スライド−1 これは峠へ行く道ですけれども、今私どの辺りだか分かりません。後でまた今村先生かどなたかに教えて頂ければと思うんですが、こんな道を登って行きました。 | |
スライド−2 真ん中のところが遺跡の現場です。奥は恵那山ですから、北東側から撮っている写真です。峠のぎりぎりのところに何か白いのが一本立っていますが。あそこを降りていけば向こう、岐阜側という様な感じです。長野側から見た峠です。 | |
スライド−3 これは恵那山側から見た峠でして、右手が伊那谷側ですね。南から見た形になると思います。左側がかなり急な崖になって岐阜側と言うか美濃側へ降りていくという状態のところであります。白く、点々と見えているのが発掘中の現場ですが、こういう時は人物が入っているんですけれどもこれじゃぁ何にも分からない。今はどうなっているか分かりませんが、この谷側に向って石敷きの道路がありました。今はどういう風になっているかを後で教えてほしいと思います。 | |
スライド−4 これは美濃側に降りてくる道で、あの時既に下から林道がかなり途中まで上がってきていました。あの当時30分降りればこっち側なら近かったんです。楢崎先生はその時、祭祀遺跡の山畑遺跡を調査されていまして、その宿泊は下の温泉と言いますか、良い旅館に泊まっていたものですから一度一泊だけさせてもらったんですけれども、これはまさに天国だ−下が天で上が地なんですけれども−。天地の差があるという風に感じた事がありました。 | |
スライド−5 その山畑遺跡の発掘現場から峠の方を見たところです。この谷筋を上がっていってずっと...何て言いますか。そろそろ私記憶が無くなってきているんですけれども、地元の方ですとある程度お分かりかと思いますが、後でまたちょっとお話したいと思います。いずれにしましても道路はこの上の棚を上がっていくんですが、川のギリギリではなくて、一段上のところを通っていくんですよね。 | |
スライド−6 その当時美濃側からの林道が上がってきていてこれが突き当たりだったのかな。真ん中にちょっと高いところがあってその左右なんですが、だいたい右手に上がっていくのが当時−昭和43年頃−の上がり道です。ですから多少は違うところを上がっていくかもしれませんが、いずれにしても一番南部の低いところを狙い撃ちで上がっていくという形になります。峠というのは、逆に言うと山脈の一番低い、歩きやすいところへ狙っていく訳ですね。これはどの峠でも基本的には同じです。できるだけ人家が近い、あるいは水が近いところまで補給できるところ、そしてそんなに極端にきつくないルートが取れるところを選んでいるのだと思います。馬で越えようとしてひっくり返ったなんて事も平安時代の話で出てくる訳ですから、きつい事はきついんですが、そういう様なところが神坂峠でして、いよいよこれから美濃側から来て登る、という場所であります。 | |
スライド−7 これは発掘現場の発掘直前の状態です。手向けが丘だなんて言って、発掘中名づけていました。一応グリットを組んであります。手前の道が万岳荘へ行く道で、越えていくのは、一番左手のところを降りて美濃側へ降りていくというものです。 | |
スライド−8 今のはちょっと南側から見たところですね。神坂峠という看板が左手にありますが、あの左手のところが少し積石塚状になっています。これが積石塚であるかどうかは、実は結論を出していません。掘ったところはビニールを入れてそのまま埋めてしまったんです。もう一回位調査できるかなと思ってもいたし、その当時はとにかく保存になるから、やれない部分無理してやる事はないだろうという事で、実はやめました。積石塚的なものであるなら本当は確認したかったんですが、そこまでできないままになっています。 | |
スライド−9 先程沼状になっているという言い方をしましたが、その部分についてです。今神坂峠という看板があると言いましたが、その看板の、さっきの写真ですと手前になる部分になりますが、土層の状態を見ようとして2m以上深く掘ったものなんです。この様に石が混ざっている地層で、左手の方に沼状の湿地帯があるという様な様子が分かるかと思います。 | |
スライド−10 これは写真8を比較的深く掘った状態です。土層としてはこれだけ。腐食土層もあるんですけれども、具体的にはここの深いところに遺物は入っていません。この上の方20cm位の分にしか遺物は入ってなくて、あとはもう自然層になってしまっています。 | |
スライド−11 遺物は石製模造品で、刀子の柄が無いものとか、それから剣形、あるいは管玉が出ています。この様に地山には石がありますし、それらの石が何か組み合わせられていきそうにも思うんですが、石などを組み合わせた様な状況ではありませんでした。 | |
スライド−12 これは例の、包丁の様な刀子が奥にあります。それから手前には有孔円板や剣形があります。これらもある意味では石の間等から、あまり意識された状態で配置されたり、埋められたりしたものではない、という様な状態です。つまり何の意図的な行為も認められない様な形で発見されているという風に言った方が良いかもしれません。 | |
スライド−13 これは馬ではないだろうかと言われている石製模造品なんですが、分かりません。 | |
スライド−14 勾玉の中ではこれが一番大きな勾玉でした。この形ですと古墳時代でも古い方と見て良いだろうと思います。綺麗なつくりですが、石質は滑石質のものでした。 | |
スライド−15 馬の前半分です。上が頭、左が鞍、右手にきているのが前足です。スライド13が馬ではないだろうかと言ったのにはこれが出てきているからです。峠とか山の上で馬が出るというのは、ぼつぼつある訳ですけれども、日光の男体山あたりでは鉄製の馬が出ていたりしています。こういう様な事から見て、峠が水に関係...水に何かを願う様な関係があるのかどうか。あるいは先程岡田先生が言われていた様な馬の生産という事を考えると、この峠は馬が越すには中々大変であり、非常に難路だったと思うんですけれどもそういう事に関係してこういう馬形品があるのかどうか。そのへんも明確には分かりませんが、この神坂峠ではこの馬形が出ている。これは明らかに馬ですからその点は非常に面白い。 つまり袖もぎ様と同じで、人間が命を取られない為に何かをあげるという。何も持っていかないと袖もがれるぞ。袖もがれるだけなら良いけど命まで取られる。という様な事があります。袖もぎ様のような民俗信仰がありますとやはり馬を取られないように馬の代わりになるものを奉献しているのかもしれません。しかし普通は山ですと水を貰いに行くという、水との信仰で語られる事が多いとは思います。 | |
スライド−16 須恵器の坏と、それから緑釉の陶器が出ています。灰釉の土器も出ていますし、土師器も出ていますが、基本的にはこういう様な色々な土器が通っている事は事実です。その中でもまつりに関係する土器...どれがまつりに関係する、どれがまつりに関係せず、たまたまそこへ落として割れてしまったから捨てていったとか、そういう事も絶対に無いとは言えないと思います。しかし坏とかあるいはこの緑釉等はやはりまつりに関係しているとみた方が良いのではないかと思います。須恵器の■〈はそう〉の出土は、これは土層が時代とはまるきり違う訳です。それにしても土層を分けて発見できる様な状態ではなかったという事です。 | |
スライド−17 大場磐雄先生です。大場先生は巻脚半で地下足袋で現場に立っています。毎日こういう格好で監督をしていました。やはりこの調査は物凄くやりたかった調査と言って良いと思います。 | |
スライド−18 大沢和夫先生です。あとはよく分からないですけれども、宮沢先生は分かる人がいますか?奥の日陰に立っているのが楢崎先生だと思うんです。こんな様な状態です。発掘現場はそんなに深くなく、割合と浅い状態なんですけれども。これは南から北を見ています。 | |
2.神坂峠祭祀遺物の特徴 | |
獣首鏡の発見 | |
スライド−19 これは中国の後漢の鏡で、獣首鏡の一部分です。左下の、ちょっと波状になっているのは、獣の首の髭ですけれども。それでこの鏡はですね、1cm位上のところと右手はすってあります。それで左と下は割れです。つまり完全な鏡ではなくて初めから鏡の部分を切り抜いて持っていたと思われます。鏡の部分として絵の方から言うと丁度一つの獣面のある部分が切り抜かれていたのではないかと思います。そうすると、基本的にお守り状態で持っていたのではないか。それを峠のまつりの時に供えていったものかという風に思います。こういう風にすった鏡で。これは獣首鏡と言いましたが、日本列島の中で獣首鏡が出ているのは非常に少ないんです。宮崎県の六野原とかあるいは高知県の平田曽我山古墳。いずれも割れていまして、小型の獣首鏡です。その他にも数面あるんですが皆破片です。日本列島に入っている鏡はこれもそうですが銘帯が入っていない鏡です。ところが中国では比較的銘帯の多い鏡でして、年号も入っているものがあるというのが獣首鏡の特徴なんですけれども。そういう様な点で非常に面白い鏡であります。 | |
石製模造品の傾向 スライド−20 これは実は調査の不行き届きで、発掘直後に見学にきた森谷さん達が拾ってどなただか詳しくは分からないんですけれども「あったよ」、と言われて持ってこられたものです。だからあげ土の中に入っていたと思うんですけれども。鏡の石製模造品ですが、鈕がついていますが鈕の穴が無いものです。 | |
スライド−21 これは勾玉類ですね。勾玉類はさっきも出ましたが、割合とちゃんとした作りからペシャンコのものまで一般的にあります。特に上の左から2番目のもの等はナイフか何かで削って作っているんですね。後でちょっとまた言いますが、その場で作っているものだと思います。一番右の下のもの等はこの場で本当に作られたかどうか、少し問題があるかと思います。実はこの神坂峠、石屑と未製品が非常に多く出土しました。という事は現場でかなり作っているという言い方をして良いと思いますけれども。それにしても右下のもの等は正確に玉造の工程をふんだ作りであり、この現場で出来たかどうかちょっと疑問があるものです。 | |
スライド−22 管玉類も碧玉のものから滑石質のものまであります。一番右の上は碧玉です。篩を振るわない調査ではありましたが、いずれにしてもガラス玉があれだけ出てます。それから棗玉も右手ものは未製品なんです。つまりここで穴を開けるつもりのものだろうと思います。臼玉は2000個位ありますから省略しますが、こういう様な玉類もあったという事です。ガラスの玉は比較的古い様相を示していると思います。 | |
スライド−23 剣形品については先程岡田先生は篠原氏の資料を言われていましたが、この神坂峠でも比較的古そうな形をしているものから新しいものまでかなりあります。さっき古そうなと言われたのは左手の方にある...左の上とか左から下の二番目の様な形のものです。それから確かに順次進んでいる事は事実だと思います。 | |
スライド−24 皆出す訳にはいきませんから、ごく一部を出しています。有孔円板につきましても、双孔のもの、単孔のもの、中には四角くなってしまうものと色々あります。穴の距離、穴と穴との間の距離、その他がどう変化するか。一応全部そういう事もチェックしてみましたけれども、これという結果は出ておりません。 | |
スライド−25 刀子も下の様な、包丁みたいな刀子はあまり無いんですね。本来、模造品の刀子型と言っているものは皮袋に入った小刀を模造したものがほとんどです。ですから一番上の様な形のものが多いですが、下や右の真ん中にある、包丁みたいなものも入っています。これはちょっと異例のものだと言って良いだろうと思います。 | |
3.入山峠との比較 | |
昭和44年の調査 スライド−26 入山峠の方は、これは南軽井沢の方から見たものですが。丁度真ん中のたるんでいるところへ道路が左手の方から上がっていっているのが見えていると思います。軽井沢の方から登っていくところでして。あの一番低い所が峠になっています。 | |
スライド−27 これは北側から南を見たところでして。発掘現場は少し黒っぽくなっているところです。もう向こうの白い擁壁等できているところは、下っていくと−車で下っていけるんですけれども−群馬県の方へ降りていくという状態のところです。掘っている所が実は群馬側だという様な言い方をしました。あそこに本当はちょっと白いテントが張ってあるんですけれども、あのテントから左手は群馬県、右手は実は長野県だったのですが、長野の方で調査しました。舗装していない道路のところです。そこのところが昭和30年に山崎義男さんが調査、報告されて。それ以来入山峠が特に注目された訳です。その前から勿論この入山峠は碓氷峠からみると楽な峠だった為に使われていた。そして数珠玉峠とも呼ばれて、臼玉が拾われていた、という事を言われています。これはすぐ崖...自動車が一台あるんですが、そのところがもう崖になっていまして、遺跡の一部が崖で群馬県側に崩れる様な状態になっている。そういう様なところですので、そちら側は常に洗われてもいたと言って良いのかと思います。 | |
スライド−28 これは群馬県側から見たところです。群馬県側から見ますと500mすぱっと上がりますけれども、長野県側から見るとゆるやかな状態になっています。群馬県側ではいわゆる関東構造盆地の縁辺部にあたりますので、500mストン、と落ちる地形になっている状態です。 | |
スライド−29 峠から見た赤城山です。向こうにゴツゴツして見えているのは赤城山。そして峠の道は歩いて降りる時には、左下にちょっと白く見えていますが、あそこのところはかなりきつい道路で降りていきます。しかし、昔からもう少しゆるやかに回り道する道もあった様です。 | |
スライド−30 この入山峠は実は火山灰にパックされていまして、遺物が出てくるのは上から3番目のところの黒い土です。この3層目と4層目が遺物の包含層で、4層目は基本的に遺物の包含層ではなくて、4層の上から入っているという見方をしたほうが良いと思います。3層目にはガッチリ遺物は入っている。そしてその後、2層目は−これは実は細かくは4層に分けられるんですけれども−20cm位の火山灰でもって蓋されている。その為に入山峠の方は、私は古墳時代の後期にこの火山灰は降っているとみていますので、それ以前の遺物という風に考えています。前に銭が拾われたと言われていますが、下に遺物は何もありません。無遺物層です。 | |
スライド−31 これは軽井沢の熊野皇太神社...半分群馬県で半分長野県。でも長野県の神社庁長もした水沢さんが今鍬入れ式をやっているところです。軽井沢関係とか群馬県とか長野県の人です。 | |
スライド−32 さっきも言いました様に、1層目は表土層で20cm位ありまして、これは基本的に遺物はほとんどありませんでした。その下に2層目のきれいな火山灰、その火山灰層の下から出ている状態でさっき言った3層目があります。これ3層を掘ってしまった位のところで、遺物だけ少し残してある状態です。 | |
スライド−33 入山峠の遺物で特徴的なのは実は管玉です。非常に大きい、7cmクラスの凝灰岩の管玉等があります。その中で真ん中の勾玉がペシャンコの蛇紋岩質の勾玉がありまして、実はこれとほとんど似た勾玉が神坂峠からも出ています。それからその下が水晶の棗玉なんですけれども。水晶の棗玉でもやはりこれはどちらかというと古墳時代の古い方から出ている形のものかと思います。それにスカイブルーのガラス玉。これらは基本的に古墳時代でも私は古いとみています。石製模造品の方からはそんなに古い形のものは出ていません。 | |
スライド−34 入山峠の土器の特徴は「S」字口縁の台付甕が19個体確認できたという事が特徴として挙げられます。私はこの時代と石製模造品の時代を全く別だとは言えないという風に見ています。 | |
スライド−35 上は椀1個体で、下は2個体高杯です。これらの高杯とさっきの台付甕が本当に同じ時期にあっても良いのかという事になりますと、確かに問題はあるかとは思います。思いますけれども、パックされる時期がいつかという事を含めて、須恵質のものは一点もありません。全て土師質のものです。時間とすればこれで押さえられるかな、ここまでで。今言った様に時期は幅があるんですけれども、その範囲内で押さえるしか無いだろうという風に思います。 | |
スライド−36 大場先生の、昭和26年か、網掛の写真です。これは確か今も遺物があるかと思います、薙鎌。網掛峠から出た薙鎌を含めて、これらの遺物を大場先生が撮影した手札版のガラス乾板の写真です。 | |
スライド−37 これはどうでしょうか。(同じ時のもの)と思いますけれども。こういう写真が残っていて、実はこれと現場の写真があった筈なんです。その現場の写真は報告書の時に使っているんです。ですからどこかに残っているんだと思いますが。一応、こういう記録がやはり昭和26年に撮られているという事が今になると大事かと思いまして。こういう様な写真が全部使えるものではないんですけれども、それでも大場資料として4000点ばかりあります。その他に田沢金吾、柴田常恵のものも一部整理し始めています。 |
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