1.東山道とは
東山道は古代の五畿七道の一つであり、その範囲に敷設された官道の名称でもある。
「東山道」は、彦狭嶋王を東山道の十五国の都督に拝したという『日本書紀』の記事(景行天皇55年2月壬辰条)が史料上の初見である。大場磐雄氏はこの十五国について「東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいない」と述べている。実際に、現在でも個別の国名を当てはめるのは難しい(注1)。『日本書紀』天武天皇14年7月辛未条の詔は「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と同時期に範囲が確定したとされ(注2)、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を東山道としている(図1)。蝦夷征伐の為に軍士の簡閲や戎具の検校が行われ(延暦5(786)年8月甲子条)、東国支配の中心地域であった。
神坂峠は信濃国伊那郡(現在の長野県下伊那郡阿智村。岐阜県中津川市と境を接す)にあり、東山道に属する。しかしながら、吉蘇路の開通を記した『続日本紀』和銅7年7月戊辰条には「美濃信濃二国之堺、径道険隘、往還艱難」とあり、神坂峠越えが容易ではなかったことが記録されている。『延喜式』兵部省式駅伝条によると信濃国阿知の駅馬は30疋であり、三関である伊勢国鈴鹿の駅馬は20疋である。また『延喜式』民部省式免除徭役条では美濃国の坂本・土岐・大井駅と、信濃国の阿知(写本によっては「阿智」)の駅子の課役が免じられている。坂の傾斜が急な為に、関並に駅馬を配置し、課役を免じて駅の仕事の従事に専念させていた。
2.古代交通に関する研究と発掘調査の意義
古代の交通については文献史学、歴史地理学、考古学から研究されている。文献史学では坂本太郎氏以降、駅伝制の解明が中心とされてきた。六国史は地域内での生活についてはほとんど記述されない。ゆえに『日本霊異記』の地域間交通を扱った説話と出土文字資料(木簡、漆紙文書)の研究成果、さらに遺跡・遺物の分析結果を合わせる形で「民間交通」の実態が明らかにされている。また歴史地理学では諸地域の道路遺構から景観復元を行い、古代駅路は計画的に敷設された為に直線であった事を実証し続けている。ゆえに文献史学や歴史地理学による古代交通研究は考古学の調査成果に依存するしかないというのが現状である。
例えば、記紀で「科野坂」あるいは「信濃坂」と書かれているのが神坂峠であることを明らかにしたのは大場磐雄氏である。大場氏は推定古道地域を調査し、そのデータを総合的に考える事で古道を確証していった。神坂峠は大場氏を中心として昭和26(1951)年に調査された。その際に祭祀遺物が出土した事により奈良時代に「径道険隘、往還艱難」とされた美濃・信濃国境の位置が確定した。さらに信濃坂の状況が明らかになった事で、古代東山道の具体的な研究が可能となったのである。
3.文献史学から推定される「神坂」と神坂峠の祭祀遺跡
「神坂峠」と現在は呼んでいるが、「峠」の語は奈良時代まで使用されておらず、「坂」が使われていた。これは用語上の問題に過ぎず、奈良時代以前−令制施行以前−にも自然地形を利用した峠は使われている。例えば、現在の神坂峠に比定されている信濃坂は日本武尊が東方征討の際に越えたと記紀に記載されている。
峠や国郡の境界等には神が鎮座するという信仰があったことは『万葉集』所収の歌や、境界部にあたる地域から祭祀遺物が出土している点からも明らかである。大場氏は4世紀の後半にはそのような風習があった事を神坂峠の調査から指摘した。
また、鈴木景二氏は文献史料を基とし、郡域を越えた民間レベルの交通を指摘している。すなわち、旧国郡域を越えていく峠のうち、主要ルートは「オオサカ」「ミサカ」の地名を冠していたこと。そのうち「ミサカ」は神が鎮座する、神を祀るところを示す呼称として使われていたこと。信濃国境で「ミサカ」を冠する峠は4つあるが、そのうち東山道ルート上の峠は2つで、近江国との比較から−近江国は主要ルートの中でも特に重要な地の呼称である「オオサカ」と共に「ミサカ」が官道上にある−信濃国の「ミサカ」は律令制を主体とした呼称ではなく、地域を主体とした呼称であることを述べている(注3)。
大場磐雄氏と椙山林継氏が中心となって昭和43(1968)年および44(1969)年に行なった神坂峠・入山峠の発掘調査の成果(注4)を再検討し、峠の祭祀について平成14(2002)年9月に講演の中で椙山氏が指摘した事例は、
(1)遺物から神坂峠・入山峠で祭祀が行われているのは明らか。
(2)峠で行われている祭祀は他に類例が無いこと。
(3)信濃国の人達によって祭祀が行われていたこと。
の以上3点であった(注5)。
鈴木氏は歴史地理学の成果を日本古代史研究に用いることで、神が鎮座し、神を祀る「神の坂」−「ミサカ」−が地域を主体としたものであるとしたが、それより約30年前に大場氏らの調査はこの仮説について示唆している。
境界領域の祭祀については武蔵国府跡の西北の隅の祭祀遺構が発見される等、文献上に記されない日本古代の信仰のかたちが近年を明らかになっている。
従来、峠への信仰は『万葉集』や六国史等の文献を中心に論じられることが多かった。神坂・入山峠出土の祭祀遺物は祭祀を生活の一部としていた実態を示しており、他に類例がみられないことから、東国の入口である信濃国に特有の境界祭祀であると考えられる。総合的な古代交通の研究を進めていく上で神坂・入山峠遺跡の意義は大きく、今後再評価が求められるであろう。
注
1)大場磐雄 1969 「古東山道の考古学的考察」『國學院大學大学院紀要』第1輯。以下、大場氏の論は本書による。
2)武蔵国が宝亀2(771)年10月己卯に東山道から東海道に移管される(『続日本紀』)等の変更はある。その変遷については木本雅康 1996 「東山道−山坂を越えて−」木下良編『古代を考える 古代道路』吉川弘文館を参照のこと。
3)鈴木景二 1998 「古代交通の諸相」『古代交通研究』8、八木書店
4) 関根信夫 2001 「椙山林継氏写真資料−神坂峠・入山峠について−」『平成13年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』國學院大學学術フロンティア事業実行委員会、参照。
5) 本報告書所収 椙山林継氏講演「峠の祭祀 −神坂−」。(1)・(2)は調査当時から提示されており、(3)は講演時に椙山氏が指摘している。
(宇野 淳子)