『平成13年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

短報:春日大社所蔵の写真資料について

川口拡之*・関根信夫**・兼古健吾*・山内利秋**
(奈良市写真美術館*・國學院大學日本文化研究所**


はじめに

 平成13年7月7日に、奈良県春日大社で所蔵されている写真資料の収蔵状態及び撮影内容について実見した。調査は國學院大學学術フロンティア事業実行委員会の山内利秋・関根信夫と奈良市写真美術館の兼古健吾・川口拡之が合同で実施した。以下、所見は兼古と山内に文責がある。

酒蔵で収蔵されている写真資料について

 酒蔵で収蔵されている写真資料は、キャビネ版・手札版を主体としたガラス乾板がほとんどであった(写真1)。

 ガラス乾板は日本では1870年頃から1960年代後半頃に至るまで幅広い分野で活用されていた。この方法は、極めて画像の安定性が高く、部分的に経年変化を起こしていたとしても、隣接する状態の良い部分を焼きつけてみると鮮明な画像が浮かび上がる。

 現像後のガラス乾板は、厚紙で作成された乾板購入時の箱に現像後も保存されている場合が多いが、今回の事例も同様であった(写真2)。

 箱には大体、製品を示すラベルが貼られているが、この事は年代を確定する上で重要であり、さらには今後、日本各地にある同じ製品の経年変化傾向を比較・認識する上でも注目される。1箱に10枚前後のガラス乾板が収納されており、乾板同士は直接接触しているのではなく、薄紙がサンドされていた。この箱は、さらに30箱程度が段ボール箱に収納され、段ボールは確認しただけで5箱程存在していた事から、大まかに見積もって1,500〜2,000点程度のガラス乾板の個数が考えられる。

宝物殿収蔵庫で収蔵されている写真資料について

 宝物殿収蔵庫(写真3)において保管されている写真資料には、ガラス乾板以外に台紙に貼った状態の写真(オーバーマート)が多数存在した。これらの資料には、奈良市周辺の写真館によって撮影された資料が多い。資料中にはゼラチンに卵白乳剤を使った鶏卵紙と呼ばれるプリントも含まれている。鶏卵紙は1850年代から1890年代にかけて使用されたもので、プリント自体が薄いために台紙に張られた状態のものが多い。また硝酸セルロース、ナイトレートベースと呼ばれるフィルムが確認された。

ナイトレートベースのフィルムの取扱いについて

<識別法>
 自然発火する恐れのあるナイトレート(ニトロセルロース)ベースのフィルムは品質低下が始まらないと見分けが容易ではない。1950年以前に生産されたフィルムはその可能性が高いが、コダック社の場合、コードノッチの近くに“Kodak Safety Film”の標記がないものはこのフィルムである。その他のフィルムについては、肉眼での識別は出来ない。このフィルムの特徴は独特な酸の匂いが発生する事で、トリクロルエチレンにこのフィルムを入れ、試料が沈殿するとナイトレートベースでありアセテートないしはポリエステルベースの場合は浮くという識別法もある。

<最終製造年>(コダックの場合)
 X-Rayフイルム(1933)・135ロールフイルム(1938)・シートフイルム(1939)・航空写真用フィルム(1942)・パックフィルム(1949)・616/620サイズのロールフィルム(1950)・35o映画用フィルム(1951) ※16o/8oの映画用フィルムには使用されていない。

<自然発火>
 ナイトレートベースフィルムの場合、分解が進行した状態では38℃以上の温度が長時問持続すると白然発火を起こす。白然発火は相対湿度が低く、温度が高い状態が継続したり、分解の進行で発生した熱エネルギーを放出出来ない状態の場合発生する。特に密封状態の容器に大量のフィルムが入っている時に発生しやすい。テストでは分解した映画フィルム1,OOOフィートロール1本が41℃の温度で17日間置かれた後、発火したという結果もある。

<保存>
 このフィルムの保存方法としては次の注意点が挙げられよう。

(1)ひどく反り返っていたり、粘性が高くなっているものは分解の進行した状況にあるものなので、複製を作るか良質の包材に入れかえる必要がある。
(2)水に濡らすとゼラチンが軟化して溶けるケースがあるので、注意を要する。べ一スは極めて脆弱になっているので曲げないようにする。
(3)通気性のない密封容器に包入すると分解速度が早くなるので、通気性のある容器に入れ、他のフィルムとは分けて保存する。
(4)保存場所は21℃を越えないように、相対湿度が45%以下に保てればその方がよいが、乾燥が進みすぎるとべ一スが脆くなる恐れがある。

資料から確認出来た奈良市内の写真師・写真館について

 北村太一:安政3(1856)年長州に生まれ、東京にて写真術を修得後、明治18(1885)年、奈良市菩提町(猿沢池東畔)で北村写真館を開業。当時の撮影料は、ガラス写しで桐箱入り1枚普通10銭、小が6銭、大が15銭。紙写しは3枚30銭。湿板にて撮影していた。明治30年には金紙写真機を海外から購入し、5人掛りで吉野の山林を撮影し、明治36年大阪四天王寺今宮で開催された第5回内国勧業博覧会に出品された。明治44年享年56歳にて病没。

 北村武:北村太一の養嗣子。信州松本に生まれ、芝田氏に師事し写真術を修めて嗣となる。奈良県写真師会の初代会長を昭和5〜8年まで勤める。明治42年に北村写真館は同所にて新築され、昭和9年に閉店。

 三条通 松岡写真館:名前は松岡光夢。北村武に師事し、門下生となりのちに三条通(芝辻町)にて洋館の松岡光夢写真館を開業。仏像などを撮影していた。

 桜井町 中川東雲館:大和高田市にあった中川写真館の屋号をもらい桜井市に開業。本名は田中松太郎(奈良県写真師会4代目会長で昭和13〜17年まで勤める)。高田市の中川写真館とは直接の関係になかったようです。

 道馬軒 中村朝太郎:明治8年開業。現在は高畑町にて営業。中村朝太郎は道馬軒の2代目。奈良県写真師会5代目会長を昭和17〜19一年まで勤める。

 西口写真館:奈良市登大路町にあったと思われる。店主は西口国憲。

総 括

 全体的な状況を大まかに実見した限りでは、当初予想していたよりも保存状態が良好であった事は注目すべきであった。ある程度の環境管理が施されている宝物殿収蔵庫ならばそれも予想できた範囲だが、特に興味深いのは酒蔵において収蔵されていた資料である。通常、写真資料のうちガラス乾板は、銀が利用されているため乾板の周辺部分から酸化して銀色ないしは虹色になっていたり(銀化・ミラーリング)、ゼラチン層が剥離したりするが、当該資料にはこの影響が少ない。また、ゼラチン部分はタンパク質で形成されているので、一定以上の湿度を帯びるとかびを生ずる傾向がある。特に今回の場合資料がダンボールに収納され、さらに蔵の構造上天窓が拭き抜けになっているとの知見を得ていたので、この点を注意していたのだが、このかびによる影響もほとんど確認されなかった。

 恐らくこうした良好な保存状態が保たれたのは、極めて機能的に設計された、温湿度変化の少ない伝統的な蔵造りが環境に対して有効に働いた為であると考えられる(写真4・5)。また、このように機能的に管理された蔵内環境において、通常は湿度が高くなりやすい段ボールが、反対にある程度乾板周辺に溜まった湿気を外部に逃がす働きをした可能性が高い。

 しかしながら、将来的にも良好な保存状態を確保し、活用の利便性を考えるのならば、現状では問題点も多い。例えばかびによる影響が少なかったとは言え、今回実見できなかったが段ボールの下部の方には塵埃が溜まりやすく、そこに吸収された水分が抜けない可能性も高い。また乾板を横にして積み上げるのは圧力をかけやすく、自重に耐えきれずに損傷を与えてしまう場合が多い。そもその段ボール自体が資料にとって有毒な過酸化物を発生するので問題が多い。

 このような条件を改善していくには、一例として日本工業規格(JIS)で規程されている写真保存に関する別紙の規格を参照し、中性紙性包材等を利用する必要があるだろう。

 なお、今回の調査にあたっては春日大社禰宜中野和正氏と荒井清志氏、春日大社宝物殿秋田信吾氏にお世話になった。記して感謝する次第である。



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