「精神の地動説」の方へ

 

教職課程 楠原 彰

 

 自分の弱さや悲しみを中心に地球が回っているわけではないのに、そこから自由になれない若者たちが多い。どんなすばらしい人と出会っても、どんなにすさまじい世界や現実と遭遇しても、どんなに美しいモノや自然と出会っても、…最後はいつも「よわよわしい自分」に足をすくわれて(惑溺して)しまい、「ボクってなに?」「ワタシってなに?」と、したたかに存在し続ける他者やモノや自然や現実の前にたたずんでしまう。

 おずおずとたたずみ続けるのならまだいいが、自分の弱さなどとは何の関係もなく実在し続ける他者や世界やモノなどに、あえて背を向けたり、耳を塞いだり、無関心を装ったりしてしまう若者たちもいる。彼ら彼女らは、一見明るく陽気に振舞ってはいるが、ふと、内面の空虚(むなしさ)に耐え切れずに、人知れず身をよじったりする。

どうして多くの若者たちがこうした自己惑溺の状態に囚われるようになったのだろう。その原因は、時代やシステムに彩られた若者一人ひとりの固有の経験に根差していて複雑だが、彼ら彼女らが小さいときから家族・学校・社会・国家との関係のなかで受容させられてきた(受容してきた)<暴力>のあり方と深く関わっていることは間違いないだろう。

この<暴力>は南の国々の子どもや若者たちが蒙っているような「貧困」「飢餓」「戦争」といった「剥き出しの暴力」ではなく、「愛」「保護」「管理」「依存」などに丁寧に裏打ちされた「内面への見えない暴力」である。「剥き出しの暴力」は怒りの眼差しを直接他者や現実世界に向かわせるが、「内面への見えない暴力」は若者たちの眼差しを、自分の内側に向かわせ、反撃(たたかい)の源である怒りさえも、自分の弱さや悲しみや自己否定に変質させてしまう。

自分の弱さを中心に地球が回り、自分の悲しみを中心に世界は動いているという「精神の天動説」ではなく、自分自身が世界とともに、世界のなかに存在しているのだという、「精神の地動説」に気づくために(教員自身も!)、僕たちは若者たちと一緒に、毎年アジアを歩き続けたり、日本の森に植林や間伐に出かけたり、教室の授業にマイノリティをはじめとするさまざまな異質な他者に来てもらったり、…しているわけである。


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