『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

峠の祭祀−神坂−


椙山 林継
(國學院大學日本文化研究所長)

1.神坂峠の発掘調査

昭和43年(35年前の発掘調査)
 思い出話を、35年程前の発掘調査の事を喋ろうと思っております。少しレジュメは作っておきましたけれども、安易なレジュメでございます。神坂峠と入山峠−特に神坂峠のところを書いたものを2枚−と、それから大場磐雄先生の「古東山道の考古学的考察」。これは実は、大場先生が亡くなられてから入山峠の報告書を作ったものですから、その時に再録させて頂いたものであります。
 殆どの方はご存知かと思いますが、神坂峠は信州の入口です。信州の西から来ると入山峠が出口になりますが。東から来ると逆になるんですけれども、入山峠で祭祀遺跡を発掘しております。また、神坂峠の発掘は、先程、村長さんが最初に挨拶されましたけれども、大場先生を団長に、そして副団長を名古屋大学の楢崎彰一先生にお願いして、更に当時、大沢和夫先生が会長をされていた長野県考古学会、この三者による共同事業、国庫補助金事業でやろうという話になりました。実は、中央道がもう関係していたのですが、神坂峠保存という事を考えまして、国の史跡にどうだろうかと。その事を含めての発掘調査が、大場磐雄、楢崎彰一、大沢和夫をチーフにした調査団を結成するという事で行われました。もちろん、この陰には先程村長さんが言われた様に、林茂樹さんが関係していたんですけれども、更に言うならば一志茂樹先生がバックにおられました。今ここに居られる方は長野県の方がかなり多いのでご存知だとは思いますが、一志先生という方も若い方にはもうあまりなじみが無くなってはきました。しかし一志茂樹先生とかあるいは原嘉藤先生とか、これらの先生方が、長野教育界では非常に重要な位置におられました。一志先生は、実は大場先生の事を「河童、河童」と言っていましたが、大場先生は一志先生の事を「熊、熊」と言って、非常に昔から仲良しと言うか、お付き合いの古い方々でありました。神坂峠の方が1年早い訳ですが、昭和44年の入山峠の調査の時にもその一志先生が「地元だけでは駄目だ、ちゃんと中央の学者を交えてやれ」とかなり強い意見を言われました。
 そして入山峠、実は発掘調査をした所はぎりぎりの事から言いますと、本当は群馬県側です。ちょうど向こうも県境でありまして、発掘現場でもって線を引いてみると、実は群馬県側がほとんどでした。しかし、軽井沢町が事務局を引き受けるという事で長野県側で調査するという事に話し合いの上で決まっていったのは、それには実はその1年前の神坂峠の調査があった、という事が大きな原因でありました。
 話を戻しますと、神坂峠はその三者の人達が出て発掘調査をする。私がたまたま大場先生の助手をしておったものですから事務局的になりまして、國學院の学生、大学院生、それから楢崎先生のところの助手、大学院生等を含めて僅な期間でしたが調査をしました。
 この調査にはもちろん大場先生の思い入れも相当ありました。その前に昭和26年の調査をされていまして。後で大場先生の写真もちょっとありますが、その写真は遺物の写真しかないんです。ですけれども現場の写真がある筈なんです。ある筈なんですけれども探してみたんですが見つかりませんでした。その昭和20年代にも登られて調査...その頃ですと昭和26年頃ですから試掘と言いますかつっついてやっていまして、神坂峠に関してはかなり思い入れもあった。重要な遺跡であるという考えがあって、そして昭和43年の調査になったという事なんです。
 調査の細かな事自身は一応報告書も出してあります。ただ、報告書はその年(昭和43年)の発掘の遺物、あるいはその時の調査のことだけしか書いてありません。ですから以前における調査の資料とか、あるいは周辺についてはいずれ改めてやろう、という話になっていたまま35年経っています。
 実は先程、今村先生の方から資料を頂戴しましたけれども、あるいは岡田正彦先生からお話もありました様に、この地域には関連する細かい遺跡が非常に沢山あります。それを本来ならば一括して纏めて検討・考察する必要があると思うんです。ただ、あの報告書は補助金事業という事もあったものですから実は少々急ぎまして。その当時(昭和43年)の発掘に関するものしか報告していない、という事は未だ私も申し訳ないと思っております。

日本一高い調査費
 今日は原田さんがおられるけれども、あの当時文化庁で平米単価のすごく高い発掘調査だと担当の方から言われました。申し訳ない。だけど標高1500m...あの当時標高1500mを掘っているところは滅多になかったものですから。「標高1500mからのところを掘っているんだから勘弁して下さいよ」と私は言った覚えがあります。平米単価が高い。今考えるとそんなに高くはないんですけれども、昭和43年当時の周りの調査からみると平米単価が高すぎるという事で「お前、事務局やっているんだろう。これ高すぎるぞ」と大分言われました。言われましたけれども、しかし仕方がないかなと思いました。さっき村長さんの話にちらっと出ました原教育長さん。毎日荷札が足りない、マジックが足りない、何が足りないと言うと発掘が終わってから、宿舎から山道をとっととっと下りられるんです。下りられてですね、朝仕事が始まるまでに何かしら調達して上がってくるんです。片道3時間半かかりますから、下りていった時には暗くなっているし、上がってくる時も暗い筈なんです。あまり申し訳ないから、あの当時もう既に林道が途中まで来ていましたので、西側を下りたらどうですか。こちら側だと30分下りると車を置いておけば...と言うんだけれども、絶対やっぱり自分の村の方へ下りられるんですね。これはもう、本当に私は感心して。教育長が毎日の様にそれをやって担いで下りていって、また皆が足りないと言ったものを持って帰ってくるんですね。結構そういうのを見ていまして、長野県というところはご自分の地域というものを大事にされている。一つは、調査費の問題も色々関係していたんだと思いますけれども、それにしても大変な状態という風に私は思っています。
 この三者が協力してやったという事には理由もあります。報告書にも出ていますが大場先生は割合早くから長野県に色々と関係していました。それから楢崎先生も焼きものをやっておられましたから、その焼きものの関係で後に調査されていますけれども。大場先生の文章の中に出てきます(「瓷器の道」)。器の焼きもの、特に東海の焼きもの−灰釉陶器−の入ってくる灰釉陶器の道というものを楢崎先生が言われていますので、そういう様な事も含めて、調査した時の土器については楢崎先生の方で全部整理して頂きました。あと石製模造品その他については國學院の方で整理したという手分けをしております。

写真資料のデジタル化と活用
 後で一部スライドに、人物としてはそのお三方だけは入っているんですが、本当は今日ご出席の宮沢恒之先生をはじめとして今日お見えの何人かの方が参加しているんです。考古学の写真を後から見るとつまらないものだなと思ったのは「皆邪魔だからどけ」と言って写真を撮っているんですね。そう言って写真を撮っていると、35年も経ってみますと何故人物を入れて写真を撮らなかったんだというのがものすごく感じられます。
 実は昭和50年に大場先生が亡くなられて、先生の遺言で考古学関係の資料を全部國學院で貰ったんですが、中々全部整理がつかない。つかないうちの一番最大のものがガラス乾板だったんです。ガラス乾板が約4000枚ばかりあるんですけれども、そのガラス乾板が整理...始末が悪いと言えば始末が悪い。割れますし、場所は取るし、重いしですね。しかし、ガラス乾板というのは保存さえ良ければ非常に良く残っているんです。実は今、そのガラス乾板をこのコンピュータの中へ入れてデジタル化し、一応4000枚入りましたけれども、まだタイトルを付けたり整理している最中です。普通ですと中々出来ないんですけれども、大場先生は全てのガラス乾板に夜になると酔っ払ってでも何でも書いているんですね。中には酔って書いているから中々読み難いものもあるんですけれども、まぁしかし整理魔だったものですから、一枚ずつ空封筒や何かに入れてですね、書いて、そして箱に入れて、その箱は箱でまた書いて保存されていた訳です。それを今回全部デジタルでやっています。時々酔っていられるというか、ガラス乾板が出来上がってきて手元へ来て整理するのと記憶と...と言いますか、かなりのメモ魔なんですけれども時々日付が少し違っていたりする事もありまして、それを若い人達の方で今苦労して整理してもらっています。
 これは「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」というタイトルで、インターネットで流します、皆さんにも使って貰えるように流しますという事で予算がついた。実際に、既に平出遺跡や登呂遺跡、神坂峠・入山峠も始めています。ですからインターネットを開いて頂くと、まだ解説や何かは上手くいっていないと思いますが、一応コンピュータの方で見て頂ける様になり始めております。この神坂もそういう事で資料として出しております。それを見てもやっぱり人物がいないのは淋しいという様な感じがします。この中にも今、皆さんまだ考古学をやっておられる方がいるから、脇でも隅でも良いですから人物は是非入れておいた方が、後になると面白いと思います。その時はちょっと邪魔だと言って皆どけどけと言ってやっていますけれども。是非その辺を考えて頂くと良いのではないか思います。

万岳荘と学習会
 そんな訳で三者が合同で調査して、基本的には上手くいったんだろうと思います。そしてそれを受けた入山峠の方ではあまりそういう様な体制が作れなかった事も事実です。地元の応援もありましたし色々あったんですが、ただその時は昭和44年の秋という時期で、実は大変な時期でありました。70年安保で大学そのものがもう怪しげになっている様な時でした。それを入山峠の場合にはいわゆる「緊急調査」という...当時、「緊急調査」と言った事前調査だった訳です。神坂峠の場合には保存を初めから考えていましたから、何とかして残すんだという事で始めたものですけれども、入山峠の場合はもうすぐそばまで道路が来ている訳です。道路が両側から迫ってきていてぎりぎり掘らなきゃいけないところだけが残っていた訳です。そこを発掘していたものですから、「大学から筵旗持って押しかけるぞ」と言われて調査したんですけれども、結局は来ませんでしたが。とにかくそういう中でかなり緊急に調査を行ないました。その後入山峠の方は基本的に道路になってしまいました。ですからその場所は現在見る事は出来ません。しかし入山峠もまだ周辺に一部分は遺跡として残っている筈です。
 そういう様な体制で調査しまして、私のは思い出すままに書いてあるんですが。宿舎の万岳荘...明日行かれるか、そこまで行くか行かないか...行かないのかな。今でもあるそうです。よほど昔と違うんだろうと思いますが。朝目が覚めるのは囲炉裏で火を燃しているのが消えて寒くなって目が覚めるか、一番先に起きた人がくべた薪がすぐに、ちゃんと燃えないで煙が部屋中に充満していぶさで目が覚めるかどっちか。もう毎日そういう状態です。
 大場先生は、特別な一軒立てのバンガローが一坪。畳二枚分の一戸建てがあったんですね。畳一枚分だけ棚になっていまして、そこへ、ベトナムの死体を運んできた寝袋だとか言って、その寝袋とペシャンコな毛布で確か寝てたと思うんですけれども。それを置いて、大場先生の所に何かの時に行きましたら、狭く、一坪しかない小さい部屋ですからあと半分は土間になっている訳です。あとの半分−つまり畳一枚分−だけがその棚で、そこに寝られる様になっている訳ですけれども、行ってみたら大きなナメクジがいっぱいくっついている。つまり山小屋ですから湿気ているんですね。それも大きいナメクジだらけで、よく大場先生こんなところにいるなぁ、と思っていました。これなら万岳荘の大きい方の建物の方がまだ良いなぁ、という様なところでした。
 大場先生は何日かいるうちに「蕎麦が食いたい」とか言い出して、誰かに「上がってくる奴はいないのか、蕎麦を持って来させろ」とか言っていました。それと「風呂に入りたい」とも言い出した。「風呂に入りたい」と言ったって風呂なんか無いですから。それでとうとう、ドラム缶をとにかくどこかからか調達してきて庭に置いてとにかく風呂を作ったんですね。まさに弥次喜多そのもので、下駄履いて入らなきゃどうにもならないという風呂を作りまして。薄暗くなれば大場先生は「俺は早くから入ったって良いんだ」とか言いながら入っていましたけれども、暗くなったら何にも無いところですからそこで入っていました。
 そんな思い出もありますけれども、万岳荘ではモーターで電気を一時間か二時間起こしてくれました。本当は暗くなると大体作業はもう終わりなんですけれども、それをやってくれてですね。発掘現場の事をやると同時に薄暗い中で、いわゆる学習会をやって、見学に来た人にも発表してもらったりしていました。そういう思い出があります。
 そこから毎日通うんですけれども、「牛糞と山道」と書いておきました。今は分りませんが牧場になっていまして、牛もやはり人の歩く道のところを歩いている。山の中を歩けば良いかと思うけれども、それでそこへみんな糞があるものですから。山の靴ならば良いんですけれども、地下足袋履いて現場で作業するものですからね、ぐしゃぐしゃで糞を踏んで歩いて毎日通わなければいけない、という様な状態です。行き帰りは長靴を履いたりしていました。それでも時々皆疲れているだろうからって、マムシを捕まえてきたのをご馳走になったりしていました。あの近くにはかなりマムシがいて、今でもいるんでしょうね。水場のあるところにいる様です。
 そんな訳でその山道を...どの位通いましたか。35年前で分からないですけれども、やっぱり30分位あったんじゃないでしょうかね。その途中である時に、帰りに雷を受けたんです。昭和43年の調査の前の...確か前の年に松本深志の高校生がやられてるんですよね。その時は本当に死者が出ている筈ですけれども、我々はさっきの村長さんに「恐ろしい神様がいる」って言われて。我々は一人も、死者までは出ないで済みました。私なんかはもう意識なかったんですけれども、牛糞だらけの道を30m位後ろの方へ吹っ飛ばされましてね。谷底へ飛ばされなかったから良いようなものですけれども、道沿いに転がって、気が付いた時はずっと後ろの方で何だかもう全く分からなかったような状態です。小山修三さんなんかヤカンを持っていたのをほっぽりだしていくし、皆それぞれ、腰抜かしたのはいるし、動けないのと、色んな人が。雷は一発でしたけれども、すぐ側の谷に落ちたから良かったんでしょう。赤紫色の雷がスパーンと、直接は何にも感じていないんですけれどね、それでもやられていました。そんな事がありました。
 それから調査も午前中は良いんですけれども、午後になると霧がかかるものですから写真はまず撮れません。図面も、今ならばもう少し良いかもしれませんが、当時やっとケント紙を使って平板でとっていますから、図面がもうブヨブヨになっちゃうんですよね。しょうがなくて、「午前中の作業しか出来んぞ」、という位のつもりでないと駄目だという事で作業していました。そういう様な調査で、非常に思い出も深いものです。私が発掘調査した中では本当に印象の深い調査でした。

遺跡・遺物の検出状況
 遺跡の事ですが。後でちょっと見て頂きますが、山のてっぺんでいながら沼状の部分がありました。湿地帯みたいなものがありまして、底が深い状態だったんですけれども。しかし遺物はいずれもそんなに深いところまでは入っていませんでした。スライドを少し見てもらいながら話をしたいと思います。
 今の神坂峠の遺物はごく一部分です。神坂峠の遺物を少し見直さなければならないと思っていると、先程も言いました。しかし土層が全く分からない状態で出ています。つまり新しいのも古いのも一緒くたなんです。20cm位の間に牛は踏むし、色々踏みつけて混乱している状態で出てきていますので、遺物で分けるしかない訳ですが、その様子から見ますと後で入山峠のものをお見せしますが、入山峠と比較してみると神坂峠の中にもかなり古いものが入っているのではないかという気がしはじめています。
 スライド−1 これは峠へ行く道ですけれども、今私どの辺りだか分かりません。後でまた今村先生かどなたかに教えて頂ければと思うんですが、こんな道を登って行きました。
 スライド−2 真ん中のところが遺跡の現場です。奥は恵那山ですから、北東側から撮っている写真です。峠のぎりぎりのところに何か白いのが一本立っていますが。あそこを降りていけば向こう、岐阜側という様な感じです。長野側から見た峠です。
 スライド−3 これは恵那山側から見た峠でして、右手が伊那谷側ですね。南から見た形になると思います。左側がかなり急な崖になって岐阜側と言うか美濃側へ降りていくという状態のところであります。白く、点々と見えているのが発掘中の現場ですが、こういう時は人物が入っているんですけれどもこれじゃぁ何にも分からない。今はどうなっているか分かりませんが、この谷側に向って石敷きの道路がありました。今はどういう風になっているかを後で教えてほしいと思います。
 スライド−4 これは美濃側に降りてくる道で、あの時既に下から林道がかなり途中まで上がってきていました。あの当時30分降りればこっち側なら近かったんです。楢崎先生はその時、祭祀遺跡の山畑遺跡を調査されていまして、その宿泊は下の温泉と言いますか、良い旅館に泊まっていたものですから一度一泊だけさせてもらったんですけれども、これはまさに天国だ−下が天で上が地なんですけれども−。天地の差があるという風に感じた事がありました。
 スライド−5 その山畑遺跡の発掘現場から峠の方を見たところです。この谷筋を上がっていってずっと...何て言いますか。そろそろ私記憶が無くなってきているんですけれども、地元の方ですとある程度お分かりかと思いますが、後でまたちょっとお話したいと思います。いずれにしましても道路はこの上の棚を上がっていくんですが、川のギリギリではなくて、一段上のところを通っていくんですよね。
 スライド−6 その当時美濃側からの林道が上がってきていてこれが突き当たりだったのかな。真ん中にちょっと高いところがあってその左右なんですが、だいたい右手に上がっていくのが当時−昭和43年頃−の上がり道です。ですから多少は違うところを上がっていくかもしれませんが、いずれにしても一番南部の低いところを狙い撃ちで上がっていくという形になります。峠というのは、逆に言うと山脈の一番低い、歩きやすいところへ狙っていく訳ですね。これはどの峠でも基本的には同じです。できるだけ人家が近い、あるいは水が近いところまで補給できるところ、そしてそんなに極端にきつくないルートが取れるところを選んでいるのだと思います。馬で越えようとしてひっくり返ったなんて事も平安時代の話で出てくる訳ですから、きつい事はきついんですが、そういう様なところが神坂峠でして、いよいよこれから美濃側から来て登る、という場所であります。
 スライド−7 これは発掘現場の発掘直前の状態です。手向けが丘だなんて言って、発掘中名づけていました。一応グリットを組んであります。手前の道が万岳荘へ行く道で、越えていくのは、一番左手のところを降りて美濃側へ降りていくというものです。
 スライド−8 今のはちょっと南側から見たところですね。神坂峠という看板が左手にありますが、あの左手のところが少し積石塚状になっています。これが積石塚であるかどうかは、実は結論を出していません。掘ったところはビニールを入れてそのまま埋めてしまったんです。もう一回位調査できるかなと思ってもいたし、その当時はとにかく保存になるから、やれない部分無理してやる事はないだろうという事で、実はやめました。積石塚的なものであるなら本当は確認したかったんですが、そこまでできないままになっています。
 スライド−9 先程沼状になっているという言い方をしましたが、その部分についてです。今神坂峠という看板があると言いましたが、その看板の、さっきの写真ですと手前になる部分になりますが、土層の状態を見ようとして2m以上深く掘ったものなんです。この様に石が混ざっている地層で、左手の方に沼状の湿地帯があるという様な様子が分かるかと思います。
 スライド−10 これは写真8を比較的深く掘った状態です。土層としてはこれだけ。腐食土層もあるんですけれども、具体的にはここの深いところに遺物は入っていません。この上の方20cm位の分にしか遺物は入ってなくて、あとはもう自然層になってしまっています。
 スライド−11 遺物は石製模造品で、刀子の柄が無いものとか、それから剣形、あるいは管玉が出ています。この様に地山には石がありますし、それらの石が何か組み合わせられていきそうにも思うんですが、石などを組み合わせた様な状況ではありませんでした。
 スライド−12 これは例の、包丁の様な刀子が奥にあります。それから手前には有孔円板や剣形があります。これらもある意味では石の間等から、あまり意識された状態で配置されたり、埋められたりしたものではない、という様な状態です。つまり何の意図的な行為も認められない様な形で発見されているという風に言った方が良いかもしれません。
 スライド−13 これは馬ではないだろうかと言われている石製模造品なんですが、分かりません。
 スライド−14 勾玉の中ではこれが一番大きな勾玉でした。この形ですと古墳時代でも古い方と見て良いだろうと思います。綺麗なつくりですが、石質は滑石質のものでした。
 スライド−15 馬の前半分です。上が頭、左が鞍、右手にきているのが前足です。スライド13が馬ではないだろうかと言ったのにはこれが出てきているからです。峠とか山の上で馬が出るというのは、ぼつぼつある訳ですけれども、日光の男体山あたりでは鉄製の馬が出ていたりしています。こういう様な事から見て、峠が水に関係...水に何かを願う様な関係があるのかどうか。あるいは先程岡田先生が言われていた様な馬の生産という事を考えると、この峠は馬が越すには中々大変であり、非常に難路だったと思うんですけれどもそういう事に関係してこういう馬形品があるのかどうか。そのへんも明確には分かりませんが、この神坂峠ではこの馬形が出ている。これは明らかに馬ですからその点は非常に面白い。
 つまり袖もぎ様と同じで、人間が命を取られない為に何かをあげるという。何も持っていかないと袖もがれるぞ。袖もがれるだけなら良いけど命まで取られる。という様な事があります。袖もぎ様のような民俗信仰がありますとやはり馬を取られないように馬の代わりになるものを奉献しているのかもしれません。しかし普通は山ですと水を貰いに行くという、水との信仰で語られる事が多いとは思います。
 スライド−16 須恵器の坏と、それから緑釉の陶器が出ています。灰釉の土器も出ていますし、土師器も出ていますが、基本的にはこういう様な色々な土器が通っている事は事実です。その中でもまつりに関係する土器...どれがまつりに関係する、どれがまつりに関係せず、たまたまそこへ落として割れてしまったから捨てていったとか、そういう事も絶対に無いとは言えないと思います。しかし坏とかあるいはこの緑釉等はやはりまつりに関係しているとみた方が良いのではないかと思います。須恵器の■〈はそう〉の出土は、これは土層が時代とはまるきり違う訳です。それにしても土層を分けて発見できる様な状態ではなかったという事です。
 スライド−17 大場磐雄先生です。大場先生は巻脚半で地下足袋で現場に立っています。毎日こういう格好で監督をしていました。やはりこの調査は物凄くやりたかった調査と言って良いと思います。
 スライド−18 大沢和夫先生です。あとはよく分からないですけれども、宮沢先生は分かる人がいますか?奥の日陰に立っているのが楢崎先生だと思うんです。こんな様な状態です。発掘現場はそんなに深くなく、割合と浅い状態なんですけれども。これは南から北を見ています。

2.神坂峠祭祀遺物の特徴


獣首鏡の発見 
 スライド−19 これは中国の後漢の鏡で、獣首鏡の一部分です。左下の、ちょっと波状になっているのは、獣の首の髭ですけれども。それでこの鏡はですね、1cm位上のところと右手はすってあります。それで左と下は割れです。つまり完全な鏡ではなくて初めから鏡の部分を切り抜いて持っていたと思われます。鏡の部分として絵の方から言うと丁度一つの獣面のある部分が切り抜かれていたのではないかと思います。そうすると、基本的にお守り状態で持っていたのではないか。それを峠のまつりの時に供えていったものかという風に思います。こういう風にすった鏡で。これは獣首鏡と言いましたが、日本列島の中で獣首鏡が出ているのは非常に少ないんです。宮崎県の六野原とかあるいは高知県の平田曽我山古墳。いずれも割れていまして、小型の獣首鏡です。その他にも数面あるんですが皆破片です。日本列島に入っている鏡はこれもそうですが銘帯が入っていない鏡です。ところが中国では比較的銘帯の多い鏡でして、年号も入っているものがあるというのが獣首鏡の特徴なんですけれども。そういう様な点で非常に面白い鏡であります。
石製模造品の傾向
 スライド−20 これは実は調査の不行き届きで、発掘直後に見学にきた森谷さん達が拾ってどなただか詳しくは分からないんですけれども「あったよ」、と言われて持ってこられたものです。だからあげ土の中に入っていたと思うんですけれども。鏡の石製模造品ですが、鈕がついていますが鈕の穴が無いものです。
 スライド−21 これは勾玉類ですね。勾玉類はさっきも出ましたが、割合とちゃんとした作りからペシャンコのものまで一般的にあります。特に上の左から2番目のもの等はナイフか何かで削って作っているんですね。後でちょっとまた言いますが、その場で作っているものだと思います。一番右の下のもの等はこの場で本当に作られたかどうか、少し問題があるかと思います。実はこの神坂峠、石屑と未製品が非常に多く出土しました。という事は現場でかなり作っているという言い方をして良いと思いますけれども。それにしても右下のもの等は正確に玉造の工程をふんだ作りであり、この現場で出来たかどうかちょっと疑問があるものです。
 スライド−22 管玉類も碧玉のものから滑石質のものまであります。一番右の上は碧玉です。篩を振るわない調査ではありましたが、いずれにしてもガラス玉があれだけ出てます。それから棗玉も右手ものは未製品なんです。つまりここで穴を開けるつもりのものだろうと思います。臼玉は2000個位ありますから省略しますが、こういう様な玉類もあったという事です。ガラスの玉は比較的古い様相を示していると思います。
 スライド−23 剣形品については先程岡田先生は篠原氏の資料を言われていましたが、この神坂峠でも比較的古そうな形をしているものから新しいものまでかなりあります。さっき古そうなと言われたのは左手の方にある...左の上とか左から下の二番目の様な形のものです。それから確かに順次進んでいる事は事実だと思います。
 スライド−24 皆出す訳にはいきませんから、ごく一部を出しています。有孔円板につきましても、双孔のもの、単孔のもの、中には四角くなってしまうものと色々あります。穴の距離、穴と穴との間の距離、その他がどう変化するか。一応全部そういう事もチェックしてみましたけれども、これという結果は出ておりません。
 スライド−25 刀子も下の様な、包丁みたいな刀子はあまり無いんですね。本来、模造品の刀子型と言っているものは皮袋に入った小刀を模造したものがほとんどです。ですから一番上の様な形のものが多いですが、下や右の真ん中にある、包丁みたいなものも入っています。これはちょっと異例のものだと言って良いだろうと思います。

3.入山峠との比較

昭和44年の調査
 スライド−26 入山峠の方は、これは南軽井沢の方から見たものですが。丁度真ん中のたるんでいるところへ道路が左手の方から上がっていっているのが見えていると思います。軽井沢の方から登っていくところでして。あの一番低い所が峠になっています。
 スライド−27 これは北側から南を見たところでして。発掘現場は少し黒っぽくなっているところです。もう向こうの白い擁壁等できているところは、下っていくと−車で下っていけるんですけれども−群馬県の方へ降りていくという状態のところです。掘っている所が実は群馬側だという様な言い方をしました。あそこに本当はちょっと白いテントが張ってあるんですけれども、あのテントから左手は群馬県、右手は実は長野県だったのですが、長野の方で調査しました。舗装していない道路のところです。そこのところが昭和30年に山崎義男さんが調査、報告されて。それ以来入山峠が特に注目された訳です。その前から勿論この入山峠は碓氷峠からみると楽な峠だった為に使われていた。そして数珠玉峠とも呼ばれて、臼玉が拾われていた、という事を言われています。これはすぐ崖...自動車が一台あるんですが、そのところがもう崖になっていまして、遺跡の一部が崖で群馬県側に崩れる様な状態になっている。そういう様なところですので、そちら側は常に洗われてもいたと言って良いのかと思います。
 スライド−28 これは群馬県側から見たところです。群馬県側から見ますと500mすぱっと上がりますけれども、長野県側から見るとゆるやかな状態になっています。群馬県側ではいわゆる関東構造盆地の縁辺部にあたりますので、500mストン、と落ちる地形になっている状態です。
 スライド−29 峠から見た赤城山です。向こうにゴツゴツして見えているのは赤城山。そして峠の道は歩いて降りる時には、左下にちょっと白く見えていますが、あそこのところはかなりきつい道路で降りていきます。しかし、昔からもう少しゆるやかに回り道する道もあった様です。
 スライド−30 この入山峠は実は火山灰にパックされていまして、遺物が出てくるのは上から3番目のところの黒い土です。この3層目と4層目が遺物の包含層で、4層目は基本的に遺物の包含層ではなくて、4層の上から入っているという見方をしたほうが良いと思います。3層目にはガッチリ遺物は入っている。そしてその後、2層目は−これは実は細かくは4層に分けられるんですけれども−20cm位の火山灰でもって蓋されている。その為に入山峠の方は、私は古墳時代の後期にこの火山灰は降っているとみていますので、それ以前の遺物という風に考えています。前に銭が拾われたと言われていますが、下に遺物は何もありません。無遺物層です。
 スライド−31 これは軽井沢の熊野皇太神社...半分群馬県で半分長野県。でも長野県の神社庁長もした水沢さんが今鍬入れ式をやっているところです。軽井沢関係とか群馬県とか長野県の人です。
 スライド−32 さっきも言いました様に、1層目は表土層で20cm位ありまして、これは基本的に遺物はほとんどありませんでした。その下に2層目のきれいな火山灰、その火山灰層の下から出ている状態でさっき言った3層目があります。これ3層を掘ってしまった位のところで、遺物だけ少し残してある状態です。
 スライド−33 入山峠の遺物で特徴的なのは実は管玉です。非常に大きい、7cmクラスの凝灰岩の管玉等があります。その中で真ん中の勾玉がペシャンコの蛇紋岩質の勾玉がありまして、実はこれとほとんど似た勾玉が神坂峠からも出ています。それからその下が水晶の棗玉なんですけれども。水晶の棗玉でもやはりこれはどちらかというと古墳時代の古い方から出ている形のものかと思います。それにスカイブルーのガラス玉。これらは基本的に古墳時代でも私は古いとみています。石製模造品の方からはそんなに古い形のものは出ていません。
 スライド−34 入山峠の土器の特徴は「S」字口縁の台付甕が19個体確認できたという事が特徴として挙げられます。私はこの時代と石製模造品の時代を全く別だとは言えないという風に見ています。
 スライド−35 上は椀1個体で、下は2個体高杯です。これらの高杯とさっきの台付甕が本当に同じ時期にあっても良いのかという事になりますと、確かに問題はあるかとは思います。思いますけれども、パックされる時期がいつかという事を含めて、須恵質のものは一点もありません。全て土師質のものです。時間とすればこれで押さえられるかな、ここまでで。今言った様に時期は幅があるんですけれども、その範囲内で押さえるしか無いだろうという風に思います。
 スライド−36 大場先生の、昭和26年か、網掛の写真です。これは確か今も遺物があるかと思います、薙鎌。網掛峠から出た薙鎌を含めて、これらの遺物を大場先生が撮影した手札版のガラス乾板の写真です。
 スライド−37 これはどうでしょうか。(同じ時のもの)と思いますけれども。こういう写真が残っていて、実はこれと現場の写真があった筈なんです。その現場の写真は報告書の時に使っているんです。ですからどこかに残っているんだと思いますが。一応、こういう記録がやはり昭和26年に撮られているという事が今になると大事かと思いまして。こういう様な写真が全部使えるものではないんですけれども、それでも大場資料として4000点ばかりあります。その他に田沢金吾、柴田常恵のものも一部整理し始めています。

4.全国的祭祀遺跡の分布と神坂峠

時期差
  「古墳時代中期の日本列島」は省略。祭祀遺跡がどれくらいの時間差があるか。何故ここでこれだけの祭祀が行われているかという事だけ、一言だけ。これは想像ですから、一言だけお話しておきますと、一体これを誰がやったかという事なんです。全国の峠の中でこれほど石製模造品が出ている所はほとんど無いんです。神坂峠・入山峠にはあっても、今のところ全国の他の峠で石製模造品が出ているところが基本的に無いんです。今まだ発見されていないのかもしれませんが、それにしても無さ過ぎます。

祭祀の内容
 そうすると、こういう様な峠のまつりをやっているメンバーというのは意外と、信濃に関係する人達の可能性が大である、という風に見ざるを得ないだろうと思います。という事は何の為にかと言うと、一番可能性があるのは私はやはり防人集団等で行く連中。そうすると、西へ行くメンバー、あるいは時に東北方面へ向かう、その様な人達が私は...どうやら。祭祀遺跡は青森県までありますし、九州もあるし、最近では朝鮮半島からも出てきています。しかし峠に関してみる限りではどうもこの長野県に集中している。という事からすると、長野の住人がほとんど関係しているとみた方が良いんじゃないか。と言うのはちょっと極端な言い方なんですけれども、私はそういう風に少し見てみようかと思っています。  これについては実はスライド34に出てきている土器がどこの土器かという事がもう一つ問題となってきます。例えば入山峠の台付甕はどこの台付甕か。群馬県のものだとするならば、では群馬の人間ではないか、という言い方ができるんですけれども。いずれにしましても群馬位は含めても良いと思うんですが、東国の人間が関係している。長野と限定してしまうと狭いですから、東国の人間がどうもこのまつりに関係しているんではないか、という風な言い方をしても良いんじゃないか。そうでなければ鈴鹿峠であろうと、どこであろうともっと出てきても良いと思っているんです。でも出てこない。
 それから「周防なる岩国山を越えむ日は手向けよくせよ荒きその道」(『万葉集』巻4 567)と言われた岩国−山口県の錦帯橋のある−のところもきついと言われていながらいまだかつて祭祀遺物が出てきていない。そういう事をみますとどうもこれは東国の人間がまつりに関係しているとみた方が良いという風に思います。

峠の位置と当時の世界
 この神坂峠というのはどういう峠か。先程言いました様に実は東国の境である。西の方から来ると東国の境であって。もう一つは、これは大場磐雄先生が銅鐸の予想をした事があったんですね。長野県から銅鐸が出る、と言ってそして後で出た訳ですけれども。あの銅鐸の文化圏がこの信州まできている。信州まできて、天竜川流域から信州まできているという事は、大型銅鐸の分布圏である。という事が言える訳ですから。そしてその後実は前期古墳の文化−特に竪穴式石室の文化−というものは松林山古墳から甲斐の大丸山古墳から、そして森将軍塚古墳、そのラインしかこないですね。群馬県に古い石室、竪穴式石室状のものはあっても、割石小口積の竪穴式石室は入らない。千葉県にあるじゃないかと言っても、千葉県のはもっとずっと後です。内裏塚古墳の石室というのは非常に狭長ですけれども割石小口積の石室ではないという事を考えると、竪穴式石室の構築までの文化圏というのは長野で止まっているという事になります。ですからそういう意味では信州というのは東のはずれだった時が相当長い間あったという事も含めて、この神坂峠の持っている意味、あるいは碓氷坂−今入山峠と言いましたが−の持っている意味というものが非常に重要だったという事を考えると同時に、あれらのまつりがどうも全国の人が通る時に行ったものではなく、かなり地方的なものであるかもしれない。
 私は韓国の竹幕洞の遺跡の石製模造品も東国のものだ、と言っているんですが、今日まだ来ていない篠原さんはそうではないと言われています。石が違うと言っていますが、私は東国のものだという言い方をしています。

(平成14(2002)年9月22日 阿智村中央公民館にて)

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