『國學院大學学術フロンティア構想 大場磐雄博士写真資料目録1』國學院大學日本文化研究所 2005年
解説
1.大場磐雄博士と大場磐雄博士資料
大場磐雄博士(1899〜1975)は、國學院大學史学科を卒業後、第二横浜中学校教諭を経て、内務省神社局考証課に勤め、後年國學院大學教授となった。専門は考古学であるが、折口信夫博士に民俗学を学び、内務省神社局では宮地直一博士の下で各地の神社調査・神社誌編集を行なうなど、考古学・民俗学・文献史学に精通し、後年それらを総合した神道考古学を確立した。
初期の博士は、諸磯式土器の研究や、柴田常恵氏との共著『石器時代の住居阯』(1)など石器時代研究者として知られるが、伊豆洗田遺跡の調査をきっかけに神道考古学の研究を深め、熊野・春日・諏訪などの経塚、神坂峠・入山峠などの遺跡や各地の神体山・磐座などの調査を行ない、『神道考古学論攷』・『祭祀遺蹟』(2)として結実させていく。一方、その間も各時代にわたる洞穴遺跡、弥生時代の低地遺跡である菅生遺跡や登呂遺跡、縄文〜古代の集落遺跡である平出遺跡、方形周溝墓命名の契機となった宇津木向原遺跡など幅広い時代の調査・研究を手がけている。晩年には、銅鐸や古墳、式内社等の分布から古氏族に迫った『考古学上から見た古氏族の研究』(3)をまとめている。また、『日本考古学新講』・『まつり』・『十二支のはなし』(4)など概説書・一般書も多数著している。この他、上記単行本未収録の論文については『大場磐雄著作集』全8巻に収録されている(5)。博士は非常な筆まめであり研究開始から晩年に到るまで『楽石雑筆』と題した研究日誌を残している。その戦前分については著作集の6〜8巻に収録されており、学史的に貴重な資料となっている。
博士の収集した蔵書・写真原版・各種資料等は没後一括して本学に寄贈された。蔵書類(7172件)については國學院大學図書館より『楽石文庫目録』(6)が刊行されたが、それ以外の資料については平成11年度より國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」の一環として整理を進めており、拓本・紙焼写真等の各種資料(193箱)のうち旧石器時代から歴史時代までの資料については目録を刊行している(7)。
今回報告する大場磐雄博士写真資料はガラス乾板、硝酸セルロースフィルム、35mmネガフィルム等からなる原版資料である。その多くは博士自身の撮影と想定され、これまでにガラス乾板3960点、硝酸セルロースフィルム313点、三酢酸アセテートフィルム3点の計4277点について整理が完了している。この他35mmネガフィルム322本と別置されていた約820点のガラス乾板類が整理途上である。本書では、整理完了資料のうち前半の2840点を収録している。
2.写真資料の整理方法
資料の伝来経緯
もともとガラス乾板類は大場博士の自宅に保管されていたもので、博士の没後本学に寄贈されたものである。その後は図書館の収蔵庫に保管されたが、整理は行なわれず、図書館収蔵庫とともに何度かの移転を経験している。このため、一部の資料が別置されることとなり、現在追加整理が進められている。これらの資料は平成11年度に設置された資料デジタル化研究室設置に移動し、本格的な整理が始められた。
資料の現状と整理番号
乾板等の資料は既に博士自身あるいは弟子によって整理が行なわれており、今回の整理では、この秩序を尊重して作業を進めた。乾板は1〜3枚単位で封筒や乾板包装紙(以下包紙)に包まれ、乾板箱(以下「小箱」)に収められ、さらに大きな箱(以下「大箱」)に収納されていた。なお、硝酸セルロースフィルムの一部は、ネガアルバムに納められており、今回はこのアルバムを「小箱」に対応させている。また既に小箱が失われているものについては推定される一定のまとまりを「小箱」として扱っている。大箱・小箱には概ね年代順に番号が振られており、包紙を含め、それぞれにメモが残されていた。さて、今回の整理では資料1点1点に通し番号を振った。保管されていた現状に従ったが、博士が整理された順番と一部齟齬をきたす部分が生じてしまったため、第2集で年代を踏まえた小箱番号と資料番号の対照表を掲載する予定である。メモ書については大箱・小箱・包紙それぞれ原則として書かれた内容をそのまま提示しているが、日付については煩雑なため掲載していない。また、複数の原版が一枚の包紙にくるまれている場合の該当する部分のメモは、それぞれの原版資料に対応した抜書きとなっている。なお、1518のように包紙のメモと直接関わるか不明な写真についてもそのまま提示している。
画像のデジタル化
資料の一部に剥離・ミラーリングなどの劣化が認められたため、まず乾板類のエタノールによるクリーニングを行ない、6×7のフィルムへの複写、そのフィルムからの焼付けを行なった。次に原版のスキャニングを行なったが、これには乳剤面を密着させることのないスライド式の原稿架を持ったスキャナ(AGFA DUOSCAN T2500)を用いて行なった。1000dpi、グレースケールで取り込み、JPEG形式でDVD-RAMと外付けハードディスクに保存した。なお、若干のトリミング、色調補正などを実施している。
テキストデータの編集
テキストデータの編集は、保管箱・包紙に書かれたメモの解読から始まった。オリジナル資料では旧字・記号等が使われており、それらを記録するため、まず市販のノートに書き起こすこととした。なお、この際、博士の弟子にあたる方々の協力を賜った。次いで、サイズ・材質のチェック、現在の資料名・地名等の確認・確定作業を行ない、上記のメモ書とともに、表計算ソフトに入力した。このうち、確認・確定作業は困難を極め、現在も細かい修正が加えられている状況である。また、別に大箱・小箱に書かれたメモ書の内容と、大箱−小箱−原版の関係を示した「大箱・小箱一覧」を作成した。
成果の公開
以上の画像データとテキストデータの整理は平成15年度に一応終了し、その成果をもとに平成16年度には既整理分についてCD-ROM版のデータベースを作成した。本書は、そうしたデジタル媒体と併用する形で、写真の一覧性の高さや書き込みのしやすさ等の利点を持つ紙媒体として刊行するものである。なお、本書収録データをもとに、Webでのデータベース公開を準備中である(8)。
3.資料の内容
本書に収録したのは概ね大正12年から昭和26年までの資料である。大場博士は、大正11年に國學院大學を卒業後、第二横浜中学に赴任しているが、その直後から写真が残されている。この頃は、関東周辺の先史時代の資料が多い。内務省神社局に移った大正14年以降は年間30〜70点程度で、多くが神社調査に関わる資料である。本学学部講師となった昭和10年には年間100点を超え、神社調査に加え遺跡の調査写真も見られるようになる。1回あたりの撮影点数も増えている。昭和12年〜14年には年間200点程度を撮影している。戦後はやや減るものの教授に昇格した昭和24年以降は再び年間100点を超え、平出遺跡・上原遺跡・亀塚古墳などの調査が行なわれた昭和26年には年間500点となっている。戦前期の大部分は神社調査関係で、遺物調査がそれに続く。戦後はほとんどが遺跡の発掘調査写真である。なお、ガラス乾板の使用は大正12年〜昭和38年のおよそ50年間と長期的であるのに対し、硝酸セルロースフィルムは、大正12年〜14年、昭和13年17年、26年、32年、34年と断続的である。
内容は多岐に渡るが、まとまった資料について簡単に紹介したい。
神宮・伊勢周辺
博士は昭和4年、昭和14年の両遷宮に関わり神宝調査を行なっている。このうち昭和13年以降は毎月半月を伊勢で過ごすことになるが、伊勢滞在中には100点を超える神宮資料調査のほか、桑名市抽井貝塚の木製品等の遺物調査、多気町の相鹿瀬寺址・佐奈山寺址等の遺跡踏査、鈴鹿市伊奈富神社、津市置染神社等の神社調査も行なっている(9)。
先史時代遺物
冒頭で紹介したように大場博士は元々石器時代研究者としてスタートしており、昭和初期までの資料には縄文土器や石器類、住居址等の資料が多い。南関東各地を訪ねて所蔵家の資料を調査し、また下末吉貝塚や蒲田周辺など勤務地に近い京浜地域で盛んに踏査・小発掘を試みたことが写真資料から窺える。また、芽山式土器や、諸磯式土器など具体的な研究対象資料もまとまっている。大正14年の伊豆大島への渡島は年譜には病気療養とあるが、そうした際も資料調査を行なっていることがわかる。昭和2年の見高段間遺跡の調査は、住居址の調査としては初期のもので著書『石器時代の住居阯』に発表され学界に影響を与えた(10)。
昭和初年の祭祀遺跡調査
こうした昭和2年の伊豆地方踏査の中で博士は洗田遺跡出土品と出会うこととなる。細かいメモが残されておらず確証は無いが、例えば0539の資料などはその折のものと見られる。早速現地に出向いた博士はそこから仰ぐ三倉山の姿に心を打たれる。神道考古学誕生のエピソードとしてよく知られるところである。その後、昭和8年には勾玉原の異名を持つ長野県雨境峠、昭和10年には赤城山山腹の巨岩である櫃石の調査を行ない、石製模造品や手捏土器などの採集遺物を記録している。また同年の諏訪大社秋宮経塚調査では経塚遺物のほか黄金入椀が出土し話題となった。そして、昭和13年には改めて洗田遺跡の調査を行なっている(11)。
昭和初年の神社調査・祭祀遺跡調査
博士の神道考古学へのもう1つの動機は神社局考証課職員として行なった各地の神社調査である。昭和8年・12年の岐阜県那比新宮、9年の山陰山陽、奈良、北九州、12年の新潟県天津神社、13年の群馬県賀茂神社、奈良県鳥見山霊畤比定地、14年の岐阜県多岐神社、福島県都々古別神社、15年の九州(宇佐、宮地嶽、新田など)、栃木県二荒山神社、16年の兵庫県丹生神社、愛知県砥鹿神社、愛媛県大山祇神社、大分県柞原神社、17年の茨城県鹿島神宮、19年の滋賀県日吉大社、同三上神社、などがまとまっている。このように挙げてみただけでもその数と地域の広さに驚かされる。撮影内容は鏡・懸仏などの工芸品、狛犬・仏像などの彫刻など歴史考古学の分野に属する資料が多く、また社叢や山容、磐座、祭祀遺物などの写真も多いことも特徴としてあげられよう(12)。
昭和初年の考古学調査
この時期も祭祀遺跡以外の調査あるいは見学に赴いている。昭和7年3月の安房神社洞窟調査では縄文土器と人骨が出土した。博士はその後も洞窟遺跡への関心を持ち続けるが、その契機となった調査である。昭和8年の九十九坊廃寺の調査では塔礎石の調査を行ない、付近の瓦窯跡についても踏査を行なっている。昭和13年に見学している三重県桑名市抽井貝塚は古墳時代〜古代の木製品が大量に出土した遺跡であり、奈良県橿原遺跡は当時、同地方では珍しかった縄文時代晩期の遺跡である。このうち橿原遺跡の写真は調査を担当していた末永雅雄博士から手紙付きで送られたもので二人の交友関係を窺わせる。この他にも、鹿児島・宮崎、飛騨、群馬、那須など各地へ調査旅行に赴いている(13)。
相模国府祭
国府近郊に総社および一ノ宮以下国内の5社の神輿が集合し、一ノ宮争いを儀礼的に再現する祭礼で、昭和19年にこれを見学している。
伊予調査
昭和21年の伊予調査は同地の大倉粂馬氏の要望で実施したもので、伊曽乃神社を中心とした考古学的調査として進められ、山容や古墳などの写真が残されている(14)。
関東大震災
関東大震災の際にも自宅や、日本橋、湯島、築地、横浜などで記録を残している。年譜によれば震災後三沢に移転したとあり、横浜の写真はその時のものであろう。
登呂遺跡
戦後考古学復興の原動力となった静岡市登呂遺跡の調査であるが、博士は戦時中の昭和18年にこの地を訪れ、その重要性を認識していた。90枚に及ぶ登呂の写真の大部分はその時のもので、木製品の写真等は出土当時の姿を伝えるものとして貴重である(15)。
上原遺跡・大湯環状列石
長野県大町市の上原遺跡は昭和25年から3次にわたって博士を中心に調査が行なわれたもので、当時例の無い縄文時代前期の立石遺構・集石遺構として注目を集めた。一方、大湯環状列石は秋田県鹿角市の縄文時代後期の環状列石であり、昭和26年に文化財保護委員会によって調査が行なわれた。こちらは直接の担当者ではないが、博士もその調査団の一員に名を連ね、報告書では石信仰について執筆している。報告書掲載写真の数は必ずしも多くなく、本書収録写真は調査当時の遺構写真として貴重である。これらは同時期に行なわれていた小樽・音江など北海道の環状列石の調査とともに、配石遺構研究の画期となった学史上でも著名な調査である(16)。
粟島台遺跡
千葉県銚子市の縄文時代前期〜後期の集落遺跡である。昭和24年・25年に大場博士を中心に調査が行なわれ、その成果は縄文時代前期の土器編年研究に活用された。また、硬玉製・琥珀製の飾玉が出土し注目を集めた。その後の調査でこの遺跡が琥珀製品の加工地であったことが明らかになっている。なお、調査にあたって地理班・地質班・電波探査班などが編成されたことも当時としては特筆すべきであろう(17)。
下郡古墳
千葉県木更津市に所在する長さ60m前方後円墳である。昭和25年に地元の依頼に基づいて調査が行なわれ、直刀・馬具などが出土した。遺物の出土状態や墳丘の状況、周辺出土遺物など13枚の写真が残されている。なお、同時期に調査が行なわれていた同市金鈴塚古墳(当時は二子塚と呼ばれていた)の写真も残している(18)。
平出遺跡
長野県塩尻市の縄文時代〜平安時代の集落遺跡。昭和25年から26年にかけ、博士を調査委員長とし7分野にわたる各班が組織されて総合的な調査が行なわれた。400枚近く撮影された写真には遺構・遺物のほか周辺の景観や復元住居構築過程なども含まれる。なお頁数の都合で約60枚は第2集に収録する(19)。
下伊那調査
博士は長野県の郷土史編纂にも深く関わった。昭和26年の古墳調査は『下伊那史』の編纂に伴う調査の記録である。神坂峠を最初に訪れたのもこの時であった。なお、この年には『信濃史料』の編纂も始まっている(20)。
長岡墹の上遺跡
静岡県伊豆長岡町の弥生時代後半期の遺跡で、狩野川放水路建設時に発見された。昭和26年に地元の長田実氏らによって調査が行なわれたが、正式報告はなく、また遺物の一部は火災にあっており、わずか12枚ではあるが、調査風景や出土当時の土器や木製品が写された写真は貴重である。
大生古墳群
茨城県潮来市の後期古墳群で昭和27年に1号墳の調査が行なわれた。主体部が造出部下部から発見されたこと、造出部に礫床を伴うことなどが注目された。博士は鹿島神宮の多氏との関わりを推定しており、古墳のほか近くの神社調査も行なっている。なお、昭和35年に追加調査が行なわれており、その折の写真については第2集に掲載する(21)。
4.学術フロンティア事業の研究活動と大場磐雄博士資料
本事業は文部省(現文部科学省)私立大学学術高度化推進事業(「学術フロンティア推進事業」)として平成11年度から開始した。本学には創立以来120年間に蓄積された学術資料として多くの写真資料やフィールドノート、スケッチ、土器・碑文などの拓本、遺跡測量図、絵葉書、文書、原稿などが所蔵されている。本事業は、こうした資料について再生活用、保存に関する研究を展開し、画像資料の学術的有効性に関する諸分野からの研究と検討を行ない、日本の風土や伝統文化、歴史についての当該資料の現代的活用を進める研究活動を展開することを目標としている。そのまず手始めとして大場磐雄博士の写真資料から着手した。従って、前述した写真資料の整理方法など、上記目的を達成するための全ての行程において試行錯誤の繰り返しであった。基礎作業を経て実現した成果公開は、インターネットによる情報の流通及びデータの配信が通常化する今日においてのニーズと紙媒体に対するニーズの双方に応えるための措置として、電子媒体における公開と書籍などの紙媒体における公開の2種類の方法を並行することとした。IT関連の技術や利用者のニーズは変動が早く世相と連動していることから、今後も状況に応じて柔軟な対応を心がけたい。また、デジタルデータにより公開している資料については、無断掲載や利用などを避けるために中精彩にて掲載しているが、十分な方法とは言えず、今後の課題の一つとなっている。
大場磐雄博士資料は、学術的な価値が大きいことは周知のことであるが、加えて大場磐雄博士資料のデジタル化作業プロセスが本事業のモデルとなり、折口信夫博士資料、宮地直一博士資料、柴田常恵資料などのデジタル化に関する作業をスムーズに展開することを可能とし、今後の学術研究への利用が大きく進展したことも実績の一つである。さらに、大場博士の写真資料の中から写真を選び、現地研究者の協力を得ながら現状との比較などを行なうなど、古写真をさまざまな視点から検証することを試みた(22)。またフォーラム・シンポジウムなどを開催し問題点や展望などに対して常に意識を高め、画像資料の学術的価値の多様性と可能性も示してきた(23)。
資料の公開以降、博物館の展示パネルの作成、IT授業への利用、教科書への掲載などの目的で他機関の多方面の方々からの依頼を受けてデータを提供してきた。本書の刊行により、更に多くの画像データの利用が促進され、ひいては日本の学術振興に貢献できることを願うものである。
註
(1)柴田常恵・谷川磐雄1927『石器時代の住居阯』雄山閣
(2)大場磐雄1943『神道考古学論攷』葦牙書房、大場磐雄1970『祭祀遺蹟』角川書店
(3)大場磐雄1975『考古学上から見た古氏族の研究』永井出版企画
(4)大場磐雄1967『まつり』学生社、大場磐雄1948『日本考古学新講』あしかび書房、大場磐雄1980『十二支のはなし』ニューサイエンス社
(5)大場磐雄1975〜1977『大場磐雄著作集』第1巻〜第8巻 雄山閣出版
(6)國學院大學図書館編『楽石文庫目録』國學院大學図書館
(7)國學院大學日本文化研究所学術フロンティア推進事業「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」プロジェクト編2004『國學院大學学術フロンティア構想 大場磐雄博士写真資料目録』T 國學院大學日本文化研究所、深澤太郎・山添奈苗2004「大場博士と大場コレクション4」「大場資料目録X−歴史時代編−」『平成15年度國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』國學院大學学術フロンティア事業実行委員会、深澤太郎・山添奈苗・新原佑典2005「大場博士資料5」「大場資料目録X−歴史時代編−」『平成16年度國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』國學院大學学術フロンティア事業実行委員会
(8)http://frontier-db.kokugakuin.ac.jp/ なお、本データベースにおいては逐次内容の更新を行なう予定であり、本書収録データに関してお気づきの点があればご連絡頂けると幸いである。
(9)神宮徴古館農業館編1941『神宮徴古館陳列品図録』神宮徴古館農業館、大日本鶏鳴会編1942『神宮大観』大日本鶏鳴会
(10)『大場磐雄著作集』第1巻・第2巻所収諸論文
(11)谷川磐雄1927「南豆に於ける特殊遺跡の研究」『中央史壇』13-6〜8 国史講習会、大場磐雄1935「峠神の一考察」『上代文化』13 國學院大學上代文化研究会、大場磐雄1935「赤城山神蹟考」『考古学雑誌』25-11、25-12 日本考古学会、大場磐雄・佐藤民雄・江藤千萬樹1938「南豆洗田の祭祀遺蹟」『考古学雑誌』28-3 日本考古学会、大場磐雄1963「諏訪大社秋宮発見の経塚(附)黄金入椀とその意義について」『信濃』15-10 信濃史学会など
(12)伊豆權現講社本部編1939『国幣小社伊豆山神社誌』伊豆權現講社本部、伊古奈比〓[口+羊]命神社々務所編1943『伊古奈比〓[口+羊]命神社』伊古奈比〓[口+羊]命神社々務所、砥鹿神社社務所編1944『三河国一宮砥鹿神社誌』砥鹿神社社務所、大場磐雄1958『猿投神社誌』猿投神社など
(13)大場磐雄1932・33「安房神社境内発見古代洞窟遺跡調査報告」『神社協会雑誌』31-8・9〜32-1・4 神社協会、内藤政恒・篠崎四郎・大場磐雄1934「上総国九十九坊廃寺跡調査報告」『史蹟名勝天然紀念物』9-9 史蹟名勝天然紀念物保存協会
(14)大場磐雄1947「伊予国御幸寺山古墳覚書」『史迹と美術』178 史迹美術同攷会、大場磐雄1950「上代東伊予の考古学的考察」(上・下)『国史学』51、52 国史学会
(15)大場磐雄1948『古代農村の復元』あしかび書房、日本考古学協会編1949『登呂』毎日新聞社、日本考古学協会編1954『登呂 本編』毎日新聞社
(16)上原遺跡調査会編1957『上原』長野県教育委員会、文化財保護委員会編1953『大湯町環状列石』吉川弘文館
(17) 國學院大學考古学会編1952「千葉県銚子市粟島台石器時代遺跡調査報告」『上代文化』第22輯
(18)大場磐雄1954「千葉県下郡古墳」『日本考古学年報』2 日本考古学協会、木更津市史編集委員会編1982『木更津市史』富来編 木更津市
(19)平出遺跡調査会編1955『平出』朝日新聞社
(20)市川威人編 1955『下伊那史』第2巻・第3巻 下伊那史編纂会
(21)大場磐雄編1971『常陸大生古墳群』雄山閣
(22)光江章・酒巻忠史2004「楽石雑筆にみる君津地方の遺跡調査」『國學院大學学術フロンティア事業研究報告 人文科学と画像資料研究』第1集、中野宥2004「登呂遺跡に見る記録写真と大場磐雄」『國學院大學学術フロンティア事業研究報告 人文科学と画像資料研究』第1集、高野晶文2004「被写体の現地調査」『劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究』國學院大學日本文化研究所
(23)成果の詳細については國學院大學学術フロンティア事業実行委員会編2004・2005『國學院大學学術フロンティア事業研究報告 人文科学と画像資料研究』第1集、第2集 國學院大學日本文化研究所をご参照いただきたい。
(加藤里美・中村耕作)
國學院大學 研究開発推進機構 学術資料センター
博物館収蔵品の資料化とデジタル公開に関する研究
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