畑俊六
はた しゅんろく
明治12(1879)-昭和37(1962)
陸軍軍人。東京の会津藩士の家に生まれる。兄は陸軍大将畑英太郎。明治33年(1900)、陸軍士官学校を卒業し、翌年に砲兵少尉となる。日露戦争に出兵して負傷。明治43年、陸軍大学校を卒業する。明治45年にドイツ駐在武官となり、大正3年にスウェーデン駐在武官となる。同年、砲兵少佐。大正5年、帰国して参謀本部作戦班長。大正7年に中佐となり、パリ講和会議に随員として渡欧している。大正10年に大佐、大正15年に少将に昇進し、参謀本部第四、第一部長となる。昭和6年、中将となり、砲兵監、第十四師団長、航空本部長、台湾軍司令官、教育総監などを歴任する。昭和12年に大将となり、中国との開戦を迎える。昭和13年、中支那派遣軍司令官となり、大陸で徐州・漢口作戦の指揮をとった。
昭和14年、阿部内閣で陸軍大臣となる。昭和15年、つづいて米内内閣でも陸軍大臣となるが、三国同盟締結を巡って陸軍と内閣が対立すると、陸軍大臣を辞任することによって内閣を総辞職に追い込んだ。昭和16年、支那派遣軍総司令官。昭和19年、元帥。昭和20年(1945)、本土決戦のために第二総軍司令官となるが、終戦。
戦後、米内内閣倒閣の責任を問われ、A級戦犯として終身禁固刑の判決を受ける。昭和29年(1954)に仮釈放となり、昭和33年に釈放となる。
◇参考文献
国史大辞典編集委員会 1990『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館
原剛・安岡昭男 2003『日本陸海軍事典 コンパクト版 下』新人物往来社
『靖国の絵巻』作品リスト