『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

大場磐雄と大場コレクション 3


1.大場コレクションの概要と整理の経過

 大場磐雄氏(1899〜1975)は大正11(1922)年に國學院大學を卒業後、神奈川県立第二横浜中学校教諭・内務省神社局考証課嘱託・國學院大學講師等を経て、昭和24(1949)年に國學院大學教授に就任した。『神道考古学論攷』・『祭祀遺蹟』・『神道考古学講座』など、神道祭祀に関する考古学的研究が、今日の祭祀考古学の基礎を築いた業績は広く知られている。また、一般教務のほか、國學院大學考古學會の会長として後進を育成し、『國學院大學考古学研究報告』シリーズの刊行や考古学専攻の設置等に尽力するなど、学内的な研究・教育環境の整備についても銘記すべきところが多い。
 氏の青年時代から晩年に至るまでの詳細な調査・研究記録は『大場磐雄著作集』・『楽石雑筆』としてまとめられているほか、本プロジェクトにおいて整理作業を進めている大場コレクションが残されている。大場コレクションは博士の没後、遺言に基づいて本学が寄贈を受けた資料であり、多数の写真資料・図面等は調査当時の生々しい成果を今日に伝えるものとして評価が高い。
 本プロジェクトでは、初年度である平成11年度から大場コレクションの整理を継続して行なってきたが、これまでに平成12年度の『大場資料目録−U 縄文時代編−』・『大場写真資料−平出遺跡編T−』(注1)、平成13年度の『大場資料目録−V 弥生時代編−』・『大場写真資料−登呂遺跡編−』(注2)を事業報告として、或いは電子情報として公にしてきた。
 今年度は従来の電子情報化に引き続き、『大場資料目録−W 古墳時代編−』・『大場写真資料−常陸鏡塚古墳編・信濃浅間古墳(桜ケ丘古墳・妙義山古墳群ほか)編−』の整理を行なった。整理の実務は深澤太郎・山添奈苗が担当し、大場写真資料の整理に関しては中村耕作の協力を得た。
 以下、その成果について報告する。

大場写真資料 −常陸鏡塚古墳編・信濃浅間古墳編−

 大場写真資料はガラス乾板などの画像資料からなる。資料の性質上、画像の劣化が懸念されるところであり、本プロジェクトにおいても大場写真資料のデジタル化を主たる目的の一つに置いている。
 ガラス乾板は、新たに用意した保存袋・保存箱に収納した上で保管している。整理作業ではもともと保管されていた袋・箱に記載された注記を手がかりとして撮影内容の確認を行なった。今回報告する茨城県鏡塚古墳・長野県桜ヶ丘古墳・長野県妙義山古墳群などに関する撮影内容については、既に報告書に掲載されているものが多数含まれているため、報告書の記載を尊重して若干の手を加えるに止めた。
 なお、巻末の図版には整理番号・撮影対象・撮影年月日・報告書図版番号の順で簡単な情報を附しておく。

(1)常陸鏡塚古墳編
 本編は、大場氏を団長とする磯浜町鏡塚古墳調査団が、昭和24(1949)年に発掘調査を行なった常陸鏡塚古墳関連のガラス乾板である(注3)。
 常陸鏡塚古墳は、茨城県東茨城郡大洗町磯浜(旧磯浜町大字日下字日ヶ塚)に所在する全長約96mの前方後円墳であり、後円部墳頂の縁辺を囲繞する円筒形埴輪が出土しているが、葺石は確認されていない。埋葬施設は後円部の中央に存在する粘土槨が知られている。副葬品は内行花文鏡・変形四獣鏡、勾玉・管玉・ガラス小玉・石釧・石製模造品・立花状石製品、直刀・鉄斧・鎌・ヤリガンナなどの鉄製品・竪櫛等が出土しており、古墳時代前期末に位置付けることができる。
 当資料には調査風景をはじめ、報告書所収の図版とは別カットの遺構写真・遺物写真が含まれているが、報告書に「第二図 埴輪断片」として掲載されている埴輪の写真については今のところ乾板が見当たらず、プリントされたもののみが大場資料に残されている。
 なお、整理番号3365と3374、3370と3372、3373と4250、4258と4259、4260と4261は、それぞれパノラマ写真状に合成されたものが報告書の図版第5の下段、図版第4の右段・図版第5の上段、図版第4の左、図版第1の下段として掲載されている。

(2)信濃浅間古墳(桜ヶ丘古墳・妙義山古墳群ほか)編
 本編は、昭和30(1955)年から32(1957)年にかけて、大場氏を調査責任者として金谷克己氏らが実施した浅間桜ヶ丘古墳・浅間妙義山古墳群、及び旧本郷村・松本市周辺における積石塚古墳の調査に関するガラス乾板からなる(注4)。
 桜ヶ丘古墳は長野県松本市本郷(旧東筑摩郡本郷村大字浅間・飯治洞)に所在する直径約15mの円墳である。埋葬施設は副室を伴う小規模な竪穴式石室であり、天冠・竪櫛・勾玉・丸玉・小玉・臼玉・直刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・衝角付胄・三角板鋲留短甲・頸甲が出土した。古墳時代中期後半に位置付けられる。
 妙義山古墳群は同じく松本市本郷(旧本郷村大字大・妙義山)に所在し、3基の円墳からなる。妙義山第1号古墳は直径約32m〜約35mで葺石を有する。墳頂部の南西から、後世に構築された小規模な石囲が発見されたものの、古墳に伴う埋葬施設は認められず、遺物も若干の弥生土器・土師器が出土したのみであった。一方、第2号古墳は直径約9m〜約11mと比較的小規模であるが、簡単な竪穴式石室を持ち、金環・勾玉・切子玉・棗玉・丸玉・小玉・臼玉・練玉・直刀・刀子・鉄鏃・素環鏡板付轡・鉄地金銅張雲珠・鉄製■《金交:ハサミ》具・鉄地金銅張飾金具が出土した。第3号古墳は直径約9m?約12mと第2号古墳とほぼ同じ規模であるが、古墳自体と関連する遺構・遺物は見られない。第2号古墳の様相から、当古墳群は古墳時代後期初頭の前後に位置付けることが可能であろう。
 当資料の殆どは上記の4古墳に関するものであるが、同時に報告された下屋敷古墳・もみの塚などの積石塚を撮影した乾板12枚も含んでいる。また、報告書には図版や図面の掲載されていない妙義山第1号古墳の石囲いと思われる遺構についても乾板が残されており、発掘調査当時の様子を窺い知ることができる。
 なお、整理番号3599と3600は、パノラマ写真状に合成されたものが報告書の図版第8の下段に掲載されている。

4.まとめ

 以上、今年度の整理作業成果について概観した。詳細については次項以降に掲載した目録・図版を参照して頂くこととなるが、ここでは簡単に当資料に関する所感をまとめておきたい。
 大場資料については各々の資料そのものに記された手書きの注記や、整理担当者の知り得る情報をもとに目録を作成したが、一部に注記を欠くものや、注記の解読が困難なものも見られた。それらの資料についても、極力その内容を補完すべく努めたが、少なからぬ誤謬が含まれている可能性もある。資料に記載された年月日についても、『楽石雑筆』等と突き合わせた再検討が必要であるが、これらの点については今後の整理と諸賢のご指摘とを俟ちたい。
 大場コレクションには、これまでに報告されていない情報や、報告書に記載されているものの図面・図版等として明示されていない画像が含まれている。従って、現在では検証不可能な情報を復元的に検討する素材を提供する上でも極めて資料価値が高いものと言えよう。本プロジェクトでは資料の保管・管理の現状に従って整理を行なっているが、実際にこれらの資料を活用する際には、大場資料と大場写真資料とを一体のものとして理解する必要がある。
 また、報告書の印刷技術についても注目すべき点がある。一般に、複数の写真を合成してパノラマ写真状にした場合、古い報告では合成した部分が明らかである場合が多い。しかし、今回整理を行なった写真資料を掲載した報告書では、その合成部分をぼかすことによって、より自然な形で図版を見せることに成功している。このような工夫は単に印刷技術のレベルに帰する問題かもしれないが、大場氏の意図によるものであった可能性も否定できない。
 一方、現在ならば制限紙数が許す限り多くの情報を掲載するのであろうが、妙義山第1号古墳の石囲いは報告書に掲載されていない。これは、かつて墳頂に存在した妙義山神社の祭礼の際に幟を立てた石枠の一部であったためであるが、掲載する資料を取捨選択する時代性が反映されている。
 これらの諸点に関しては個別に取り扱う時間がなく、充分な検討を行なうことはできなかったが、ここでは幾つかの課題を列挙するに留め、他日を期すこととしたい。
(深澤太郎)


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