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設立の経緯(創立20周年概要より再録) 設立の計画
その試みの早いものの一つに、昭和28年以前にも「皇道研究所」(仮称)の計画があった。立案者・立案年月とも不明のこの計画は、大学内外から人材を集めて「皇典ノ研究、皇道思想ノ普及宣伝、学者学徒ノ養成補助」などを目的とする財団法人を設立することだったようだが、単なる構想以上には進展しなかった。 これに対し、より具体的な企画は、わが国の独立回復後間もない昭和28年度に、「財団法人日本文化研究所」または「國學院大學日本文化研究所」という形で現れて来た。そのころ石川学長の側近にいた福田美知監事は、戦前から本学の監事であった明石照男氏の友人で、この人が学長の宿願に共鳴し、種々具体案を練ってその推進を進言したのであった。これら両案によれば、研究所は國學院と不即不離の関係をもつ財団法人にすることを予定しながらも、無理な場合は大学に付設して将来の展開をはかる心づもりであり、その目的は「日本文化の神髄を明かにし、その顕揚発展を図るため、神道学・日本文学・日本史学の精深な研究を行うことを主眼とし、兼ねて日本文化の一般におよぶこと」とされた。また、設立の諸事務は大学事業部が担当し、所長は大学理事長が兼ね、運営と予決算は大学理事会の承認を得るという構想で、建物・図書等の設備費や経常費は、大学自体の経済的基礎が強固でなかったので、財界その他の指定寄附により賄う予定であった。 この研究所設立計画につき、最初から学長の諮問にあずかった学者は当時大学院で講座を担当していた柳田國男・岸本英夫・河野省三・武田祐吉(文学部長)の4氏であったが28年9月から1年余にわたる岸本氏の海外出講などあり、この段階での参画はまだ本格的ではなかった。役員関係では松尾三郎・小林武治・田中喜芳の各常勤理事と中村四郎理事・福田美知監事・藤井實参与があり、年度内に仮の研究所設立趣意書と予算書を作り、29年4月から開設する可能性を検討していた。福田・藤井・中村の各氏はまた、工業クラブでの財界の同志である清水潔・千田勘兵衛・高原丈夫氏等と“一金会”を組織し、毎月第一金曜を定例集会日として募金の懇談を重ねた。しかし、こうした努力にもかかわらず、朝鮮動乱終結後の国内経済はデフレの傾向にあり、財界での募金は意の如く進まず事態は一向に進捗を見なかった。そこで、このような情勢下に募金するには、先ず事業の一端だけでも実現に移す必要があるということになり、伊勢神宮に資金の懇請をした。懇請状は学長みずからの起草になるものであった。 設立準備会その後、情勢は僅かながら好転した。かねてから岸本英夫氏を通じて連絡のあった米国ロックフェラー財団人文科学部長ファーズ氏が、29年春に本学を訪問したとき、研究所創立援助の申請がなされていたが、秋9月、同財団から3千ドルの欧文図書購入費寄附の通知を受けた。これを転機として同年11月、伊勢神宮からも開設資金として50万円が寄贈された。こうして昭和29年秋からようやく機運が高まった。そこで11月末、米国留学を終えて帰国した平井直房に設立に関する業務を嘱託し、旧校舎2階の柳田・堀教授研究室の一角に「研究所設立準備室」の標札を掲げて実務を開始した。 具体的実務は、ロックフェラー財団寄贈金による哲学・宗教関係図書の買付けから開始され、財団当事者の諒解のもとに、31年度末までに390余冊が受け入れられた。右に並行してニューヨークの日本協会からも図書寄贈の申し出があり、340余冊が到着した。さらに米国大使館文化使節グレン・ショウ氏や元英国大使館付武官ピゴット少将からも相当数の教育・歴史関係書の寄贈があった。こうした海外からの図書寄贈については、岸本英夫氏ならびに藤井實氏に負うところが少なくない。 この間にあって研究所開設の準備は、石川学長の病臥のため若干遅延の止むなきに至っていたが、所内の構成と運営の大綱は、米国で病を得て帰国静養中だった岸本英夫氏の好意により、腹案がまとめられた。やがて学長の健康回復を待ち、昭和30年5月17日、従前からの関係者が集まり、第1回創立準備会を開いた。この席上、岸本案による研究所機構が採択され、研究指導と財務関係の委員会が作られることになった。研究指導委員(のち研究審議委員と改称)には柳田・岸本・河野・武田の4氏が、財務(維持)委員に松尾・小林・田中・福田・藤井・中村・清水・千田・高原の9氏があたることになった。同時に研究所の基本的活動方針も討議されたが、その要点は次の通りである。
[→「設立趣旨」参照] |
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