている(写真3)。俯瞰で住居跡を撮影するというのは、現在の調査では当然の事のように行われているが、この時期にはまだ少なかったと考えられる。大場は第二次世界大戦前の昭和2(1927)年、柴田常恵と共著で『石器時代の住居址』を出版しているが、この際に柴田が撮影した富山県朝日貝塚をはじめ、いくつかの住居跡の写真には俯瞰で撮影されているものがある。
 内務省勤務時代以来、大場は柴田との学問的関係性が強かった事は、築地書館の『日本考古学選集 柴田常恵集』での大場の記述をはじめ、他の大場のいくつかの記述からも明らかであるが、大場自身が記録資料としての写真の重要性を認識したのも、柴田からの影響が直接・間接的にあったと考えられるだろう。
また平出遺跡の資料中には現在では建て替えられている、藤島亥治郎による復元住居の写真がある(写真4)。これは建築過程を記録したものだが、当時の建築史における住居の復元に対する考え方を示しているものでもある。

2) 大場の写真資料と記述との際が現れている事例として、千葉県安房神社洞穴遺跡が挙げられる。この遺跡は、地震による被害を受けた安房神社の修復にともない現地を訪れた宮地直一が、陥没した社殿の傍に洞穴が存在するのを見つけ、大場に調査させたもので、調査結果は『神社協会雑誌』等に報告されている。大場はこの時、遺物の年代観からこの洞穴の年代を弥生時代ないしは古墳時代と記述している。
 一方、安房神社洞穴の人骨については、小金井良精・鈴木尚らの見解があるが、鈴木は縄文的な特徴を持つものと古墳時代的な特徴を持つものがあり、全体的には中間的な様相であると述べている。こうした年代観の差異について、石川日出志は雑誌『利根川』誌上で出土土器の再検討を行い、縄文晩期末-弥生初頭期と位置付けている。
 安房神社洞穴関連の大場の写真資料には、縄文後期中葉の遺物が含まれている。この事から考えると、この洞穴遺跡の利用時期は、縄文後期中葉-(晩期末〜弥生初)-弥生後期〜古墳時代となり、この傾向は房総半島・三浦半島にかけての海喰洞穴遺跡の一般的な利用傾向と一致する事になる。

 3) 菅生遺跡のある千葉県君津地方は、大場との関わりが深く数々の遺跡を踏査している。当研究プロジェクトから提供した大場写真資料と、『落石雑筆』との記述を検証した光江章・酒巻忠史らのグループは、丸山古墳・牛ケ作窯跡・九十九坊廃寺跡と現状との整合性や、現在では不明になっている遺物を写真の画像から検証する事で、遺構の年代観や現状では変化している遺構の景観・位置的推定を具体的に実施している。

 大場の記録した写真の中にはさまざまな人物が写されている。写真は学史上、スクールの形成と密接に関係する人間関係をも記録している場合がある。また、写真そのものには記録されてはいないが、大場と写真との関係の中で旧制中学時代の教え子である土門拳がおり、これは写真史上においては、文化財写真の記録的側面と表現的側面とを考える上で重要である。

4:大場が意図した記録・意図しなかった記録
 大場の神道考古学研究において、重要な見解の一つに景観の問題がある。写真資料にはこの大場の認識を視覚的に表現したと考えられるものが残されている。しかしながら「画像をどう読み込むか?」という具体的な部分にはまだ至っていない。これは考古学的事象の事実性を明らかにするというよりも、大場、さらには大場と同時代の研究者の有していた思想的背景と深く関係してくる。
 例えば、大場は平出遺跡や埼玉県石神貝塚に折口信夫を案内している。折口のテキストにおいて、大場が同行した「場」がどのように織り込まれているのかは、課題として挙げられるだろう。
 以上のように、データ化が進む大場資料の今後のテーマとしては、
 1) 記録されている内容を、現在残されている調査資料や遺跡と個別に整合していく作業
 2) 写真に残されている大場の思想背景を「読み取る」作業→思想としての大場磐雄の位置付け
 が挙げられる。




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