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高橋典幸
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墨俣合戦と頼朝
治承5年(1181)3月10日、美濃・尾張国境の墨俣で平家と源行家らが激突した墨俣合戦は、平家側の大勝利におわった戦いとして知られている。源行家側は行家の息子が討死するなどの大損害を受けたが、そのなかで源頼朝の異母弟義円(母は常葉。源義経の同母兄である)が討死していることが注目される。なぜ義円は行家側として参戦していたのか、『源平盛衰記』や『延慶本平家物語』では「十郎蔵人ニ力ヲ合ヨトテ、兵衛佐殿千余騎ノ勢ヲ被付タリケル」(『源平盛衰記』巻27「墨俣川合戦」)とあるように、それは源頼朝の指示によるものであったとされている。
これに従えば、墨俣合戦時、源頼朝と行家との間に連携が成立していたことになるが、当時の戦局を分析する限り、その可能性は低いと判断される。墨俣合戦は、源行家が独自に尾張の武士と結びついて平家と対峙した戦いと考えられる。『源平盛衰記』などが上記のように述べるのは、治承・寿永内乱の一方の主役を源頼朝に設定しようとする、物語としての構想にもとづくものといえよう。
ただし「内乱の一方の主役を源頼朝に設定しようとする」ことを、物語の構想としてのみ処理することにも注意が必要である。じつは墨俣合戦当時においても、行家の背景に頼朝がいると京都では推測されていたのである(『玉葉』治承5年2月17日条)。
墨俣合戦に限らず、京都の貴族たちの間では、内乱当初から頼朝の存在感は大きかった。伊豆の一流人であった頼朝にはそれまでほとんど事績はないに等しいので、この存在感の根拠は頼朝個人の資質に求めることはできまい(もちろん、頼朝自身がみずからを内乱の主役と位置づけるべく情報戦をうった可能性は否定できない)。そうした目で見ると、治承4年5月の以仁王の乱直後から、京都では「諸国の源氏が以仁王に与同するだろう」(『玉葉』治承4年5月17日条)とする観測がなされていたことが注目される。
こうした現象を考慮すると、実態は別として、貴族社会においては早くから内乱を「源平合戦」としてとらえる傾向があったことが予想される。それが何に由来するのかは今後の検討課題である。
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坂井孝一
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『源平盛衰記』と「血」の叙述
日本の軍記物語は、『太平記』などの例外を除いて、激しい戦闘の場面でも露骨な「血の叙述」をしない傾向がある。それはなぜか、また叙述されるのはどのような場合か。こうした問題関心は報告者がかねてより抱いていたものであり、前半ではこれまでに明らかにしてきた成果を報告した。後半では『平家物語』『源平盛衰記』における「血の叙述」がどのような特徴を持っているのか考察し、今後の課題を提示した。
まず、ヨーロッパ中世の英雄叙事詩に見られる過激な「血の叙述」が、古ゲルマン社会の「血の復讐」、ゲルマンの宗教やキリスト教における供犠の思想を背景としていることを指摘した。また、同じく供犠思想が発達していた中国でも生々しい「血の叙述」が見られるが、その背景にはカニヴァリズムの伝統が関係していた可能性があることを指摘した。一方、日本の場合、供犠ではなく供養の思想が根強く、「血を流すこと」に対する価値観がヨーロッパや中国と異なるため「血の叙述」のあり方も違ってくること、検断史料に見られる「血の叙述」が神社・仏寺の聖域と密接に関係していること、軍記物語では頭部から流れ出る血について叙述する傾向があること、頭部は神仏の宿る場所とする考え方があったこと、神仏への信仰が後退した近世には「血の叙述」が増えることなどを指摘した。
次に、『覚一本平家物語』と『源平盛衰記』における「血の叙述」を検出した。前者は12巻で10例、後者は48巻で42例、各巻に1例弱であった。内容は頭部からの血、手足等からの血とともに、「巖泉血をながす」のような中国的教養に基づくレトリックや「血の涙」のような比喩表現が多かった。それに加え、『盛衰記』には「出仏身血」のような仏教説話に基づく事例が見られた。そして最後に、「かばねに血をあやす」という表現に注目した。これは日本人の抱く伝統的な死骸観念に関連する表現であり、その文化的・社会的背景を解明する必要があることを、今後の課題として提示した。
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