『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

補論1:神坂峠の現状と景観


1.はじめに

 國學院大學学術フロンティア事業実行委員会では、椙山林継氏によって保管されていた神坂峠遺跡の調査写真のデジタル化を終え、今年度よりインターネットでの公開を開始したが、今回、遺跡の現状を確認するため神坂峠の現地踏査を行った。以下、その成果について簡単に報告したい。

2.神坂峠調査写真について

(1)神坂峠
 神坂峠は長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市との境、恵那山と神坂山の鞍部(標高1576m、北緯35°28′26″東経137°37′55″(JGD))に位置する古代の東山道が通る交通の要所である。その険しい道程から東山道第一の難所として知られ、荒ぶる神の坐す峠として「神の御坂」と呼ばれた。
 その一端は、日本武尊の東征の帰路、尊を苦しめようした山の神が白鹿に変じ、それを尊が蒜で撃ったという『日本書紀』景行天皇四十年条の説話や「ちはやぶる~の御坂に幣奉り齋ふ命は母父が為」という『万葉集』巻二十(4402)の歌によって窺うことができる。
 その後も、神坂峠や山麓の園原の里、歌枕にもなった箒木などは『古今和歌集』、『源氏物語』『今昔物語集』など多くの古典文学で取り上げられているほか、後に県歌となる「信濃の国」にも登場するなど文学の名所として知られていた。

(2)神坂峠の考古学的調査
 古典文学上に現れた荒ぶる神に対する祭祀は大正10(1921)年の鳥居龍蔵による「祝部土器」の採集(鳥居1925)や下伊那郡誌編纂に伴う昭和26(1951)年の調査での石製模造品等の出土(市村1955)によって考古学的に実証された。また、昭和42(1967)年の国鉄複線化に伴う分布調査では縄文土器(前期・中期)や陶磁器類が出土している(長野県教育委員会1968)。
 以上の成果を受け、大場磐雄氏、楢崎彰一氏、大沢和夫氏らを中心に翌43(1968)年8月に本格的な調査が行われることになった。峠の頂上部付近の平坦面から石畳状の遺構が発見され、その遺構内外から剣形、有孔円板、勾玉、臼玉、刀子形、馬形等の石製模造品約1400点、獣首鏡1面、鉄製品などの祭祀に関わる遺物や須恵器、土師器、陶磁器類等が出土している。石製模造品の未製品や砥石の存在からその製作も行われていた可能性も指摘されている。
 これらは古墳時代の峠祭祀の実態に迫るものであるとともに、交通史や物資の流通経路を考える上でも貴重な資料である。翌年、報告書(大場・椙山編1969)が刊行され、遺物は地元阿智村教育委員会で保管されてきた。遺跡は昭和56(1981)年に国史跡に指定されている。

(3)神坂峠調査関連写真
 既に昨年度の事業報告において概要を紹介しているように、椙山林継氏によって昭和43(1968)年の調査写真が保管されてきた。昨年度にデジタル化を実施し、インターネット上で公開している。また、大場磐雄氏によって保管されてきた35mmモノクロネガフィルムにもこの時の関連写真が計100枚含まれているが未整理である。この他、押野谷美智子氏によって当時の調査写真がその後の踏査写真と共に刊行されている(押野谷2000)。
 椙山氏収蔵資料中の神坂峠関連写真は203枚で、調査期間中に訪れた長野県塩尻市平出遺跡や、平行して調査が行われていた中津川市山畑遺跡の写真も若干含まれる。その内容は大きく遺跡の景観(54点)、遺構・遺物出土状況(87点)、調査風景(2点)、遺物(46点)、他遺跡(14点)の5種類に分けられる。

3.神坂峠の現状

(1)峠の現状
 古代のハイウェイである東山道が通った阿智村は現在のハイウェイである中央自動車道も通る交通の要衝の地である。その交通アクセスと眺望を活かしたリゾート施設として「スキー&ゴンドラパーク ヘブンズそのはら」がオープンしている。今回我々も、そのゴンドラを利用して一挙に標高1600mを登ることになった。そこからマイクロバスに分乗し林道をしばらく行くと現在の神坂峠である。調査地点は舗装された林道から50mほど歩いて登ったところにある。
 写真に示したとおり、遺跡は長野県側に向けて緩やかな斜面となっており、最も平坦な区域に調査区が設定された。この平坦面は絶好の休憩場所であり眺望とともに旅人の心を和ませたことあろう。その場所は現在、史跡を示す標柱が立ち、簡単な囲いがなされているが、立ち入りは可能である。そこから少し南に上った、最も標高の高い地点(積石塚とされた塚がある)には遺跡の概要を示す解説板が立ち、ここから中津川方面へと降る細い山道が伸びている。一方、遺跡の北側からは神坂小屋に至る細道が伸びている。

踏査風景(2002年 関根信夫撮影)
踏査風景(2002年 関根信夫撮影)


(2)調査時との対比
 古来、峠とその景観は旅人に大きな印象を与え同時代の文化を形成してきた。文学作品で取り上げられてきた峠は数多く存在し(野本1978)、入山峠や雨境峠、足柄峠などでは祭祀遺跡が発見されている(椙山1972)。交通手段の発達していなかった古代において峠の景観は大きな意味を持つものであるが、現在のハイカーなどにとってもその価値は大きいものといえよう。  神坂峠の景観について昭和43(1968)年の発掘調査時と現状とを比較してみたい。調査時の写真のうち景観写真は遺跡から周囲を撮影したもの(眺望6点)と、逆に遠方から遺跡を撮影したもの(遺跡遠景32点)、近くから調査地を撮影したもの(遺跡近景13点)、その他(峠道、峠の清水など)に分けられる。
 中央自動車道や林道、ヘブンズそのはらの建設によって麓から峠までの景観は変化している。これが遠景にどう影響するかは確認できなかったが、今回の踏査の結果、峠からの眺望や、近景については、地形や植生、構造物等は調査時とほとんど変化が生じていないことが確認された。

南方より神坂峠を望む遠望(1968年 ms141) 山畑遺跡より神坂峠を望む(1968年 ms010)
南方より神坂峠を望む遠望(1968年 ms141) 山畑遺跡より神坂峠を望む(1968年 ms010)
伊那谷方面の眺望(1968年 ms013) 伊那谷方面の眺望(2002年 関根信夫撮影)
伊那谷方面の眺望(1968年 ms013) 伊那谷方面の眺望(2002年 関根信夫撮影)
木曽谷方面の眺望(1968年 ms142) 木曽谷方面の眺望(2002年 中村耕作撮影)
木曽谷方面の眺望(1968年 ms142) 木曽谷方面の眺望(2002年 中村耕作撮影)
遺跡近景(南→北 1968年 ms143) 遺跡近景(南→北 2002年 関根信夫撮影)
遺跡近景(南→北 1968年 ms143) 遺跡近景(南→北 2002年 関根信夫撮影)


(3)神坂峠・東山道を活かしたまちづくり
 現在、阿智村では神坂峠を含めた「東山道」を地域活性化の中心に据えている。峠から麓までの古道を中心とした一帯を「園原の里」として村の史跡に指定し景観の保全を図っているほか、東山道サミットの開催や文学・伝説をまとめたガイドブック、ガイドマップの発行、遊歩道の整備などが行なわれている。
 東山道サミットでは様々なイベントが実施されたが、その1つに勾玉や剣形模造品、有孔円板等を10cmほどの木片でかたどり、峠の木に吊るすというものがあった。今回の踏査時にも確認することが出来たが、古代祭祀を象徴する遺物を現代に活かしている事例として興味深い。
 最後に見学した大垣外遺跡には「古東山道祭祀遺跡の地」という石碑が建てられていた。明治期に、熊谷直一氏を中心とした地元の人々(伊那平田学の国学者を含む)によって園原から神坂峠への道が再整備(市村1934)されており、この地域では古くから文化遺産の顕彰と活用に意欲的に取り組んできたことがうかがえる。

模造品(2002年 関根信夫撮影)大垣外遺跡に立つ碑(2002年 関根信夫撮影)
模造品(2002年 関根信夫撮影)大垣外遺跡に立つ碑(2002年 関根信夫撮影)


4.おわりに

 本稿では、神坂峠調査関連資料のうち景観を記録した写真を取り上げ、その資料的意義について現状と比較しながら考察してきた。峠の景観は古くから文化に影響を与えてきたもので、重要な文化遺産である。
 今回の踏査の結果、神坂峠においては昭和43(1968)年の調査時点と現状とで峠自体の景観は大きく変わっていないことが確認された。そして、この文化遺産は、現在阿智村のまちづくりの基盤として重要な役割を果たしているのである。

 今回の調査は平成14年9月23日に行ない、加藤里美・関根信夫・中村が参加した。調査にあたり祭祀考古学会・阿智村役場の諸氏には様々な便宜を図っていただきました。末筆ながら記して感謝いたします。

(中村 耕作)

〔参考文献〕
市村咸人 1934 「御坂越の今昔」『智里村誌』山村書院
市村咸人 1955 「祭祀址」『下伊那史』2 原始時代上 下伊那誌編纂会
大場磐雄・椙山林継編 1969 『神坂峠』阿智村教育委員会
押野谷美智子 2000 『信濃国に於ける幻の古東山道と須芳山嶺道を求めて』
椙山林継 1972 「神坂峠」『神道考古学講座』5 祭祀遺跡特説 雄山閣出版
鳥居龍蔵 1925 『有史以前の跡を尋ねて』雄山閣
長野県教育委員会 1968 「神坂峠遺跡」『国鉄複線化等開発地域内埋蔵文化財緊急分布調査報告書』
野本寛一 1978 『峠 文学と伝説の旅』雄山閣出版



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