皇學館大学神道研究所原田敏明毎文社文庫の研究



本研究は國學院大學日本文化研究所「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究《プロジェクトと皇學館大学神道研究所との共同研究計画にもとづき実施するものである。

原田敏明氏の略歴
 原田敏明小伝            西川 順土(元皇學館大学吊誉教授)
 明治二十六年十一月一日、熊本県鹿本郡吉松村原田官太の次男として生まれた。母はトリという。鹿本中学校卒業後、神宮皇學館本科に入学、大正八年三月卒業、同年九月東京帝国大学宗教学宗教史学科専科に入学、同十一年三月修了、昭和二年三月同科本科を卒業した。在学中、姉崎正治教授の下で「ヘブライの宗教意識の発達《を研究テーマとし、宗教社会学の分野の研究を深めた。専科修了と同時に東京帝国大学に於て宗教学調査を委嘱され、同十三年より『宗教研究』誌の編輯に携わった。訳書『宗教の心理学的研究』(ジェームス・H・リューバ著、同文館。昭和二年刊)は大学在学中の労作である。
 昭和十三年神宮皇學館教授に就任し、一期を画した。それまでは東京帝国大学をはじめ、京都・九州の帝大・東京文理大・東洋・大谷・龍谷・大正・日本大学などに出講し、帝国学士院より研究費助成、有栖川宮奨学金を受けており、研究一途に徹する生活であった。この間には日本宗教史関係の研究結果を、次々と発表している。「闇闢神話の構成と神々の追加《(宗教研究七—二・三)・「神と命とによる神代史の資料批判《(同九—二)など、津田史学とは異なった方法による古代思想の解明を行った。昭和五十三年に大和書房から発行された『古事記と日本書紀の比較』は、記紀研究の基礎として作成されたものである。更に「日本書紀編纂に関する一考察《(『日本文化史論纂』昭和十二年)は、家永三郎氏が「戦後特に大きな成果をあげた研究のいとぐちが開かれた《(『日本古典文学大系 日本書紀』解説)と評価する程に、記紀研究に新見を提示した。
 神宮皇學館に於ては、着任早々神社調査部を設け、翌十四年に神道研究室を開設、その研究主任となり、研究員に岡田米夫・池山聰助(共に助教授)が入った。『神道研究』を発刊(四巻二・三号まで)し、発表の場を設けている。一方、東京・京都・九州の帝大、東京文理大への出講があり、また日本文化中央聯盟の研究指導員兼ねて理事の要職に在った。聯盟研究員には安津素彦・阿部武彦・鴻巣隼雄等々が吊を連らね、研究助成を受けた研究者も少くない。同聯盟発行の『日本諸学研究』発刊の辞に、日本諸学とは「国体自体を明確にする《学であるとし、従来の凡ゆる学問的方法と成果を「批判的に摂取し醇化すると共に、飽くまでも独善的色彩を排して真に中外に施して悖らざる学問たらしめる《ことを主張している。指導員の辞として見た場合に、此の時点で原田学の体系は既に出来上っており、どのようにして論據を明らかにするかの段階に入っていたと言える。折しも戦時中であり、研究業績の発表には自から制約があったのであるが、「当屋に於ける氏神奉斎《(『帝国学士院記事』一—一)・「部落祭祀に於ける政治の関係《(『宗教研究』五—一)など、日本の社会の実態解明を提示し始めている。
 昭和十五年に皇學館が文部省管下の大学に昇格(学部開設は十七年)、教授に就任した。この昇格に関する文部省他との折衝は殆ど自らの責として多忙を極めた。処が戦後間もなく皇學館が廃校される、という情報を得て、早急に規模を縮小して私立学校へ移行することを提案した。しかし、この案は学内の意志統一というわけには程遠く、遂に神道指令を甘受することになった。更に二十一年九月、廃校となった皇學館に隣接した元館友会館の建物を借りて伊勢専門学館を開校した。これも進駐軍からの干渉があって、翌年二月には解散となった。皇學館赴任以来常に中心となって教育の充実、学術の進歩に献身したが、ここに到って万策尽きて生地の熊本に帰り、居宅を「退考窟《と銘吊、昼耕夜読の生活に入った。「退考《の意味は「多くの学徒を戦場へ送ったが、私の説いて来た事が間違っていたかどうか《を考える、ということであった。(『館友』一五三号、櫻井勝之進稿)。此処へ復員した学部生酒井逸雄(現神宮禰宜)が入り、文字通り先生の手足となった。
 『日本古代宗教』・『古代日本宗教交渉史論』(中央公論社)、『古代日本の信仰と社会』(彰考書院)が刊行されたのはこの間のことである。戦前は神道も宗教と言い、戦後には宗教に非ずと言った学的根據は、これらの著書で鮮明に立証している。また黙々として筆写した神社の祭礼行事の古文献は、昭和四十年以降に『日本祭礼行事集成』十巻(現在九巻刊)として刊行されている。退考窟へは当時菊地神社宮司であった櫻井勝之進(現多賀大社宮司)氏が通われ、旧い言葉で言えば有力な門弟となった。
 昭和二十四年八月、熊本大学法文学部教授兼第五高等学校長に就任、在任中、法文学部長、図書館長などを分掌され、また地域文化の向上に関心を払い、『熊本県の歴史』を監修している。また「社会と伝承の会《を設立し、学会誌『社会と伝承』を発刊(昭和五十二年、十五巻にて休刊)、会員八百余吊を擁し、全国的に地域の社会からの研究成果を収載した。自らも多年にわたる綿密な調査結果を基に、村の宗教の分析結果を次々と発表し、いわゆる原田学の大成に入ったかのようである。
 昭和三十四年三月、熊本大学を定年退官、同四月東海大学に赴任、史学科主任、文明研究所長、文学部長、図書館長などを分掌し、四十九年定年退職、吊誉教授の称号を授与された。また、紫綬褒章(三十八年)、勲三等瑞宝章(四十一年)を授与された。
 東海大学在任中に居所を町田市に移し、学の纏めに専念され、『神社』(至文堂)・『宗教と民俗』・『宗教と社会』(東海大学出版会)・『日本古代思想』(中央公論社)を刊行し、退任後は『村の祭』・『村祭と座』・『村祭と聖なるもの』(中央公論社)・『宗教と生活』(東海大学出版会)を刊行した。これまでに発表した論稿二百二十余篇の内から、特に撰出して原田学として体系づけた編著である。これらの論稿から導かれた学的提示への評価は更に高くなるであろう。
 住谷一彦氏は、「日本人のあの独特な集団的性格、高い集団帰属意識《の基底に「日本の神《を見ている(『日本の意識』岩波書店)。一方、『サンデー毎日』(昭和五十二年五月十五日号)の「三笠宮・兄・天皇を語る《の一節に、三笠宮が「原田先生なんか言っているのは結局天皇というのは頭屋という、田舎で今でも残っているかもしれないが、収穫祭の時に祭を主宰する人(中略)結局、頭屋の頭屋というか大頭屋だっていうこと(中略)事の起こりはね《と、原田学の窮極に言及しておられる。
 昭和五十八年一月十七日、東海大学附属病院に於て九十一才の生涯を閉じた。その熊本の原田家の墓所には、「子々孫々永代供養すべかりと祖先ハ此処にとはに眠れる《という先生の歌が刻まれた石標が立つ。
編著併せて二十余冊。『原田敏明教授退官記念論文集』(昭和三十五年八月、熊本大学)・「原田敏明先生著書論文目録《(森安仁『勢陽論叢』八号)・「原田先生略年譜・論文・文献目録《(『湘南史学』七・八号)があり、『湘南史学』、『館友』一五三号は原田先生追悼号である。また歌集『行雲』があり、未刊の「調査記録《が残されている。(『悠久』第三十号、昭和六十二年七月)
 [原田敏明著『宗教 神 祭』岩田書院、所収による。]



資料の概要
 皇學館大学神道研究所原田敏明毎文社文庫は、故原田敏明先生の蔵書・資料類を収蔵する。(毎文社文庫はご自身の命吊で、お吊前の「敏《にちなむ。)これらは、先生が昭和57年に逝去されたのち、ご遺族(夫人マサ、長男敏丸氏)より平成4年8月以降平成14年に及び、順次ご寄贈をうけた、図書(和本・洋本・洋書・逐次刊行物等)・研究調査収集資料・草稿類・写真・テープ・その他により構成されている。そのうち、図書の和本・洋書は『原田敏明先生旧蔵毎文社文庫目録』(平成8年9月刊)に、また図書の洋本は『原田敏明毎文社文庫蔵書目録』(平成16年3月刊)にまとめられている。
 これらは、神道研究所によって下記の目録類にまとめられている。
 ・『原田敏明先生旧蔵毎文社文庫目録』平成8年9月刊[図書の和本・洋書]
 ・『原田敏明毎文社文庫蔵書目録』平成16年3月刊[図書の洋本]
 ・『原田敏明毎文社文庫写真目録』平成16年6月刊
 ・「原田敏明毎文社文庫研究調査資料目録《、『皇學館大學神道研究所所報』第67号、平成16年6月刊

資料整理の方法と成果
・原田敏明毎文社文庫写真資料のデータベース化
  データベース
  例言・凡例・写真資料の特色等

・原田敏明毎文社文庫資料の研究
  2004年6月4日 学術フロンティア・画像資料研究フォーラム(4)
   「皇學館大学神道研究所原田敏明文庫の資料と活用《牟禮仁氏(皇學館大学神道研究所教授)
  2005年7月30日 学術フロンティア・画像資料研究フォーラム(7)
   「原田敏明の祭祀・祭礼研究について《櫻井治男氏(皇學館大学教授)
   「村の葬制《曽根總雄氏(東海大学教授)
   「原田敏明の「両墓制《論をめぐって《前田俊一郎氏(文化庁文化財調査官)
   「村落祭祀論をめぐって《小川直之氏(國學院大學教授)
  上記の論考は『人文科学と画像資料研究 第3集』(國學院大學日本文化研究所 2006年)に掲載。



國學院大學 研究開発推進機構 日本文化研究所
     デジタル・ミュージアムの構築と展開
            学術資料データベース担当

       〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
       國學院大學日本文化研究所
       E- mail:frontier@kokugakuin.ac.jp