国学について (国文学研究資料館 教授 鈴木淳)
国学とは、狭義には『古事記』、『万葉集』、『律令』、『延喜式』、『和名抄』その他の古代文献に基づき、日本の古代文化、文学を明らかにしようとするもので、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らを中心に確立された学問をいう。また広義には、もっと幅広く、神道、歴史、有職故実、官職、文学など日本の諸学問全般をさしていうものと思われる。しかし、いずれにしてもまず広義、狭義どちらの概念なのかをまず疑ってみるという余計な手続きが必要となる。それにこの国学という術語は、近代に入って盛んに使用されるようになったもので、江戸時代には、むしろ和学の方が一般的であったし、古学という呼称も行われていた。国学という言い方が定着している今日、あえて異を唱えるつもりではないが、私見では、国学よりも、和学、古学という用語の方が、すくなくとも江戸時代の用例に繋がりやすい点、好ましいと思っている。
和学は、おそらく上述の広義の国学に相当し、漢学に対し、日本のことを対象とする学問ということで、それ以上、とくに限定を要しない。古学は、同じく狭義の国学に相当し、契沖以来、万葉学に立脚した新しい学問に限定されよう。いずれも使用に当たって何の躊躇もなく使える言葉である。一方、国学というと、真淵や宣長の漢意批判など、儒学に対して思想的な面が強調されがちである。しかし、彼等の学問の基本は、あくまで『古事記』、『万葉集』の訓
詁注釈であり、古意古言の解明であり、またその活用にこそあったというべきである。同時に彼等は、それ以前に『古今和歌集』『源氏物語』などの研究者であり、歌人であった。とくに宣長など、生涯、二条派の歌人であった事実を軽くみるべきではなかろう。つまり、契沖も真淵も宣長も、国学者である以前に、和学者であったというべきである。 要は、その人の学問を評価するときに、その表面的な目立った部分だけを見て評価するか、もっと基礎的な部分を見て評価するかという問題でもあろう。たとえば契沖の『源註拾遺』は、それまでの源氏研究を一新させた、新注として認識されている事実がある。しかし、契沖の業績は、それ以前、『河海抄』『花鳥余情』『細流抄』など、中世以来の古注を踏まえてはじめて達成させることができたのであり、その点、他の和学者の仕事と撰ぶところはない。今日の源氏研究において、契沖以前と以降を区別してみたところで、なにほどの意味もないのではないか。かつ研究史上からみて、江戸時代初期の中院通勝著『岷江入楚』と比較して、単純に『源註拾遺』の方が有益であるとは言いにくい。また宣長が、北村季吟の注釈『湖月抄』本への書き入れを基に識見を形成していったことはよく知られているが、真淵もやはり『湖月抄』への書き入れを通じて、源氏研究を完成させたのである。今般、荷田春満の全集の編纂について取り組み、調査を進めるにつれて、ますます明らかになってきたのは、契沖への傾倒ぶりであることは否定できない。『万葉代匠記』などはすべて書写しており、その一字一句を咀嚼しながら、みずからの学問を作り上げて行こうとした痕がはっきりと見て取れる。しかし、その一方、『古今和歌集』の伝書類、講義類の存在や、細川幽斎の『百人一首抄』への書き入れ本などの出現によって、春満の歌学の業績がいかに中世以来の蓄積の上に立っているかも、同時に明らかになったように思う。国学という言い方に固執することによって、彼等の学問が、あたかも純粋培養したかのような錯覚に陥ることだけはないようにしたいものである。