宮沢賢治伝説
 

日本文学科 長野隆之

        dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
    こんや異装(いさう)のげん月のした
    鶏(とり)の黒尾を頭巾(づきん)にかざり
    片刃(かたは)の太刀をひらめかす
    原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ

宮沢賢治の詩集『春と修羅』におさめられている「原体剣舞連」の冒頭である。剣舞(けんばい)は岩手県の各地に伝承されている民俗芸能である。原体は現在の奥州市にある地名であり、そこの剣舞が題材となっているのである。子どもによって踊られるこの芸能は、 実際に見ても美しいものであるが、宮沢賢治の詩は別次元の美しさを現出している。
  もう5年ほど前になる。この周辺の民謡や民俗芸能を調査していたとき、原体剣舞の保存会を訪ねたことがあった。大正元年生まれの会長によれば、「今の原体剣舞があるのは宮沢賢治先生のおかげだ」という。その聞き書きの折に、昔、宮沢賢治が原体で倒れ、そのときに看病した家を教えてくれた。いかにも伝説っぽい話で、よい。
  それと同じ頃、賢治の出身地花巻市を観光したことがある。たまたま喫茶店で知り合った年配の男性に、ホテルまで自動車で送ってもらえることになった。翌日に宮沢賢治記念館に行く予定だと話す私を、ついでにということで、羅須地人協会跡地に案内してくれた。車を降りて、賢治の碑の前まで歩く道で、この碑の前で心中する人が多いという話を教えてくれた。「自分の姪も、ここで心中して、その遺体を引き取りにきたことがある」という話だった。賢治と心中はあまり似合わない。よくよく話を聞いてみると、この方の両親は賢治の実家の小作人であり、小作料を6割とられて、たいへんに苦労したという。宮沢賢治が大嫌いだということだった。「賢治の碑の前で心中が多い」という言葉には、そういった気持ちがかかわっているのかもしれない。
  それにしても、岩手県人はみんな、宮沢賢治を郷土の偉人だと認めていると思っていた。賢治好きの私としてはショックであった。そんなことを考えながら、翌日ひとりで花巻市内を歩いていた私の目に飛び込んできたのは、料理屋の看板にしつらえられた宮沢賢治の写真であり、彼の頭から腹には「仕出しあります」と書かれていた。
  いろいろな賢治がいるのである。
 

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