近代史の未来

 

                                                                                                   史学科  樋口 秀実

 近代史なるものを研究しはじめて、すでに十数年がたつ。それにつれて、昔は考えもしなかったことを、最近、ふと考えるようになった。それは、「近代史って、もしかしかして浮いているんじゃないの?」ということである。
 ここで浮いているというのは、前近代史の研究者やその研究成果と近代史のそれとの接点があまりもない、あるいは、前近代史研究の成果のうえに近代史研究が乗っかっていない、という意味である。筆者がそのことを痛切に感じるようになったのは、今から2、3年前の兼任講師時代に「日本史概論」という講座を担当してからである。それを担当するにあたって、「概論というからには、たとえ拙いものであっても日本の通史を講義してみたい」と意気込んだ。しかし、若輩の筆者にとって、政治も、経済も、何もかも説明するというのは無理である。そこで、もともと近代の日中関係史を専攻していることもあり、古代から近代までの日中関係史を通観することにした。管見のかぎりではあるが、それによって日本史全体を見通すことができるだろうと考えたのである。
 さて、そう考えて、いざ講義用の文献を探してみると、上述のように、前近代史と近代史との接点がない。たとえば、アジアの国際秩序への日本の関与という問題を考える場合、前近代までなら、いわゆる冊封体制と日本との関係を分析すれば、その変遷の一端を跡付けられる。では、近代になって、それがどう変化したのか。西洋列強の進出で冊封体制が解体したとみるまではよい。では、それにかわって、いかなる秩序が築かれたのか。それに関する研究成果が皆無に等しい。誤解を恐れずにいえば、従来の近代日中関係史研究は、日本がどのようにして中国を侵略したのか、そのプロセスをたどっただけである。
 筆者のみるかぎり、近代史研究がこうした欠点を抱えるようになった原因は、終戦を起点にあらゆる歴史事象をふりかえってきた点にある。つまり、そこからさかのぼって「日本はなぜ戦争を起こしたのか」という一点だけを問いつづけてきた結果によるものである。それが無駄だったとは思わない。過去の誤りを反省し、戦後の平和的繁栄に貢献したと評価できる。でも、歴史も科学である。もう少し多様な視点があってもいいのではないか。少なくとも、前近代史の研究者たちは、ある特定の事件を起点にすべての事象を分析しようとは考えていないだろう。そして何よりも、あらゆる人間は未来を予測できない。歴史上の人物も将来を模索しながら行動したのである。そうだとしたら、明治維新を起点に近代史を考えるほうが理にかなった研究方法なのではないだろうか。

 
筆者も近代史を専攻するからには、猛省すべき点が多い。今後、前近代史研究の成果の上にたって研究を進める必要があろう。だが、そう言いながら、実は困っている。なぜって? もちろん、そうなると、あらゆる歴史学者のなかで近代史の研究者こそが最も熱心に勉強しなければいけなくなるからである。

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