徳 富 家コレクション に つ い て

 徳富蘇峰(1863〜1957)は、近代日本を代表する言論人のひとりである。明治から昭和に亙る長い著述活動の間におおよそ300冊の著作をものにし、そのカテゴリーは、ジャーナリズムや社会批判、歴史叙述に分類される。前半期は自由主義者として、中・後半期においては帝国主義の信奉者として、各時代の世論の第一線にあった。
 蘇峰(猪一郎)は、文久3年(1863)正月25日母の実家肥後国上益城郡杉堂村(熊本県上益城郡益城町)の矢島家に徳富家の第五子、長男として生まれる。徳富家は肥後藩の一領一疋の郷士で、父一敬(号は淇水)は横井小楠門下四天王の一人で、肥後実学党の中枢として藩政改革や初期県政にたずさわった人物である。徳富蘆花(健次郎)は五歳下の弟。
 ここでは、蘇峰の言論人としての華々しい業績についてはふれない。言論活動のかたわら蘇峰自身によって蒐められた資料、さらに後にその息子たちによって形作られたコレクションの実態についてのみ述べることとする。

 徳富家コレクションの内容
 蘇峰コレクションは、徳富蘇峰、二男萬熊(1892〜1924)、四男武雄(1909〜1960)の父子によって形成されたもので、地域的には北は北海道網走市、南は九州宮崎に及んでいる。数量的には瓦や板碑が多く、瓦は陸奥・下野・常陸・下総・安房・武蔵・相模・駿河・美濃・備前・備中・肥前・日向から出土した奈良時代の国分寺瓦や京都、奈良の古刹の瓦、各地の中近世瓦が含まれており、内容的に充実しているものの出土地不詳の資料も多い。国外では朝鮮京城景福寺や慶州南山皇能寺趾、扶餘百済城などの朝鮮半島の瓦、瑠璃明孝陵・瑠璃明孝陵・北陵といった中国各地の資料も多数存在しており、翁の好古趣味が垣間見られる。次に多いのが板碑や墓誌銘文といった金石文資料で、国内外の資料を蒐集している。大半が出土地、採集地等が不明である。板碑は総数71点を数え、多くは関東地方の資料であり内容的には梵字を刻んだ一尊板碑、三尊板碑などが最も多く、全体の80%を占めている。考古資料では、縄文土器や打製石斧などの石器類が多く含まれており、東京近郊では東京都大田区下沼部貝塚、同国分寺市恋ケ窪遺跡、千葉県市川市堀ノ内貝塚、船橋市古作貝塚、市川市姥山貝塚、神奈川県横浜市折本貝塚、同三沢貝塚、同箕輪貝塚等、茨城県土浦市上高津貝塚、同市小松貝塚など学史的に比較的有名な遺跡の資料等が含まれている。弥生時代では、標識遺跡である東京都大田区久ケ原遺跡の一括資料などが注目すべきところである。
 蘇峰、萬熊、武雄がそれぞれ具体的にどのような物を好んで蒐集し、コレクションを形成したのかという問題であるが、ここに集積された資料から何時、誰が何を蒐めたのかという具体的事実を見出すことは困難であるが、文献その他からおおよその各々の傾向を把握することは可能である。例えば、徳富家のコレクションの基礎をなした蘇峰氏の嗜好は、明治43年(1910)に東京考古学会に入会(『考古学雑誌』第壹巻四號 )していることからして考古学に興味があり、考古学関係の資料が蒐集対象となっていたことは推定できる。また、度々外国へ赴いていた事実からして外国資料のほとんどが蘇峰の蒐集によるものと考えられ、朝鮮の平壌土城や會寧、咸北、鐘城、扶餘などの瓦等の資料は、京城日報赴任時代に蒐集したものと推定されるところである。
 萬熊氏は、岡山第六高等学校時代の大正元年(1912)に東京人類学会に入会(『人類学雑誌』第二十八巻第九號)しており、岡山関係の考古学(「備前の板碑に就て」1913『考古學雑誌』第四巻第四號、「岡山縣に於ける考古學上の調査」1917『人類學雑誌』第三十二巻八號)に熱心であった。コレクションのうち各地の国分寺瓦や板碑といった資料は萬熊氏の手によるものといわれ、蘇峰旧宅内の牛後庵(山王草堂の別館)の一階に収蔵されていたという。病弱の萬熊氏は、ここで常住起臥され考古学研究をされたのである。

  徳富武雄氏と牛後庵のコレクション

 武雄氏は、『考古學雑誌』や『人類學雑誌』に多数の論文を寄稿するなど本格的に考古学を学んだ人物である。本コレクションに含まれる大田区久ケ原遺跡については既に論文(「東京府久ケ原に於ける彌生式の遺跡・遺物竝其の文化階梯に關する考察(一)〜(三)」1929・1930『考古學雑誌』第十九巻第十號・第十九巻第十一號・第二十巻第四號)を論じていたり、茨城県土浦市上高津貝塚(「常陸國上高津貝塚發見の彌生土器に就いて」1930『考古學』第壹號)や、茨城県下館市女方貝塚(「常陸國眞壁郡伊讃村女方の土器」1932『人類學雑誌』第四十七巻十二號)、千葉県流山市鰭ケ崎貝塚(下總國東葛飾郡流山町鰭ケ崎貝塚 1932 人類学會遠足會)などの論文に掲載されている資料が含まれている。したがって関東地方の縄文、弥生といった考古資料は総じて武雄氏の蒐集によるものと推定される。