『平成13年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

大場磐雄と大場コレクション2


大場資料目録−3 弥生時代編−
 大場磐雄資料のうち弥生時代に関連する資料を集めた。大場磐雄博士の死後、國學院大學に寄贈された調査・研究記録類のうち、前年度報告に掲載した縄文時代編に引き続き、今年度は弥生時代編を公開する。
 これらの資料は整理段階でも、オリジナルの保管状態を崩さないかたちで行なうよう心がけており、大場磐雄の保管ケース(計13箱)毎の番号と、各箱の内容物を封筒毎に資料番号を付けた1385点の資料についてそのままの分類に従っている。
 資料は、拓本、写真、実測図、スケッチ、絵葉書、新聞等の切り抜き、地図、カード、パンフレットにまで及ぶ多岐にわたるものであり、調査・研究記録の対象となったのは土器・土製品が最も多く、全体の30%ほどを占めている。ついで青銅器の18.5%であり、以下に遺跡・遺構、木製品、石器、他と続く。これらの資料中には、大場博士が調査に深く関わった登呂遺跡に関する情報も多く含まれており、写真資料との関連性があることは明白である。


大場磐雄博士写真資料−登呂遺跡編−
 図版記載の情報は、整理ナンバー、撮影内容、撮影期日である。これらは、大場博士が乾板保存の際に、保存袋及び保存箱に記載したメモをもとに作成したものであるが、特に撮影内容については、博士のメモよりも後に出版された報告書等の書物に記載された名称に従った。

 登呂遺跡の調査は、第2次世界大戦の最中である昭和18年に、静岡県静岡市、登呂の水田地帯に軍需工場が建設されるにともなって、多量の木製品や水田跡と考えられる杭列が発見された事に始まる。 その重要性と調査の必要性が認められ、学術的な第1次調査が行なわれる運びとなったが、戦争による社会的状況の悪化によって中断を余儀なくされた。

 戦後、昭和22年に八幡一郎氏を中心とする登呂遺跡調査会が発足し、第2次調査が行なわれた。これには、考古学、人類学、地質学、動植物学、建築学、農業経済学など多分野の研究者がこれに加わり、日本で初めての総合境界領域調査が行なわれることなった。大場博士はこの主要メンバーとして調査に携わった一人である。調査は、その後も継続して行なわれ、水田跡だけでなく住居跡、倉庫跡が検出され、弥生時代後期の研究において画期的な発掘調査であったと言える。現在は国指定特別史跡となり、整備された敷地内には竪穴住居および高床式倉庫が復元され、敷地内に設けられた静岡市立登呂博物館には多くの出土遺物が展示されている。 大場博士の写真資料は、昭和18年の第1次調査と昭和22年、23年に撮影されたもので、昭和18年に行なわれた第1次調査時の資料が全体の約9割を占める。現在の静岡市立登呂博物館に展示されている、「丸木舟と櫂」や「琴」などの代表的な木製品の多くが第1次調査時に見つかっており、大場資料目録にもそれらを確認することができる。

 撮影内容は、現場の発掘状況、遺構確認状況および遠景、遺物の出土状況、主要な出土遺物などに及ぶ。その上、写真資料には戦前・戦後の登呂遺跡付近の場景や作業に携わった人、あるいは遺跡見学に訪れた人々なども写し出されており、遺跡発掘を行なった時代背景の一端を読み取ることができる。しかし、戦争の敗色が濃くなった昭和20年には、登呂遺跡は空襲を受け遺構などが直接的な被害を被り、さらには第1次発掘調査の記録や遺物の一部、作成中の報告書原稿なども失われてしまったのである。 こうした状況下において、登呂遺跡第1次調査を中心とした大場磐雄の登呂遺跡関連の写真資料は、遺跡発掘調査の記録保存の役割を十分に果しているだけでなく、発掘調査を通して戦前・戦後の日本の世相を再考することが出来る、資料価値の高いものであることが明らかである。

 なお、今回の写真資料の調査においては、内容の判読などで稲生典太郎氏、小出義治氏から格別なご指導を賜った。
(加藤里美)


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