「よろしければ」


中国文学科 牧野格子

 

 

 様々な場面で、「よろしければ」という言葉を聞く。その言葉を聞くたびに、私は違和感を抱き、心がキュッと痛むのである。

 「よろしければ」という言葉は、どんな場合に使うのが適切なのだろうか。例えば、店員が試食を勧める際、「よろしければ、一口どうぞ。」、申し込みをする際、店員が「よろしければ、記入事項をお書き下さい。」と言う。何か文章を書いた時に、「よろしければ、ご覧下さい。」と一言添えて渡す。学生が教師に何か教えを請う時、「よろしければ、お教え下さい。」と言う。

 「よろしければ」という言葉を普段何も考えずに使っているだろう。英語でもこの表現があるぐらいだから、自由に何気なく使える丁寧な言い方のはずである。

 しかし、この言葉を目下の人間が目上の人に使えるのだろうか。私がこの言葉を聞くたびに違和感を持つ原因は、大学院にいた時に体験した出来事である。

 初めて全国的な学会で発表することが決まり、嬉しくなって当時在学していた大学のある先生にその報告をした。そして、その先生はその学会に参加されるということだったので、私は「(発表の時)よろしければ、ご質問下さい。」と申し上げた。

 その後、私の指導教授からお叱りの電話をいただいた。その先生が会議の時、私が「よろしければ」と申したことに対し苦言を呈しておられたとのことだった。「よろしければ」というのはどういうことか、と疑問を抱かれたようである。その先生は、礼儀の面だけではなく、学問の面でも厳しい方である。お怒りだと聞いただけで震え上がるほど恐縮した。

 当時の私には「よろしければ」という言葉がどう悪いのか分からなかった。そして恥ずかしながら、今でも分からない。何が「よろしければ」なのか、「よろしくなければ」質問する必要はないというのか、ということなのだろうか。

 困りきった私は母や他の先生方に聞いたが、いずれも何故お怒りになるのか分からないとの返答だった。私は理由の分からぬまま、学会発表の時を迎えた。

 何とか発表を終え、質疑応答になった時、他大学の先生から質問を受け、答えに窮してしまった。その時、例の先生が挙手し、助け舟を出して下さったのである。大学内では私たち学生に厳しく接し、外に出ては身内として助けて下さった。実は懐の深い優しい方なのだと、驚きそして感動した。

 いまだに「よろしければ」の代わりにどんな言葉がいいのか分からない。分からないながらも私なりの答えを出してみた。「是非ご質問下さい!」いや、また叱られるかもしれない。「ご質問下さい」と言うこと自体が甘えであり失礼なことなのかもしれない。

 いずれにせよ、私は目上の方には「よろしければ」は使わないし、この言葉を誰に対しても極力使わないつもりだ。だから、他人が何気なく使っているのを聞くと心がキュッとなり、シクシク痛むのである。言葉には本当に気をつけねばならない。  

 

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