今回新たに発見された資料はガラス乾板で576枚になり、ほとんどが千葉県木更津市にある菅生遺跡に関する資料である。当資料は國學院大學考古学第2研究室に保管されており、『楽石雑筆(下)』の森貞次郎氏の解説にもあるように報告書『上総菅生遺跡』作成の際に利用されている。
菅生遺跡は当地を流れる小櫃川の河川改修の際に大量の遺物が発見されたことを契機として地元の宮本寿吉氏によって確認され、昭和11(1936)年正月に大場氏が報告したことから本格的な調査が行なわれた。大場氏が中心になった調査は、昭和12・13(1937・1938)年に数回にわたる第1次調査、昭和23(1948)年に第2次調査、さらに昭和47・48(1972・1973)年に第3次調査を実施し、その成果は『上総菅生遺跡』の報告書として刊行されている。新出の大場氏所蔵資料は第1次調査以前の昭和12年12月、13年1月から3月まで行われた予備調査時の写真から始まっている。そして、第1次調査と第2次調査時の写真資料があり、『上総菅生遺跡』の報告書作成時に使用された第1次調査と第2次調査時のガラス乾板が資料の大半を占めている。大場氏の写真資料は『上総菅生遺跡』の報告書作成時に用いられた第1次・第2次調査のほぼ全ての写真であることからも、当時の調査の大枠としての体系を知ることができる資料と言えるであろう。
乾板のクリーニングや資料のデジタル化とそれらのWeb上での公開は、平成15年度以降に本格的な作業を行なう予定である。ここでは本資料の大まかな概要と共に、平成15年1月に行った現在の菅生遺跡の周辺調査について併せて報告する。
これまでに大場氏による菅生遺跡における調査の写真資料は昭和53(1978)年に出版された『上総菅生遺跡』の他、様々な論文の中で引用されており、その概要が窺える。写真資料に関しても、これらの論文中に度々用いられており、ここではその内容の一部に触れてみたい。
調査当時の周辺環境がわかる遺跡の遠景写真・遺構写真は、戦後急速に変化した当地における開発が開始される以前の状況を知る上でも非常に示唆的である。例えば大場氏は『上総菅生遺跡』の報告書中の第1図、第4図、第12図などで、また、参考文献の幾つかの論文における遺跡遠望でも菅生遺跡を中心とした周辺環境を一瞥できる写真を利用している。また河川改修によって流路を何度か変更している小櫃川の昭和初期当時の状況も窺える資料としての意義も看過できない。この他、発掘調査参加者による集合写真、遺物写真なども多数残されている。この中には人物を特定できる資料も多い。遺物写真は報告書中に未掲載の遺物出土状況の写真も多数含まれており、土器はもとより大きな成果をあげた木器や木製品などの出土状態なども窺える。
本調査と併せて大場氏は周辺の他の遺跡に関しても調査を行なっており、今回の資料中にいくつか認めることができた。確認できた中で2、3例を挙げると相里古墳は昭和13年5月の菅生遺跡第1次、第3回調査の際に大場氏が調査を行なって。『楽石雑筆』の記事からは遺物の出土も認められているが、当資料の中には石室の状態を写した遺構写真が残されている。
また大場氏は当調査中、双魚佩や環頭太刀の出土で著名な松面古墳の調査を実施している。松面古墳は調査当時、産業組合病院裏古墳とされ、のち大場氏による『日本古文化序説』の中では元新地古墳、『上総菅生遺跡』中では君津病院内古墳(周辺遺跡の図中では松面古墳)と称されている。調査は菅生遺跡第1次、第4回調査の昭和13年7月に実施されているが、他に当古墳の概要を記した報告等がなされていないため、今回の資料中に存在している石室や墳丘の写真資料は、かなり破壊を受けた段階ではあるが公開する意義が大きい。この他にも菅生遺跡のすぐ北側に位置する古代寺院の大寺廃寺など木更津付近一帯の調査を行っている資料も存在する。
次に菅生遺跡の現況について述べてみたい。現在、菅生遺跡では大場氏が調査した地点はその大部分が小櫃川の流路中にあり、原形を留めていない。また詳細な調査地点に関しても、第1次調査時から65年の時を経て、現地の地理的状況は河川の流れを含めて全く変わってしまい、正確な位置に関する知見を得ることは出来なかった。
菅生遺跡周辺では、大寺浄水場建設に伴う菅生第2遺跡の調査の後、菅生遺跡も千葉県、木更津市による調査がされており、資料の蓄積が進んでいる。一方で、大寺浄水場や菅生の西側を南北に伸びて小櫃川をまたぐ東京湾アクアライン連絡道などの開発によって菅生遺跡の取り巻く環境は大きく様変わりしている。また、大きな手掛かりとなる小櫃川の流路が変ってしまい、旧流路が消滅してしまった現在では、遺跡の原状を考察する事は非常に困難である。しかし、遺跡の遠景写真で見られるような高千穂古墳群が存在する丘陵などはそのまま確認することができる。そして遺跡現場自体は、大寺浄水場の南側の小櫃川が北側に大きく屈曲する部分のやや東側の河床であることは、報告書等の図上から推測可能であり、今回はこの地点の現在の実地調査を行なうこととした。
調査は平成15年1月18日に実施し、撮影はそれぞれ遺跡の北側、西側、南側から行なった。写真1、写真3に見える高架の道路が東京湾アクアライン連絡道であり、写真2はその上から撮影した。写真2では小櫃川が大きく屈曲している箇所が確認でき、菅生遺跡の場所が比較的分かり易い。また写真2右手側は高千穂古墳群のある丘陵、左手側は大寺浄水場である。正確な遺跡の位置に関しては問題もあるが、菅生遺跡周辺の21世紀初頭の様子を「定点撮影」するという意義をこめている。また、近年活発に議論され、本フロンティア事業内においても懸案の一つとなっている画像資料の活用という面からも、遺跡調査時と現状の比較ということで現況の報告を行なった。
菅生遺跡において大場氏が発掘を行った正確な位置に関しては、遺跡の失われてしまった現在トレンチの位置など正確には不明な点が多いが、残された写真資料は調査地を特定する手掛かりとなる情報が多く含まれている。こうした細かい調査区がどの部分にあたるかなど、残された課題は大きい。また考古学ばかりではなく昭和13(1938)年当時の菅生における「定点撮影」として他分野の利用も想定できる。当新出資料に限らず広汎にわたる研究利用に供するよう、これからも作業を継続していきたい。
なお、菅生遺跡の現地調査や文献収集にあたっては君津郡市文化財センターの光江章氏、木更津市金鈴塚遺物保存館の稲葉昭智氏に多大なるご助力を頂いた。記して謝意を表したい。
(野晶文)
〔参考文献〕
『
大場磐雄 1938.3 「上総菅生遺跡(予報第一回)」『考古学』9-3,p109〜116,東京考古学会
大場磐雄 1938.5 「地底の宝庫 清川遺跡を発掘して」『科学画報』27-5,p50〜51・105〜111,誠文堂新光社
大場磐雄 1938.10 「上総菅生遺跡(予報第二回)」『考古学』9-10,p469〜480,東京考古学会
大場磐雄 1938.11 「上総清川村菅生遺跡発掘日録」『上代文化』16,p1〜9,上代文化研究会
大場磐雄 1939.1 「上総菅生遺跡の一考察(一)」『考古学雑誌』29-1,p1〜8,考古学会
大場磐雄 1939.3 「上総菅生遺跡の一考察(二)」『考古学雑誌』29-3,p154〜169,考古学会
大場磐雄 1943.2 『日本古文化序説』明世堂
大場磐雄 1948.10 「千葉県木更津市菅生遺跡の研究」『上代文化』18,p1〜10,國學院大学考古学会
大場磐雄 1951.4 「菅生遺跡回顧」『房総展望』5-4,p2〜4,房総展望社
菅生遺跡調査団・木更津市教育委員会 1973.6 『上総菅生遺跡 −昭和47年度第1期調査速報−』
大場磐雄 1977.1 『大場磐雄著作集第八巻 楽石雑筆(下)』雄山閣出版
木更津市菅生遺跡調査団編 1980.3 『上総菅生遺跡』中央公論美術出版
写真1 菅生遺跡現況1(北側から)
写真2 菅生遺跡現況2(西側、アクアライン連絡道上より)
写真3 菅生遺跡現況3(南側から)