世界遺産の村の「國學院大学学習田」

                                                     史学科    吉田敏弘

    

 古代奥州の雄、藤原氏三代が築き上げた幻の都、平泉。三代のミイラを今も安置する関山中尊寺。この中尊寺に、2枚の荘園絵図が残されている。中尊寺経蔵別当の私領であった陸奥国磐井郡骨寺村を描いたもので、作成年は未詳ながら、鎌倉時代から南北朝時代の様式をもち、当時の村の姿が生き生きと再現された名品である(国指定重要文化財)。

 骨寺村は現在の岩手県一関市厳美町本寺地区にあたる。情報量が豊富な荘園絵図とその趣を良く伝える現地の景観、そして住民の皆さんの暖かいご協力など、好条件に恵まれたこの地区は、すでに10年来、國學院大学歴史地理学教室の調査フィールドとして、学生たちが史跡や景観の調査に従事してきた。この村を歩いた学生はすでに7080名を数えるだろう。暑い夏や寒風が身に沁む早春・晩秋の調査など、折々のさまざまな体験は、調査に関わったメンバーが共有する懐かしい思い出となっている。         

 
1、骨寺村在家絵図   2、骨寺村差図(簡略絵図)

                     (いずれも中尊寺所蔵、国指定重要文化財)

 
 さて、われわれや一関市の調査を通じて、現地には今も絵図に描かれたいくつかの寺社、あるいはその痕跡が現存しており、絵図と現地との対比が可能であることが明らかとなった。こうしたいくつかの場所は、荘園絵図に描かれた故地として、すでに先年、国史跡に指定されたが、これに加えて、最近、文化庁はこの地区のほぼ全域を重要文化的景観保存地区に選定した。それにとどまらず、この地区はおそらく来年、「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観−」のコア・ゾーン(中核地区)の一つとして、ユネスコ世界遺産に登録される運びとなっている。昨年、その準備段階としてイコモス(国際記念物遺跡会議、
NGO)調査団が現地を見学したが、その折にもこの村の景観は高い評価を得ており、登録は確実視されている。これが実現すると、骨寺村(本寺地区)は日本の農村景観として世界遺産登録される最初の事例となる。 

このように述べると、読者は、いったい本寺の景観とはどれほど素晴らしいものなのか、と思うであろう。先日来、すでに何台もの観光バスがこの世界遺産候補の村に入っているが、現地を見た多くの訪問客は、「何もないところじゃないか」、「一体なぜここが世界遺産なのだ」、と戸惑いを隠せないようだ。たしかに、この村にはミイラや金色堂のようなわかりやすい文化財はない。一見して、何の変哲もない農村風景が広がっているだけなのだ。この風景に本当に世界遺産の価値があるのだろうか。

伝統的な景観が残されている、ということは、この村がある種の近代化から取り残されていることを意味する。狭く曲がりくねった水路や道路、小さく不整形な水田。それは全国の農村において広く見られた景観だった。いまでは多くの農家は兼業なので、効率的な大規模機械化農業を導入したいのだが、こうした圃場ではその本格的な導入は困難である。このため農水省は、将来の担い手が農業を継続してゆくことを支援するため、圃場整備事業を推進し、曲がった水路を直線にし、道路を拡幅し、広い長方形の水田を作ってきた。今では地形の如何を問わず、こうした画一的な直線圃場が全国を覆いつくしている。

こうしたなかで、この村は、いまだに曲がりくねった用水路や不整形の水田が多く残された、全国でも稀な農村なのだ。もちろん、用水路が曲がりくねっているから重要なのではない。曲がりくねった用水路は、現地の地形の起伏を反映しており、そうした起伏に制約された水田開発のあり方、人力を主とする土木工事によって達成された灌漑のあり方を伝えていることこそが、重要な価値をもつのだ。

【 図3、本寺地区西部の空中写真に見る景観 】

 絵図によると、荘園時代には、沢の谷口や湧水地点、そして本寺川沿いに数反程度の水田区画が散在しており、これに接して農家が点在する散居景観が見られた。それぞれの散居は「田屋敷」あるいは「田在家」と呼ばれ、水田年貢と人頭税(各種の貢納物)が結びついた支配単元となっていた。これらが正式の村落構成員であったとすると、いまだ正式の構成員とは認定されないような農民層もあり、領主はこれらの農民を、「田屋敷」や「田在家」に結ばれていない水田の耕作者として掌握していたようだ。農民身分のこうした二階層区分は、中世農村では普遍的に見られた仕組みといえる。

当時の水田は明らかに用水が容易に得られるところでのみ開かれていたが、やがて、おそらくは人口増加に伴って、その周辺へも水田開発が拡大されるようになり、水源から離れたところへも用水を導く用水路が建設されるようになる。長い歴史のなかで延長・開削されてきた用水路が、この村では今も生きている。そしてそれは、おそらく平安時代後期に発端するこの村の水田開発の歴史のシンボルなのである。

こうした価値ある景観も、ひとたび近代的な圃場整備事業が実施されれば、はかなくも消え去ってしまう運命にある。本寺地区でも何度か景観の危機があった。この地区では、40年ほど前に、周辺に先駆けて基盤整備事業の計画がもちあがったのだが、様々な事情からそのときは実現しなかった。以後も圃場整備はなかなか実現しなかったが、7〜8年前には、農業後継者たちの間で最後のチャンスとして、圃場整備への期待が高まり、景観保全を目指して調査してきた私などに対しても厳しい言葉が浴びせられたこともあった。それでも、最終的に、景観に配慮した最低限の基盤整備を行うことを条件に、地元住民は自ら景観保全への道を拓いた。まことに勇気ある決断であった。

  荘園絵図が残る史跡的意義が高いこの村で、伝統的な要素を強く残した農村景観が今も生きている。そしてその地区住民がこうした伝統的な景観を後世に伝えてゆくことを決断し、そのための仕組みつくりを始めている。これらすべてがあいまっての世界遺産なのである。

 しかし、すでにこの村では住民の高齢化が進み、農業の維持は決して簡単なことではない。機械が使いにくい不整形の水田では、一部で手植えや手刈りが必要だ。また土水路のドロ上げなどの補修作業は、高齢者にはつらい重労働である。こうした困難を越えて、この村では水田耕作を継続してゆかねばならない。こうした農業労働を地元住民のみに押し付けてよいのだろうか?

 この村の景観は国民の宝なのだから、やはりみんなの手でこれを守ってゆくことが重要だ。観光バスで一巡するような観光は、この村にはそぐわない。むしろ、都市住民にとっては、伝統的な農作業の体験を通じてわが国の伝統文化に触れ、地元住民との交流を通じて第二の「ふるさと」をもつ喜びを味わう、われわれは本寺をこのように活用したいと思う。その第一歩として、昨年より地区内の休耕田一反歩を「國學院大学学習田」として復興し、学生たちが田植えや稲刈りの体験を行った。昨年は復興第一年目であったため、減農薬栽培を行う学習田ではいもち病が発生し、ほとんど収穫できなかったのは大変残念なことであったが、これもまた、稲作の難しさを学習する良い機会となった。今年は第2年目として、春の水路補修、田植え、夏の草取り、そして収穫、と、都合4回の農業体験を行う予定でいる。こうした体験学習をかねたボランティア活動が、この村の景観を「生きたままに保全する」ためのささやかな力となることを期待するのである。

  学習田の維持を通じて「世界遺産の村・本寺」と交流する活動を、今年度からはサークル活動として全学部の学生に開放し、広く希望者を募ることにした。1人でも多くの学生が積極的に活動の輪に参加してくれることを切望している。

 

戻る國學院大學TOPへ文学部へ