『平成13年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

大場磐雄博士と登呂遺跡

大塚 初重
(明治大学名誉教授・山梨県立考古学博物館館長)

1 はじめに

 こんにちは、大塚でございます。今日は、椙山教授からのご依頼で、「大場先生と登呂遺跡」という事でお話をするように承りました。大場磐雄先生と登呂遺跡という事になりますと、実は私よりは本学ご出身の小出義治先生とか、或いは私とほぼ同期の下津谷達男さんとかそういった先生方のほうが適任ではないかなっていう風に思って椙山先生には申し上げたんですが、ま、とにかくお前やれと、いう事でおっちょこちょいの私ゆえ、それじゃぁ、っていう事でお引受する事に致しました。

 私の学生時代、もう亡くなりました初代の日本考古学協会の会長をなさっていた藤田亮策先生が「大塚君、國學院大學の考古学はwetな考古学、明治のはdryな考古学だ」と言われた事を存じておりました。戦後の明治の考古学というのは芹沢長介さんとか岡本勇さんと杉原荘介先生等が中心に、旧石器とか、縄文時代の石器とか縄文土器の編年研究とかいう事に集中的に熱を入れておりまして、拝島式がどうしたの、夏島式がどうしたの、菊名がどうしたの、と、縄文の型式論がさかんでありました。私は鏡や土師器の話などだと、すぐ頭に入るんですが、何とか式っていうと嫌だったんです。どうも自分の肌に性格的にぴたっと来ないっていう事で、私は縄文時代の遺跡発掘にはたくさん参加しました。けれども縄文時代の研究ではない、弥生古墳時代の研究に入っていきましたが、なるほど藤田亮策先生がおっしゃられるように戦後の、昭和20年代の明治の考古学っていうのはある意味ではdryかな、なるほどなと。そこへいくと大場先生を中心とした國學院大學の考古学っていうのはやっぱりハートが在ったんじゃないかとしみじみ思ったことでした。

 敗戦後のああいう時代の社会では、神々だとか神話に対してはアレルギーがあった事は事実です。しかし、今のような時代になってみると癒しの時代とか言われているように、古代の人間の恣意とか精神構造とかそういったものに対して、やはり考古学は目指さなきゃならないと、そういうような事が正しいとすると、私は大場先生を中心にやっていた國學院大學の考古学っていうのは、藤田亮策先生に言わせればwetな考古学だというのは、言えてるな、と感心しておりました。

 今日は、戦中戦後の日本の考古学史という事を、大場磐雄先生と登呂遺跡の発見と調査というふうなものを一つデータにしながら語ってみるというか、お話をしようというふうに思っております。私は大場磐雄先生に心酔していた訳ではないのです。ないのですけれども、私の恩師の後藤守一先生と、今も95歳とお元気の齋藤忠先生と大場先生と、この3方の先生が御相談されて國學院大學、次は明治、また國學院という風に、場所を変えて、日本の古墳を語る、古墳時代を語る、という、鼎談というのでしょうか、座談会というのでしょうか、そういう催しをずっとやっておりまして、そういう研究会に出させて頂いて、そこでは國學院大學の亡くなられました佐野大和先生とかですね、いろいろな、我々の先輩同輩のみなさん、例えば今日も奥様がおみえですけれども、亀井正道先生とかそういう方たちと一緒に戦後勉強しておりました。

 そういう意味では大場磐雄先生は私の恩師と、いってもいいのではないかな、と思っております。そういう事で、この栄えある國學院大學で大場磐雄先生の話ができるという事は、私の約50年間に近い研究生活の中で実は初めてのことですが、光栄に存じておる次第であります。

2 戦後の登呂遺跡の位置付け

 先ず、今日は前段と致しまして、静岡の登呂遺跡というものが戦後の日本の考古学史で、どういう意味を占めていたのか、或いは時代も社会も全く変わりました、従いまして、今の考古学研究の世界では信じられないような話がたくさんございます。皆さんご承知のように1947年、昭和22年から戦後の登呂の発掘が始まったのですけれども、その昭和22年には食べる米が無くて、衆議院が超党派で議決を致しまして、登呂遺跡発掘隊に米2俵、1俵60キロですから120キロの米を特別配給するという事を、国会で超党派で決議して、登呂遺跡の発掘隊に2俵の米が運ばれてきて、我々は7月の末か8月のあたりから多少お米を口にする事ができました。今からすると信じられないんですけれども、今思い出すと、今の若い方には大変失礼ですけれども、現場で、掘るというか、気力というか、意気込みというか、目的意識というか、それはもう今の若い学生諸君なんかには絶対負けない位ですね、遺跡に没入したというか、すきっ腹を抱えて命がけで調査をやっておりました。

 それが何かって言うと、私共、年を老いた者は小学校時代から『神武、綏靖、安寧 懿徳』というように、教室の黒板の上に124代の歴代天皇名の張り紙が有りまして、小学校の3年生か4年生位からは、毎日朝の授業が始まる前に全員立って、『神武、綏靖、安寧...、』と今上天皇まで124代を全員で諳んじて、それから授業が始まった、という教育を、ずっと受けておりましたから、もちろん神武天皇の実在を信じておりましたし、考古学という学問がある事さえ私は知りませんでした。

 そういう事ですから、「神国日本は不滅である」という事で、日本が戦争に勝つという事を信じていた訳ですけれども。それが何と日本の民族の歴史の中で空前絶後の敗戦というか戦争に負けてしまった、という事であります。私は中国大陸、上海から、海軍の軍人だったので、復員して考古学の道に入るんですけれども。みんな学生たちは軍服でした。作業服でした。全部軍隊の作業服で登呂遺跡の発掘に参加しました。

 大場磐雄先生の写真がそこにございますけれども、みんな学者たちも、ああいう作業ズボンで、亡くなられましたが、文化勲章を受けられた関西大学名誉教授の末永雅雄先生などは昭和22・23年の発掘に登呂に参加されておりました。末永先生は陸軍の騎兵の御出身でございまして、襟が無い陸軍の長袖の白いシャツを着て、騎兵用の下が膨らんだ乗馬ズボンを履いて長靴で登呂の現場に立っておりました。当時おいくつでしょうか、40代の後半でしょうか、凛々しくて、ハンサムで、あれが末永雅雄って言うんだと私なんかは遠くから仰ぎ見ておりました。そういう風な時代で、日本が負けて、敗戦の中で、どうやって日本が今後立ち行くのかというところはわからないけれども、登呂遺跡に立って、あの静岡平野の扇状地形の、地下の伏流水が地上に出てくるあたりが、ちょうど登呂遺跡のあるところなんですね。自然堤防のある、あの地域がちょうど扇状地の末端地形になる訳です。そこで登呂遺跡へ行って掘りますと、1スコップ、20cmか30cm掘ると木の杭がずーっとでてきて、住居も周壁が木の杭で囲いがしてあって、柱穴は床面から4〜50cm下に4箇所、柱穴を掘っていくと、下に礎板が何枚も折り重なって出てきます。柱がめり込まないようにきちんと手を打ってあります。柱は抜いてますけれも、礎板が残っている。

 そういう発掘を経験して、要は戦争に負けたけれども、2000年来の我々の先祖の生活は脈々静岡平野の土の中に生きている。戦争には負けたが、これが、私にとっては、生きるよすがでした。

 日本は負けたけれども、ちょっと静岡平野を掘ると、我々の先祖の生活が生々しく確かに実態として残っている。これは、掘っていて、俺が目指す道はこれしかないと言うふうに思いましたし、古代の日本を俺の手で明らかにするんだ、弥生時代の生活を俺の手で明らかにするんだ。と、心に誓いました。当時私20歳になる時でありました。それから、今日は奥様がお見えでございますけれども静岡の安西小学校の当時先生されていた安本博先生とかいろんな方がいらっしゃいまして、今、鎌倉の極楽寺におられる前の毎日新聞の静岡支局の森豊さん、私の知人が一週間前にお宅に行ったら、ちょっと体が弱っておられていた、という事ですが。その森豊さんが、新聞で登呂遺跡の報道をされる、という事ですね。

 これが、毎日新聞とその他の新聞で報道されて、敗戦に打ちひしがれて、虚脱感、虚無感にあった、どん底にあった日本人にどれくらい生きる喜びを与えたかって事は、計り知れないものがあると思うんです。だから、登呂遺跡の重要性というのは東国の古代農村の姿を今に伝えるだけではなくて、別な意味で、戦争に負けた戦後日本の社会と学問、或いは戦後の日本人の生活、明日の生活、という事に勇気を与えた遺跡として、私は登呂遺跡は永久に継承されていくべきだと思っているのです。

 前置きばかり長くなりましたけれども、登呂遺跡が今中学校の教科書、8冊あるんですけれども登呂遺跡が出てくるのは2冊で、あと6冊の中学校の教科書からは今や登呂遺跡はなくなっているんです。代わりに吉野ヶ里遺跡がでているんです。

 既に5年間に1,100万人以上の方が見学に行っているという、吉野ヶ里の重要性は、これはもちろんあるのですけれども、私は今日は別の意味で登呂遺跡というのは日本の社会にとって、我々日本人にとっても重要な意味を持つ遺跡だと、いうように思っております。その登呂遺跡に國學院大學の大場磐雄先生が実は、いろいろな意味で関わっているという事をですね、調べれば調べるほど出てきています。

 もちろん登呂遺跡と大場先生の係わり合いって事を丹念に追求していくと、いろんな問題がそこにはある事も事実です。私はこの頃思うのですけれども、恐らく今後、大場磐雄先生のような、メモ魔というか、徹底的にご自分の行動を詳細に、メモにして後世に残すという、所謂、『楽石雑筆』に出てくるような大場メモというか、梅原末治先生の梅原メモというのも立派なものですごいものがあるのですけれども、それを上回るものなんですね。その、大場先生のメモを、ずーっと克明に読んで参りますと実は後ほどふれますけども、行間に、読んでいて「あれっ」て思う事があります。

國學院大學の大場磐雄先生は昭和18年の8月2日から登呂との関係がでてくるんですね。大場磐雄と登呂遺跡って事になると、昭和18年の8月2日に愛知県西ノ宮町の蓬莱寺でしたか、そこの調査に行った時に、帰りに静岡に来るんですね。夜11時頃に静岡駅に着くんです。大場先生が。ところが約束が間違ったか連絡が不備かで、迎えに来ているはずの安本博さんが駅にいないというので辻留と言う旅館に泊まるのです。そういうところから大場先生の登呂のメモが始まるんです。

 その登呂遺跡ってものがどういうものか、大場磐雄先生に、細かい事にふれる前に、ふれておきたいと、思うんです。

3 登呂遺跡の調査概要

 今日用意いたしました資料が何枚かございます。1をちょっとご覧頂きますと、これは方々で皆さんご覧になった図面だと思いますけれども。上段は登呂遺跡付近図です。駿府城があり、静岡駅があって、この東海道線に沿って300m以上にわたって旧東海道が、最近の発掘で出てきたんですね。側溝の底から、常陸国の人の名前を書いた木簡が出てきたり、静岡平野の考古学の資料は、最近は戦後の発掘の頃とは全く違っています。従いまして、左上にありますように、これは登呂遺跡があって、静岡平野のちょうど真中。で、私共が昭和22年、1947年の7月に静岡へ行く時、これも、東海道線の切符も簡単には買えないんです。前の日に東京駅の八重洲口の改札所に並んで予備券というか、整理券をもらって、翌日買いに行く。真夏の暑いときに何時間も並ばなければ、静岡へ行く切符さえ買えなかった、というのが、戦後昭和22年の段階です。

 そして漸く静岡駅について駅の南改札口、木造平屋建の駅舎の、木の改札口を出ますと、すぐ目の前に静岡の駅南銀座というのがあります。その駅南銀座、ちょっと横をどぶ川が流れておりまして、木川薬局とかいう薬局がある、その先に下駄屋さんがある。

 ちょっと話が外れるんですけれども、私は登呂遺跡の昭和23年、1948年からは登呂の書記というか登呂発掘隊のマネージャーを仰せつかって、出納帳簿をつけたり買出しに行ったりするんです。最後の昭和25年、1950年駅南銀座の下駄屋さんがなんて言うお宅かもう忘れましたけれども、そこの下駄屋さんの奥様が、日本舞踊の先生で、最後に我々が東京に帰るという前の日に静岡市石田の牧牛寺の本堂に踊りのお弟子さんたちを6、7人連れて来て、後藤先生や我々を前に慰問のためのいろいろな舞いを見せてくれました。

 その下駄屋の奥さんから、家に婿にきてくれと、私言われた事があります。私、まだ結婚しておりませんでしたけれども、実は心に決めた人がおりましたので、お断りしましたが、そういう人がいなかったら私今頃静岡の駅前で履物店の経営者になっていたと思うんです(笑)。余計な事言いましたけども、そういう思い出が、たくさんございます。

 静岡の駅南から南方を見るとあとは、駅から5、60mの商店街を離れたところからは見渡す限り全部一帯が水田で、はるか南方の高松から敷地の海岸砂丘の亭々とした松の林と、そしてその北側の湿沢地、沼沢地の登呂遺跡一帯が見える以外何にもなかったんです。

 今静岡に行きますと、高層マンションのビル、静岡放送局とか、立派なビル街があり、50年でこんなにも変わるか、という事なんです。

 そして、登呂があって、有東(うと)第1遺跡とか、有東第2遺跡とか、曲金(まがりがね)遺跡とかありますけれども、実はこの他、周りに鷹の道遺跡・汐入遺跡とか登呂と前後する遺跡が沢山発見されております。従いまして、登呂遺跡と言うものの、発掘の終わった昭和25年、1950年頃と今とでは、理解の仕方が違う。資料も沢山増えている、という事であります。大場磐雄先生は、その頃の登呂について、いろいろとお書きになったり、ものを考えたり、されているわけです。

 皆さんご承知のように1の資料の右側を見ますと、これは、神明原・元宮川遺跡の報告書から抜いたものなんですが、「軍需工場と登呂遺跡の位置」と言う地図であります。旧東海道線静岡駅が有りまして、道路がないんですけれど、ずーっと真っ直ぐ行きますと、石田街道と言うのがあって、それが登呂遺跡に行くんです。そして実はこの真中に住友金属工業プロペラ製作所静岡工場があって、そこを良く見ますと水田の跡地の図が入っている。ここが現在の登呂遺跡、つまりこの工場を建てるために、土を盛り上げて、土盛りをした時に遺構が発見されている。そして東方には久能街道があって、山沿いに大谷川が流れていて、大谷街道がある。そして、有渡山になるわけです。登呂遺跡の北側に、登呂川と名づけられた川がございます。弥生時代の川です。

 そして自然堤防上に登呂の住居址群がありまして、さらに南方に沼沢地・後背湿地、浜堤がある。後背湿地に水が入ったらもう沼なわけで、そこに水田があるというふうに考えられていたのですけれども、ずーっと調査をしてみると登呂人達は、その本当の泥沼のような所ではなくてその自然堤防に続く微高地、まさに高いところを水田として使っていると、いう事が後にわかります。

 1の下のほうは昭和18年に実は作った図面、しかもこれは考古学者ではなくて、静岡市復興局の阿部喜之丞という方、地元の方で考古学に関心を持っていて、登呂の重要性を認識して出てきた杭を片っ端から、水準測量と輪郭の測量をしていたわけであります。昭和18年にこの畦畔、つまり、水田の跡がわかったのです。それでこの登呂の水田というものがはっきりしてくるわけです。左下の登呂の簡略図面をご覧頂きますと、北側に川の跡がある。これが後に登呂川と名づけられる川です。登呂川の支流は集落の中にずっと流れてくる。そして北のほうから、或いは北北東から、南南西に向かって流れるその自然堤防の上に、点々と丸いものが、これは住居址だと、或いは高床の倉庫、井戸、そういうものが集落、生活の跡が発見される。ずーっと南のほうには森林の跡がある。という事で、いわゆる登呂村というものが先生方によって復元されるわけです。

 登呂遺跡の調査で集落跡の発掘主任は明治大学の杉原荘介先生です。それから水田跡の発掘担当主任は八幡一郎先生です。

 八幡一郎先生に、和島誠一先生がサブでつく。その上に後藤守一先生が実行委員長という事でのるという体制です。

 実は昭和22年、1947年に登呂遺跡の発掘がスタートした時は、登呂遺跡調査会ができて、会長は東大の西洋史の今井登志喜先生でありました。その下に実行委員会があって、その実行委員長を後藤先生がなさっておりまして。そのなかのメンバーに大場磐雄先生も入っておられました。

 これもちょっと横道にそれる話ですけれども、翌、昭和23年に、当時、東大の文学部長をされていた、西洋古代史の今井登志喜先生が登呂にお見えになりました。私は背が低いのに、今井登志喜先生は1m80何cmという大変長身の先生であります。明治大学の杉原先生は私に命じて、この真夏の暑いときだから、東大の文学部長をかんかん照りの元にさらしちゃいかん、というんで、2時間位コウモリを今井登志喜先生の頭の上に掲げておくようにと。私はもう汗だくのびしょびしょで2時間位今井先生の上にコウモリを差しておりました。2年ほど前のことですが、その事をあるの雑誌の随筆欄に書きましたら、今井登志喜先生のお嬢様がそれをお読みになって、感謝の手紙を頂きました。

 人生いろんな事があるもんでございまして、そういう事の中に、右下の「登呂の水田」というところをみて頂きますと、一番右上の17番という番号をふった水田は2396u、3.3で割って頂けばこの坪数が大体出るので700坪を上回る、これを杉の杭や矢板で一区画に区画している。大型水田ですね。一番小さいの水田跡は、右下の方に46番の水田が409u、50番の水田が466u。という事になっていますが、全体に、一筆一筆の区画の水田が大きいのです。大区画水田と言われているわけです。ところが世界で最初に発見された古代の水田跡の登呂遺跡についで、日本でも例えば群馬県高崎の日高遺跡を始めとして、その他全国各地で、弥生時代や古墳時代の水田跡が発見されるといずれも小区画水田なんです。一区画が、例えば2mと3mとか、1m50と2m50というふうな小区画に畦が巡っているというのが普通になってまいりました。実は数年前に東名高速道路の真下の所を静岡市教育委員会が発掘致したところ、登呂時代の水田も実は周りに大きな区画があるけれども、実は、中は細かく2m四方位に小区画に畦が廻る事が明確になりました。

 つまり、1947年以降の登呂遺跡の水田跡の発掘というのは、まだ排水ポンプなんか戦後でないのです。ですから水が沸くからひどいぬかるみで、軍歌にもある様な「どこまで続くぬかるみぞ」という歌を歌いながら掘った位ですから、あれでは、小区画の水田も分からなかったし、もちろん人の足跡とかそういうのもあったでしょうけれども、分からなかったですね。今は実に見事な発掘をしておりますから、登呂でもちゃんと小区画水田なんだと確認されています。京都大学の東南アジア研究センターの渡部忠世さん等の話を聞くと、ビルマでもインドネシアでも今でも行われている水田経営は大きな水田区画の中に手畦とか小畦とか呼ばれるような、それは青草とか或いは周りの土で、低い壁を作って、一枚一枚の小さな2〜3mの水田を今でも作ってやっている。ましてや2000年近くも前の弥生時代に700坪を越えるような広大な一枚の水田を、あの静岡平野で100mいって15cmか20cmの落差があるところに水平に水を張れるような水田を作る事は、まず、不可能ですよ、だから、渡部忠世さんによれば、登呂も絶対小区画水田だよ、とは言っていましたけれども、まさに渡部さんの言う通りでありました。

 2枚目の資料をちょっとご覧頂きますと、そこの、この部屋の右側にも大場先生のお持ちになっていた、写真にもあるかと思いますけれども昭和18年の住友のプロペラ工場の建設に際して、その敷地の全面の田んぼの土というか地面の土を掘りあげて、手前の北側の建設用地に土盛りをする。その時に出てきた、杭とか畦とか矢板の状況はこういう状況でございました。(42:09)で、色々な記録によりますと、当時もう、全部陸軍の憲兵が見張っている中で軍事工場の建設が進むわけでありまして、2月頃から工事が始まるようなんですけれども、実際にこういった杭の列や矢板の列がおびただしく出始めるというのは昭和18(1943)年の6月頃から。こういう風な発見があってこの杭とか矢板だけではなくて遺物その他にもろもろの考古学的な資料が発見されて注目をあびるようであります。

4 登呂遺跡と大場磐雄先生

 そこで実は登呂の発見という事で大場磐雄先生が登場されるわけであります。けれどもいろんな記録を見ますと、昭和18年の1月頃に軍需工場の建設に伴う採土工事がスタートして弥生の遺物が出土している事が知られ始めたようです。18年の1月頃、私旧制中学5年生でしょうかね。18年の6月中旬になりますと、これは大場磐雄先生が登場する前段階としてどうしても必要だと思いましてちょっとふれたいんですけれども、18年の6月の中旬に、登呂の傍の、中田国民学校の、保護者会、今は保護者会と言わないと思いますけれども、当時保護者会の会長であった、小長井孝太郎という方がいます。この方は鹿島組の下請けの小林事務所というところの、所長さんをなさっていたようです。この小長井孝太郎さんがですね、実は、現場でこういう遺物が出てるって事を一番早くキャッチしたわけです。そこでこの方が出土遺物を中田国民学校で持っていって、中田国民学校にそれを収集いたします。当時の中田国民学校の校長は松木義郎という人だった。その松木義郎校長と、当時安西国民学校の先生をされていた安本博さんに連絡をすると、これが登呂のスタートであります。7月6日になりますとその知らせを受けた安本博先生がその中田国民学校に行って、採集された遺物をご自分の目で見てそして、これは大変だっていうんで建設現場へ行って遺跡も見ると、これは大変な遺跡だって事に注目をされています。

 それを同じ7月6日から17日にかけて、この中田国民学校の松木先生は学校の先生方を引率して、現場で遺物を収集しています。恐らく憲兵などが見張る中で、やったんじゃないかと思います。さらに、昭和18年の7月7日から月末の31日まで、安本博さんは毎日のように遺物の収集にあたっておられます。

 同時に在京、東京に居た研究者に連絡を取っています。7月10日安本博さんは毎日新聞静岡支局の森豊さんに連絡をして遺跡発見の通報を致します。森豊さんは直ちに現場に行って取材をするんですけれども、これは奈良県唐古、京都大学の末永雅雄さんや小林行雄さんが調査した奈良県唐古池の弥生の遺跡に匹敵する、或いはそれを上回る大遺跡だって事を直感して、森豊さんは大きな記事を書いて、本社に打電するんですけれども、出たのは僅かに10行くらいのベタ組みで、静岡で、弥生遺跡を発見、という事だった様です。その取材も非常に制限を受けたようであります。私が杉原荘介先生から伺った話では、東京にまだ兵隊に行かなかった杉原荘介先生も弥生時代の大遺跡発見ときいてカメラを持ってすぐ静岡に駆けつけて、現場で写真をとっていると憲兵に咎められて写真機のフィルムを抜かれたという事、或いは森さんも憲兵に殴られた、という話も聞いてます。森さんか、なんか殴った憲兵は後に直撃弾を受けて亡くなったという話も聞いてます。本当かどうか知りませんが、ただ杉原先生のお話なんですけれども、そういう色々なものがたりがございました。

 そこで静岡県史編纂委員をなさっていた山田角蔵という方は中田国民学校にいってその収集した遺物の調査しています。そして7月の15日に静岡市臨時復興局、静岡市は確か昭和14年か15年に大火で殆ど焼けてしまいます。その静岡市臨時復興局局長阿部喜之丞さんが露出していた杭等の杭列などの遺構や、自然の木の根っこというような位置を測量いたします。さらに7月24日に阿部さんがこの遺跡の平面測量と高低、レベル測量しています。その出来上がった図面が先ほどの図で、1の資料の左下にあった、全体の図面と、それから右側の水田遺構の図面なんです。従いまして、この阿部喜之丞さんが考古学に関心があって、ご自分の立場、復興局の局長であるという立場もあったでしょうけれども、その測量をして図を作ったと、この図がなかったならば、また後の登呂遺跡の研究はかなり変わったんじゃないかな、と思います。

 そこで昭和18年の7月24日以降、在京の諸研究者が度々実地調査に、静岡県に対して、遺跡の重要性や、発掘調査の必要性を説く。という事ですね。そして次は8月4日に静岡県は文部省に調査官の派遣方を公的に依頼をしています。文部省の嘱託調査官上田三平さんが静岡に行っているのが18年の8月6日であります。更に8月9日になりますと、緊急発掘調査実施を決定、静岡県内政部長西井一高氏が、その指揮をとります。文部省からみえた、上田三平さんと静岡県史跡名勝天然記念物調査書記河合治江という方を担当として調査隊を組織。つまりこの二人が中心になって命令をうけて調査隊を組織して、市内の国民学校の職員、先生方、静岡高等学校、旧制の静高の学生さんを調査員にあてる。それに対して遺跡の名称を「駿河富士見が原原始農耕集落遺跡」というふうに統一して写真撮影を開始すると。そして8月9日から12日に平面測量や、高低測量に入っていったようです。昭和18年の8月14日、安本博さんと静高、静岡高等学校の教師であった、地質学の望月勝海氏の2名は、静岡県史跡名勝天然記念物臨時調査委員に委嘱される。8月16日発掘調査打ち合わせ会。そしてこの8月17日から29日まで、発掘調査が行われる。この間在京の諸機関、研究者が度々実地調査という事になってまいります。9月にも追加調査が行われるのですけれども、私がこれまでにいろいろ拝見した記録によりますと、この18年の8月の29日、本来は25日で静岡市内の学校の先生を動員した調査隊の登呂遺跡の調査は打ち切りだったんですけれども、いろんな願い、希望があって、8月29日までやったようです。これも今考える、考古学的なちゃんとした遺跡の発掘調査とはやや違って、もう現場で出てくる資料をその場で採集すると、いう事がほとんどの調査だったようです。

 何10人いたか、小学校の先生方が、もうこれで終わりという8月の29日、明日からは調査が出来ない、という昭和18年の8月の29日に、先生方が、ハンカチーフに落ちている弥生土器とかそういうものを拾って、戦争はどうなるか分からない、たとえ勝ったとしてももう2度と登呂で調査する事はあるまい、というんで、皆さんハンケチにその資料を包んで涙をこぼして帰っていった、という記録がございます。

 そういう動きのなかで、じゃあその問題の今日の主人公である大場磐雄先生は、何をしていたのかと、いう事になる訳ですね。3の資料をちょっとご覧いただけますか。実は大場磐雄先生の『楽石雑筆』第22巻、昭和18年のところから転写をさせていただいたものでございます。全てが登呂に関わる記述じゃございませんけれども、大場磐雄という先生の気質、或いは足まめ、筆まめ、行動力、何をお考えになって考古学の研究に没頭したかっという事を、この大場先生の『楽石雑筆』を読むと、胸にひしひしと訴えてくるものがあります。と同時に、私自身、俺は何をしてたのか、ちっとも記録が何にも残ってない。何冊かは私の戦後の記録がありますけれども、もう本当に言ってどうしたこうしたと、数行だけなんですね。こういうふうに毎日毎日ご自身の行動を克明に書くなんて事は容易ならざる事だと、いうふうに私は思います。図版ちょっと詰めましたもんですから、右側と左側、昭和18年、「蓬莱寺と静岡」という同じテーマがあります。

 実は私、戦後の昭和24年か25年頃に大場先生から「大塚君、君も銅鐸見に行きませんか」と声がかかりまして、「是非、お願いします。」と、私大場先生とご一緒して確か亀井正道先生と永峯光一先生もご一緒だったと思うんですけれども、愛知県の三河の砥鹿神社へ、ご一緒した事があります。よその大学、違う大学、明治の私を連れて行ってくださったというのは大変感謝しております。

 大場磐雄先生って冒頭に言ったようにdryな明治の考古学の世界にいた私にとっては、神道考古学、神社考古学とはなんだ、という思いがないわけではありませんでした。

 戦後の日本の考古学の中で、wetな考古学に対する、なんていいますか、その反発のようなものは、戦前の皇国史観につながっていくもんだというふうな浅い理解しかしてなかったんですね。だから大場磐雄先生のご業績って言うものは私は知ってるつもりでしたけど、そんなに深く知りません。後に「銅鐸私考」とか國學院雑誌に発表される論文とか何かを拝読して、だんだん分かるんですけれども。ところが砥鹿神社の神域に入って亭々とそびえる大木のあの神域を玉砂利を踏んで行くと、宮司さん以下がざっと並んで、最敬礼で大場先生を御迎えしました。神社の大宮司さん以下が一列に並んで最敬礼、その後にくっついて私もいきましたけれども。

 昔諏訪にいた、亡くなりました藤森栄一先生が諏訪で考古学をやってるときに、伏見宮殿下でしょうか考古学が大好きな皇族がおられて、諏訪へ行きました。その時に藤森栄一先生は諏訪の人間が御先導を申し上げろっていうので、オープンカーの第1号車、先導車に乗って、第2号車に伏見宮殿下が乗って、上諏訪の駅からずっと諏訪の町を沿道の人がみんな旗もって迎えたんですね。ところが藤森栄一先生が第1号車で伏見宮さんに間違えられて、最敬礼されて、伏見宮さんの時はみな旗を下げている、という事があったそうです。その今の砥鹿神社の時は大場先生が入っていくと砥鹿神社の宮司さんが最敬礼。砥鹿神社所蔵の銅鐸をみて、色々、大場先生はご説明を受けて、メモ帳に、野帳にデータを取っておられました。どうするのかと思ったら、そのまま砥鹿神社に泊まるんですね。それで「君も泊りたまえ」っていうんで大場先生と一緒に泊まったら、夜大宴会でございまして、大場先生と行くとどこの神社でも大変、宮司さん以下、お酒がたくさんでてね、「こりゃ大場先生といかなきゃいかんな」と思ったくらいでした(笑)。

冗談はそのくらいに致しまして、8月2日ですね、つまり、この3の資料の上段右側の下段です。そこに「8月2日(月曜日)午前中神社にて諸書を抜書し云々」と。「午後4時頃には、宝国文庫に行った」。そこの4行目ですね、「急ぎ、抜書して駅前に至り、夕食を喫し、8時頃の列車にて静岡に行く。11時頃駅につく。安本君の姿なし。やむなく国民車」これはタクシーです。「国民車にて旅館に行き、辻梅に一泊する」と書いてあります。こういった大場先生の一行のわずかな記録が昭和18年当時の静岡のタクシー、或いは大場先生がどこにお泊りになったか、といった事がよくわかります。

 そこで、この8月3日。ちょっとこれは大事なところですから読ませして頂きます。「8月3日(火曜日)6時半起床。7時頃国民車にて出発。中田本町の安本氏宅を訪う。」と。「余を、迎えに行かれたりという」と。「又宮地博士」、これは宮地直一先生でしょうか、「宮地博士昨日より静岡に来たり居りて、遺跡を見たいと言う。やがて安本君来たり、挨拶の後、遺跡・遺物について見る。予想以上の珍物なり。」と。この辺がいいですね。昭和18年という時代の日本考古学の学問のあり方、あるいは大場先生の遺物の表現の仕方。これは珍品だ、なんて事は我々よく言いました。これは珍物だというふうに、これは大変なもんだと大場先生も思われた。という事ですね。で、遺物には弥生式土器(櫛目様式)として出土し、須恵と土師はここで須恵という漢字を使っております。当時京都大学を中心とした、関西の学界は須恵とは言いません。陶質土器か、祝部土器という言葉を使ったんです。須恵器という字は高橋健自先生と後藤守一先生が大正の終わりから昭和の始めに、日本書紀にでてくる、あの陶器と書いて「すえのうつわもの」と読ませるのは研究で混同するといけないからと言って、この須田町の須と、恵むという字を書いて、須恵器という字を当てるのです。戦後のしばらくは関西の大学は祝部土器、陶質土器という言葉を学術用語として使っておりましたけれども、大場磐雄先生は昭和18年には祝部とか陶器とか言わないで、もう、この時点で「須恵、土師」というふうに言っていたのです。これはやっぱり須恵器や土師器の学史、研究史の上では私は重要な資料だと、大場先生はこんな字使ってたんだと、いう風に思いました。

 「木製品の事、三木、神林、長崎」亡くなった神林淳雄先生とか三木文雄先生とかという國學院出身の先生方だと思うんです。「この三氏は一昨日来たりしが、帰郷せんという」。だから博物館におられる若手の方や大学にいた若手の学生さんや研究者は結構情報が入って、ちょっと登呂へ静岡へ、富士見原へ行こうというんで、見にきてたわけですね。「さもあり得べし」で、氏の案内で遺跡へ行くと、「遺跡所在地は静岡市敷地遺跡登呂(俗称富士見ヶ原)にあり、最近住友金属株式会社にて工場を設立するに当たり、偶然遺跡の一部を開盤してその土を以って盛る事となれり。遺物の出土せるは本年6月頃なりしが、安本君が注目せしは、7月上旬頃よりなり。安倍川下流の大沖積平野にして東方に有度山有り、さらに北方は賤機山と、山彙有り、大体四方より南方にかけて少し傾斜有り。」と実に克明なんですね。「標高」これ「10〜15m」でしょうか、「の間にあり。遺物は西方、少流の辺りよりとし、次第に東方に及びて、頻度を増せり。大体に地層を見るに大体において菅生に似たり。」木更津のすでに大場先生は菅生遺跡調査に関わっておりましたから、「菅生に似たりと」こういう記述が残っている事によって昭和18年代における、木更津の菅生遺跡と登呂との大場磐雄先生の中における関係論、というものはわかると思うんですね。

 「次に遺跡における遺物の出土状態云々」と。これも「大概黒土層の下部より、青色土層にかけて出土し下部の砂層には見えず」と。こういう記述は登呂の発掘経験をした私にとっては、実に層序の識別或いはつかみ方が菅生と関係していた大場磐雄先生はさすが的確な層位の見方をなさっている。というふうに思います。その後はずっと8本柱の事とかですね、プランが長方形であったとか、第2の柱が出てきてるとか。かなり重要な登呂村の集落遺跡の昭和18年度における、現況が克明に出てきます。これは登呂の報告書を読むについても実に貴重な、学術資料になるだろうと思います。上段の左頁の終わりから6行目に「次で再び安本氏宅に帰り、それより中田の国民学校にいく」と。「松木校長に面会の上、所蔵の品を見る。鹿角製の腰飾り、鹿角製の柄刀子、木製品には注口付きの槽、大小の槽形品、曲物蓋らしきものにて桜の皮をもって綴じたり。石器類は有溝石錘、石錘、磨石類無し」、と。こういう大場磐雄先生の遺物の記述というようなことが実に物を良く見て、溝のある石錘、有溝石錘、なんてのは私は、見事な表現だなっていうふうに思いました。そして次いで安本君が吉野復興局へ来て、また復興局に集まっていたものを見るんですね。今度は下段の右ですけれども。ここには大型の木器類が多い」と書いてあります。独木舟の一部、小形な倉の柱板、及び床板、またはこれを受けりたと思しき木器、曲物製容器類の蓋類。石器には有溝石錘。おもしろし。」これはなかなかね。こういう記録をして最後にひらがなで「おもしろし。」なんていうのは、これはなかなか私にはできない。さすがだな。大場先生だなって思いました。これから私も残り少ない人生を「おもしろし。」と、いう記録を残そうかなと思っているのであります。

 そして「宮地先生出発の時間迫りければ急ぎ駅に行く」と。「先生に面会し、3時半の列車に乗らんとせしが、40分程延着せり。東京に入りしは午後9時頃になりき」、とあります。まあ静岡−東京ずいぶん時間がかかって。今は静岡停車のひかりは一時間、ですから。そういう中で、「さて帰郷後三島、佐野両君に遺跡のことを物語るに、是非とも実査したしとのことゆえ、再調査の念切なりければ、すなわち国大付近の林伸光写真師を訪いてその都合を聞き、承諾を得たれば、8月6日夕方出発せんとして、大体の打ち合わせを整えおけり」、です。帰ってきて、おい、登呂はすごいよっていう。佐野君、君もやっぱり現地行って見てこいよ。なんならちょっと調査に参加しておいで。というそういう順だと思うんですね。だからこれをみてて私も大場先生の身の速さ,対応するというか、かなり早い。で、次に8月6日です。「8月6日午後5時頃東京駅にゆく。列車に乗るに三島、佐野両君来り、共に出発。」一緒に行くんですね。「途中何事もなく静岡着10時過ぎる」んですね。だから5時間。駅にて安本氏に迎えられ,中島旅館、今のホテル中島屋でしょうか、立派なホテルになってます。今斎藤忠先生の城となってますけども。中島旅館に行くと。「なお氏より聞くに一昨日後」、この辺から上田三平さんの名が出てくるんです。「なお氏より聞くに」安本さんから聞くところによると、「上田三平氏来たり」「県としても、大いに調査すこととなれりという」。「明日を期して別れ、同夜は就寝」8月7日という事で、これから大場先生がいろいろ住友金属株式会社にいって、庶務課長さんとか副所長に面会してこの遺跡は大事だ。工場建設もこの緊急事態の時に大事だけれども、ちゃんとした調査をしなきゃだめだと大場先生は必死に訴えていたようです。もちろん、大場先生のおっしゃる通り、よく分かってます。どうか、県のほうとも大場先生、十分に打ち合わせしてくださいよと逆に言われてるんですね。

 そして、午後2時頃まで、この住友金属株式会社にいて、今度は県の河合さん,史跡調査の県史編纂の河合治栄氏に会うんです。河合氏は、「県として大いに調査を行い、実測と写真撮影並びに柵の中の発掘を行うべきことを話される。余は、別個の立場より、手伝いをなすべくと約束する」と。自分は自分で大いに応援しますよ、と。だけれども自分にかかる諸費用に関してはなんら静岡県の援助は要りませんよ、と。「援助の受けざる旨を言明し」。電話があって、復興局長より「待ちいる旨なり」と。待ってるから、と。「又林やすみちと、佐野君を共に同所にいる旨にて、三島氏と河合両氏と三人、差廻しのタクシーにて、復興局へ行くと」。そこで、河部局長に面会。「同氏は考古学に興味を有し、理解がある」と。で、「調査に対してもすこぶる好意を持って迎え入れる」と。「大活動にて同日中に同氏の遺物を実測撮影すべしと奮闘す」。と。さらに「その主要なる物につき写真の撮影順に記すべし。」それから、1,2,3,4、とどういうものを撮したのか、特徴を簡明直裁にお書きになっています。

 そして、この下段の左側の上段ですけれども、「時に午後6時過ぎ、一同疲労甚だし。直ちに中島旅館に入り、一風呂浴びて夕食。種々対策を期して就床」。8月8日以降ここからまた、大場先生はいろんな、遺構の図面等を描いておられます。4の資料をちょっとご覧頂きたいんですけれども、ずっと、4の楽石雑筆22上段を見ますと,克明に、大場先生が実際に、見て、そして約束したり写真撮ったりした個々の遺物について書いています。このエネルギーというか、資料に対する大場磐雄先生の熱情というか学者としての姿勢は,並々ならぬものがあったと思うのです。これは私共常に経験しますが相当根性がないと、そうはいかないんですね。そういう事をお書きになっています。

 そして4の上段の右側のところの真中辺に「安本氏も来たり。また県の河合氏も来たり賑々し。夕方湯を浴び、心尽くしの夕食を喫して駅に来たりて7時17分発の列車に乗る。途中延着して帰宅せしは午前1時頃なりき。」と。これがね、8月8日だと思うんです。8月8日の午前1時頃にお宅に帰っているという事です。そして、そこに「鹿島神宮調査。宮地博士の委嘱による鹿島神宮の土塁調査を決行すべく、同じく佐野君と共に8月9日より午後1頃に両国駅に待ちあう。」ですから、いやーすごいですね。やっぱり学者として、大場先生は学問の道に生きて前日夜中に帰っても、宮地先生のご依頼で鹿島神宮土塁調査って事でもう早速翌日午後ですけども、両国駅から汽車で、出かけていくというわけですね。そして、「午後3時過ぎ4時発のバスに乗り込む。混雑はなはだしく、いと暑し。」ねえ、まぁクーラーなんてない時代ですからね,「途中にて席を得たれど、暑さ変わりなし。5時少し過ぎ、神宮へ到着、社務所に挨拶し、土塁の実際を一瞥して宿舎『がんけ』に入る」とこういうふうに書いて,いかに大場磐雄先生が東奔西走ですね。いや、夕べ帰ったばかりだからちょっと、もうちょっと1日2日休ませてよ、なんて事はない、んですね。私だって、という事で、私も昨日、長野経由で山梨から家へたどり着いたのが10時過ぎなんですけれども、いや、やっぱり忙しくなきゃだめだって言うくらいに、私も思っておりますから、こういう大場先生の日記を読むと、うーんすごいな、っていうふうに思うのです。 

 さてそこでひたむきな大場先生が、いま、私なりに解釈すれば煮え湯を飲まされたというのか、大場先生の思う通りに事態は展開しなかったのです。戦争中の話です。というのは4の下段のところであります。

 登呂遺跡第3回調査というのがあります。で、「前回に記述する登呂遺跡の調査はその後、静岡県、県の方針にて文部省の上田三平氏に依頼して、大体の計画を立てていって、状況を見ていろ」という事ですね、「20日の夜帰郷ただちに報告をうけ、大体において調査の状況を知れ、ゆえに」、赤城って赤城山ですが、「赤城調査の余暇を割いて、静岡に下ることとし、21日午後より数日を使わせた。8月21日、午後2時10分6時31分静岡着と。同夜は中島屋に投じ夕食後安本氏ととるに、三木、辻本両君も来たりて見学せり。荷物を預けおきて去り、旅館に帰る」。で、「8月22日、天気よろし、朝7時半頃宿を出て、安本氏を訪う。堀田君」これは堀田三津男(?)さんの事でしょうか「堀田君を待つ事しばし、見えじ。やむなく8時半頃現地へ行く。上田三平さんですね。

 「上田、河合両氏と、小学校訓導十数名来たり居れり。9時ごろより発掘にとりかかる。今大体の現状を見に左のごとし。」って事で、その現状を書いておられます。そして「8月23日」一番今度下のほうですね。「月曜日天気よろし。今日も前と同様なれど、余はまず住友本社にゆきて発見遺物を見る。今発掘中の円形柵の付近より、最初出土するもの」という事で、大場先生は野帳の中に、描いた図面ですね。柵列がまわって、真中に六本柱ですか、掘立柱かな、ま、こういうふうな遺構をちゃんとお描きになっています。そこで次の5の資料を、開けていただきたいんですけども、5の資料の右側の上段、いろんなものがでてる、という事ですね。で、「以上を主なるものとす」と、「安藤庶務課長に面会して、上田、河合両氏の態度について聞き、大いに同感なり」、だからこの安藤庶務課長という、住友の課長さんでしょうか、が、この上田三平さんと河合千恵さんの現場における指揮や遺跡へのその接し方等について、ま、いろんな事を聞いたんですね。「故にこの由県に来て報告し、別に発掘せんと約す。その間一度タクシーにて復興局へ行き局長に面会、書物を渡して調査後援を依頼する」、と。いうような事で。そこのところの終わりから5行目「本日午後3時ごろ、県庁へ行き、杉谷祭務官に面会。西井内政務部長に面接の上、発掘に対する注意を言い。また上田、河合両氏の態度述べ、この発掘が両氏個人の発掘となる事を固く戒める。本日帰郷せんとせしが、明日原田氏が」原田淑人先生でしょう「原田氏来静の報有り。最初当初よりこの発掘につき余を推薦せられしという」。原田淑人先生は國學院大學の大場磐雄君に登呂の調査のいろんな事をやっぱりやってもらったらいいんじゃないかと、あれだけ熱心に現地へ何度も飛んだりしてお弟子さんを出してると、いうふうな原田淑人先生のアドバイスもあったという事がこれでわかります。「余を推薦せられしという。故に1日予定を延長する事とす。」もう1日静岡にいるんですね。そして、夜は杉谷氏の招待にて伊東属と共に、穴子屋に行き、夕食。」今でもあるんでしょうか、私も行きたいな。「穴子屋に行き夕食。うなぎを食して満腹せん」この辺はね大場先生のお人柄というか、人生の生き方に私は全く同感ですね。

 そして「8月24日原田先生をお迎えする」。そしてその後半になると小さな弓が出てきたり、鉢形木器一個が出てきたりします。「余は先生と別れ」、つまり、これは原田先生でしょう「と別れて、県庁に至り、杉谷氏に大体の経過をのべ、且つ上田・河合二氏の硬化せるを告げ、他日を期して調査せんことを約す」つまり、駿河富士見原遺跡の現場においては微妙な人間関係と軋轢と県と文部省との関係論とそして民間の人間であった國學院大學の大場磐雄先生をむしろ排除していくというか、厄介者というか。俺たちがやるからま、あなたはいいよ、お引き取りください。っていうような、響きにもとれるような状況が昭和18年の8月の登呂最後の段階で現出していた、という事であります。

 これは、こういう話は登呂遺跡の発掘ではあまり外に出ない話でございまして大場先生の名誉のためにも大場『楽石雑筆』を通じてやっぱり、相当行動力があって動いていたという事がわかります。そこでこの、登呂から出てきた木器や石器について参考資料としてそこに挙げておきました。もう一つこれほどまで大場先生がこだわったそれは、木更津の菅生遺跡の発掘等があって、低湿地遺跡に対する、或いは、木器とかたくさんでる、或いはその中に祭器、祭祀遺物がある。つまり古代社会におけるその祭祀的な側面というふうなものも、多分大場先生は非常に、研究の意欲をお持ちだったという事で、静岡の登呂遺跡に対しては研究上の情念というか、熱情をお持ちだったというふうに思います。ところが、そういうわけで、昭和18年の8月の末を持って工場建設が始まる。爆撃を受ける。で、19年、20年になって、そして実は安本さんは中国からだったかな、或いは森豊先生も九州か中国から復員されてくると。いうような事。そして、上海、中国大陸へ行っていた杉原荘介とかそういう先生の皆さんがたが、日本に命ながらえて帰ってこられた。という事で、登呂の発掘が始まるのです。

 私は登呂の発掘に参加して、今日お見えと思いますけれども、國學院大學の小出義治先生とか、或いは千葉県の野田におられた下津谷達男さんなんかともご一緒して。特に永峯光一さんや亀井正道さんとは同期で、一緒に同じ炊とんを食べて、登呂の発掘に関わっているわけです。私は昭和23(1948)年から登呂遺跡の発掘隊のマネージャーというか、書記をやっておりました。

 私が商業学校出身だという事で、後藤先生などから、お前が帳簿つけろ、という事で現金出納の他にいろんな通帳があったんですけれども、記念に私の手元にありました帳簿を出して、今日大場先生の事について登呂の話をするんだって事で、見たのです。

 ところが昭和24年、ですから1949年、登呂発掘3年目であります。そこに、左側のとこに現金の出納なんですけれども8月20日に大場磐雄旅費1000円、大場先生に1000円が支払われております。ずっと前からいる方、期間とかですね、いろんな事で、全部計算の基準が違います。亡くなりました後藤守一、東大の駒井和愛、八幡一郎、杉原荘介、現在も活躍中の齋藤忠先生、江坂輝彌さんに880円、10日間の手当てで払っております。そういうなかで、例えば、学生さんは10日ごとに一応交代するという風にして各大学の皆さんが来ました。第一期、二期、三期、牧牛寺宿舎、これは先生方も泊まっているんですけれども、80円かける18人で、1440円をお支払いしているとかですね、もう亡くなりました慶応の清水順三さん、東大の曽野寿彦さん、東大の植物の前川文夫先生、そういう方が御見えでございました。下のほうに桜井清彦さん、525円なんてありますけれども、右側のほうを見ていただきますと、8月9日上から二段目、交代学生慰労のお酒2升90円です。1升45円、これ焼酎だと思うんですけれどね、女子学生はお酒を飲ませるわけにはいかないって言うんでお菓子を、三袋買って240円ですね。お酒が、900円。炊事用の薪、50束1100円。高いですね。牧牛寺の宿舎の卵が21個で294円とか洗濯用の練洗剤の1缶1000円とかですね、写真乾板の現像焼付代金、4700円ですか。お酒ばっかり書いていてしょうがないんですが、「酒一升五合代慰労会用8月9日750円」そういうので当時の物価もわかりますし、学生さんはあの建設現場の飯場に泊まって掘っていたという事で飲まずにはいられない環境だったのです。

 実は昭和22年の登呂の発掘の頃には、後藤守一とか駒井和愛、八幡一郎先生らと一緒に大場先生は実行委員のメンバーだったんです。しかし昭和24年にはちょっと登呂へお見えになっておられますけれども、実行委員のメンバーからは外れておられるんです。私も学生ですから細かい事は分かりませんですけれども、今私が大場先生の話をするために『楽石雑筆』をずっと見てみますと、事実を明らかにしようと思う、情念というか、その熱烈な気持ちというのは、私が今思えば、後藤守一、八幡一郎、駒井和愛、杉原荘介という先生と比べたら、問題にならないですね。大場先生が飽くなき学問的なエネルギーって言うんでしょうか。東大の駒井和愛先生は中国考古学のご専門でありまして、後藤先生などがお昼休みの食事が終わって、午後一時暑い遺跡の現場に牧牛寺をスタートされますと、全員先生方現場に出られてから、駒井和愛先生は牧牛寺の本堂で枕を出されてきまして、そして、アンペラのようなものをしいて「大塚さん、一緒に昼寝しましょうや」とね。中国の生活では、午後は昼寝が当たり前なんですね。だから駒井和愛先生は1時間から1時間半たっぷり午後午睡をされます。午後3時になってはじめて駒井先生は半ズボンをはいて、帽子をかぶって、駒下駄をつっかけて、遺跡に出るんです。ですから、登呂の学生達は、駒井先生の歌を詠みまして、「駒井のごろちゃんトンボつり」てな、そういう歌がたくさん出来るんですけれども、私はそういう先生方、一人一人の個性というものを牧牛寺の本堂で見る事が出来ました。

 で、大場先生は、木器その他の資料が発掘されて宿舎に運ばれてくると、すぐそばで、ご自分の野帳にスケッチをされるわけです。これは、大場先生にとっては当たり前の事です。掘ってまもない資料について自分の資料としてメモ書きをとるわけですね。ところが他の先生方はみんなで共同でやった、合同発掘だから、パブリックな、公的な段階に至るまではそういう写真とか、スケッチはとらない。だけども、大場先生は私が行なった木更津の菅生なんかでは、木器なんかはどんどん変形していくから、早く自分でメモしておかなければと思っているわけですね。そういうメモをしていた先生が、『登呂の古代農村の復元』なんていう本を大場先生がおだしになるときに、そういうスケッチを出されるんです。それは正確な実測図ではなくて、自分がとったスケッチだから。という事で、お使いになるんですけども、登呂に参加したほかの先生方には十分納得が出来なかった、というか、共通の資料を大場先生が先にご自分でお出しになるという事が、多分問題になって、じゃあ、大場さんにはお引取り願おうよ、という事で昭和24年以降はもちろん調査員としてお見えになる事はあるとしても、登呂の実行委員からは、外れていく。と、いうような事があったのではないかと、私は仄聞しております。

 ですから今にして思うと、大場先生の、学問的な飽くなき挑戦への足がかりというか、その気持ちというふうなものがボタンの掛違いという事があると。学問の世界にはそういう事が往々にしてあるんですけれども、私は大場磐雄先生から教わる事は多々ございました。

 そういう事で、大場磐雄先生の目指した考古学というのは近年全国的に発掘されている、例えば群馬県の前橋の舞台古墳等は帆立貝型古墳の突出した前方部に、土師器の高杯がまとまって祭りの道具として出てきて、その高坏にはお団子か何かよくわかりませんが焼き付けてあるんです。高坏にお供えものを盛り付けたもの表現のものを一緒にくっつけて土器を焼いてるんですね。そういう風な祭祀が日本の古代には、重要な場面としてあるという事です。wetな考古学の世界から、dryな考古学で型式学とかそういった事だけが考古学の全てではないって事が、このごろいろいろな資料でわかってきたという事です。大場先生の『楽石雑筆』はこれから考古学を学ぶ人たちは是非、あの膨大な資料ですけれども読んでみると勉強になる事が多いのではないかなと思っております。

 登呂遺跡は最近また静岡市教育委員会が、再発掘をしておりまして。昨年も中心部を秋以降発掘しました。それは昭和22年から25年迄掘った遺跡の一部に重複するようにして、まだ掘ってないところを静岡市が掘っています。実は平成11年度の発掘で水田跡の畦畔、昭和22年に掘った所をだぶらせて掘ったんですけれども、そこの畦畔から昭和22年のインク瓶が出てきました。それは、永峯さんが使ったのか亀井さんが使ったのか私が使ったのか、下津谷さんが使ったのか分かりませんが、当時はまだサインペンや、ボールペンはありませんでしたから、遺跡に出て、調査をしながら、ちょっとした記録や日誌を書くのに、みんなインク瓶でつけペン、Gと書いたあのGペンで、遺跡の現場で書きました。その時のインク瓶が弥生時代の畦畔の脇から出てきて、今静岡市教育委員会にいる若手が、「先生、これ」っていうんですねぇ。やっぱり懐かしかったですね。

5 まとめ

 そういう事で、日本の考古学もずいぶん変わりましたが、それに対してやはり大場磐雄先生等のご業績は学史を踏まえれば踏まえるほど偉大だったと、いうふうに思います。その大場磐雄先生が、昭和18年、登呂で、ご自分も関心があって、もうちょっと関わりたかったのではないかと思います。なにしろ木更津の菅生遺跡の調査経験を持っていたのですからね。ところが、文部省と静岡県の相談で、大場さんはいいですよ、ま、見学にいらしてください、というふうに言って、文部省と県で登呂の最後の8月の調査をやったというあたりは、やっぱり大場先生としては辛かった気持ちもあるのではないかなと思っております。学問の世界は往々にしてそういう事があるんですけれども、本当に大場先生は一生懸命この日記を見てもホントにもう行ったり来たり行ったり来たり、やっていたんだなぁ、という事ですね。登呂遺跡に対する大場磐雄博士の情念というか飽くなき挑戦というか、これは我々今でも拳拳服膺というか十分学ぶべき面ではないかな、と思っております。

 どうも、あんまり深い話は出来なかったのですけれども、大場先生を偲びながら、登呂の話をさせていただきました。御静聴有難うございました。


(2000年3月25日、國學院大学常磐松2号館大会議室にて)




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