凡そ學問とは、學ぶ者の智識慾を満たすために行はれる、極めて利己的な行爲であるに過ぎない。世のため、人のためになどといふことは、もとより考へても
ゐないのである。學問とは所詮は遊戲である。そのやうに覺悟してしまへば、難は化して易と爲り、苦は變じて樂と作(な)る。まさに「遊於學」(學に遊ぶ)である。「遊びをせんとや生まれけむ」といふではないか。
「遊於學」とは、お頭(つむ)をつかふことである。これはこれで、さうやさしいことではないから、そのつもりでかかるがよい。
むかし章句の學といつて、文章や語句の末にこだはり、その意味の穿鑿に力を費す者を、迂儒とか腐儒とかいつた。私はそれよりもさらに末の文字の一點一劃にこだはり、そこで遊んで
ゐる。文字を分解したり合成したり。つまり文字を謎々として遊ぶのである。これを字謎という。
字謎をする者、コノ指トマレ。
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