平成22年7月3日 シンポジウムにおける発表要旨 


橋本正俊 源平盛衰記の方法―記録と物語―

  『源平盛衰記』全釈は、現在巻二の中盤に差し掛かっている。巻一・二は歴史的叙述が大半を占めているため、その注釈においても、記録類による検証を通して、『盛衰記』本文と史実との距離を測定する作業がしばしば必要となる。『盛衰記』が史実に忠実であろうとする姿勢を見せることは知られているが、注釈ではそれを一つ一つ検討していくことになる。巻一について、諸本に対して『盛衰記』のみが具体的に人物名・官職に関する記述を有する部分に注目すると、徳長寿院導師を忠尋とする点、清盛の昇進記事が月日に至るまで詳細な点などは史実に合致する他、中衛府・近衛府初代大将の名前などは、史実とは齟齬があるが資料に拠ったと考えられるものである。一方で、虚構とされていた殿上闇討に登場する吉田経房・中宮亮秀成、また五節舞に登場する基高などは、虚構であるにしても歴史知識・認識に基づく「らしさ」がうかがえる人物であるといえる。こういった点で、『盛衰記』が記す人物名・官職には注目してゆく必要がある。例えば巻四十一の頼盛関東下向記事では、諸本が頼盛を他の場面と同様「池大納言」と称しているのに対して、『盛衰記』のみ「前大納言」とする上に日付も異なっている。資料に基づく故の記述の差異なのか、考察する必要があろう。如上の点とは対照的に、『盛衰記』は独自の自然描写を多く盛り込むことも指摘されている。しかしそのような叙景的表現は、物語の展開上、必然性に乏しいことも少なくない。『盛衰記』が持つこれらの特徴に関して、巻二に描かれる二条院葬送の場面に注目すると、諸本には描かれない詳細な葬送の記事は、『顕広王記』や『百錬抄』からも、やはり信頼性のある資料に基づいたものと考えられる。そのような記事の後に、『盛衰記』は叙景的表現を連ねて、葬送に同行した人々の悲哀感を描こうとする。『盛衰記』の記録性と物語性が、一貫した叙述の中で重ね合わされて葬送の場面を描き出している点で、注目される場面であろう。
 
曽我良成 『源平盛衰記』のまなざし―応保元年人事をめぐる後白河院政と二条親政の関係―

  平治の乱以降の所謂二条親政期について、古記録などの史料では知ることの出来ない記述が 『源平盛衰記』には見られる。今回の報告では、「巻二」の独自記事である応保二年九月十五日人事の記述について、@後白河院は政務に関わらないようにと平清盛が「申し行」ったこと、A後白河が平時忠・平信範を推薦したのに対し二条は藤原長方・重方を登用したということ、以上二点について史実との整合性を検討した。
  その過程で、「アナタコナタ」(『愚管抄』巻五)しているはずの清盛の軸足は、従来言われているよりも遙かに二条側に重心が置くものであったこと、院司として名を連ねているからといって院と密着した関係の近臣であると即断は出来ないこと、などが明らかになった。
 検討の結果、@・Aの二点とも『山槐記』等に見える当該期の関係記事と整合的に適合し、この部分の『盛衰記』の記述は、史実に近いものであることが確認できた。他の『平家物語』諸本には見られない独自記事ににおいて、このような史実性を持つということは、『盛衰記』の「作者」がかなり精度の高い資料を参照できる状況にあったことを示している。   また、その頃の二条の後白河に対する言動を「孝道ニハ大ニ背ケリ」と述べる価値観やその用語が、当該期のものではなく、十三世紀以降の価値観を示すものではないかとの見通しも述べた。
 
早川厚一 源平盛衰記の史実性と物語性―初めの挨拶も兼ねて

  私たちの研究会は、今年で六年目となりますが、軌道に乗るまでに、様々な試行錯誤を重ねてきました。九一年から二年ほど続いた盛衰記研究会、その後インターネット盛衰記研究会と、何度かの試行と挫折を重ねた後、二〇〇五年から今回の全釈は始まりました。最近の全釈は、名古屋学院大学のホームページに、PDF化されて掲載されていますので、是非ご活用ください。   さて、今回のシンポジュウムでは、発表までの時間が限られていたため、『源平盛衰記』全釈六で扱うことになる範囲内の問題をそれぞれが検討しました。私が対象としたのは、三弥井書店版では、四八頁から五一頁の範囲。丁度「日向太郎通良懸頸」から、「二代后」の初めの部分です。その中の盛衰記に見る独自異文を検討しました。
  盛衰記によれば、清盛は、平治元年に起きた肥前の日向太郎通良の謀反を鎮圧した功により、正三位になったとするのだが、事実は六波羅行幸の賞で、通良追討の賞によるわけではない。しかし、盛衰記に記された追討記事は、なんらかの典拠ある史料をもとに作られたものだろう。例えば、この事件そのものについては、『百練抄』『公卿補任』に簡略な記事があるし、通良等追討された子息等の名は、「白石氏系図」に確認できる。また、『兵範記』の保元二年冬記の紙背文書や肥前の佐々木文書によれば、保元二年から三年にかけて、鎮西(肥前)では、立て続けに謀反が出来し、清盛が追討使として派遣されている。通良の乱も、恐らくはこうした一連の乱と揆を一にするもので、そうした歴史資料に基づいて、盛衰記編者は当該記事を書き上げたと考えられる。
  当日は、これ以外にも、基盛一行による殿下の御随身打擲事件や、「二代后」冒頭に見る独自異文、当該箇所以外の事例等を検討した。これらにより、盛衰記編者は、随所に、物語虚構を交えながらも、歴史資料(史料)を駆使し、時には事実として、時にはいかにも事実らしく書き上げていることを具体的に検証した。
 
志立正知 傍系説話の意味―則天皇后譚を中心に―

  『源平盛衰記』全釈六で扱った「則天皇后譚」を軸に、「二代后」話と二条院の問題について検討を加えた。   「則天皇后譚」については、先例話としては引用の意味がほとんどないという指摘と(佐伯真一)、二条院の行為の悪行性を際だたせる必然性によるものという見方(早川厚一)に、大きく評価が分かれてきた。この問題は、院内の対立を示す一事件という『平家物語』における「二代后」話の位置づけの問題と、二条院造形・評価の問題と密接に関わっている。既に指摘のあるところであるが、「二代后」話が「長恨歌伝」を引用して叙述されている点から、太宗・高宗に嫁して長期の治世を実現した則天皇后、息男寿王の妃であった楊貴妃を奪って国を傾けた玄宗と、故近衛院后を召して早世した二条院という対比関係から、二代后の先例としては機能不全ながらも、「則天皇后」譚の本質が二条院批判という点にあることをまず確認した。さらに、『平家物語』諸本が、ともに「賢王」と評される高倉院との対比で二条院の「不孝」を醍醐帝の堕地獄説話とからめて批判、「継躰ノ君ニテモ渡セ給ハズ」(延慶本)としている点から、『今鏡』などにみられる、鳥羽・近衛から二条へという当時の貴族が有していた継体意識とは異なる、後白河から高倉へという継体意識を『平家物語』が示していることに注目。盛衰記がこれを「二代后」話に流用し、「不孝」を軸とした独自の二条院批判を展開していること、早世と葬送に関わる不吉と関連させて、「継体」にあらざる二条院の天皇としての適格性の欠落を強調していることなどを考え合わせるならば、盛衰記においては、「則天皇后」譚が単なる好色批判にとどまらない治世批判として位置づけられていることを指摘した。諸本が誤って伝える「感業寺」を、盛衰記が史書等に依って訂正しているにもかかわらず、『平家物語』に共通する異例の則天皇后像を踏襲しているのも、このような文脈に即してと考えられよう。