人二人      日本文学科 松尾葦江

 

しきしまのやまとのくにに人ふたり有りとし念はばなにかなげかむ

 これは和歌ですね。どういう意味でしょう?漢字を当てると、こうなります。

     敷島の日本の国に人二人有りとし思はば何か 歎かむ

 「敷島の」は枕詞。ヤマトにかかる。「とし」の「し」は強めの助詞。「人二人ありと」を強調したい。「何か」は反語。「む」は推量・意思の助動詞。ここまではすらすらわかりましたね。
 この歌は万葉集巻13の「相聞」にある歌、恋の歌です。ある作家がこの歌を新婚夫婦(平清盛と妻の時子)の歌として小説の中で使ったことがあります。この日本に、お前と(あなたと)二人でいれば 歎くことなど何もない、これからは、あなたと二人で生きてゆくんだね、という風に解釈したのです。しあわせいっぱい、の場面ですね。
 でも、違うのです。一箇所間違って解釈しているのです。どこでしょうか?

 「おもはば」のところを文法的に説明してみましょう。「思は」は「思ふ」(「もふ」と読みます)の未然形、「ば」は助詞、そう、順接仮定条件を表すのでしたね。未然形+ば は、古文では、〜ならば、とか、〜だったら、と訳します。ではあの作家は何を間違えたのでしょう。「人二人有りとし思へば」と混同しているのです。
 「思へば」なら、已然形+ば、順接確定条件。〜すると、〜なので、と訳します。この世界にあなたと二人でいるのだから、つらいことなど何もない、と。

 それでは、「思はば」を仮定条件で訳したら、どんな恋の歌になるのでしょうか?
 この日本にあなたがもう一人いると思えるなら、私は何を歎くでしょう。でもあなたはたった一人しかいない、そして私を振り向いてもくれない、ほかにはかけがえのないあなただから、私はただ 歎き続けるしかないのです。

 恋の和歌では、「人」は、ほかならぬあのひと、という意味になる場合が多い。また得恋の歌はほとんどなくて、いくら慕っても実らない、たとえ一晩一緒に過ごした後でも、あなたから愛されている確信がない、と歌うのが常道なのです。
 どうでしょうか。失恋の歌ばかりではつまりませんか。仮定条件で訳したこの歌は、すてきな、心にせまる恋歌だと思うのですが。恋の本意は、もっともっと、と願い、喜びと不安にぐらぐら揺れる、焦燥にある。和歌は題材の最も本質的な性格を「本意」としてとらえ、歌い上げます。

 古典はきらいじゃないけど、文法がめんどうくさくて、と思っているあなた、文法はもっと豊かな世界をひらいてくれるためにあると思って下さい。古典の時代の言葉は現代の我々が使っている言葉よりももっと論理的で、もっとこまかくニュアンスを言い分けることができました。大学で読む古典の世界は、多分、はてしなく広く、思いがけないものになるでしょう。ちなみに、この歌は万葉集には長歌の反歌として載せられています。長歌にはつぎのように歌われています(この場合は「人」は人間という意味です)。

敷島の日本の国に 人多さはに満ちてあれども 藤波の思ひまつはり若草の思ひつきにし君が目に 恋ひや明かさむ長きこの夜を

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