山の花・野の花 

外国語  矢島 昂教授

はじめて山歩きに連れてゆかれたのは、たぶん高校に入学した頃だと思う。山つつじの白と紫の花が印象に残っているので、 4月の末か5月のはじめだったのだろう。それまでにも、学校の遠足などで東京近郊の低い山を歩かされたことはあり、 登ったり降りたりするのが決していやではなかったし、体力がある方なのも分かってはいたが、紀行文などを読みふける割には、 自分もそういうところへ行ってみようとは考えなかった。その後、仲の良い友人とあちこちへ出かけるようになったのは、 この時の経験で、自分たちだけで行く山歩きの楽しさを知ったことが大きいように思う。

 それからしばらくの間は、奥多摩や道志山塊などのあまり高くない山を歩いていたが、さすがに本から得た知識だけでもっと遠くの高い山に出かける勇気はなく、 大学へ行ったらワンダーフォーゲル部に入部して、等と考えるだけだった。大学では実際にワンゲルに入部し、3千メートル級の山にも幾度か連れて行って貰ったが、 半年ほど経ったところで、他にもっとやりたいことができて辞めてしまった。この時に教わったことは、その後一人で、 あるいは気のあった仲間と出かける際に非常に役に立っている。現在國學院のワンダーフォーゲル部の顧問をしているのは、 幾分か自分の恩知らずな振る舞いについての贖罪の気持ちがあるからかもしれない。

 山へ行けば、珍しいもの、見て楽しいものはいろいろあるが、風景そのものを別にすれば、何と言っても高山の珍しい花々に眼を引かれる。 ウサギやリスはもとより、オコジョやカモシカなど珍しい動物に遭ったこともあるが、何しろ彼らはすぐに逃げて行ってしまうので、 じっくり観察することなどできない。その点花たちは、いくらでも待っていてくれるので都合が良い。 初めのうちは、「あれはリンドウ、この花は桜草の仲間。」などと地図の裏に書き付けるだけで満足していたが、 そのうちちゃんとした名前を知りたくなって、簡単な案内書を持って登るようになった。 ところがこれが誠に都合が悪い。実物と図鑑の写真を懸命に比べてみるのだが、合っているようでもあり、 いないようでもある、そういう花が実に多いのだ。

ある時、後立山の八方尾根で名前の判らない花の写真を撮っていると、「何を撮っているのですか。」と声をかけられた。 それまでにずいぶんあちこち歩き回っていたけれども、声をかけられるどころか、挨拶は別としてこちらから他の登山者に話しかけたことさえ一度もない。 驚いて振り返って、相手があまりに美しい女性だったので、ほとんど声も出せない有様だったが、 ともかくこの花の名前がキバナノコマノツメであることを教えて貰い、しばらく一緒に歩けば他の花の名前も、 と言うところまでこぎつけた。この女性が単独行だったらそんなことは頼まなかっただろうが、道々聞いたところでは、 高山植物の監視員をしている許婚に会うために、父親と一緒に上の唐松の小屋まで行く所だと言うことだった(もちろんその父親らしき人は、最初から一緒にいたわけだが)。 この時突然頭の中に「遅かった。」という言葉が浮かんだのを憶えているが、何が遅かったのかは未だにはっきりしない。

八方尾根は高山植物の種類の豊富なところなので、このときに相当たくさんの花の名前と見分け方を教わったおかげで、 それ以後図鑑をみるにしても、ある程度見当もつくようになり、実物と写真の違いも推測ができるようになった。物事を習うときは、 ある程度の基礎的な知識を得るまでが大変で、それをすぎると楽しくなってくる。筆者の専門にしている外国語の習得でも事情は同じで、 初歩の段階で、同じ質問に何度でも飽きずに答えてくれるような(そしてできるならば魅力的な)指導者がいれば、状況は誠に簡単だ。 要は双方の根気なのだ。

 この経験で味をしめたので、ドイツへ行った際にもなるべくよく知っていそうな人を見つけては教えてもらうようにしていたが、 いつもうまくゆくとは限らない。スイスのアイガーの登山口のクライネシャイデックで、高山植物の監視員らしき人を見つけて、 日本でいえばハクサンイチゲによく似た花の名前を「シュヴェフェルアネモネ」と教えてもらった。 なるほどアネモネに似ていなくもないし、シュヴェフェルは硫黄のことなので、花の色が薄い黄色であることから来ているのだろうと納得したが、 帰ってから図鑑で調べてみると、そこには「シュヴェフェルキュッヘンシェレ」と書かれていた。キュッヘンシェレは翁草のことで、 それがアネモネに変わっていたわけだ。この監視員は、おそらく土地での呼び名を教えてくれたのだろう。人から教えてもらったことは、 「自分でも調べてみなくてはいけない」というのがこの時の教訓だ。

 これもドイツでのことだが、ある時畑の中の道を歩いていると、マツムシソウそっくりの花が目にとまった。 マツムシソウは園芸品種もあって、よその家の庭でたまに見かけるが、野生のものには少なくとも海抜千メートル以下のところで出会ったことはない。 「なるほど日本の山の花は、北国のドイツでは野の花になるのだ。」と一人で納得して、その時は大変嬉しかった。 知識は、そこから一つの全体像が引き出せて初めて意味を持つ。こんな些細なことではあっても、 それを実感できる機会があるのは嬉しいことだ、などと一人で悦に入っていたようなわけだ。

 調べてみると、この花には「畑の未亡人の花」とでもいう意味の名が付いている。この紫色のレースのような花から、 着飾りすぎた未亡人を連想した命名者は、一体どんな人だったのだろう。少なくともかなりシニカルな傾向を持つ人であったことは、 間違いないように思える。正式名である学名は命名者が判るものもあるが、普通に呼ばれる名前からは残念ながら、 誰が最初にそう呼び始めたのかは知りようがない。

 山の花が、気候の厳しい北国で野の花になるというのは、筆者の発見でも何でもなく、とっくに知られていることであるのを別として、 この話がここで終わればめでたしめでたしなのだが、実はその「畑の未亡人の花」がだんだん怪しくなってきた。 撮ってきた写真を現像してみると、葉の形がどうも図鑑に出ているものと違うのだ。しかも仮に筆者の見たものがそれだとしても、 この花の学名はマツムシソウ科マツムシソウ属のscabiosaではなく、knautia になっている。ことがここまで行くと、いくらたくさん花を見てきたとはいえ、専門家でも何でもない筆者には、これ以上どうしようもない。 素人の悲しさを思うばかりだ。筆者の小さな発見は、おそらく早合点に近いものだったと思われる。

 筆者の専門はドイツ語の自然抒情詩なので、ドイツの花の名前を覚えることには、多少実利的な意味もある。だからといって、 植物の分類を一から勉強し直すにはさすがに少し年を取りすぎたようだ。けれども美しい高山の花を見るのはまことに楽しいので、 ここしばらくの間、時々山へ行っては、専門家気取りで、珍しい花のそばに座り込むことになるだろう。

 

シュヴェフェルキュッヘンシェレ
シュヴェフェルキュッヘンシェレ
 

 

アッカーヴィトヴェンブルーメ?
アッカーヴィトヴェンブルーメ?

タカネマツムシソウ
タカネマツムシソウ

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