沿 革

考古学資料館七十五年の歩み


樋 口 清 之 博 士 

 國學院大學考古学資料館は、昭和3年(1928)4月、当時國學院大學の学部学生であった樋口清之博士が、奈良県内において蒐集された考古資料約4,000点を國學院大學に寄贈したことに開設の端を発する。最初は、新田長次郎氏から展示ケ−ス購入費として500円の寄付を受け、樋口博士のご尊父樋口清二氏(当時愛媛県立大洲高等学校長)から不足額の寄付を受けて約30坪の部屋に、展示ケースを設える程度の小規模な展示施設として公開に至ったものである。開設に当たっては、樋口博士の学生時代の寮長であった桑原芳樹先生(当時皇典講究所専務理事)は、最も好意をもって助力してくださったと言われる。

 その後、大場磐雄教授の収集した関東地方の縄文土器片や石器、宮地直一教授の収集した信仰資料、国史学会所蔵の考古学資料、金鑽宮守氏(埼玉県金鑽神社宮司)寄贈の埴輪、上代文化研究会の関東地方各地の縄文土器片や石器、樋口博士の竹馬の友であった古瓦研究家、岩井孝次氏より大和出土の古瓦等の寄付を受け、徐々に資料を充実させた。金鑽宮守氏より寄贈を受けた武人埴輪(埼玉県大里郡江南町小原出土)は、樋口博士が自ら背負って大学に運び、また、名古屋の院友山本直樹氏より大型の須恵器三点を寄贈され、満員の列車にゆられて持ち帰ったことなど、収集には枚挙にいとまがないほどの苦労話がある。年々秋に開催される若木祭に一般公開されたおり、大山柏博士が来室され、収集の苦難を称賛されたことも大いなる励みとなったことを追懐されている。

 このように博物館施設の設立計画を俎上にあげ実践されたのも、まだうら若き考古学徒であった樋口博士であり、その協力者として上代文化研究会長鳥居龍蔵博士をはじめ、中川徳治、丸茂武茂、福田耕次郎、雨宮祐、新倉借光、神林淳雄、水野久尚、三木文夫、森貞次郎、江藤千万樹、長田実氏等の諸先生方、院友諸先輩、その他各方面からの理解と協力を得、昭和20年(1945)の終戦に至るまで大学からの支出が一切なく、全て樋口博士の個人負担として運営維持されたことは特筆すべきところであろう。
 考古学資料館の名称は、設立当初は、考古学陳列室と呼称されたが、当時の国史研究室主任植木直一郎教授から「考古学資料室」と呼ぶのが相応しいとの助言を得、昭和7年(1932)考古学資料室と改名した。丁度この年、樋口博士が卒業され卒業と同時に国史研究室の助手をされ、図書館の所管から国史研究室の附属となって、その主任に任命された時点をもって、今日の考古学資料館の礎が確立されたのである。

 昭和16年(1941)戦局の体勢に入ると、考古学資料室の存在自体変転流転したこともあった。学長室の御真影の金庫のある二階にあたる部分に、曽谷貝塚出土の人骨が展示されていることが不敬であると学生大会に取り上げられ、その撤回が決議されたり、やがては考古学自体国体に反する不敬の学問であると考古学資料室廃止の沙汰があり、資料その他全てを樋口博士の自宅に持ち帰るよう指示されたこともあった。このような情勢の中、孤軍奮斗することにより、ようやく維持をはかったが、戦局たけなわの時勢では学徒出陣や勤労動員で文科系学校の定員縮小の中にあって、考古学を専攻するもの自体希有な存在となりその存続も危機的状況にあった。この頃の難局の時勢を支え、乗り越えた学徒に岡本健児、佐野大和先生等がある。このようにして戦時中の暗黒期を経て、昭和20年(1945)の終戦を迎え進駐軍の大学調査等があって、その調査主任バ−ンズ少将夫人に館蔵のアイヌトンボ玉を寄贈して好感を得た事実などが、当時の國學院解散を思い留まらせた逸話として樋口博士自身が苦汁を込めて語り継いでいる。

 このようにして戦後は、樋口博士はもとより考古学研究室の助手小出義治先生、下津谷達男先生らが考古学資料館学芸員を兼務し、度重なる発掘調査、研究活動の中で、資料収集及び展示活動を行ってきた。

 こうして、昭和初年から樋口博士の博物館に対する経験と情熱から、昭和32年(1957)に本学にも博物館学講座を開講するに至り、博物館資料製作のエキスパ−トであられた松田保彦先生を迎え、実習教育を充実し活用されることとなった。開講から42年を経、博物館学講座において学芸員資格を習得した累計は実に4000余名を数え、その一割以上が現在各所において学芸員として活躍されていることは実に誇るべきところであろう。

 学芸員養成のための博物館学講座開講大学に於て、独自の附属博物館を開設されている大学は、今日では多少増加をみるが、当時としては極めて僅少であった。しかし当時の考古学資料室は、昭和26年(1951)に博物館法が制定されて翌年、昭和27年(1952)には法の指定する博物館相当施設として認定され、実習生を博物館実習のために他の登録博物館等へ出さないで、学内施設のみで実習授業ができたのも幸いのこと、資料室があったればこそである。

 こうして「考古学陳列室」から「考古学資料室」の名称を経て、昭和50年(1975)に「考古学資料館」と改称した。そして本館は、樋口教授の目的理念によって、内外の考古学資料を偏ることなく満遍なく資料を収集し、学内はもとより内外の研究者、学校教育及び生涯学習に広く情報提供をすることを目的とし、さらに年々改革して今日に至っている。

 樋口博士は、こうして永年ご苦労を重ねて、昭和54年(1979)に定年退職され、同時に本学名誉教授及び資料館名誉館長の称号が授与された。その労を犒う記念として古希記念祝賀会の折、皆々様のお力のもとに樋口博士の胸像ができた。本館関係者一同感謝申し上げる次第である。このご退職の後、樋口博士独自で購入された展示資料は、正式に大学へご寄付の手続きが取られたのである。
 現在、75年の歴史を経て考古学資料館は収蔵点数9万点を上回る国内屈指の考古学系大学博物館として斯界の発展に寄与している。
 

                 沿 革


昭和3年(1928) 4月 樋口清之名誉教授・文学博士により創設
昭和24年(1949)4月 附属國學院高校に分室を創設
昭和27年(1952)12月 博物館相当施設に指定
昭和35年(1960)7月 旧本館より図書館二階に移転
昭和40年(1965)8月 常磐松1号館地階に収蔵室を設置
昭和43年(1968)9月 常磐松 2号館新築落成に伴い1階部分に研究室、整理室、展示室を、
            また地階に収蔵庫を移転し、考古学・博物館学実習室を新たに設けて現在に至る。
昭和55年(1980)4月 図書館収蔵庫新築に伴い、第2・第3収蔵庫および事務室を、設ける。
平成10年(1999)1月 展示室ケ−スを一部リニュ−アル 現在に至る


                 施 設


収蔵展示室(316.00m2)・常磐松2号館地階 収蔵庫(154.08m2)・図書館収蔵庫地階収蔵庫(74.12m2)・常磐松2号館1階 研究室(26.23m2

                 

                 組 織

館 長   1名

運営委員  3名

学芸員   2名

事 務   1名


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