神坂峠は、長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市の境、神坂山山中の標高1570mに位置する。昭和43(1968)年8月に大場磐雄博士と椙山林継氏、阿智村教育委員会が中心となって発掘調査が行なわれた。峠の長野県側は緩傾斜となっており、その鞍部東麓から磐境と考えられる石畳状の敷石遺構が確認された。敷石遺構内において大量の有孔円板、刀子などの石製模造品や勾玉、管玉、臼玉といった祭祀遺物をはじめ、須恵器、内面黒色土器などが出土し、それまで判然としなかった峠祭祀の形態を解明する端緒となった。
大場博士と椙山氏は神坂峠の発掘成果を受け、翌年の昭和44(1969)年9月に長野県北佐久郡軽井沢町と群馬県碓氷郡松井田町の境、標高1035mに位置する入山峠の調査を行なった。神坂峠を信濃国の西端とするならば、その東端の役割を担う入山峠は、やはり前者と同様に、長野県側に広がる緩傾斜の鞍部に、敷石遺構こそ確認できなかったものの、石製模造品や玉類を中心とした祭祀遺物の散布集中区を南北方向に2群確認し、大場博士らは集中区間に東西方向に走る古道の存在を想定した。
この2つの峠祭祀遺跡は、大場博士の晩年にあたる時期に調査されており、その写真資料は両遺跡の調査に深く携わった椙山氏が一括して保管されていた。今回のデジタルデータ化に伴い確認した写真資料は、すべて35oリバーサルフィルムで構成され、神坂峠203点、入山峠321点で、両遺跡とも遺跡遠景、近景、調査風景、遺構、遺物写真など、報告書に使われたすべての写真と、遺跡周辺の民俗に関するカットが若干含まれている。
信濃国は古くから東山道の中間ルートとして認識されていたが、あくまでも文献上でのことであり、それまで考古学調査から裏付けられることはなかった。大場博士は、若い頃から両遺跡に関心を寄せており、特に神坂峠では戦前の鳥居竜蔵氏の踏査をもとに、丹念な分布調査を行ない遺跡の位置を特定することに成功した。大場博士は、それまで行なってきたフィールドワークと発掘調査の成果、そして『記紀』の記載などから総合して、神坂峠を東山道の信濃御坂、入山峠を碓氷坂と比定し、古代東山道における峠祭祀の様相を明らかにした。古墳時代より畿内と東国を決定的に分ける意味をもっていた信濃国の東西国境で、このような峠祭祀遺跡が調査されたことは僥倖に近く、全国的にみてもここまで明らかな事例は少ないだろう。文献史学で茫漠としていた古代交通史を、はじめて考古学的見地から解明した点からも、両遺跡の価値は高いものと位置付けられる。
(関根信夫)