狂言を観る・狂言を読む


日本文学科 吉田永弘

 

 

 去る10月17日・18日の2日間、今年で10回目を迎えた恒例の「狂言鑑賞会」に参加した。大蔵流狂言方の山本東次郎師一門を招いて、たまプラーザキャンパスの大教室に能舞台をつくって本格的に行われるこの催しは、初日に「末広(すゑひろがり)」「茶壺(ちゃつぼ)」「箕被(みかづき)」の狂言3番と語りの「頼政(よりまさ)」、2日目に「佐渡狐(さどぎつね)」「附子(ぶす)」「連歌盗人(れんがぬすびと)」の狂言3番と語りの「半蔀(はじとみ)」、両日とも最後に山本東次郎師のお話が伺えるという文字通りの狂言尽くしの会なのである。東次郎師の名人芸は言うまでもなく、若手の方々の安定した演技に堪能し、大いに楽しませてもらった。

 狂言を観るときに、あらかじめ台本を読んでいくとまた違った楽しみ方ができる。山本家の現行曲は、日本古典文学大系(岩波書店)の『狂言集』の底本となった山本東本に近いので、それを読んでいった。けれどもすべてが『狂言集』に採録されているわけではなく、今回の演目のなかでは「連歌盗人」が採録されていないので、大蔵流の最古の台本で昨年清文堂出版から注解が出た虎明本(1642年)と岩波文庫に入っている虎寛本(1792年)を読んでいった。虎明本と虎寛本を読み比べても面白い。たとえば最後の謡のところ、虎明本は「かやうの事をや申べき」、虎寛本は「かかる事をや申らん」のようにわずかに違っている。やはりと言うべきか、現行曲は総じて虎寛本に近く、この箇所は虎寛本と同じ。けれども、少し違うところもあった。「鬼神」を虎明本は「おにかみ」、虎寛本は「鬼神」で括弧つきのルビで「おにかみ」、現行曲では「キジン」と言っていた。「見参」を虎明本は「げんざう」(ゲンゾー)、虎寛本は「見参」で括弧なしのルビで「けんざう」(ケンゾー)、現行曲は「ケンザン」のように聞こえた。現行曲の台本は「鬼神」「見参」のように漢字表記なのだろう。ことばの変化に興味のある者にとっては、こうしたちょっとした違いも面白い。
 狂言のことばの面白さのひとつにオノマトペがあるが、今回も豊富に使われていた。「附子」で茶碗の割れる音を「ガラリ、チン」と口に出すことで割れたことを表してしまう。そうした演出の面白さもさることながら、今の人にとっては一般的とは言いがたいオノマトペを伝えているところが興味深い。「佐渡狐」は、佐渡に狐がいるかいないかをめぐって、越後の百姓が佐渡の百姓に狐の特徴を聞き出すところが見所の狂言であるが、最後に鳴き声を問われた佐渡の百姓が、苦し紛れに発する鳴き声が「トーテンコー」。直後に越後の百姓が「おのれ、それは鶏の鳴き声じゃ」と言うからわかるものの、今とは捉え方の異なる江戸時代の鶏の聞きなしを伝えていることに驚かされるのである。この箇所、他の流派の台本を広げてみると、実にバラエティに富んでいる。なかでもわかりにくいのが、和泉流の三百番集本にある「月日星」と、版本の狂言記拾遺や和泉流の古典文庫本にある「ちちくゎい」だろう。それぞれ何の鳴き声かわからないと思う。わかった人は普通の人ではない。(「月日星」はこの順で出てくるのは珍しいけれども鶯で、「ちちくゎい」は鶉。私は調べてわかったのであり、普通の人でないことを意味しない。念のため。)

 狂言のことばには、日本語学概説や日本語史で習う「連声」も現れる。それでは「開合」はどうか、「四つ仮名」はどうかなど、「狂言鑑賞会」は教室で習った中世語の知識が実感できたり確認できたりする良い機会でもある。狂言そのものに興味を持ったり、狂言のことばに触れて、日本語にさらには昔のことばに興味を持ったりするきっかけになってくれればこのうえなくうれしい。けれども残念ながら、会場には学生の姿は少なかった。廊下ですれ違った学生のなかには、「行きたいけれど次に授業があるから」と言う学生もいた。「授業なんかサボっちゃえばいいのに」と、会議を欠席し授業を休講にしてきた私はひそかに思うのであった。
 

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