『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』

短報 武田塾所蔵の写真資料について


加藤里美(國學院大學日本文化研究所)
山内利秋(吉備国際大学社会学部)
橋本陽子(中央大学総合政策学部)
石田成年(柏原市教育委員会)



はじめに

 大阪府柏原市に所在する社会福祉法人武田塾は、大阪府立修徳館の創立者で、大阪府警察曽根崎署長となった武田愼次郎氏によって大正15(1926)年に設立された。大阪府知事宛の設立許可申請書に記載されたこの塾の設立目的には、「不良児童の感化教育及びその他一般児童の教化に関する施設」とあり、現在まで続く、我が国初期の感化教育施設として極めて重要な位置付けにある。
 平成11(1999)年に柏原市教育委員会によって移転に伴う旧施設の調査が実施され、この成果は『建造物調査概報−武田塾木造塾舎−』として纏められている(細見・石井・石田編2000)。この調査の際、同塾内で所蔵するさまざまな資料も調査され、その中には、写真を中心とする多くの画像資料が含まれていた。今回、これら写真を中心とする画像資料について、その概要を検討した。
 本報告は石田の実施した基礎調査をもとに、加藤・橋本・山内が一部資料の詳細調査を行い、四者で検討した事項を記載した。なお、本文は「食卓を囲む写真資料から」を加藤が、それ以外の「はじめに」・「写真資料について」・「総括」を山内が執筆した。

写真資料について

 旧施設内で保管されていた資料には、塾内での日常的な衣・食・住にかかわる生活用具類がある。これらは武田愼次郎氏や妻ヒサ氏のものが主体である。また、重要な資料としては、愼次郎氏が修徳館館長に就任した大正2(1913)年から、その後武田塾を設立した後の昭和11(1936)年まで継続して記載された日誌や、金銭出納簿・台帳・名簿・設計書等が残されていた。
 画像資料には写真資料(プリント636点・乾板103点)、絵葉書(195種965点)の他、16mmフィルム4本が存在し、特に16mmフィルムには昭和4(1929)年頃に撮影された塾内のさまざまな活動の様子が記録されており、この時期の感化院の実体を明らかにする上でも重要である。
 写真資料には塾内での日常の様子やさまざまな行事、個人の肖像写真等ごく一般的な写真のみならず、児童養護施設という性格を極めて端的に表した写真資料が存在する。肖像写真は、愼次郎氏が明治22年から33年に鹿児島へ転出するまでの間、警視庁巡査教習所受業生・警視庁巡査・同警部として東京に滞在していた頃のものや、明治27(1890)年に眞次郎氏と結婚したヒサ氏に関連するものが多い。眞次郎氏は警視庁浅草猿屋町警察署・浅草警察署に勤務し、またヒサ氏は京橋区三十間堀町に住居があったが、明治20年代において、現在の台東区から中央区にあたるこの地域は、乾板写真の普及とともに多くの写真館が勃興し、営業活動を展開していたのであった。実際、資料の中には日本国内で始めて乾板写真を使って営業した江崎礼次郎写真館等、東京市内の当時著名な写真師によって撮影された写真が確認出来る。
 また、写真資料には肖像写真のみならず、塾関係者が撮影したと考えられる大量のネガ(主にガラス乾板)類が含まれている。
 例えば塾施設や塾内での授業風景、塾内で栽培されていた多くの菊といった写真は開塾以来の武田塾の様子を伝える上で極めて重要なものだが、特に注目されるものには、入塾した児童個々人を撮影した多くの写真が挙げられる。これらの写真の特徴は、撮影対象である児童を正面−両側面−背面からそれぞれ撮影している点である。撮影年代については今後の検討を必要とするが、こうした撮影方法は、感化院という施設で児童を受け入れるに際して、感化の必要性を有する「要感化児童」には欠陥が形態的特徴に現れる、という当時の認識を表出したものと理解出来る(注1)。
 これらの写真資料の保存状態は、乾板については部分的にミラーリングなどの劣化現象が確認されるが、現状は比較的良好であった。しかしながらプリントについては画像の希薄化が進行しているものもあり、今後さらに劣化していく可能性は高い。これらの資料についてはその保存を実施する必要があろう。

食卓を囲む写真資料から

 昭和62(1987)年に武田塾の60周年を回顧して編纂された『共に在る−武田塾六十年のあゆみ−』には、「創設当時の塾生風景」(同書p.37)として2点の写真が掲載されている(社会福祉法人武田塾1987)。このうち1点は塾での食卓風景の写真である(写真-1)。この写真を通して、武田塾の教育姿勢を再考してみよう。
 さて、写真には武田夫妻と、愼次郎氏のもとで職員として勤務し、後に養女となって塾経営の中心となった伊藤きし氏、そして数人の児童が西洋式テーブルを囲んで食事を取っている情景が撮影されている。こうした情景は資料が撮影された昭和初期には一般的ではないものであった。ちゃぶ台と畳が中心であった当該時期の事情と照らし合わせると、この事は非常に洗練され、かつ裕福な食事風景ともいえるが、慎治郎氏が掲げた「感化七想」にも述べられた姿勢、「五、家族舎主義と寄宿舎主義」の項には、感化活動に寄宿舎主義ではなく、常に家族に近い形で寄宿し互いの距離を保ちながら人間関係を築きあげていく事の重要性が述べている。こうした理念は、愼次郎氏が修徳館以来感化院事業に長く関わった経験から生み出されたものであり、そしてそれを実践していた事が見て取れよう。
 食生活との関係からは、資料中の帳簿類と併せての検討が可能である。例えば食料品の購入伝表には細目とその金額までが詳細に記されており、献立名こそ記入されていないものの、そこから栄養バランスの統計を取る事も可能であるし、当該時期の物価と比較する事で武田塾における食生活充実へのこだわりが浮かび上がってもくるのである。
 人間の食生活はいつの時代でも社会の変化や生活様式に左右され、それに適合するように変えられてきたものであり、その本質は我々の生活の質や社会や文化のあり方を問うものでもある。味覚形成は人格形成と大きく関係する事はすでに多くの研究者が指摘してきた。「食べる」という行為は体格の向上のみならず、精神的なもの、感情や人格の発達をも促進する。また、「家族」という共同体において親の願いや心づくし、さまざまな思いの本当の意味を、心の中で味わい、日常生活のなかで子供が食事作りに参加しともに食べるという生活様式や人間関係を確保する。子供はそうした中で、自己形成をし、生きる力を蓄えていくのである(新村編著1983)。
 戦前の学校給食は恩恵的、救貧的な慈善事業として位置づけられ、昭和に入って戦時体制になると虚弱児童の救済が掲げられるようになる。そうした背景の中で武田愼次郎氏は食生活を重視する事が児童の身体的な発育だけでなく精神的な発達を促す事に着目していた。

総 括

 以上のように武田塾所蔵の写真資料には、資料的価値の極めて高いものが数多く含まれている。これらの資料を検討していくとともに、保存・活用していく事によって、広く武田愼次郎氏をはじめ、同塾で蓄積されてきた多くの経験を周知していく事が可能となるだろう。


1)受刑者の記録化にも実施されるこうした撮影手法は、近代解剖学と写真技術との関連性を理解する上でも検討する必要が高い。美術解剖学を専門とする宮永美知代氏の教示によると、統計的に有意な絶対数のデータを必要とする形質人類学ないしは解剖学的研究においては、対象の記録撮影に際してこのような撮影手法は少なくとも第2次世界大戦後にも実施されていたとの事である。


〔参考文献〕
社会福祉法人武田塾 198 7『共に在る−武田塾六十年のあゆみ−』
新村洋史編著 1983 『食と人間形成−教育としての学校給食−』青木教育叢書
細見久視・石井賢一・石田成年 2000 『建造物詳細調査概報−武田塾木造塾舎−』柏原市教育委員会・社会福祉法人武田塾

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