《独房略歴》
1948(昭和23)年1月19日東京都は練馬区上石神井の生まれ。
小学校に上がる前から中学まで大阪は豊中市の田舎に暮らす。 よって大阪弁での会話も可。
小学5年生のときに深刻なニヒリズムに陥り、以来、懐疑主義的で真っ暗けの青春時代を送りながら、出世間への強烈な願望を育む。
東京大学でインド哲学を専攻。
「ここは仏教を研究するところで外道を研究するところではない」と、大勢の前で小生を名指しで罵倒する浄土真宗の坊主にもあるまじき馬鹿教授(七転八倒の苦しみの末、数年前に死去)にいじめられつづけるも、いじめられたり裏切られたりすると猛然と闘志が湧いてくるタイプなので、けっこうよく勉強する。
1972年文学修士、1997年博士(文学)。
大学院を出てから(財)東方研究会研究員、法政大学非常勤講師(西洋論理学)、亜細亜大学非常勤講師(ヒンディー語)などをするも、これだけでは食っていけないので、東京大学のインド哲学研究室と構造的に癒着している(株)春秋社で編集稼業のアルバイト。
途中、正社員を2年半ほど勤める。攻撃的な企画を打ちつづける有能な編集者であったと自己評価するが、穏健な社内多数派との折り合いをつけるのが下手で、また、
もともと協調性に著しく欠ける性格であるため、大中小の衝突を繰り返し疲労する。
この間の体験を通して改めて確認した生活信条
*ほとんど軽佻浮薄であれ。(軽みこそ金。重厚は鉛。)
*ロープ一本しかなくともかまわず河を渡れ。(石橋をたたいてなどは馬鹿。)
*なにごとも、やってみなけりゃわからない。(慎重は瓦礫。)
*わかるまではわからない。(疑問を絶対に忘れずにもちつづけることこそが肝要で、わかろうと努力するのはまったくの無駄。)
*愚痴はいうまいこぼすまい。(「愚」かな「痴」れものになるなかれ。)
*とらわれることなかれ。(無欲こそ大欲。)
1986年國學院大學文学部(哲学科)講師。やっとのことで専任職に就く。38歳。
1988年同じく助教授。
1991-92年うつ病のため危うく命を落としそうになる。
1995年同じく教授、現在に至る。
1998年「×いちシングル」となる。(共同妄想のゆえに娘は母親に。)
晴れて煩悩、ストレスのもとである同居の係累がいなくなり、手強い敵である性欲からも解放される。家事万般、苦にするところのないオールマイティーな生活者である
(と自分では思っている)ため、自律と自由とを満喫する立場となり、現在に至る。
昔習ったかのカント先生の道徳律「なすべきがゆえになしあたう」が本当であったと実感できる今日この頃である。
プラトンの『国家』を読んでいて、わが意を得たりと思う個所があったので、紹介しておく。
「『どうですかソポクレス』とその男は言った。『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』
ソポクレスは答えた。『よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、
やっと逃げおおせたようなもの』」(プラトン著・藤沢令夫訳 『国家』(上) 岩波文庫、21ページ)