「都鳥鄙の鳥とや言ひてまし」


教 育 学    杉山 英昭

 

 都鳥・香合(著者所蔵)

 表題の「 都鳥鄙みやこどりひな)の鳥とや言ひてまし」は、「お前は都という名前が付いているけれども、都人みやこびと)の私の問いにも応えてくれないのだから、私はお前を都の鳥ではなくて、田舎の鳥だと呼んでしまおうよ」と都鳥に向かって呼び掛けるフレーズである。強い抗議の口調がうかがわれる表現になっていると感じられる。

 誘拐された我が子の消息を訪ねて、都からはるかに遠きあづま)という鄙(地方)にひとり到来した母は、「武蔵の国と下総しもつふさ)の国との中にある隅田川」の渡船のさなかに、この都鳥と出)う。このように、謡曲「隅田川」における先のフレーズには、その母の誰に訴えることもできない運命の不条理を憤る悲痛な響きがこめられている。「隅田川」は『伊勢物語』の第九段の詞章を綴織つづれおり)のように引用して、哀切な劇空間を創造して、今日に伝えている。

 その『伊勢物語』九段に登場する鳥は、本文に「宮こどり」と書かれている。九段の物語の第四場面に該当するこの箇所は、『古今和歌集』巻九の覉旅歌きりょか)(441)にも在原業平ありわらのなりひら)の歌として記されている。だから『伊勢物語』には、隅田川の河畔にたたずむ男を誰と記していないけれども、読者の誰もが業平の傷心の旅であると心得ていた。

 そこでの都鳥は、「白き鳥の、はし)あし)と赤き、しぎ)の大きさなる」として、口ばしと脚との色彩やそれがどれほどの大きさであるかという形態も、おおよそは把握できるようにして登場させている。今はユリカモメと呼ばれている鳥で、「京には見えぬ鳥なれば」と『伊勢物語』はわざわざいうけれども、京都の鴨川で現在はいくらでも見ることのできる鳥である。

 文学の中での扱いは、この鳥が都という名前を持って鄙に登場することが、都の人である物語の主人公にとって、この上ない懐旧あるいは思慕の対象であった。都を離れた遠い国にいる主人公にとって、名を聞くだに都は望郷の地であった。現在いる場所と都との距離が、遠ければ遠いほど都鳥と出遭った時の心意はただならぬものになった。心が動揺するのである。

 『伊勢物語』では、後に二条のきさき)となる藤原高子たかいこ)との愛情物語の後に、男は東へ旅立っていく。世のすべてに絶望して、自分をこの世には無用の者とみずからに思い込ませての旅立ちへの決断であったことが、「身をえうなきものに思ひなして」と、簡潔に綴られている。

 男の人生にはげしい浮き沈みがあることは、この『伊勢物語』の男と同様に、『源氏物語』では、傷心の後に光源氏が須磨へ下っていったことをみてもうかがわれるのである。紫式部が『伊勢物語』を好んだことはこうした『源氏物語』の構想にも及ぶ引用にも現れている。それは紫式部の好みでもあったけれども、本当は、当時の宮廷に仕える女房たちに『伊勢物語』のファンがおおかったので、『源氏物語』を執筆するにあたり、読者である女房たちの意を迎えようとして『伊勢物語』を引用したのだと考えてよいようである。

 都鳥は、『源氏物語』には一箇所、「手習てならい)」の巻に、浮舟と呼ばれ女性の思惟しい)の中に、比喩的な表現として登場している。したがって、眼前の風景として都鳥の飛ぶ風景は『源氏物語』にはないということになる。というよりも、『古今和歌集』や『伊勢物語』に見られるように、主人公の懐旧や思慕の情を表出する契機として都鳥は語り手によって登場させられているということを考えると、「手習」巻の都鳥もまたそのような契機を表出するために語り手は登場させたと考えられる。

 浮舟という女性が失踪して宇治川に身を投げたものと思われて、葬儀さへも行われた。しかし、浮舟は救われて比叡坂本の小野の里で生きながらえていた。そこでの浮舟は都からの客人の目に触れぬようにしている。自分を救済してくれた尼君が、二人の侍女を浮舟に付けてくれたけれど、「みめも心ざまも、むかし見し宮こ鳥に似たるはなし。」と浮舟は感じている。この比喩表現は少し説明を要する。 

ユリカモメ

 「むかし見し宮こ鳥」は、直截的にはそのむかし自分に仕えていた女房たちをさすのであろう。それらの女性はみなすばらしい人であったというのである。それに比して現在の侍女たちは見た目も心遣いも劣るというのである。それとともに「宮こ」という語は、京都の宇治にあって浮舟が住んでいた場所を意味していよう。そこは浮舟にとって懐かしきよき土地であった。しかし、今はけっして帰ることのかなわぬ土地であった。そこに望郷の念に違背する心理的な距離感と深い断絶感があるように思われる。それゆえにこそ「宮こ」の語が持つ響きは哀切なものであったろう。

 そしていま、比叡の麓の小野の里において自分の世話をしてくれることになった侍女たちは、そうした懐かしい思い出の地の女房と比較すると、見た目にも気配りの点においても格段に差異のある存在であるという意識がいまの浮舟にはある。差異とは劣っているという意識であろうが、これはこれまでの経緯からすれば仕方のないことである。

 浮舟が現在住んでいる小野は「山里」と呼ばれる土地であって、「山里」は貴族が隠棲する山水の豊かな景勝の地をいうから、宇治に比べて小野は実際には劣っている場所ではない。とすると、都鳥の「都」という語への浮舟の心意の内部においての優劣が、小野や小野にまつわる人々への評価を低めていると思われる。

 宇治の地は、浮舟にとって、その人生を捨てようと決意するに至った悲しみの土地ながら、二人の男性との愛憎を経験した、忘れることのできない土地であった。かけがえのない土地であったという意味において、浮舟には宇治は「宮こ」であったことになる。

 『伊勢物語』の主人公が、流離の果てに到達した東ほどには都からの距離が離れているわけではなかったが、比叡山麓の小野はやはり異郷であった。小野と宇治との距離は浮舟にとって、この世とあの世というほどの、絶望的ともいうこともできる、心理的な距離があったものと考えられる。都鳥という鳥は、京の名を冠したいかにも瀟洒な都ぶりの鳥ではあるけれども、我が子を理不尽に奪われて、その逆縁を悲しむ母親と、在原業平と浮舟という三人の主人公の絶望の象徴として表出されているとしたら、その優雅な名に比して、いかにも人生の悲傷と陰翳とを深く感じさせる鳥だということができるようである 。

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