写真:伊奈銅鐸出土状況(『歴史地理』第45巻第3号より)
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左の写真は、大正13年12月22日、愛知県宝飯郡小坂井町伊奈字松間から発見された銅鐸の出土状況の写真である。正確には、翌大正14年1月15日に現地を視察した元京都帝国大学の喜田貞吉氏の要請により、その出土状況を復元した折に撮影されたものである。撮影者はいち早くこの銅鐸の発見記事を書いた名古屋新聞豊橋支局の丸地古城氏あるいは彼が手配したカメラマンと考えられる。写真に写る青年は、この銅鐸を掘り出したひとりでもあり、この復元を手伝った横里富三郎氏であろう。しゃがみ込み、伏し目がちに一点を見つめるその姿には純朴な好青年のイメージが漂う。地下約1mから発見された銅鐸は3個。いずれも横に倒され鰭を上下にし鈕の方向を互い違いにしながら埋められていた。脇に立てかけられたスコップと青年の服装にその時代が感じられる。これは銅鐸の出土状況を伝える最初の写真である。
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丸地氏は大正13年12月27日付の名古屋新聞の朝刊に「宝飯郡松間の麦畑から銅鐸を発掘 而も三口些の欠損も無く」と表題に謳い、「懸下宝飯郡前芝村大字前芝林豊治氏は去る二十二日同郡小坂井村伊奈字松間の麦畑から銅鐸大小三口を発掘し前芝駐在所に届け出たので附近からの見物引きも切らずといふ有様だが何れは学界の参考資料となり研究されることとなろう」とこの銅鐸の発見をその観察記録と共に伝えた。その後、豊橋の市川藤五郎氏ならびに豊田伊三美氏からこの発見の知らせを受け、喜田氏は現地に赴くこととなる。さらに、東京帝室博物館の後藤守一氏も先の豊田氏から同様の知らせを受けたが、現地を訪れたのは喜田氏から現地調査の様子を聞かされてから11日後の1月26日のことである。その時、後藤氏に同行したのが東京高等師範学校の森本六爾氏、朝鮮総督府博物館の藤田亮策氏そして京都帝国大学の梅原末治氏であった。当時の考古学界を代表する錚錚たるメンバーである。
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きわめて興味深いことだが、現地を訪れた彼らは、ほぼ同時に全く同じこの写真を別の雑誌の口絵として使用し、この発見をそれぞれの立場から学界に報告している。すなわち、喜田氏は『歴史地理』第45巻第3号(大正14年3月1日発行)に「三河新発見の銅鐸」、梅原氏は『歴史と地理』第15巻第3号(大正14年3月1日発行)に「三河宝飯郡松間発見銅鐸調査報告」、そして森本・後藤両氏は連名で『考古学雑誌』第15巻第3号(大正14年3月5日発行)に「三河国宝飯郡小坂井村発見の銅鐸に就いて」と題して発表したのである。しかし、この三者の聞き書きによる銅鐸発見の経緯には微妙なずれがある。特に喜田氏以外は同時に現場に居合わせながら、なぜこうした齟齬が生じたのであろうか。それぞれの文章を読み比べ、さらに警察の書類に照らし合わせてみると、そこには銅鐸の所有権をめぐり複雑な駆け引きが展開されていたことが推測できる。情報の発信・受信そして伝達の在り方について深く考えさせられる現象である。ただ誰が発見したかは別にして、地下約1mのところからまず1号鐸が、そしてしばらくして2号鐸・3号鐸が写真のような状態で発見されたことは確かなようだ。
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喜田氏は言う。「其の発掘の蹟攪拌せられずに保存せられ、其の状態が発見者の記憶になお新なる際に於て、それを原状に復して三個まで相並んで存する所を写真に止め得たというが如きは、学界稀有の好機会であったと謂はねばならぬ。その研究上裨益する所の大なるは申すまでもない」と。まさにその通りであって、この写真は、銅鐸の出土状態を明確に示した最初の写真として、歴史的かつ学問的に重要な資料といえる。こうした観点からあえてこの一枚の写真を「古写真」として採り上げた。
銅鐸は弥生時代の終わりにはすべてのものが地中に埋められ、その後、人々の記憶からまったく忘れ去られてしまう。なぜ埋められたのか。これが銅鐸最大の謎である。だからこそ、その出土状態が重要とされるのである。この伊奈銅鐸の発見から今日に至るまで、発掘調査によって銅鐸が発見されることが度々あったが、その多くが伊奈銅鐸と同様の状態で発見されている。これは単なる偶然ではない。そこには型式・地域を越え、銅鐸埋納に関し一定の法則があったことを意味する。こうした考えの根底には必ず伊奈銅鐸の存在があった。喜田氏が残したこの一枚の写真の存在は大きい。
ちなみに、この銅鐸は、様々な問題を経て、大正15年2月26日、国により購入されることとなり、現在東京国立博物館の所蔵品となっている。