反戦行動と「女性的」徳性

                                                         外国語  浅井 理恵子

   イラク戦争を続けるアメリカ合衆国(以下、アメリカと略)で「反戦運動のシンボル」となっている女性がいる。カリフォルニア州に住む戦死米兵の母、シンディ・シーハンさん(48)だ。彼女は今年8月6日、ブッシュ大統領が夏休みを過ごすテキサス州クロフォードの牧場の外で、大統領との面会を求めて座り込みを始めた。シーハンさんの息子ケーシー・シーハンさん(当時24)は、昨年4月バグダッドに派遣され、到着後わずか5日目に武装勢力に殺害された。その後シーハンさんは大統領に面会したが、十分に話ができなかったという強い不満が残り、今回の行動に出た。結局、クロフォードでの面会は叶わなかったが、この小さな抗議行動は全米メディアの脚光を浴び、それまで国内で静かに広がっていた厭戦ムードに火を付けた。イラクには大量破壊兵器が存在しなかったことや、同時多発テロとフセイン政権との間には関連がなかったことが明らかになりつつある。そんななか、「なぜ戦争を始めたのか」というひとりの母親の直截な問いかけが、多くのアメリカ人の心情に訴えたのだろう。9月末には、首都ワシントンで開戦以来最大規模の反戦集会が開かれ、10万人以上が参加したと見られている。シーハンさん自身も、クロフォードでの座り込み以降、支援グループとともに全米各地を回り、反戦集会を開くなど活動を続けている。その詳細は、インターネット上に立ち上げられたサイトから日々伝えられている。

  こうした一連の「シーハン現象」を見聞きするにおよび、私は、それまで研究してきたアメリカの女性平和運動と今回の反戦活動との関係について、いろいろなことを考えるようになった。「女性平和運動」と書いたのは、女性が主体となる平和運動では、女性固有の問題関心や運動目的を形成することがほとんどなので、男性主導の平和運動と区別したかったためである。日本を含む他国にも見られることだが、アメリカでも女性だけで組織する平和団体が数多く存在してきた。その理由はいくつかあるが、最も重要なのは反戦・平和と「母性原理」の密接な結びつきだろう。「生命を生み育む女性は道徳的に男性よりも優れている」とか「生来男性は戦闘的で女性は平和愛好的だ」といったレトリックは、女性の平和運動において繰り返し用いられてきた。それは、「男らしさ」「女らしさ」を固定されたものと引き受けたうえで、「女らしさ」の逆説的な優位性を主張する「ジェンダー本質主義」と呼ぶことができる。この議論は、いっぽうで、政治に無関心な一般女性を平和運動に動員するために戦略的に用いられてきた面もある。しかしまた、平和を求める女性たちの使命感を伴った信念であったことも確かだ。すなわち、本来平和的な女性が平和運動の主体とならない限り、真の平和は訪れない、という考え方だ。この議論は、1980年代においてもなお、女性平和運動の求心力として機能していた。さらに言えば、高まるフェミニズムへのバックラッシュに対抗していくなかで、道徳的・誠実・思いやりといった「女性的」美徳を称揚し、「女性の連帯(sisterhood)」を強調する傾向が、平和運動に限らず女性運動全般を通して見られたのだ。

  けれども、シーハンさんの反戦活動は少し様子が違う。彼女の行動を支えているのは、息子を亡くした母親のやり場のない怒りと悲しみだが、一連の報道を見る限り、そこには「平和愛好者としての女性」という姿は見えてこない。それに、彼女の始めた反戦運動は性別を問わず支持されているし(もちろん反論もある)、開戦以来のアメリカ社会を思い出してみても、「女性的」価値観に依拠した女性のみによる組織的な反戦活動は起こっていないようだ。これは、もしかしたらアメリカ社会における反戦運動への女性のかかわり方が変質したのかもしれない。それがいつ頃からなのかはっきりしないが、確かに言えるのは、このことが米国軍隊における女性兵士の増加と、さらにはフェミニズムの進展と無関係でない、ということだ。女性兵士の存在が初めて注目を集めたのは湾岸戦争の時だったが、現在では米軍兵士の14パーセントを女性が占めるまでになった。また、湾岸戦争後、アメリカ最大のフェミニスト団体である全米女性機構(通称NOW)は、「社会のあらゆる領域における男女の完全な平等」というアメリカ・フェミニズムの理念にもとづいて、軍隊内の男女平等、すなわち女性の戦闘参加を要求し、現在ではほとんどの戦闘部門が女性に開放されている。さらに、アブグレイブ収容所における捕虜虐待事件では、女性兵士が虐待に加わるショッキングな写真が世界中に配信された。もはや、女性も「戦争の加害者」であることは誰の目にも疑いがない。このような時代の流れのなかでは、「女性は本質的に平和的」という主張は説得力を持たない。その意味で、イラク戦争はアメリカにおける女性と平和の関係性に大きな変換をもたらしたのかもしれない。母性が女性を反戦・平和へと駆り立てる動機となることは変わらないだろう。しかし、男女の性差を強調することで運動に草の根の女性たちを動員することは、もはや「時代遅れ」の手法なのかもしれない 。

戻る國學院大學TOPへ文学部へ