『國學院大學日本文化研究所報』Vol.37-5 2001年1月25日

文化遺産としての画像資料

山内 利秋
(國學院大學日本文化研究所)


思想化された視覚的情報

近代において発明された技術である写真や、写真を構成する画法(図法)、あるいは進化した印刷術が重要なのは、それが単に技術的に優れた記録手段や媒体として評価されるだけではなく、伝承・技術・文芸・科学・宗教・政治といった抽象性の高い概念を、人工物や姿勢・ファッション・デザイン・文体そして肖像といった個別性、すなわち本来はさまざまな形態の1つに過ぎなかった特定の表現を通して複製し、さらに流通−拡散させる事によって、表現そのものを一般化・規範化・権力化していった点にある。これは近代化において多様であった言葉が「標準語」として整備され、標準語によって規律・訓練された「国民」が創出されていったプロセスと同じシステムの中に存在する。

例えばある判断基準として機能する概念、すなわち美術や、文化財、あるいは考古学や建築・建築学といった学問や技術、さらには博覧会・博物館や学校のような装置は、ヒトの最も根本的で、最も多くの情報を収集する感覚としての視覚を通じ、水晶体を通過して網膜に結ばれる画像の象徴的な有効性を利用した典型的な手段である。

明治22(1889)年10月に岡倉覚三(天心)・高橋健三が創刊し、現在まで継続して刊行されている雑誌『國華』は、コロタイプ製版による写真図版をふんだんに使った美術誌である。この雑誌を刊行し、同時に自ら写真撮影を行った小川一真は、アメリカで写真印刷術と乾板製造法を学び、帰国後は印刷会社を設立する一方で、明治21(1988)年から翌年にかけて行われた近畿社寺宝物調査に参加し、その写真を『國華』のみならず、美術書の『真美大観』や、明治33(1900)年のパリ万博の際出版された"Histoire de l'Art du Japon"に使用している。小川の撮影した写真は文化財の所在調査において撮影された記録写真でありながら、実は、かなりの部分において小川の主観的な美意識が介在したものであり、さらに小川のこの写真は、日本の美術史を、ないしは歴史上制作されてきた人工物を美術品として視覚的に構成したものであった(註1)。この意味で、小川の写真は記録写真という2次資料としての枠組みを超え、写真そのものが直接的な作品であったとも言えるのである。

美術界の動向にやや遅れながらも、考古学や、歴史学・地理学といった分野においても明治30年代前半になって一気に学会誌上で写真が掲載されはじめる。この背景には、一つには明治21年から古社寺保存法が公布される明治30年までの間に、国内各地の社寺宝物にかかわる調査が、宮内省に設置された臨時全国宝物取調局によって行われ、文化財保護行政にかかわる基本的なシステムが整備されていった点が大きいと考えられ(註2)、社寺に限定されず日本各地に所在する古器旧物についての研究も、こうした宝物調査をベースとした調査スタイルを確立していった。

また、一方で人類学と未分化な学問体系にあった先史考古学的研究(ないしは国外を対象とした地理学的研究)においては、海外に展開されつつあったフィールドワークにおいて、鳥居龍蔵の調査に端的に見られるように、記録手段としての写真を盛んに利用していた。19世紀の人類学における写真の利用はヨーロッパでは盛んに行われており、例えば幕末の遣欧使節団も、人類学的標本として肖像写真を記録撮影されている。こうした点をみても、この国外をフィールドとして行われた人類学的研究と日本国内における先史考古学的調査がいまだ分化されていない時代、特に研究者自身が原生人類の調査と考古学的な発掘調査の両方を実施していた状態においては、写真という記録手段が考古学的研究に導入されたとしてもさほど違和感はない。

以上のように、研究者にとって写真というメディアを通して資料・史料を「読み取る」方法が確立したのは、明治20年代前半から30年代前半という極めて短い時間にかけてであるが、これはフレームワークから拡張へと指向しつつあった日本の政策において、日本固有の伝統を肉付けする象徴的存在として文化財を評価し、また、未開と近代とを区分し、後者に組する事で非近代社会を差別化していくという戦略的な進化主義をコンセプトとした事が大きい。

そして、まだ詳しく考察している訳ではないが、この急速な展開を語る上で見逃せないもう一方の重要な視点には、近代になって格段にスピードアップしたテクノロジーの進歩と、国際的に拡大―連動した市場経済の動向があると考えられる。確かに、この明治30年代前後という時期は日本ではすでに写真という画像記録方法のみならず、明治26(1893)年にトーマス・エジソンが発明した映像の運動を1人ずつが覗き込むキネトスコープが、発明から3年後の明治29(1896)年に神戸ではじめて上映されて以来、その翌年には、観客の後方から前方のスクリーンに向けて映像を投影するという現在の映画の直接的な原型となった、リミュエール兄弟のシネマトグラフが大阪で公開され、以後日本各地で映画の興行が実施されるようになったりと(註3)、近代の最先端テクノロジーである写真画像や映像が急速に普及し、研究者のような特権的な立場ならずとも、自国や異国に存在する対象を容易に客観化できるようになった時期なのであった。


「景観」はいかに認識されたか

ところで、写真や映画という新しいテクノロジーの普及は、人物の肖像や美術工芸品、歴史資料・史料のような比較的具象化されやすい対象のみならず、景観や習俗のような本来認識的には曖昧だったり不可視であったりする対象をも、その一面を切り取ったビジュアル化をも可能にした。景観は風景画として東アジアの絵画においては古くから題材として扱われているが、それは欧米において17世紀に発生するシノワズリーや、19世紀に拡散したジャポニスムの展開の中で、障壁画や浮世絵として日本から輸出され、ヨーロッパ人に日本を客観的に認識させる素材となった。フェリックス・ベアトは文久3(1863)年頃日本に来日し、維新の動乱の最中にある江戸の風景を撮影している。これらはアルバム『幕末写真帖』に纏められており、よく知られている四国連合艦隊による長州藩の下関砲台を占拠した写真(元治元(1864)年)や、三田の薩摩藩邸の写真(慶應3(1867)年)もベアトによって撮影されたものである。また、「横浜写真」と呼ばれ、現在でも古書・古美術市場にしばしば流通している日本各地の風景や人物・習俗・建造物等を撮影した着色写真も、欧米人が日本を実体のあるかたちとして捉えようとした試みでもあった。

自らの位置を客観的に認識するのは、他者との比較においてしか行い得ない。例えば概念としての日本画は、西洋画という概念ができてからはじめて生み出されたものである。さて、日本人自らが撮影した国土の景観も、写真が渡来した比較的早い時期にはすでに撮影されている。明治4(1872)年の太政官布告「古器旧物保存方」を受け、翌年に実施された壬申検査の際、文部省出仕・外務大録の蜷川式胤とともに正倉院開封に立ち合い、古社寺調査の記録撮影も行った横山松三郎は、その前年に蜷川とともに、荒廃した江戸城と維新直後の都市東京を写真に収めている。また、長崎の上野彦馬から写真術を学んだ冨重利平は、明治3(1870)年から熊本に写真館を開業し、西南戦争によって焼失する以前の熊本城や、熊本市街の景観を撮影した。さらに、西南戦争に従軍して激戦直後の風景を記録している。冨重の写真所が注目されるのは、利平の後、徳次、清、清治の4代にわたり、現在まで熊本の地で写真を写し続けている点である。国内では他に、ここまでの長期にわたって定点での写真撮影を、1つの写真所で行ってきた例を探す事はできない。

このように日本人の手で撮影されてきた日本の景観は明治初年度から存在するものの、景観を日本の固有性として認識し、この上に立って意識的に記録や表現を行うようになるまでには、まだ若干時代が下らなければならない。この意味で、明治27(1894)年に初版が出版された志賀重昂の『日本風景論』は、明治後葉から大正、昭和前期における日本人の景観にかかわる思想形成に与えた影響が大きい。志賀はこの中で「日本風景の保護」についても論じているが、古社寺保存法にかかわってくる宝物が、言わば官の意識のもとで文化財として制度上保護されていったのに対して、名勝・旧跡に関しては、景観という意識を支えた志賀のナショナリズムの発揚とリンクした思想や、国民が自らの地域社会に存在する名勝・旧跡の保存を、「保存会」という組織を通して突き上げていった点で興味深い。

その後、明治44(1911)年には徳川頼倫を会長とする史蹟名勝保存協会が民間団体として設立され、さらには国際的に見ても文化的景観を文化遺産として扱った早い時期の法制度としての史跡名勝天然記念物保存法が大正8(1919)年に制定されるに至った。

景観が日本の思想的営為の中で与えた影響は極めて大きい。昭和前期までで、その最も著名なものは和辻哲郎の『風土―人間学的考察―』(昭和10(1935)年)であり、今西錦司の大興安嶺の探検であったりする。先述したように、景観を視覚化する方法として写真は積極的に活用された。これは明治期以降、機材の普及とともに益々盛んになった。昭和初頭期に伊豆吉佐見の考古学的調査を実施した大場磐雄は、この遺跡の景観の問題が端緒となって、神道考古学を確立していく。大場の残した写真資料では、この景観に関わってくる「山」を意識的に捉えた写真が目立つ。


文化遺産としての画像資料

文化財にかかわる調査においては、状況や物象を記録した写真や計測図面が作成されるが、これらの多くはこれまで記述してきた人工物や景観・人物の行為や行動といった対象をほとんど含んでいる。これらの記録が着目される最も大きな理由は、記録がすでに失われてしまった対象を生き生きと現在に伝えているからのみならず、現在とは異なった、調査が行われた当時の認識―思考さえもが明らかであるという点に他ならない。それは、現代の文化遺産の保存と活用にかかわる諸場面においては、文化財の対象が明治期のような優品主義から脱して、過去に生産され、見出された機能や認識をいかに再評価するかという論点を、常に複数の視点から与えている事とも密接である。

当然ながら、こうした視点は、まだ評価されていない、正確にはこれから評価されつつある画像資料を、今後いかに扱っていくかとの問題に辿りつく。現在にいたるまで写真や映像、図面、拓本といった記録手段は、調査から研究―記述にいたるまで不可欠のデータであるが、一旦その調査結果自体が報告や論文といったメディアに纏められてしまうと、2次資料であったデータが残されていないケースも多い。

もちろん、この中でも調査者と非調査者のプライヴェートな部分にもかかわってくるデータは、筆者自身の行った調査記録を記述する過程を振り返っても、抹消されてしまっている場合が明らかに多い。

しかし、人類学において参与観察という研究手法を確立し、『南太平洋の遠洋航海者』を記述したブロニスラフ・マリノウスキーの調査記録のうち、プライヴェートな告白を語ったフィールド・ノーツである『マリノウスキー日記』が、彼の死後出版された事による学界への影響を考えて見ても、「告白」として残された記録がその後の人類学における記述のあり方を大きく変えてしまったように、その価値を将来オリジナルに変換させてしまう可能性のある2次資料としての記録をどう扱っていくかは、文化財として資料を扱っていく際には、これまで「宝物」がどう取り扱われるかで議論されてきた財産権の問題とは別に、大きなテーマとなってくる可能性がある。要するに、ある調査・研究を行うプロセスにおいて定められたルールが、将来の時点で大きく変貌した認識に対応できるのか、との疑問である。恐らくこのテーマは、2次資料を物理的に保存可能かどうかという論点において、等閑視されざるを得なかったのかもしれない。

だが、文化遺産をめぐって、それが保存という保守性に止まらざるを得なかったこれまでの大部分の観点から、それをいかに活用していくかという現代社会と密接な動向において考えざるを得ない今日、調査にかかわってくる資料をどう扱うかは、もはや専門家の中だけで考えていくべき段階をとうに越えてしまっているのは間違いない。

画像は、そこから読みとる事ができる意味において、文章よりも多義的、すなわち、誰にでも好きなように解釈できるという冗長性がある一方で、視覚的なイメージとしての具象化は―その有する本来の意味が正しいか否かにかかわらず―確固としている。

こうした事から、歴史のある一時点を記録した画像を活用するに際しては、それを巡って権利関係が生じるケースが多くなる。記録化を実施した作家の存在が明白である場合ならばまだしも、日本の場合、特に美術品で問題となってくるのが、対象を記録した際に生じる所有者の権利である。これはインターネットがもたらしたグローバリゼーションの申し子とも言える電子化された画像資料が、伝統や文化といったこれまで極めて保守的であった分野をも、知的所有権という大きなフレームワークを通じて議論されるべき段階に関与している点を意味している。



(1)この点について、東京都写真美術館の岡塚章子氏からは多くの教示を受けた。岡塚氏の考察として次のものが挙げられる。
  岡塚章子2000「小川一真の「近畿宝物調査写真」について」『東京都写真美術館紀要』No.2  東京都写真美術館
  岡塚章子編2000『写された国宝―日本における文化財写真の系譜―展覧会図録』 東京都写真美術館
(2)東京国立博物館編1973『東京国立博物館百年史 本文編』東京国立博物館
  臨時全国宝物取調局によって実施された調査は広範囲・詳細を極めたものであった。明治21年から30年の間、調査対象となった文化財の数は、実に215,091点におよぶ。
(3)四方田犬彦2000『日本映画100年』集英社新書




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