HomePageの原稿、〆切迫る。そろそろ、書かなくては。まず、自分の研究について“真空の構造と核子の…”、それから講義について“太陽の寿命…、宇宙の進化…、そして相対性理論…。コンピュータグラフィックスで…”。出来た、だいたい2000字ぐらいかな。
これを恐る恐るNHさんに見せる。「読んでみてもらえますか」「こんなにたくさん誰も読みませんよ」「わかります?」「うーん…」「面白いですか?」「え!、そうですね…」。
専門家じゃないし、わかるわけないよな。ましてや、面白いわけないか。どうしよう、今日が〆切だ。なんでこんな日に限って、会議、教授会、また会議、それから…。
それでは、次回の更新時にご期待下さい。少しだけ!
昔の趣味:図書館で借りてきた車検に関する本を読んで、自家用車の点検をして、ユーザー車検を受けること。
「ユーザー車検はその気になれば誰にでもできる。車の点検も難しくはない。むしろ自分で点検することはとてもよいことだと思った。」
今の趣味:図書館で借りてきた住宅関係の本を読んで仕入れた生半可な知識を基にして、新築・中古住宅のあら捜しをすること。
「先日、NHさんの家に遊びに行った。というよりも新しい家を見に行った。隅々まで見せてもらっただけでなく、いろいろな書類も見せてもらって本当に面白かった。生半可な知識でも随分と役に立つものだと実感した。『学びて時にこれを習ふ、亦た説ばしからずや』とはこういうことなのかもしれない。」
今後の予定:MS先生の新居にも行ってみたいと思っている。天井裏とか見せてくれるかな?
今後の趣味の候補:税金について、食品添加物について、?
マンションのモデルルームが近くにできたので行ってみた。さすがに大手だけあって、営業マンの対応も手馴れたもので、なんとなくその気にさせる。急行停車駅から徒歩10分、大規模開発ではないが環境は悪くない、それに価格も手ごろである。アパートに帰るなり、「この部屋のタイプがいい。」、「部屋数の多いこのタイプがいいよ。」、「タンスはどこに置けばいいかしら。」妻はかなり気に入ったようである。その後、営業マンは何度となく電話をかけてよこしたり、ときにはアパートにたずねて来たりもした。「買っても絶対売れると思う。どうするの。」と急かされたが、私は決断ができないでいた。マンションについてあまり知らない、というかそもそも家について勉強したことがないというのが、理由の一つである。そこで、図書館に行って、マンションに関する本と不動産関係の本を数冊借りてきて読んでみた。わかったことは、やはり勉強不足であるということ、そして、急ぐ必要はないということである。「この本ためになるよ。」妻にも読むように勧めた。本を読んで勉強になったことの一つは、モデルルームには設計図書というものがあって、それを見るべきだということである。例えば、パンフレットの平面図にはパイプスペース(PS)という上下にパイプの通るスペースが書いてある。キッチン、風呂、トイレの3つの排水が近くにある別々の独立したPSにつながっていれば、距離が短い分パイプが詰まる可能性が低くなる。しかし、平面図に3つのPSがあったからといって、そうなっているとは限らない。他の2つは上階の専用であって、実は3つとも一つのPSにつながっていることもある。これを知るには設計図書を見るしかない。他に、絨毯やフローリング、壁紙の材質やグレートは設計図書の中に仕様書というのがあってそれを見ればわかるはずである。上述のマンションは早々に出来上がり、或る日、営業マンから電話がかかってきた。「価格が値下げになったことをご存知ですか。」一階のある部屋がまだ売れ残っていて、その一つをモデルルームにしているので見学させてくれるらしい。妻はもう興味がないようであったが、私は見たいものがあった。設計図書である。
マンションはアパートから歩いて数分である。妻の唯一の興味は「値下げ前に契約した人は、価格は下がらないのか。」と言うことである。聞いてみると「すでに契約されたお客さまも値下げをしました。」という良心的な答え。見てみると確かに値下げされているようだが、やはり売れてない部屋のほうが値下げ幅は大きい。妻はさらに「これで儲かるのですか。」と大きな世話を妬いていた。
モデルルームに案内されたあと、私は「設計図書はありますか。見せていただけませんか。」とお願いした。このマンションでは管理人室に置いてあり、いつでも見られるようになっているとのことである。設計図書は想像していたよりも大きくて分厚い、それが数冊もある。全部見るわけにはいかないので、モデルルームに関係するところだけを探して見みてみた。最初に、キッチンや風呂の排水がどのようにパイプスペースにつながっているのか質問した。営業マンは、「これで見るよりは、パンフレットで見たほうが…」と言って、パンフレットを出し「こんな感じです。」と教えてくれるが、これでは意味がない。「壁に配管が埋めこめられたりしてないんですか。」もう少しくらいつくと、別な図面に書いてあることがわかった。設計図書を見る客はほとんどいないので、営業マンも要領を得ないようである。営業マンは、後日でも設計のわかる人を呼びましょうかと言ってくれたが、見学した部屋と同様のタイプを購入する気にはなれなかったのでそこまでは要求しなかった。でも、設計図書には記号の意味が書いてあったりするので、それを手がかりに見ていけば、素人でも理解できるところがある。いくつかのモデル−ルームを巡っては、その度に設計図書を見て、わからないことは質問したりすれば、かなり理解できるようになるのではという感想を持った。
帰宅して数時間もしないうちに営業マンから電話があった。「今日はお役に立てたでしょうか。」、「設計図書も見られたし、大変役に立ちました。
妻と子どもの散歩をさせている途中で、マンションのモデルルームの前を通りがかった。前述とは別のよく耳にする大手の会社である。駅から徒歩5分程度のところにできるらしい。規模は小さく部屋数があまりないので、すでに半分以上に契約済みのリボンが付けられていた。営業マンは「キャンセルが出ることもあります。」と言って、モデルルームの見学を勧めた。案内されて、バルコニーの幅が大きいとか対面キッチンがよいなどの説明を受けた。そのころ、私はホルムアルデヒドなどの科学物質や換気システムについて興味があったので、フローリングや壁紙の接着剤について質問した。営業マンは、自分の上司の息子がアトピーで新しいマンションでは大丈夫だったとか、今はそういう科学物質をどこも使っていないとか、説明してくれた。(できれば、接着剤の種類とか科学物質の放散量を教えてくれるとありがたいのだが。)
部屋を出て、私は「設計図書を見せてください。」とお願いした。「建築関係の方ですか。」と聞かれて、「いいえ、本を読むとよく設計図書を見るといいと書いてあるので、見たいのですが。」と答えた。
数冊の図書の中で最初に、仕様書を見てみた。そこには、フローリングのところにホルマリンを含まないものというようなことが書いてあった。(確かにそういう科学物質は使っていないようであるが、またく使わないことなどできるのであろうか、それ以外の科学物質は大丈夫なのであろうか。)次に、空気ダクトがどのように配置されるのか見てみた。すると、キッチンや風呂、トイレからのダクトが1箇所に集中しているように見える。「この集まっている部分はどうなっているのですか。」、「どう言う意味ですか。」、「例えば、ここからの距離は他よりずいぶん長いようですが、うまく換気されるように何か工夫されいるのですか。」、「それは上手くできてます。」「それから、キッチンに換気扇がついてますよね。この煙が風呂の換気扇のところに流れて来たりしませんか。」「それは大丈夫です。」「具体的に、この集中しているところがどのような構造でそうできるのかわかれば教えてください。」「…私ではよくわからないので後で調べてご報告します。」他に、ガスや水道などの配管についても質問しようと思ったが、妻がこれ以上は子どもが限界だと目で訴えてくるのでやめることにした。
アパートに着くなり、1時間もしないうちに電話が掛かってきた。「今日は、どうもありがございました。ご質問の件は調べて改めてお電話いたします。」とのことであった。しかし、その後数ヶ月してもくわしい説明が聞けることはなかった。
「家はいつ買うの?」妻の注文、いや文句が激しくなってきた。なかなか行動を起こさない私に業を煮やしたらしい。そしてついに、「一戸建に絞って探した方がいいと思う。」と言い出してきた。マンションと一戸建で迷っていてはいつまでも決まらないと言うのだ。どうせ買うなら、最初から一戸建というわけである。
不動産や建築関係の本を5冊以上は読んで、知識もそれなりに身についてきた。そんなおり、1つのオープンハウスに関する広告が目に付いた。もう随分前のことなので正確には覚えていないが、駅から徒歩8分、土地面積120m2、延べ床面積100m2、築20年の木造2階建ての建物で、価格は4千万円台であった。「これなかなか安くていいかも」と私は思った。ただ、その広告には用途地域が書かれていなかった。
アパートから歩いて3分ほどの場所なので、散歩ついでに行って見ることにした。ハウスに着くと、営業マンが一人いて、親切に案内してくれた。私が用途地域について尋ねると、「広告に書いてありませんか。」と言いながら、書いてないのが分かると「建蔽率100%、容積率200%で、第1種中高層か第2種中高層のどちらかです。」という返事が返ってきた。
本にはよく、家を見るときには、普段あまり見ない床下や天井裏を見るべきだと書いてある。そこで、営業マンに、「床下を見たいのですが、この床下収納から見られますか。」と言って、開けようとしたら、フックが壊れていて開けられない。営業マンは「これは直させますので」と言いながら、自動車のキーを使って開けてくれた。本から仕入れた知識を基に床下を見てみた。断熱材がびっしりと敷かれているのは分かったが、その先は暗くてよく分からない。懐中電灯があるといいなと思った。各部屋に案内されたときには、ドアや窓を開け閉めして具合を確かめたりした。最後に、外回りを見て、基礎にひびが見当たらないのが分かった。気になったところはキッチンの床が軋むことで、それ以外はよく出来ていると感じた。南側は自家用車2台が停められるほどの庭があって、その隣は平屋の建物なので日当たりはよかった。
私は価格も手ごろだし買ってもいいかもと思った。しかし、妻は台所がシステムキッチンでないことが不満なようであった。それと、多分使わない小さなサウナが邪魔に思えた。
最初はよそよそしい感じの営業マンであったが、気のせいか、私の職業が分かると態度が変わってきたように思えた。そして、「よろしかったら、申し込みだけでもしませんか。」と言って、1枚の用紙を差し出してきた。本には、どんなものにも記入するときには慎重になるようにと書いてあるので、とりあえず読んでみた。「これに記入しても契約になるわけではないですよね。」と今から思えばとんちんかんな質問をした。次に、「この申し込みに、お金は必要ないですよね。」と少しまともなことをきいた。返事はどちらも「はい」だったので、書いてみるのとにした。
営業マンは、「この物件はかなり安くなっているのでほとんど下げられないのですが…、数十万円でしたら値下げできます。」と言ってきた。私は少し考えて、百万円ぐらい下げた金額を書いたように記憶している。他に、自己資金や年収などを書く欄があった。ところで、不動産会社によっては、申込書に金銭が関与しない旨がきちんと書いてあることもある。しかし、この申込書にはそれが書いてなかった。何のトラブルもなかったが、今思えば、申込書の空白に金銭が関与しないことを明記してもらうぐらいの慎重さがあってもよかったのではと感じている。
営業マンは先に申し込みが入っているのでそちらが優先されると言った。ただし、その先客さんは『今住んでいる家が売却できないと』契約出来ないそうなので、私たちに回ってくる可能性は高いと説明してくれた。ところで、この『今住んでいる家が売却できないと』というフレーズ、この後いろいろなところでよく耳にした。営業マンは、さらに、売主さんが旅行で1週間戻ってこないので連絡はその後になると教えてくれた。
さて、それから3日後、営業マンから先客さんがキャンセルしたので買うか買わないか決めてほしいという電話が掛かってきた。私は、「今週末にもう一度見てみたい。天井裏とかも見てみたいのですが。もし、それが無理なら次のお客さんに回してもかまいません。」というようなことを伝えた。結局、この物件には縁がなかったのであるが、今でもそんなにわるくない物件だったなと思うことがある。
オープンハウスを出て散歩をしていると、別のオープンハウスの看板が目に止まった。最初の物件よりも新しい中古住宅で見た目はきれいであった。価格も比較的安かったが、駐車場がないのが難点だった。それと床下収納がないので床下が見られない。若い営業マンがいたので「床下は見られませんか。」と尋ねたが、床をはがさないと出来ないと言われた。「水道管とか直すときはどうするのですか。」ときくと、そんなことまずありえないとそっけない返事である。妻は「これがシステムキッチンよ。」と目を輝かせ、「申し込みしないの。」と言ってきた。私は「キッチンなんていざとなったら替えられるから、家全体から見ればどうでもいいようなもんだよ。」などと答えた。
これを契機に我が家のオープンハウス巡りが始まった。広告を見てオープンハウスがあるか確かめ、1〜2週間に一度のペースで見に行った。床下収納があればそこから床下を調べ、天井裏の点検口があれば天井裏も見てみた。また、オープンハウスで知り合った不動産屋さんに、まだ人の住んでいる物件に案内されたこともあった。その場合は、床下収納は物で一杯で見られなので、通風口に懐中電灯を照らして調べたりした。
私が営業の人に天井裏を見る点検口がどこにあるか尋ねてもそれをすぐに答えられる人はほとんどいなかった。それに、脚立が用意されているわけではないので、ときには天袋によじ登ったりもした。中古の物件の場合、住んでいる人に点検口について尋ねても、多くは知らない。当然、床下収納から床下は調べられない。営業の人にきけば、点検口を丁寧に探してくれる。家を見にくる人、すなわち消費者は床下や天井裏を見ないのだろうか。もし半数以上の人が床下や天井裏を調べるなら、親切な不動産屋さんなら脚立ぐらい用意するであろうし、中古物件なら「皆さん床下を見られますので、床下収納は空にしておくとよいですよ。」と売主にアドバイスしたりするだろう。
不動産の物件には、足の速いものもあって見たその日の内に決めなくてはならないこともある。だからこそ、最初に念入りに調べる必要があるのではないだろうか。私は今までに数十件の物件を見てきたが、床下を見て問題に感じたものは覚えているだけで、束が土台からずれているものが1件と湿気のためかカビのひどいものが1件ぐらいである。他に根がらみのないものが数件あった。天井裏では電気のコードのつなぎ目が集まったところに接続箱がないものが1件あった。これは明らかに違法なはずで、単にビニールテープが巻かれているだけなのである。もちろん、いくら調べても物件それ自体がよくなるわけではない。せいぜい、最悪の物件だけはつかまなくてもすむぐらいのものであろうが。
ところで、このオープンハウス巡りはなかなか役に立った。営業の人に「この物件にそれほど興味があるわけではないのですが、勉強のため見せてください。」と断って見たことも何度もあった。『本から学んだことを基にオープンハウスで実践して習得するのはなかなか楽しい』どこかで聞いたのことのあるような言葉だ。
ある日曜日。近所にオープンハウスがなかったので、自動車で少し遠くの物件を見に出かけた。ここで出会った営業の人にはその後何度かお世話になるので、ここでは松中(仮名)さんと呼ぶことにしよう。この松中さんに、私たちの探している家について話していると、妻が「できれば、土地の広いゆったりとした家がいい。」などと言ってきた。全く人間の欲望には切りがない。彼女は広告の裏面に載っている物件に興味があったのだ。それは、土地が45坪で家が築25年ぐらいの中古、価格は5千万円前半であった。
次の週末、松中さんはその物件を案内してくれた。この家は夫婦特にご主人がかなり入れ込んで建てた注文建築で、昔は2階を貸間として使用していた。子どもはいらっしゃらないとのことで、今はおばあさんが一人で住んでいる。床面積は25坪ぐらいで、庭が広くてゆったりとした感じである。ただ、家にはかなりがたが来ていて、洗面所の床がへこんだり、2階の天井には雨漏りの跡があった。
しかし、この物件はなぜかひかれるものがあった。その理由の一つは、この家の間取りがかなり変わっていることであった。今までよく似た間取りの物件ばかり見ていたので新鮮な感じがした。どのように変わっているのか言葉で説明するのは難しいが、一言で言うと廊下が少なくて家が広い感じがするのである。そして、部屋の配置が工夫されているのでなかなか使いやすい。
妻はかなり気に入ったようで、我々はこの物件を『変わった間取りの家』と呼んだ。ただ、私はこの価格では買う気にはなれなかった。「1割ぐらい下がらないと考える気にはなれない。」と松中さんに伝えた。次の日、価格を下げてもよいと言う電話が掛かって来た。私は「少し考えさせてください。」と答えた。そのときまだ、私はあることにあまり注目していなかった。それは、物件の説明に書かれている「43条但し書き」という文字である。
「ただいま」。帰宅すると、妻は「今日ね、変わった間取りの家を歩いて見に行って来たの。」と言い出した。かなり気に入っているようである。「それから、松中さんから電話があって、連絡してほしいって。何か、書類に書いてあることで…」。私は物件の説明が書いてある用紙を見てみた。そこには「43条但し書き道路」という文字が書かれていた。
家を建築する場合に道路が重要であることは常識で、今まで読んだ本の多くに書かれていた。しかし、この「43条但し書き道路」というのははじめて目にするものであった。『変わった間取りの家』は4m以上、実際計ったら4.1m、の道路に2mどころか10m以上接していた。それに、この道路は行き止まりではなく通りぬけられるのである。いったいこの道路にどんな問題があるのだろうか?建築基準法の43条但し書きについて調べてみると、なんと、再建築の場合に役所に申請して許可を得なければならない、それも許可に関しては審査会で審議されると言うことなので、かなり面倒な手続きになりそうだということが分かった。急行停車駅から徒歩10分・土地45坪で割安な物件が今まで売れないでよく残っていたものだと思っていたが、売れていないのには理由があるんだなと私は思った。
松中さんが法務局で調べたところ、「再建築不可」ということであった。ただ、絶対に建築できないわけではなく、この土地の場合、許可を得るためにはその道路を利用する全員の同意が必要で、この同意を元に一度許可を得ればその後この手続きは必要がないということである。松中さんは、「同意を得るために私自身が働きましょう。」と言ってきた。私は「相談したい人もいますので、もう少し考えさせてください。」と答えた。
私は43条但し書きについて更に調べ、現地にも足を運んで周囲の状況や徒歩時間まで確認したりした。そして、両親と相談したり妻と話し合った結果、『変わった間取りの家』はあきらめることにした。「なんか引っかかるものがある。迷うのであればやめた方がいい。」とうのが理由である。ただ、この物件との関わりはこれで終わったわけではなかった。
「変わった間取りの家は売れてしまったみたいだな。」夕食時、私は妻に話した。「インターネットで調べたら、情報が削除されていたから。」妻もそして私もすこし後悔に似た感じを味わった。人間とは不思議なもので、なくなってしまうと、それまで以上にほしくなったりするものである。
ある日、松中さんに物件を案内されている途中で、妻は「変わった間取りの家が売れてしまって残念だ…」というような話をした。数日後、帰宅すると、妻が目を輝かせなが「聞いて聞いて、変わった間取りの家まだ売れてないんだって…」と言った。話によると、大手の不動産会社に媒介の契約をしていたがその契約が切れたので、今は中小の会社と契約しているとのことである。大手の会社は何もしてくれなかったけど、今度の中小の会社は43条但し書き道路に関する同意のためにいろいろと手を尽くしてくれているようである。「○○さんね。大手だとこういう面倒なことはしないのかな。」その営業の人も知っていたりするから、世間は狭い。
変わった間取りの家のおばあさんは私たちのことを覚えていて、もう一度見に来ませんかとさそいがあった。もう一度見に行った後、松中さんに、価格をもう少し下げてもよいということと、43条但し書き道路に関する同意が得られない場合は契約を白紙に戻すと言う特約を付けて契約する用意があることを聞かされた。人間とは不思議なもので、一度失ったはずのものが手に入るとなると無償に嬉しくなったりするものである。妻はかなり乗り気であった。私も悪い買い物ではないなと思った。
しかし、この物件は結局買うことがなかった。それには、別の地域に気になる新築の物件があったことが影響している。我々は、単に土地や建物を比べるだけでなく、周囲の環境を調べたり市役所に行って行政サービスついて聞いたりして比較した。そうするうちになぜかこの物件に興味がなくなったのである。今から思えば、『変わった間取りの家』が大騒ぎするほどよい物件であったかは疑問である。それまで30坪ぐらいの土地ばかりを見ていたから、45坪の土地が実質以上によく見えただけではないかと思ったりもする。
「ここが先ほどお話した7棟現場の土地です。」不動産会社の浜野(仮名)さんが自動車の中で説明してくれた。「今日売買契約なので、まだ外に出て見ることは出来ないのですが」。そこは竹やぶで、細い道の奥に古い小屋が建っていた。裏に回って見てみると絶壁になっていて、その前には田園が広がっていた。その100mほど先には国道が通っていて、引っ切り無しに車が走っていた。「いかがですが」という浜野さんの問いに、「まわりの様子はわるくないですね。ただ、実際どんな感じになるのか見てみないと」と答えた。「この土日に奥様とご一緒にご覧になられては。その頃には整地が始まっていると思います」、「では、土曜か日曜に妻と一緒来ます」と言って、図面を受け取って帰った。
夕食後、図面を広げて今回の物件の話をした。中堅のA建設(仮名)の建売一戸建で、早く契約すれば多少間取りを変更することも可能とのこと。「このE号棟がいいんじゃないかな。価格もそんなに高くないし」それは5000万円台の物件で、土地は50坪程度であるが図面から平坦な部分を見積もると40坪弱になるものであった。
週末、浜野さんに案内されて見に行くと竹やぶはすべて取り去られ整地が始まっていた。妻は現地を見渡して「なかなかいいじゃない」と言った。眼下に広がる田園風景が気に入ったようである。我々はその後何度か現地を訪れ、駅から歩いたり、近くのスーパーに入ってみたりした。さらに、日が暮れた後の様子を見に行ったり、妻は浜野さんに区役所まで案内してもらった。また、近所の人に話を聞くこともできた。松中さんに案内された『変った間取りの家』と比べていたのはこの物件なのである。ただ、住んでいたアパートから車で2時間近くかかる場所なので、何度も足を運ぶうち次第に疲れを感じるようになった。「ここでいいよね」と自分たちに言い聞かせるような言葉も出はじめた。
そして、契約へと進むことになるのだが…。
契約の数日前、重要事項説明書と契約書のコピーと住宅保証機構の保証に関する資料を受け取り、家に帰ってそれを丁寧に読んで質問事項をまとめた。契約当日は浜野さんが自動車で家まで迎えに来てくれた。車中で浜野さんは「当社で重要事項説明に1時間ぐらい、その後A建設で契約になります」と以前と同じ説明を繰り返した。
不動産会社に到着すると、宅地建物取引主任者の宇多田(仮名)さんが主任者証を提示して重要事項の説明が始まった。私は遠慮することなく疑問に思ったことは何でも質問した。そしてなんと重要事項説明に3時間以上を費やしていた。最後に残ったのは保証に関する問題であった。それは、「責任の消滅」という条文の「3ヶ月以上にわたって自ら居住しなくなった場合。ただし、機構の承認を得て登録業者が認める場合は、その限りではない」という部分に関してであった。すなわち、3ヶ月以上留守にするとそれ以降保証されなくなるのである。私にはその可能性があったので曖昧にはできなかった。
ついに、A建設で質問しましょうということになり、重要事項説明が終了した。A建設では、待ちくたびれたためか、担当者が憮然とした表情でいた。私が「責任の消滅」の条文の但書きに関して「どんな場合に認められて、どんな場合は認められないのですか」と尋ねると、担当者からは「この保証書に基づいて保証するだけです」という返事しか返ってこなかった。「自分で調べたいので、契約はそれからでいいですか」と言うと、いいですよという返事である。そして帰ろうとしたとき、担当者が浜野さんに「…と言われるだけ…」と耳打ちするのが微かに聞こえた。
そして、浜野さんは我々を家まで送ってくれたのだが、車中の時間は普段の数倍に感じられた。
次の朝、私は住宅保証機構に電話をした。保証約款について質問すると担当者に回された。私が「責任の消滅」の条文について尋ねると、最初、「事前に通知していただければ、承認を得て業者が認めることになると思いますが…」というような曖昧な返事が返ってきた。そこで、「前例はありますか。どんな例があるか教えていただけませんか」と尋ねると、調べて電話してくれることになった。私は、その後のことは妻に任せて家をあとにした。
家に帰って電話について聞くと「新しい法律ができてその条文は削除されたんですって、そして保証の内容も少し変ったってことで、資料を送ってくれるって」、「え、削除された。保証の内容も変った」、「それで、『不動産会社にも資料を送りますので』と言うからFAX番号を教えてあげたら、浜野さんから早速、『全く変っていますね。A建設にも送っておきました』と電話があってね…」と妻はかなり得意である。
住宅の品質確保の促進等に関する法律(品確法)ができたことは知っていたが、それによって保証約款の内容まで変っていたとは。その後、浜野さんから電話があったが、「資料が届くので、それをよく読んでから考えます」と返事をした。住宅保証機構からは分厚い資料が送られてきて、私は数日掛けてそれを読んだ。我々が家探しをしていた頃は「品確法」ができた後で「性能表示」が行われる前であった。そういう意味で過渡期ではあったのだが。
ともかく、分からないことは質問したり自分で調べて曖昧なままにしておかないことが重要であることが再確認された物件であった。この物件にはかなりの労力を費やしたが、結局契約することはなかった。
本格的に家探しをはじめて半年ほどが過ぎてかなり気に入った物件が見つかった。急行停車駅から徒歩15分の建売で、いくつかある中の土地が50坪以上、南道路で価格が6000万円台のものである。申請前なのでまだ間取りの変更はでき、それに道路は車がほとんど走らないので静かである。浜野さんに「これと同じぐらいの土地をいくつか見せてください」と頼んだ。念のため、比較したかったからである。そして、妻と話し合ってこの物件に決めることにした。
次の週末が契約日になった。まず、重要事項説明書と契約書に目をよく通した。そして、契約金のための小切手を作り、契約書に貼る印紙を購入したりと準備が進んだ。契約日当日となり、印鑑など必要なものを再度チェックして出発まで1時間足らずになった頃、宇多田さんから電話が掛かってきた。「お出かけにならないで、自宅で待機していただけませんか」と。「待っていればいいんですか」と答えて待つことにした。数時間後に宇多田さんから何度か電話があり、そして「申し訳ありませんが、今日の契約はできなくなりました」となった。その後、浜野さんから「これからお宅に伺いたい」と電話があった。
問題は、元地主が土地の売買契約をするときにこの物件を売ってほしいという話にあったらしい。約束になっていたかどうかは知る由もないが、口約束でも約束は約束。前日に我々との契約があるときいて業者に怒鳴り込んだらしい。そして、元地主と業者が話し合って今日中に契約を結ぶことになったとのこと。その成り行きを、浜野さんは現地で見守っていたようである。
浜野さんが来ると、私は受け取っていた書類をまとめて返した。妻は「私たちの家は見つかるのですか」と怒り心頭の様子である。しかし、よく考えればこの物件は買わなくてよかったと思った。元地主の家はこの物件の隣なのである。もし契約したら、その後どうなっただろう。浜野さんに「同じ現場の他の物件はいかがですか」と遠まわしに言われたが断った。家探しは単なる建物探しではないのだ。
ある日、義父から私に電話があった。「信頼できる不動産屋にしなさいよ」という忠告である。これまでの話を聞けばそう考えるのも当然だなと私も思った。しかし、どの不動産会社が信頼できるのか簡単に分かるはずもない。以前読んだ本に、不動産業者名簿の閲覧ついて書いてあった。信用度を知るための方法の一つで、だれでも閲覧できる。しかし、その不動産業者は知事免許で県外にあり、2時間以上掛けて県庁まで行かなければならない。「コピーして郵送してくれないかな」と思ったが、そんなサービスはどの本にも書いてなかった。それで足を運ぶことにした。
業者名簿は県庁の建築指導課で閲覧することができる。申請用紙に氏名と住所を記入して窓口に提出すると、しばらくして名前が呼ばれた。出てきたのはなんと厚さ3cmもある書類の束である。「これをコピーして郵送は絶対しないよな」と思った。しかも2回しか更新していない業者の名簿でこの厚さである。まわりを見渡すと分厚い束を数冊閲覧している人もいた。名簿には資本金や経営状況、役員や従業員の履歴書、取引主任者証のコピーなどが無造作に束ねられていた。私は、最初にざっと目を通し、2回丁寧に見た。
私の感想では、名簿からどのくらい信用度が分かるかは疑問ではある。過去に行政処分があるかどうかは知ることができるが、ないからと言って信用度が高いのであろうか。資本金の多い少ないや経営状況などは素人にはなかなか判断できない。しかし、閲覧の価値はあると思う。私は、役員の変更に関することや履歴書などを見て、浜野さんの世間話を思い出した。少なくともこの範囲では浜野さんの話に嘘がないとこが分かったのである。
ある日、浜野さんから「よい物件が出ました。駅から5分の…」と電話があり、家族で出かけた。案内される前、浜野さんに「近くにもう一つ土地がありますが、ひな壇ですけどご覧になりますか」と聞かされて先に見ることにした。それは、道路から1m程高いひな壇の土地であった。妻は2人目の出産を控えており、階段を上がる必要のあるひな壇は敬遠していた。私が壇に上がると1歳の息子も上がりたがるので手を引いてやる。妻は道路の上で周囲を見渡していた。浜野さんは「周りの土地はすべて売れてこの土地だけなんです」と説明してくれた。その後、もう一つの物件を見に行ったが魅力的なものではなかった。すると妻が「先ほどの物件をもう一度見せてください」と言い出した。「ひな壇でいいのか」、「環境がよさそうな気がする」と言うと、すかさず浜野さんが「いいところですよ。駅から行きましょう」と言って案内してくれた。
「やはり、ここがいい気がする。駅から歩いてみたい」と妻が言うので駅に送ってもらい歩いてみる。子どもを抱っこしながら歩いて17分ほどであった。町の様子を見て妻はさらに気に入ったようであった。すると浜野さんが「ちょっと待ってください」と言って電話を掛け「まだ売れてないようです」と教えてくれた。その後、近くの公園などに案内された。「この物件は早く決めてください」と念を押され、資料と地図のコピーなどをもらって帰路についた。
妻はこれに決めようと言うが、私は価格が少し高いと思った。それで、3%ほど値引けないか交渉してもらったが答はNOであった。すると妻が受話器を取って「○○万円泣いて下さい」と言い出した。その後、宇多田さんから電話があり、仲介手数料を値引いてくれることになった。数日後、契約をした。「念には念を」と思って望んだが、なぜか簡単なものに感じられた。
土地の売買契約の後に、建物の請負契約へと進む。我々は、不動産会社に紹介された地元の建設会社と自分で見つけた一級建築士、親戚に紹介されたハウスメーカーにそれぞれ図面を作成してもらった。紆余曲折の末、ハウスメーカーと契約を結ぶことになった。最大の理由は親戚の紹介だからである。家を建てる場合、自分の考えがあるならば、親戚の紹介は最初から断った方がよいであろう。なぜなら、合理性が無くなるからである。
さらに、ローンの契約がある。私は、住宅金融公庫と銀行から融資を受けることにした。銀行で行員の説明を受けながら氏名などを書き込んでいくのだが、なぜか字がうまく書けない。元々下手な字がさらにひどい字になってしまった。これが多額のローンを背負という重圧なのか。しかし、銀行の人はごく普通にこちらを見ている。他にも私と同じような人がいるのだろうか。むしろ、これが普通なのかもしれない。公庫の融資は入居後でないと受けらないので、つなぎ融資が必要になる。私はハウスメーカーを通して生命保険会社と契約をした。金利は、公庫や銀行よりも安かった。
これらの契約書には契約ごとに数千円〜数万円の印紙が必要になる。印紙代だけでもかなりの額になる。家を持つだけでいろいろな税金が掛かってくるのだ。もちろん、優遇措置もあるのだが。
それから、引越し業者とも契約をした。数社に見積もりを取って信頼できて安いところに決めようとすると、他社がさらに下げたりしてかなり安くなった。ほとんどの費用が当初の予算以上になるのに対して、引越しの費用は予定よりも安くなった。
私は土地や建物についてはかなり勉強したつもりだが、その他のことについては勉強不足であった。特に住宅ローンについては、家が見つかってからと思ったが、それでは遅すぎた。でも、自分だけでできることには限界があるのだ。不動産業者の人もいろいろ役に立ってくれるが、相談できる知り合いがいるとなお助かる。家探しをした人がいたら話を聞かせてもらう。おおいに参考になる。
家探しを通して私はそこに日本の行政の縮図を見たような気がした。意味のない規制が多く、必要な審査や検査がないように思えるのだ。家探しを始めた頃は、欠陥住宅の問題に最も関心があった。構造上の欠陥に対しては、個人でも(第3者に調査などを依頼して)防ぐことができるだろう。私は建築中に少なくとも週1回は現場に行き写真を撮るなどした。もちろん、これだけで欠陥が防げるわけではないが。一方で、建築には多くの手続きが必要となる。しかし、この中に欠陥を防ぐのに役立つのもがどれだけあるだろうか。
この連載を始めたときは、シックハウスについても取り上げるつもりでいたが、私が仕入れた知識はもう古いようなのでやめることにした(これは筆の進まない筆者の仕業なのだが)。少し前、法律で強制換気が義務づけられると新聞で目にした。私が読んだ本によると強制換気は、結露やカビの防止に効果があるようである。ただし、何でも強制換気すればよい訳ではなく、やり方次第ではトイレなどの臭いが部屋に充満したりする。
この法律はシックハウス対策のためらしいのだが、私の得た知識では対策にはなっていないように思える。例えば、寒い冬に外気を遮断して強制換気をしたらどうなるだろう。空気の圧力が低下して建材に含まれるホルムアルデヒドなどが通常以上に放出される。さらに、防虫処理された床下や畳などからも科学物質が放出されるかもしれない。本当に大丈夫なのだろうか。定期的に窓でも空けた方がましなような気がするのだが。「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」なのではないかと。
家探しを始めた頃は、欠陥住宅はそれを買う個人の問題と考えていた。欠陥住宅は買わなければなくなるのだと。しかし、最近はその考えが変ってきた。それは住宅行政における構造的な問題なのだと。個人に責任を負わせる前に、やるべきことが多くあるのだと。それを一つ一つ明らかにすることは私には荷が重過ぎる。ただ、これから家探しをする人はこの問題も念頭に置いてほしい。そして、場合によっては家探しをやめる勇気も必要かもしれない。そうしなければ何も変らないと。それでも変らないかもしれないが。
最近、米寿を迎えた祖母と共に車で実家に行った。近くまで来たとき、祖母が「この田んぼは全部わしのお父さんが耕したんじゃ」と少し自慢気に話をした。山の麓の斜面であるこの地を耕すのは並大抵のことではなかっただろう。祖母が誇りに思うのも当然かなと感じた。
新しい家に入居した感想は、あまり期待していなかったためか、「思っていたよりよかったかな」である。一方、妻は「念願の注文建築一戸建」と喜んでいた。その妻が数週間ほどして「前の私道がいいのよね。近所の人との集いの場になって」と言った。そのとき私は家作りの原点を見たような気持ちになった。家とは単に家族が住むだけのところでなくて、地域に根ざしたものであると。
昔は家と家をつなぐものと言えば主に血縁関係であった。親戚同士は比較的近い場所に住み、お互いに助け合ったりした。その逆もあるであろうが。そして家とは単に建物のことではなくてそこに住む家族を支えるものの総称である。田植機のない頃は、家族はもちろん親戚や近所の人が協力し合って田植をしたものである。稲刈りや茶摘なども。このように家と家をつなぐものがあり、それが良くも悪くも人と人をつなぐことになったのである。
最近は、兄弟姉妹も互いに離れた場所に住むことが多くなり、昔の家と家をつないでいた協力関係も失われてきた。そんな中で人々は住む場所を求め、ある人は家探しを始める。家探しは、建物探しや土地探しだけなく、自分たちに合った地域探しでもある。そして、家作りとは、家を建てるだけでなく、その地域にどう根ざすかでもある。我々は、できるだけ自治会などが行う防火訓練や清掃などの行事に参加するように心がけている。小さな子どもを連れて参加するのは大変であるが、むしろ子どもが小さいときから参加することに意味があるような気がするのだ。そして、最近ふと思い巡らした。子どもが孫と共にこの家を訪ねてきたとき、子どもは孫にどんな話をするのだろうかと。そのとき「ここは、わしのお父さんが…」と私の話題が挙がるのことなどあるのだろうかと。
最後に一言、「同じ家はない」というのは正しいのが、「この家しかない」という家もありえない。なぜなら、家とは買うものではなく作るものだから。我々の家作りは始まったばかりである。
<家探しエッセイ完>
「カオスのグラフィックシミュレーション」とは、坂本正徳先生と共同で執筆し、ムイスリ出版から出された本のタイトルである。この本の基となったのは、国学院大学で行った情報関係の授業である。以下で、出版までの経緯を思い起こしてみたい。
私が国学院大学に赴任してきたとき、コンピュータ教室にあったパソコンのOSはMS-DOSであった。ソフトも限られており、私はその中からプログラミング言語Basicを用いてコンピュータグラフィックスの授業をすることにした。文科系の大学でプログラミングの授業をすることには不安もあったのだが、その不安は熱心な学生さんたちによって次第に打ち消されて行った。
授業はパソコンの基本操作を学んだ後、画面上に点と線、円などの基本図形を描いて、最後に動画のプログラムを作成するというものであった。学生一人一人がそれぞれプログラミングするのであるが、その中には学んだ以上のことに挑戦する者が何人もいた。「斜めに動かすにはどうすればいいんですか」とか「円のように動かすにはどうしたらいいのですか」などの質問に少し答えただけで後は自分自身で工夫する学生が何人もいた。そんな中に「違った色の線で囲った中を塗りつぶすことが出来ますか」と質問したと思ったら「三角形で試してみればいいのですね」と自分で答えた学生がいた。すなわち、簡単なプログラムで動作を確認してそれから目的のプログラムを作成しようというのである。「センスの有る学生がいるものだな」とそのとき思った。
その後の授業でもプログラミングのセンスの有る学生はいるものだなと感心させられることが多くあった。そして、文系の大学でもプログラム言語の授業は難しくないと思えるようになった。むしろ、文系・理系という区別自体に意味がないことを多くの学生さんに教えられたのである。それが、以前から考えていた授業をやってみようと気持ちにさせてくれた。
私の授業の多くは黒板の前で話してそれを学生が聞くというスタイルで、受講者は常に受身である。そこで自分で試してみたり工夫しながらある対象を理解していく授業が出来ないものかと考えていた。理系で行われる実験の授業のような。そして、考え付いたのがコンピュータシミュレーションである。対象はカオス。しかし、「プログラミングを学んでそれをカオスのシミュレーションに応用する授業など出来るのだろうか。理系ならまだしも文系で」と思っていたのである。その固定観念を打ち破ってくれたのが、熱心な学生さんたちであった。
カオスを対象にしたのは、それがコンピュータの発展と共に現れた新しい分野であり、各方面に幅広い影響を与えていたからである。それにカオスは最先端の分野であるにもかかわらず、コンピュータグラフィックスを通して視覚的に理解することが可能である。もちろん、数学的または物理学的に理解することも出来るが、それがカオスを理解する唯一の方法ではない。
半年ほどかけて準備をして、ついに「複雑系の世界」という授業が始まった。この授業では、資料室員の堀江紀子さんに補佐をしていただいた。堀江さんの協力がなければこの授業は成り立たなかったであろう。授業は、最初にカオスの基礎知識に関する講義し、その後でVisualBasicの基本操作を学び、カオス図形とフラクタル図形をコンピュータグラフィックスで描くという順序で進めた。最後に学生各自が課題を選び、プログラミングをしてシミュレーションを行い、その結果を報告してもらった。しかし、その授業は予想以上に困難であった。
プログラミング技術の習得とシミュレーションによるカオスの理解という2つの目標を半期の授業で行うのはかなり難しいことは分かっていた。そこで、プログラミングは必要最小限に止め、カオスのシミュレーションも吟味してかなり内容を絞った。次に、詳しいプリントを作成して、事前に堀江さんにそれを実行してもらい、不充分な部分を修正したりした。しかし、実際の授業は困難を極めた。プログラムが動かない受講者が続出し、その中にはすぐに間違いが分からない場合も多かった。おまけに、パソコンが動かなくなったり、動作にやたら時間が掛かったりした。
受講者の3割近くが途中で脱落して行った。難しすぎるのだろうか、やはり無理があるのだろうかと悩んだりもした。そして、授業が順調に進むようになるまでには数年が必要であった。しかし、不思議なことに、最初の混乱した授業では少数であるが極めてよく出来る学生さんがいた。順調に進むようになると全体的には出来るようになるが、突出して出来る人が少なくなる印象を受けた。
そして、毎年2割程度の学生さんの最終報告書は優れたものであった。自分で調べたのか授業ではほとんど触れなかったことが説明されていたり、5mm超える分厚い報告書に大量のシミュレーションの結果がきれいに整理されていたりと予想を越えるものであった。中には私の出した例題を詳しく調べて値が収束していることを見つける学生さんもいた。「これカオスじゃないのか?」と自分でも同じようにやって気づく始末である。まさに、教えているつもりで、私の方が教えられていたのである。
このような経験を通して、このたび「カオスのグラフィックシミュレーション」を出版することが出来た。この本ができたのも、私の授業を最後まで受講してくれた学生さんたちのおかげである。この場を借りて、熱心に取り組んでくれた学生さんたちに感謝したい。
「ピーピーマイドンとって」と2歳半を過ぎた尚ちゃんが何度も何度も要求する。
「ピーピーマイドン?○○ドンということは怪獣のぬいぐるみか?」
ともかくこの頃の子どもの言葉は母親以外には、あるいは母親でもさっぱり分からないことがある。2歳頃になると子どもは大人の言葉をよく真似するようになる。しかし、うまくしゃべれない。2歳年上の公ちゃんはその頃「カレシーちょうだい」とよく言った。もちろん「彼氏」のことではない。私には10人以上のいとこがいるが、10歳以上年下の従妹も2歳ぐらいのとき「ビボーちょうだい」と言っていた。もちろん2歳の女の子が「美貌」が欲しいなどと言うはずもない。これは発音がうまく出来ないだけである。たぶんそのくらいの子どもを持つお母さんならわかる人も多いであろう。これを読んでいる人も考えてみよう。ヒントは「カレシー」が飲み物で「ビボー」が果物である。
2歳半を過ぎると子どもは物に名前があることを理解するのか、自分で独自の名前を付けるようになる。もちろん子どもなりにちゃんと意味のある名前を付けるのだ。ある日、子どもがニコニコしながら「尚ちゃんのヒメグリ」と何度も言う。「家にはカレンダーはあるが日めくりはないぞ。それも、尚ちゃんの日めくり?」すると、妻が「尚ちゃんのすみれ組」と説明してくれる。すみれ組とは公ちゃんが幼稚園年少のときのクラス名である。年中になったのでそのすみれ組の名札が不要になり、それを胸に着けてもらった尚ちゃんが「自分のすみれ組の名札を見て」と言っていたのである。「ヒメグリ」とは「すみれ組の名札」のことなのである。
ところで、「ピーピーマイドン」とは何か。これは、考えてもたぶん(いや、絶対に)わからないと思うので次回をお待ち下さい。
子どもは真似が大好きだ。大人の真似をするために、大人の持っているものを欲しがることがある。3歳を過ぎると、「これはダメだ」と言っても「大人が持っていると欲しくなるんだよ」と理屈をこねたりする。しかし、子どもが最も真似したいのは、大人ではなく他の子どもだ。それも、2歳ぐらい年上のお兄ちゃんお姉ちゃんの真似が大好きなのだ。だから、お兄ちゃんお姉ちゃんがおもちゃで遊び始めるとそのおもちゃが欲しくり、身につけているものと同じ物が身につけたくなる。逆に、小さな子がおもちゃで遊び始めるとお兄ちゃんお姉ちゃんは「とられた」と思うのだ。そして、けんかが始まるのである。
「尚ちゃんのピーピーマイドン」と洋服掛けを見上げながら何度も繰り返す。でも、ピーピーマイドンらしきもの(?)は見当たらない。こうなるともうお母さんの登場しかない。
「ピーピーマイドンって何だ」、
「ピーピーマイドンではなくて、ピーピーまーへ」。
「ピーピーマーエ、はーあ?」、
「幼稚園の先生が子どもを整列させるときに、笛を吹きながら『ピーピー前へ』と繰り返すのよ」。
この説明で納得できるわけがない。尚ちゃんは「ピーピーマイドンを取ってちょうだい」と言っているのだ。そんなもの(?)取れるはずないだろう。もしかしたら、ピーピーマイドンって笛のことか。しかし洋服掛けに笛などない。ピーピーマイドンとは何なのか。次回、その真相が明らかになる。
ちなみに、「カレシー」とは「カルピス」、「ビボー」とは「ぶどう」のことである。
ピーピーマイドンを題材に3回も話が書けるとは。無理やり引き伸ばしていないかと思われるかもしれないが、話を考えるのはなかなか大変なのである。
「ピーピーマイドン」とは「サスペンダー」のことである。なぜ、サスペンダーをピーピーマイドンと呼ぶようになったのか。その過程は次のようである。
幼稚園の先生が笛を吹きながら「ピーピー前へ」と言う様子を、園児たちがサスペンダーを使って真似をする。園の制服は半ズボンやスカートをサスペンダーでつるタイプで、そのサスペンダーをはずして先を笛に見立てて「ピーピーまーえ」と言いながら真似をするのである。それを見ていた尚ちゃんにとって「サスペンダー=ピーピーマーエ」になったわけだ。
しかし、何度聞いても「ピーピーマイドン」に聞こえる。「ピーピーパイロン」と聞こえることもあるが。「これはサスペンダーと言うんだよ」と教えても、目をまん丸にして口を閉じ「これはピーピーマイドンです」という態度である。
朝、公ちゃんが幼稚園の制服に着替えるときにサスペンダーをする。それを見ていた尚ちゃんは「ピーピーマイドンとって」と言うのである。うまいことに、もう一つ子ども用のサスペンダー(尚ちゃんのピーピーマイドン)があって、それをワンピースにつけて今日も公ちゃんを園に送り迎えするのである。
「ピーピーマイドンはどこにおいてあるんだ」といつしか私もそう言うようになっていた。
20年ぐらい前のテレビ番組だったと思う。確か、ユーザー車検を勧めるような内容だった。その番組中、視聴者の整備業者から「点検整備は専門の業者がやらないと危険だ。」という旨の質問が来た。それに対して、ゲストのユーザー車検を勧めている人は「点検整備が問題で事故が起こったとしても責任を持つのはユーザーである。整備業者は何の責任も取ってくれない。」という主旨の答えをしていたと記憶している。これを聞いて私はユーザー車検をしてみたいという気持ちになった。
それから10年ほど過ぎてその機会は訪れた。当時はオペル社の自家用車に乗っていて、最初の車検がやってきたのである。そこでまず、図書館で「ユーサー車検・・・(書名はもう忘れたが)」の本を借りてきた。その本には点検記録簿に基づく点検の仕方が載っており、それを読んでいたら自分でも出来そうな気持ちになった。本を参考に出来そうなところから点検を始めた。三度ほど繰り返して後輪のドラムブレーキ以外のところは点検することが出来た。
最後に残ったドラムブレーキの点検の仕方がどうにもよくわからない。自動車関係の会社に勤めていた弟に尋ねて、やっとブレーキドラムの外し方が解った。外してみるとなんとブレーキライニングの一部が剥げてしまっているではないか。近くのオペルのディーラーに電話して「ブレーキライニングが・・・」と説明すると「整備業者の方ですか」と訊かれたので「ユーザー車検の点検で・・・」と説明を加えた。
ドラムブレーキの修理をしてもらって、これで点検記録簿の作成(点検整備)が終了した。次は車検本番だ。まずは運輸支局に下見に行き、申請書類を購入した。書類の作成をしていて自動車検査票のところで住所と氏名の順序を逆にしてしまった。これ大丈夫かな。こんな些細なことも初めてだとどうも気になる(実際は何の問題もなかったのだが)。最後に、本と運輸支局でもらった資料(マニュアル)に何度も目を通して明日の車検に備えた。
ユーザー車検を受けるには予約が必要である。私は一週間ぐらい前に予約を取っている。前日は洗車をする。下回り検査があるので、特に裏側を丁寧に洗うことがマナーである。
運支局に到着して、最初に自賠責保険に加入した。印紙を購入して納税確認をしてもらい、ユーザー車検の窓口に書類を提出した。「間違ったりしていないよな」とドキドキであった。窓口の人が書類を調べていくつかの記入漏れを指摘されて直した。そして「初めてですか、○○番のラインがいいですよ」と教えてくれた。
車検のラインには、旧型ラインとマルチテスターと呼ばれている新型ラインがある。窓口の人は新型ラインの番号を教えてくれたのである。当然、私はそのアドバイスを素直に受け入れて新型ラインに入った。最初に外観検査があり、検査官の指示に従ってライトを点けたりウインカーを出したりした。自動車検査票にハンコウをもらってこれは合格した。次にサイドスリップ検査があり合格した。そして、マルチテスターによるスピードメーターやブレーキ、ヘッドライトの検査があり、四輪をテスターに乗せて電光掲示板の表示通りに操作した。電光掲示板にはすべて丸がつき、検査票を記録機に通してこれも合格した。そして、排ガス検査と下回り検査が終わってすべて合格した。
全部合格したという嬉しさとともに車を発進させようとすると、後からホーンを鳴らされた。「早く行けという意味かな、でもなにか違うような」と思いながらも発進させた。それは、何かに「後続の邪魔にならないようにラインの外に出て車を駐車してから書類を提出する」と書いてあった(ように)記憶していたからだ。総合判定所に書類を持っていくと検査官に「行ってしまった人ね」と言われてしまった。あのホーンはそのまま発進しようとした私に注意を促してくれたのだ。それでも、すべて合格のハンコウを押してもらうことは出来た。
継続検査交付窓口に行って書類を提出し、新しい車検証とステッカー受け取った。これで終了。なんともあっけない。初めてにしては、あまりにもうまく行った。
最初の車検から2年が過ぎて次の車検がやってきた。前回の点検ではブレーキに異常があったこともあり、点検は少なくとも年に一度は行うようにしていた。記録簿に沿って点検し、何の異常も見つからなかった。前回は旧型ラインと新型ラインのマニュアルに何度も目を通してほとんど暗記したが、今回はざっと目を通しただけで床に就いた。
当日は朝から運輸支局に向かった。前回は簡単に合格したが最後にミスをしたのでそのことだけを頭に入れて検査ラインへと向かった。すると、順番待ちの間に新型ラインが閉じられてしまった。旧型ラインに並んでマニュアルを開いてみたが丁寧に読んでいる暇などない。順番が来て外観検査が始まった。これは合格してサイドスリップ検査も合格した。次にスピードテスターがあるのだが、マルチテスターと勘違いしてそのまま通り過ぎブレーキテスターに進んでしまった。もはや頭の中はパニック状態である。旧型ラインでは前輪と後輪を別々に検査することをすっかり忘れている。当然不合格になった。
その後の排ガス検査では、ブローブを自分で入れなければならないのに、検査官が親切に入れてくれた。ライトと排ガス検査はどうにかこうにか合格した。最後の下回り検査も合格したが、一つでも不合格があれば総合判定所に書類は出せない。前回うまく行き過ぎたことが油断を招いたのだ。
ともかく駐車場に止めてマニュアルを見直した。そして、再検査だ。スピードメーターとブレーキの再検査申告をしてテスターへと向かった。スピードメーター検査は合格し、ブレーキ検査へと移った。すると前輪が不合格で後輪と駐車ブレーキは合格した。しっかり踏まなかったのかなと思って、もう一度ブレーキの再検査へと戻った。しかし、今度も前輪だけが不合格になった。「どうしてなんだろう」と不安だけが増大した。検査官が何か大きな声で言っている。「ニュートラ?」。
ラインから出て冷静に考えようとした。「ニュートラと言っていたな」。そして、謎が解けた。ギアがドライブのままだったのだ。検査官は「ニュートラに入れなさいよ」と言っていたのだ。私は「ニュートラ、ニュートラ」と念仏のように唱えながらラインへ向かった。4度目ともなると検査官とも顔見知りになり、車両番号のチェックのときには「もう一度ですか」と彼は笑みを浮かべていた。それでも今度は合格できた。まさに奮闘の1日(1時間半)であった。
ユーザー車検も3度目ともなるとかなり慣れてくるが、前回の失敗を反省して旧型ラインのマニュアルにしっかりと目を通した。当日は8月の暑い日でクーラーを効かせながら検査へと向かった。ラインを見ると新型ラインがそれほど込んでいなかった。旧型ラインにチャレンジしようかと少し迷ったが、新型ラインに並ぶことにした。
自動車から出て検査官に自動車検査票を渡すと「ご家族と一緒ですか」と声をかけてくれた。子どもが検査ラインの外から私を見て「パパ、パパ」と手を振っていたのである。外観検査が終わってサイドスリップ検査へと進む。マルチテスターに入ってスピードメーター、ブレーキとヘッドライトの検査が始まる。排ガス検査が終わると最後に下回り検査がある。すべて合格。総合判定所の横に車を止めて書類を提出し、ハンコウを押してもらった。これで検査は終了、あっけないものである。奮闘するためにはやはり旧型ラインがよさそうである。
継続検査交付窓口で新しい車検証とステッカー受け取って家に帰った。最後の一仕事はステッカーの張替えである。古いステッカーを取らなくてはならないがこれが面倒である。新しいステッカーに張り替えてすべてが終了した。ユーザー車検を始めた頃は、フロントガラスに検査標章のステッカーだけが張ってある自動車を見ると、この人もユーザー車検かなと思ったりしたものである。整備業者に頼むとサイドに別のシールが張られることがよくあるからだが、最近はまったく気にしなくなった。
今までに所沢自動車検査登録事務所と神奈川運輸支局でユーザー車検を受けたが、どちらの検査官も親切で丁寧であった。逆にユーザーの中にマナーがあまりよくないなと思える人たちがいた。例えば、暑いので外観検査のときも窓を閉め切っていて検査官の声がちゃんと聞こえてなさそうな人や男女二人が自動車に乗って助手席の人がしきりに話しかけている人たちなど。確かに8月の晴れの日は暑いけれどもライン検査は10分程度で終わるわけで、その間ぐらい窓を開けていられないのだろうか。検査官はもっと長い時間暑い中にいるのだから。
4回目の車検が近づいてきた。オペルも今回が最後の車検になるだろうと思いながら点検をした。車検を何時受けようかなと考えていたある日、エンジンをかけて車の外に出ると妙にガソリン臭い気がした。キャップが閉まっているか確かめたりエンジンルームを開けたりしてみたが異常はなさそうだ。次に下回りを調べると何かぽたぽた落ちているではないか。指につけて匂いを嗅いでみるとガソリンである。早速、近くのディーラーで修理してもらった。
車検は通ったが新しい自動車が欲しくなってきた。子どもが大きくなって狭くなってきたし、ETCなどを付ける必要に迫られてきたらだ。中古車専門店に査定してもらったが、ほとんどがゼロで処理する費用が必要というところもあった。一店だけかなり値をつけてくれたが、それでも車検に掛かった費用には届かなかった。迷ったが車検から1ヶ月後に車を買い替えることにした。こんなことなら車検をしないで買い換えればよかったと思ったのは言うまでもない。
ところで、ユーザー車検は得なのだろうか。最近は安くてユーザー車検の代行をしてくれるところが多くある。点検や検査場に行く手間を考えると代行の費用も高くない気がする。少なくとも今回はしないで買い換えたほうが得だっただろう。
しかし、今回は別としても、ユーザー車検はためになると思う。私はユーザー車検をすることによって以前よりも車の調子を気にするようになった。年に1回は点検記録簿に沿って点検するようにしているし、少し変だなと思ったらボンネットを開けたりして点検している。もしかしたら、ユーザー車検をしていなければガソリンが漏れていることにさえ気づかなかったかもしれない。蛇足であるが、点検のために何度もタイヤを外したり着けたりするのでタイヤ交換は御手の物になった。単にお金の損得だけでないものがユーザー車検から得られたと思っている。
最近はユーザー車検こそが本当の車検のように思えてきた。なぜなら、車の点検整備に責任を持つのは使用者だからだ。ユーザー車検を単に「車検」と呼び、整備業者に頼む車検を「代行車検」と呼んではどうかと思うこのごろである。
出発の朝が来た。準備は万端のはずだ。残すは湯沸かし器の水抜き。思った以上に時間がかかる。
そろそろ家を出ないといけない。タクシーを呼ぼう。受話器を取っても何の音もしない。早朝はまだかけられたのだが9時で切れるらしい。仕方がなく、ご近所の方にタクシーを呼んでもらうことにした。 そうしたら、何とご主人が駅まで送ってくれることに。ありがたいやら申し訳ないやら。さらに、駅に到着すると階段の下の通路まで重いスーツケースを運んで下さった。
家族5人、大きなスーツケース1つと中くらいのスーツケース2つ、各自がバックパックを背負い改札へと向かう。10時も過ぎれば電車もすいているだろう。しかし、急行はそれなりに混む。 徐々にスペースがなくなり、バックパックを片手に抱え、スーケースをもう一方の手で支えて、なんとかしのぐ。そうしていると、初老の男性がパックパックを網棚に載せましょうかと声をかけてくれ、 重いなと言いながらも上げてくれた。
ケンタッキー州レキシントンは雪が降りそうだと聞いていたので、3月下旬ではあったがジャケットにコートを着て汗だくになりながら成田空港に到着した。カウンタで手続きを済ませ、 梅干しを持って行っていいのか尋ねてみた。税関に申告して聞いてみて下さいとのこと。アメリカで梅干しが食べたくなるにちがいない。許可してくれないかなと思いなら飛行機に乗り込んだ。
デルタ航空に決めたのは単純に運賃が安かったからだ。5人分だからたとえ一人分が数千円の違いでもばかにならない。でも、機内食は思っていたよりもよかった。乗務員の対応も良かったし、 そもそも乗っていればアメリカに着くのだから楽だ。
アトランタに到着して入国審査へと向かう。私のつたない英語でも何とか通じて、「アメリカへようこそ」と言われて握手をした。荷物を受取って税関だ。トラベラーズチェックを1万ドル以上持っていたので 食べ物と共に申告すると2番に行くように言われる。そこで待つこと30分以上、レキシントン行の出発時刻まで30分を切りそうだ。やっと名前を呼ばれると「何をいくら持ちこんでいるのか」ときかれる。 申告書の裏に書いてあると言って見せると、TCとキャッシュについて別の紙に書くように言われた。梅干しについては何も言われなかった。
急いで国内線のゲートへと向かう。手荷物検査はセルフサービスだ。日本のように係官が手伝ってはくれない。どこに行っていいのかよくわからないし、出発時間は迫っている。とりあえず電車に乗る。 近くにいたアメリカ人らしき人に尋ねてみる。とっさに思いつくい英語は“Do you know the C42 gate?”、少し間があって返事は“Here!”、「エー」と言う間もなくドアを出ると、なんと家族はまだ車内にいる。 ドアが閉まりかける。思わず両手でドアを広げようとするが、 そんなことで開けられるはずが・・・。
手が挟まれる・・・。もうだめかと思ったらドアが開いて、家族も降りることができた。
それを見ていたのであろう。現地の女性が「どこに行くのか」と声をかけてくれた。「C42ゲート」だと答えると、“Come on”と手を振って案内してくれた。 「この階段を上がって、右に行きなさい」そう教えてくれた。“Thank you very much.”これしか言えない。
C42ゲートになんとか到着したが、出発の5分前だ。10人程度の人がカウンタの前に並んでいるが、何だか様子が変だ。係員に聞いてみると、ともかく別のゲートに行けと言われる。 その前に早口で何か言っていたのだが、さっぱりわからない。別のゲートのカウンタで聞くが、よく聞き取れず妻と顔を見合わせる。いやーな予感。もう一度聞きなおす。 “・・・not・・・yet. ・・・take a seat・・・”。妻はもう出発したのではないのかと心配そうな顔に。「しかし、notにyetだからな。それにtake a seatだし。」 と思っていると、日本人らしき女性が「レキシントン行きですか。出発時刻が伸びたからここで待っているようにと先ほどアナウンスがありましたよ」と教えてくれた。 ほっと一安心もつかの間、はぐれた末娘を別の日本人が連れてきてくれた。「ああー、何やってんだ。」
搭乗時刻になると、先ほどの女性がまた親切に教えてくれた。子どもたちの手をしっかり握って機内に乗り込む。国際線では多くの日本人を見かけたが、国内線では我々以外に日本人はいなかった。 娘2人が腰かけたシートの向かいに座っていたアメリカ人女性がニコニコしながら、手真似でシートベルトの付け方を教えたりしてくれた。
飛行機が水平になると男性の客室乗務員が飲み物のサービスを始めた。その乗務員が私に何か語りかけてくる。何度か聞きなおすと、「Welcomeは日本語ではどう言うのか?」という質問だ。 「ようこそ」と答えると彼は娘たちに向って「ようこそ」と話しかけた。しかし、「何の反応もないよ」とけげんそう。そりゃそうだ。 子どもたちは日本で「ようこそ」と話しかけられることは滅多にないから。「こんにちは」とでも答えてあげればよかったか。
乗務員はドリンクを配り終えスナックを配り始めると「お飲み物はどれになさいますか」と日本語できいてきた。まさか、ここで日本語、それも発音もしっかりした日本語を耳にするとは思いもよらなかった。 彼は到着すると娘たちに紙で使ったチューリップを渡してくれた。粋なことをするものだ。それに即席で作ったものなのにうまくできている。
レキシントンの空港に到着すると、日本人の友人が私たちを迎えてくれた。彼はケンタッキー大学でポスドクをしているのだが、これからの生活で彼には相当お世話になることになる。 レンタカーを借りてホテルへ直行だ。彼の車についていけばよかったので迷うことなく無事到着できた。現地時間で8時過ぎ。
ともかく来たのだ。多くの人に助けられて。
レキシントンには日本人学校はないので、子どもたちは現地校に通うことになる。ただし、日本人補習校があって土曜日は国語と算数を中心とした授業を受けることができる。 私たちは最初に補習校に問い合わせて説明会に出席した。そこで、現地校についての情報を頂いたが、4月の初めは1週間の休みがあってコンタクトを取るには翌週まで待たなければ ならなかった。公立の小学校はどこに住むかで学区が決まっており、子どもたちはグレンドーバーという小学校に通うことになる。
翌週の月曜日にグレンドーバー小学校に電話をした。受付のジェシカさんは私が英語を得意でないと伝えるととても丁寧に対応してくれて、 何とかその日の午後にアポイントメントを取ることができた。小学校を訪れると校長先生が対応してくれた。必要な書類を渡すと“Perfect!”と誉めていただいたばかりでなく、 ツベルクリンの検査が必要なことと病院の場所をわかりやすく説明してくれ、病院で見せるようにと英文の文書まで作成してくれた。
病院では電話の通訳を介して子どもたちの健康状態や病歴などの質問に答えることができた。ツベルクリンの注射をして、次回の予約を取った。 結果が出るまでは現地校に行くことはできない。その週末の診断で子どもたちは学校に行けることになった。
その日の午後、さっそく、診断書をもってグレンドーバーに向かった。学校の方はとても親切にスクールバスやランチのシステム、必要な道具などを教えてくれた。 今日、授業を受けますかと聞かれたので、残り1時間もなかったが子どもたちは初めて現地校の授業を受けてスクールバスで帰宅した。初日の感想を聞いてみると、子どもたちは 皆ニコニコしながら、みんな親切だったとその日の出来事を話してくれた。
翌週から本格的に授業が始まった。最初の1週間ほどは、子どもたちは物珍しさと周りの人のサポートで家に帰るとその日の出来事を元気に話してくれた。 しかし、2週間が過ぎる頃になると周りの人もそんなに気を使ってくれなくなるのだろう、「学校に行きたくない」、「無視された」、「いじわるされた」などと言い始めるように なってきた。 「パパはすぐ慣れるって言ったのに、全然なれないじゃないか」と、3年生の長男には言葉の壁はかなり高いようだ。1年生の長女も「英語全然わからないからいやだ」と言いい、 それにつられてキンダーガーテンの末娘も「行きたくない」と言い出し始めた。それでも、学校には通い続けてくれた。
言葉の壁は、子どもたちにとってもかなり高いようである。日本では子どもたちに英語の勉強は何もさせなかった。もっとも、やらせようとしてもやらなかったであろうが。 子どもだからすぐに慣れる・・・。現実は甘くない。
子どもたちにとって幸いなことの一つは、グレンドーバーには日本で暮らしたことのあるESLの先生がいることだ。 ベイリー先生は少し日本語ができるので、子どもたちは何とか意思疎通ができたし、それは私たち親にとっても同様だった。 ベイリー先生は英語に早く慣れようにと、いろいろな教材を与えたり教えてくれたり、私たちに家庭での取り組みをアドバイスしてくれた。 もっとも、子どもたちが普段日本語で話すと“You don’t speak Japanese.と注意する厳しさもある。
さらに、私は小学生の頃から英語圏で過ごした経験のある友人がいたので、経験やアドバイスなどを聞くことができた。 その中で、子ども同士や学校でよく使われる簡単な英語のフレーズを教わった。紙にまとめて子どもたちに教えると、 長男が興味を示してトイレの場所を知りたいときはどう言うのかと逆にきいてきた。彼はさっそく学校で担任のメイ先生に “May I go to the restroom?“ と言って“Good English!“ と誉められたそうである。友達には“Can I play with you?“ と話しかけた。 最初のうちはなぜか相手にされなかったようであったが、時がたつにつれこのフレーズをうまく使うようになった。 コミュニケーションのきっかけがつかめず戸惑っていた長男にとって、これらのフレーズが大きな転機となったのは言うまでもない。 また、先生にも良い印象を与えたようで、「メイ先生は僕には優しんだ」などと言ってよく慕っていたようである。
キンダーガーテンの末娘は友達とうまくやっているようである。だが、もっと多くの英語を覚えるのかと思っていたがそれほどでもなく、 英語の単語が徐々に増えていく程度である。長女はあまり積極的に話しかけないので、長男より年下であるにも関わらず、英語になかなか慣れることができないでいる。 それでも、学校で習った英語を家で話したり、家族が英語を話すと発音がおかしいと指摘したりする。彼女は学校でよく話を聞いているようである。
ある日、学校から手紙が届いた。開けてみると、子どもたちが健康診断を受けなくてはならないので、クリニックに電話をするようにというものである。 声だけが頼りの電話は私にとってとてもハードルが高い。ともかく、電話をして予約を取りたいのだが、相手の言っていることがほとんど、 いや「さっぱり」と言う方が的確、聞き取れない。私の言っていることもうまく通じない。私が“My English is…“ と言いかけると相手が「大丈夫」と言っているように聞こえた。 ただ、そのトーンは今更“not so good.“ などと言われなくても十分わかっているという感じでもあった。そして、私が日本人であることがわかると、 日本語が話せるスタッフが1時間後に出勤してくるので、その人が後で電話をしてくれることになった。
デニーは日本で子どもたちに3年間英語を教えていた経験があり、本人はかなり忘れてしまったと言うが日本語がとてもよく話せる。 子どもたちの健康診断の当日には、デニーが通訳をしてくれた。それでも、専門用語の多くは辞書を引かないとわからなかったので、 3人分の問診票を記入し終わるのに1時間程度かかった。その後、予防接種をするのだが、何種類ものワクチンを一度に打つのは、話には聞いていたが驚きであった。 結局、すべてを終えるのに3時間近くかかったが、クリニックのスタッフは皆親切にそして丁寧に対応してくれてとてもありがたかった。
一ヶ月後、追加の予防接種に行った時もデニーが対応してくれた。このときは、一つのワクチンを打つだけだったので時間はかからなかったが、 少し込み入った話をするときは片言の英語ではなかなか難しく、デニーがいてくれて本当に助かった。
デニーはとても感じのいい女性で、私たち家族はすぐに親しくなった。彼女は日本から帰国したあと日本的なものにあまり触れる機会がなかったようで、 レキシントンの日本人補習校や幼稚園それに長男がやっている剣道などの話に興味を持ってくれた。幼稚園で七夕祭りが行われるのでそれを一緒に見学に行ったり、 私たちのアパートに食事に誘ったりした。
デニーも私たちをバーベキューパーティーに招待してくれた。デニーの家は両親と弟の4人で暮らしており、プールがあり地下室のある大きな家であった。 子どもたちはプールが好きだったので、とても楽しい時間を過ごした。その日は父の日でいくつかの家族が集まってパーティーが行われた。 デニーのお母さんの作るバーベキューはとても美味しく、お父さんはとても誠実そうな人で主役であるにもかかわらずいろいろと世話を焼いてくれた。
私の英語はまだまだ片言の域を抜け出せていないが、思っていた以上に話をすることができた。妻も料理のことや生活のことなどいろいろ話していたようである。 アメリカに5年間駐在していた大学時代の友人が「しょせん、お互い人間なんだから何とかなるよ」と言っていたが、確かに人として触れ合うということは 言葉以上の何かを伝えられるようにも感じた。
一日一日と過ぎていき、この地に次第に溶け込んでゆくそんな印象である。しかし、言葉に慣れるのとうまく話せるようになるのとには大きな差があり、 自分が思っていた以上に苦労の連続である。それでも、私も家族も何とかやっていけるようになってきた。
先日、デニーと彼女の友達を我が家の夕食会に招待した。ちょうど私の誕生日であったが、それに気づいたのはその数日後だった。
子どもたちはスクールバスでグレンドーバーに通っている。アパートから徒歩20分の距離であるが、歩いて通う子どもたちは見たことがない。 朝早く7時前に家を出なくてはならないが、現地校では給食があるので到着してから朝食を食べられる。妻は朝食を作らなくてよいので助かっているが、 スナックが多いようで栄養バランスを心配している。昼食も日本の給食のように整った献立がないようで、子どもたちは珍しさもあって喜んでいたが、だんだん物足らなく感じているようで ある。ただし、ケンタッキーダービーの前日は特別らしく、今日の給食はすごかったよ。」、「おいしかった。」と言っていた。
子どもたちのクラスは児童が20人程度である。3年の長男のクラスは担任1人で授業が行われているが、1年の長女のクラスには担任ともう一人アシスタントがいて 2人で運営されている。末娘はキンダーガーテンで、担任の先生と時々アシスタントの先生も加わって子どもたちの面倒をみてくれる。
下校もスクールバスで3時前には戻ってくる。そのとき、園児の場合はバス停まで迎えに行き、ID を提示しなければならない。
こちらの学校には連絡帳というものはないが、メモを作って子どもたちに渡すと、先生は快く返事を返してくれる。それ以外に、学校との連絡は電話と電子メールを使い、 直接学校に出向くことは数えるほどである。電話は授業中のことが多いので留守番電話にメッセージを残すことになる。 ESLのベイリー先生とはほとんど電子メールでやり取りを することが多い。
学校にはコンピュータが整備されている。子どもの話では、台数は決して多くはないが、時間を決めて使用するなどシステマチックに運用されているので、低学年の児童も 十分に使うことができる。子どもたちはこちらに来てコンピュータに触れる機会が増えて、いくつかのホームページの閲覧はすぐに一人でできるようになった。
末娘の話ではキンダーガーテンでは外で遊ぶことが多く、時々英語の勉強をするようである。長女と長男は算数などの授業を受けているが、ESLクラスの授業が毎日のようにあり それをこなすのに精一杯のようである。ある日、長男が通常のクラスで行われたテストが全くできなかったと言って見せてくれた。他の子はみんな簡単に出来ていたと言っていたが、 内容は環境問題に関する光合成などの知識が必要なもので、3年生にしてはかなりレベルが高いように思えた。
子どもたちは4月に入学したが5月には年度末になる。そんなある日学校から便りが届いた。 International Day という年度末をかざる重要な行事に関するものであった。
グレンドーバーは外国の児童が比較的多いそうで、国際的な内容の授業に特色がある。学校からの便りによると、International Dayは年度末をかざる重要な行事で、私たちはそれに向けて日本について紹介するものを作らなくてはならないらしい。
どんなものを作ればよいのかさっぱり見当がつかなかったが、息子が剣道をしているので一つはそれについて作ることにした。 補習校の授業のあとに行われる剣道クラブでの稽古の様子についてまとめ、竹刀と袴、防具について説明するプリントを作成した。
娘たちは折り紙が大好きで、日本から折り紙のたくさんの用紙と本を持ってきて、毎日のように折り紙を折っていた。 そこでもう一つは折り紙ついてプリントを作成することにした。娘たちに自分の好きな折り紙について聞き、その作り方などを解説した。 娘たちに自分の作った折り紙を一緒に持って行くように勧めたが、恥ずかしがって持って行かなかった。
さらに、当日は各家庭から一品の食べ物を持って行くことになっていた。こちらに来て一カ月以上経過していたがまだ生活に慣れるには程遠く、 和食の材料はなかなか手に入れられなかった。妻はいろいろと作りたいものがあったようだが、いろいろ悩んだ末、小ぶりのおにぎりをたくさん作って持っていった。
International Dayは平日の夕方に行わる。家族そろって学校に出かけると、カフェテリアで多くの人が夕食のために並んでいた。 縦長に置かれたテーブルにはすでにシチューやパスタ、手の込んだデザートなどいろいろな料理が並んでいた。最初は全員には行き届かないのでなないかと思ったが、 次から次と料理が置かれ最後にはとても食べ切れないのではと思うほどになっていた。
子どもたちは友達を見つけて一緒に食べたり、校内をみんなでに歩き回ったりした。私たちはいろいろな家庭料理を楽しんでから、 各教室を回ってみた。そこには、いろいろな国について紹介したパネルやボックスなど、手の込んだ展示物が並べられていた。 それは丁寧に見ていてはとても時間内には見られないほどであった。子どもたちの教室では先生と会って学校での様子について聞くことができた。
International Dayの最後は体育館で行われるオーケストラとコーラスである。最初に古代ローマを思わせる服を着た校長先生が挨拶をされ、 次にPATの会長さんと思しき人が挨拶をした。そして、高学年の子どもたちによるオーケストラとコーラスが始まった。それはとても素晴らしいもので、 私はその音色と歌声に溜まった疲労をしばし忘れた。
International Dayの様子 中国の紹介展示
日本で息子は1年間野球をやっていた。こちらに来ることになったとき「野球できるの」と質問してきた。本場だからできることは間違いないだろうが、具体的なことは何も知らなかった。幸いなことに、こちらの研究室の方に小学校について話を伺ったとき、ベースボールのプログラムがあることも教えていただけた。登録の期限は4月半ばのまだあわただしい時期であったが、なんとか申し込むことができた。
このベースボールのプログラムはExtended School Program (ESP) という組織が監理しているもので、期間は5月から7月である。いくつかのリーグがあり、その中からアパートに最も近いリーグを申し込んだ。所属するチームはESPによって決められ、後日コーチから連絡があるとのことであった。5月になったある日、突然電話がかかってきた。ヤンキースのトーマスコーチからである。もちろん、松井の所属するニューヨーク・ヤンキースとは違うヤンキースである。電話では必要なことがちゃんと聞きとれたか不安だったので、電子メールをお願いすると、コーチは快くメールを送ってくれた。
最初の練習日はあいにく雨が降りしきる寒い日となり練習はできなかったが、打ち合わせのため集まらなくてはならなかった。練習は火曜と金曜の夕方に2時間ずつ行われる。6月からはリーグ戦が始まり、最後にトーナメントがあって負けるとそのシーズンの最後の試合となる。
説明が続く中、息子の名前が書かれた封筒が配られてきた。何やら重要なものであるらしい。家に帰って開けてみると、手紙とピザ屋のFoundation cardと書かれたカードが十数枚入っていた。これを一枚十ドルで売ると六ドルがチームの運営資金になるというものだ。アメリカではこのような資金集めがよく行われているようだ。必要なお金を集めてくれた方が私たちにとっては都合がいいのだが、これも文化の違いからくるものだろうか。おまけになかなか売れるものではないらしく、多くは買い取ることになるらしい。
週に2日で2時間の練習は思っていたよりかなり短いのだが、これも9チームが同じグランドを使用するから無理もない。グランドは本格的なもので、フェンスで囲まれた十分な広さの球場には外野が芝生で敷き詰められていた。ダッグアウトもあり、試合のときのために観客席や電光掲示板まである。これは9歳以上の小学生を対象としたマイナーリーグ用のグランドで、同じ公園の敷地内にはTボール専用のグランドと中学生を対象としたメジャーリーグ用のグランドが別々にある。
しかし、このグランドはそれほど恵まれたものではないようだ。たまたま別の公園で行われていた試合を見たことがあるが、そのグランドのダッグアウトはブロック造りでピッチングエリアやバッティングゲージまで備えられていた。なんとも恵まれた環境である。このようなところから大リーガーが育っていくのであろうか。
最初の練習は10名程度の子どもたちが参加していた。名簿がないので確かではないが、ヤンキースには14名が所属しているらしい。 コーチは2人で、後に1人が加わった。グランドに入れるのは選手とコーチだけで、私は外から見るだけである。
このとき息子は英語が出来なかったが、ベースボールの用語はおおよそ理解できたので、練習にはさほど支障はなかった。 子どもたちのレベルは思っていたほど高くなく、日本の少年野球の方がかなり高いという印象を受けた。ただし、レキシントンには多くのリーグがあり、 レベルの高いリーグもあるらしい。コーチも子どもたちのお父さんがボランティアで行っているようであり、プロの指導者のような感じは受けなかった。
コーチはグラブの付け方やバットも持ち方など初歩的なことは教えるが、日本の少年野球のように、ボールの投げ方やバットの振り方をこと細かく教えることはしない。 野球をするのは初めてという子どもたちもいて、これで一ヶ月後に試合ができるようになるのだろうかと心配になってきた。
しかし、チームの総員が十数名だとすべての子どもたちがレギュラーになれる。守備練習では常にポジションが与えられ、 バッティング練習もバッターボックスに入ってコーチの投げる球を打つことができる。これは動機付けとして十分で、練習にも身が入る。
ポジションに就いて練習することなど数えるほどしかなかった彼にとって、ヤンキースでの練習はとても楽しいようだ。練習のある日はなぜか学校の宿題もしっかりやっていた。 こちらに来て友達とうまく遊べず不安になることが多かった息子にとって、ヤンキースはまさに水を得た魚である。「アメリカではキャッチボールとは言わないんだ。 “誰々pass ball to 誰々”という言い方をするんだ。」と目を輝かせて言ったり、チームメイトの名前をいち早く覚えて掛け声をかけたりしていた。練習も一生懸命やり、終わると道具の後片付けを手伝ったりした。
トーマスコーチはそんな彼を気に入ってくれたようである。練習や試合の終わった後に、コーチは何度か彼を家に招いてくれたことがある。 そこでキャッチボールやバッティング練習をしたり、チームメイトと遊んだりした。一人でアメリカ人の家に行くのは抵抗がありそうなものだが、 息子は喜んでコーチの車に乗り込んで行った。私がトーマスの家まで迎えに行くと満足した顔をしている。その頃はまだほとんど英語が理解できなかったはずだが、ベースボールにはそれを感じさせないものがあるのだろうか。
6月からリーグ戦が始まった。9チームが所属するので8試合が行われる。このときはじめて他のチームを見るわけだが、どのチームも強そうである。 レギュラーの多くが高学年で、中には大人と同じぐらいの背丈の子もいる。対する我がヤンキースは、大半が3・4年生で頼りになる6年生はマイコだけである。最初の試合は
10人しか集まらなかったので全員参加の総力戦である。何点取られようが1点を取ろうと皆一所懸命だった。試合時間は最大1時間半で、後半になって流れが変わってきた。 最後の攻撃で2点差まで詰め寄ったがファーストのランナーが飛び出してタッチアウト、'Oh, my God!’という声が聞こえてきた。
後に聞いた話であるが、 昨年のヤンキースには多くの6年生がいた。今年は彼らが出て行ったので、チームが大幅に若返って選手もコーチの数も減った。ある試合ではメンバーが足らずに没収試合になることさえあった。 何とか一勝してほしいと願ったが、ついに一勝もできずリーグ戦が終わった。
そして、トーナメント戦が始まった。翌週に旅行を控えていたので、最初の試合は息子にとって最後の試合でもあった。最も勝てなければ、ヤンキースにとっても最後の試合である。
試合開始の時間となった。しかし、なかなか始まらない。なんと相手チームはメンバーが集まらず、ヤンキースは不戦勝である。最後の試合がなんてことにと思ったが、練習試合が始まった。 練習試合であっても子どもたちは一所懸命だった。試合後、息子はしんみりとした顔していた。これがみんなに会える最後だと知っていたからだろうか。 トーマスコーチは次の試合は出られないのかと念を押すように尋ねてきたが、無理であることを伝えると何ともさみしそうな顔をしていた。息子を預かってもよいとまで言ってくれていたのだが。
旅行から戻る日のこと。その日の夕方はヤンキースのみんなでレジェンドリーグを観戦することになっていた。しかし、とても間に合いそうになかったので、 息子は行けないと伝えてあった。行きは悪天候や渋滞にあって11時間ほどかかったので、朝早く出ることにした。帰りは天候にも恵まれ渋滞もなく、レジェンドリーグに間に合いそうであった。 家に戻ってコーチに電話をするとOKという返事であった。何と息子のためのチケットを取っていてくれていたのだ。
数ヶ月が過ぎた。日本人補習校で文化祭が開催されるので、久しぶりにトーマスコーチにメールをしてみた。コーチは快く訪問してくれて、息子の授業も参観してくれた。次の日は、 息子を誘って久々にベースボールの練習をした。その数週間後に、チームメイトの誕生日会に招待された。その子の家に一泊するのだが、彼は全く臆することがなかった。
アメリカの学校の夏休みは長い。小学校は6月から8月の半ばまで夏休みだ。「2ヶ月半!」妻から悲鳴にも似た言葉が出てくる。
アメリカでは夏休みの間にサマーキャンプが行われる。無料のキャンプから有料のキャンプ、数時間のプログラムから全日のプログラムと様々なものがある。 どれがよいのかさっぱりわからなかったとき、私が通っていたESLのサンディ先生が相談に乗ってくれた。サンディは知っているキャンプに電話で問い合わせてくれたり、 インターネットで調べてくれたりしてくれた。そして、私たちの希望も考慮に入れて、ESPのサマーキャンプにいくつかの空きがあるのでそこがいいのではないかと勧めてくれた。
ESPのサマーキャンプは全日のプログラムで6月の第2週から8週間行われるデイキャンプである。私たちは7週間分を申し込んだ。始まるのは7時台と早いが、 朝食が出るので朝ごはんを食べて行かなくてもよい。昼食には弁当を持っていく必要がある。週に1回プールの日があり、子どもたちはそれを楽しみにしていた。
しかし、数日すると最初に息子がサマーキャンプに行きたくないと言い出す。次いで娘たちも嫌だと言い出す。遊ぶことがほとんどのはずなのに、小学校の方がましだと言う。 最も読書の時間があるらしいが。ESPのようなプログラムがないので、英語のできない子は意思疎通に苦労するようだ。それでも何とかなだめすかせてキャンプに連れて行った。
ある日、息子のグループが映画を見に行くことになった。朝、その費用として7ドルを受付で渡した。夕方帰宅すると息子の様子が変だ。話を聞いてみると次のようであった。
映画館でみんなに7ドルずつ戻された。しかし、彼だけ返してもらえず、袋に残っていた4ドルだけを受け取った。みんなはそれでチケットとスナックを購入したが、 彼は買うことができなかった。おろおろしていた彼に、若い男の先生が2ドルを渡してくれた。
ともかく息子は憤慨している。次の日の朝、事情を聴きに行った。ただ、これを英語で説明するのは一苦労である。返事は、お金はその都度ビニールのバックに入れて名前を書いて 入れるので渡されているはずだ。ポケットに入れていて落っことしたのではないか。私は私で、お金を渡したことは記録されているし、息子には戻っていない。 結局、引率したスタッフが朝はいないので、後で事情を聴いてくれることになった。
次の朝、事情を聞こうとすると、彼女は私から立ち去ってしまう。お金を手渡した係りの人もちらっと見えたが、すぐに見当たらなくなってしまった。彼女にしつこく尋ねて行くと、 引率したスタッフに聞いてくれとのこと。彼は今日の夕方ここに来ることになっている。
その日の夕方、私たちはライアンという青年に会った。彼の話によると、もう一人のスタッフが名前の書かれたビニールのバッグを子どもたちに渡したが、 息子のものだけ見当たらず、仕方なく袋に残っていた4ドルを渡したそうである。息子のことを心配したライアンはさらに2ドルを手渡したが、 それは彼のポケットマネーである。その話は息子の説明と一致していた。私は”I really appreciate your help.”とお礼を言った。
息子は「お金はどうなったの」と私に聞いてきたので、「ライアン先生は、自分は悪くないのに、心配して自分のお金から2ドルをくれたんだよ。 もうそれでいいじゃないか。」と答えた。彼はそれ以上なにも言わず、ライアン先生のことを話し始めた。
ライアン先生はスポーツが得意な好青年で、たぶん大学生であろう。息子は彼とハンドベースやバスケットボールなどのスポーツでキャンプの大半を過ごしていた。 ランチも一緒に食べることがあり、お互いに分けあったりすることもあったらしい。実際息子はライアン先生のことを慕っていた。
末娘は「ジュナイアンとスナイアンとオレクセン」という3人の友達が出来て、キャンプから帰ると毎日何をして遊んだのか話してくれた。 ただ、私が「ジュナイアンとスナイアンとオレクセンと何して遊んだの」と聞くと「違う、ジュナイアンとスナイアンとオレクセン!」と注意される。 どうも発音がおかしいらしい。
長女は水泳が得意なので、毎週のプールの日を一番楽しみにしていた。隔週に行われる小旅行でウォーターパークに行った時は、 とても楽しかったらしい。ただ、事前に水着が必要との説明を受けていなかったので、念のためにと持たせてよかったと胸をなでおろした。 日本だったら遠足などのときは持ち物や注意事項を書いた紙を配布したりすると思うが、ここでは張り紙一枚に目的地と集合時間と解散時間、 そしてランチが支給されると書かれているだけである。
サマーキャンプは最初の5週間と最後の2週間では場所が違っていて、5週間が過ぎるとライアン先生ともジュナイアン、スナイアン、 オレクセンともお別れである。妻はライアン先生へのお礼にと息子にせんべいの詰め合わせを持たせた。夕方、彼がおいしかったと感想を述べてくれた。 さすがにお会いする機会は訪れないだろうと、子どもたちと一緒に写真を撮ることをお願いしたら、快く応じてくれた。
このサマーキャンプで子どもたちの英語を話す能力はかなり進歩した。
後半のキャンプからは事前に電子メールが届いた。何とランチが支給されるらしい。それでも念のため最初の日は弁当を持たせた。 その日の帰りには日程表も配られて最初のキャンプに比べると対応がいい。かなり期待できそうな気がした。