最近登った山

車山 長野県、 1925m 2010年1月
Chandra Sila インド、 3679m 2009年10月
聖山 長野県、 1447m 2009年4月
Karmiyal Chaura インド、 3213m 2008年10月
篭ノ登(カゴノト)山 長野県・群馬県、2227m 2008年10月
唐松岳・五竜岳 長野県、2696m・2814m 2008年9月
磐梯山・猫魔ヶ岳 福島県、1819m・1404m 2008年5月
Khalia Top インド、 3747m 2007年11月
小遠見岳 長野県、2007m 2007年9月
三岩岳・窓明山 福島県、2065m・1842m 2007年8月
大嵐山 福島県、1635m 2007年5月
大嵐山 福島県、1635m 2007年4月
万太郎山 福島県、960m 2006年12月
Khalia Bugyal インド、3367m  2006年11月
社山 栃木県、1827m 2006年10月
浅草岳 新潟県・福島県、1585m 2006年8月
蓬田岳 福島県、 952m 2005年12月
Mauna Loa ハワイ、4169m 2005年9月
Naina Peak インド、2611m 2005年2月
虫倉山 長野県、1378m  2004年12月
東吾妻山・一切経山 福島県、1956m・1798m 2004年8月
女峰山 栃木県、2483m 2004年6月
高旗山 福島県、968m 2004年4月
花塚山・羽山 福島県、919m・897m 2004年3月
大滝根山 福島県、1192m 2003年11月
荒海山 福島県/栃木県、1581m 2003年10月
日留賀岳 栃木県/福島県、1849m 2003年8月
大将棋山・額取山 福島県、1056m・1009m 2003年4月
矢大臣山・桧山 福島県、965m・993m 2003年5月
Gorson Peak インド、3798m 2002年10月
韓国岳・高千穂峰 宮崎県、1700m・1574m 2002年10月
大倉山・三倉山 栃木県/福島県、1885m・1888m 2002年8月
太郎山 栃木県、2368m  2002年6月
鎌倉岳・移ヶ岳 福島県、967m・995m 2002年3月
子持山 群馬県、1296m 2001年9月
帝釈山・田代山 栃木県/福島県、2060・1926m 2001年7月
谷川連峰 群馬県/新潟県、1978m 2000年10月
吾妻連峰 福島県/山形県、2035m 2000年8月
那須連峰南部  栃木県、1915m 2000年7月
三株山 福島県、842m 2000年5月
夫婦山・月山 栃木県、1342m・1287m 2000年3月
蓬田岳  福島県、952m 2000年3月
九重連峰 大分県/熊本県、1787m 1999年10月
会津駒ヶ岳 福島県、2132m 1999年8月
七ケ岳 福島県、1636m 1999年4月
横根山 栃木県、1373m 1999年3月
由布岳 大分県、1584m 1998年12月
蔵王連峰 山形県/宮城県、1841m 1998年10月
那須連峰  栃木県、1917m 1998年5月
高原山 栃木県、1795m 1998年5月
日山  福島県、1056m 1998年4月

 

ラダック紀行 すばらしい風景は写真でどうぞ → 1.1MB

 

2003年8月21日から同29日までインド最奥部、海抜4500mのヒマラヤ山地に新しく作られた天文観測所を見てきました。同国北西部のジャムー・カシミール州ラダック地方のそのまた奥地で、チベットとの国境地帯です。デリーに着いた翌朝ラダック地方の主要都市であるレーに飛びましたが、ここはインダス河上流の河畔にあり、すでに海抜3500mです。そこにあるインド天体物理学研究所(本部はインド南部のバンガロール)の小さな出張所宿舎で高度順応のために丸3日間過ごしました。ラダック地方はインドにありながらチベット文化圏に属し、多くのラマ教寺院があります。レーの町の中にもマニ車やラマ僧の姿を多く見かけます。 これらのラマ教寺院をはじめ色々なところ(車の中にも)にダライ・ラマの写真が掲げられているのが印象的でした。そして周りの景観の主役は、インダス河やその支谷沿いに広がる目にしみるような緑のオアシス、それを囲む一木一草ない丸裸の急峻な山々、そしてその奥の雪を頂いた高い峰々です。

 

4日目にいよいよ観測所に向かう7時間のドライブに出発しました。インダス河の谷沿いの道をさらに上流に向かって170km遡るのです。途中の景観はまさに地質学や地球物理学の博物館そのものでした。両岸の荒々しい山々は、折り曲げられたり斜めないし垂直にすら起こされて断ち切られたりした地層や、グスグズに砕かれて地層すら消えてしまった岩の集まりでできていて、ヒマラヤ山脈を形成したインド亜大陸のユーラシア・プレートへの衝突がいかに激しいものかをまざまざと感じさせてくれます。1つの岩塊が様々な種類の岩の集合でできたものもみられました。大部分の山は茶色をしていますが、なかには山全体が紫色がかっていたかと思えば隣の山は青緑色になっている場所もありました。河原には温泉も湧いていました。120kmほど進んだあたりから河の流れは干上がった河跡湖の緑の帯に沿ったゆるやかなものになり、夢のような美しい風景でした。そのあたりで南に折れ、チベットとの国境を越えてさらに南東 からやって来るインダス河最上流部と分かれて、しばらくラフな道をたどり、午後遅くやっと天文台のあるハンレという小さな村に着きました。ここは海抜4200mで、ハワイのマウナケア山頂と同じ高度です。望遠鏡はさらに300m高い山の上にあります。10時頃外に出て夜空を眺めましたら、半分くらい雲がありましたが、人工光の影響は全くなく、天の川がきれいに見えました。折から最接近中の火星のぎらぎらする 赤い輝きが特に印象的でした。明け方になって寝ていて息苦しくなり、2,3度目が覚めてついには起き出さざるをえなくなりました。高度の影響のようです。

 

翌日午前に山頂部にある望遠鏡を見ました。口径2mの反射望遠鏡が1年ちょっと前から稼働し、バンガロールの本部から衛星回線を通じたリモートコントロールで観測が行われます。ですから通常は天文学者はここまで来ません。もらった簡単なパンフレットの数値や受けた説明 、自分の印象などから、ここは総合的に世界で2番目にいい天文観測のサイト、と判断されます。1番はチリ北部のアタカマ高地です。そこはあらゆる点で他をしのいでいます。晴天率の点でハンレはそこに及ばず、ハワイのマウナケアと同程度です。しかし 夏季を除く寒さのため、サブミリメートル波長域(電波と遠赤外線の間)ではマウナケアに勝っています。ここはまた、緯度や経度の点でも有利です。他の好条件の観測サイトと昼夜・南北半球を異にするからです。今後ここは国際的な観測所に成長してゆくでしょう。この日見た青空は本当に深い色でした。さして大きくないこの山は真っ平らな緑のじゅうたん(夏だけですが)に全周囲まれ、その先は高度6、7000mの山々が連なっています。その一部はチベットとの国境をなすもので、ほんの15kmほど先です。まことにはるばる来たものだ、との感慨を深くしました。天文学は実に因果な学問で、こんな地の果てのような場所 を好むのです(その最たるものは空気のない地球外ですが)。私はこれまでに世界各地の天文台を訪れましたが、ここが一番宇宙に近い天文台のように感じました。今回は観測はなく見学のみなので、ハンレには1泊しただけで、早くも昼前にはレーに向かって帰途につきました。

 

今回のインド・ラダック地方の旅行で一番印象的だったのは岩石の圧倒的な量でした。地球がまさに岩石でできた惑星だということをまざまざと見せつけられた思いがしました。近年に確立された太陽系生成理論では、太陽系は主に水素とヘリウムでできたガス雲が収縮して誕生したとされています。その雲にごく僅か(質量で1%程度)に含まれていた塵(岩石の粉のようなもの)が集まったものの1つのが地球、というわけですが、その塵がいかに多量だったかを思い知らされた気がします。塵も積もれば山となる、どころか、地球になるのです。地球は文字通り岩石の惑星なのですが、そのことを私たちはふだんあまり実感しません。それは地球の陸地のかなりの部分、とくに日本の国土などは豊かな緑に覆われているからです。しかしこれはこれまでの46億年の地球の歴史なかでも最近の4億年にしかなかったことです。地球の生命は40億年ほど前に誕生したと考えられていますが、4億年前までは海の中にしか生息できず(オゾン層がなくて太陽紫外線がふりそそいだため)、陸の上には一木一草なかったのです。今回見たラダック地方の荒々しい風景はまさにそうした原始の地球の姿を思わせ るものでした。

 

北極星と才差の話

(この文章は「国学院雑誌」2001年1月号に掲載されたものであるが、ここに再録する。)

 

哲学者カントは普遍的なものの代表として「わが頭上の星空と内なる道徳律」をあげた。東洋にあっては孔子は、「衆星が「北辰」にしたがってそれを巡るような、徳による政治を行うべし」と説いた。このように夜空の星々は変わらぬ理想の象徴としてしばしば使われる。確かに星々は互いの配置を変えず明るさも変えない(少数の例外を除いて)。恒星といわれる所以である。しかしながら星空は存外に短い時間でその見え方を変えるものである。それなのに星空は永遠不変、との観念が強くて、誤ってひきあいにだされる場合がしばしばみられる。さきの「北辰」は北極星をさす、と多くの注釈書でされているのもその一例である。実は孔子が活躍した紀元前 500 年頃には北極星はなかったのだ。この星がまだ生まれていなかった、というのではなく、次のような事情による。

 

地球の自転軸の方向は空間に対して一定不変ではなく、黄道面(地球が公転運動をする平面)に垂直な方向の周りにみそすり運動をする。その結果、地球の自転軸を延長した先の天の北極・南極は星空の間を円を描いて移動してゆくことになる。その半径は 23.5 度、周期は 26000 年で、この現象を「才差」という。その周期のなかでたまたま現在は天の北極の近くに割合明るい星があり北極星とよばれているが、したがってこの星は過去や将来には天の北極から遠く隔たってしまうことになる。この星が北極星の名にふさわしくなったのはわずか500年前あたりからで、それ以前には孔子の時代も含めてずっと北極星というべき星はなかったのだ。実際、「北極星」という言葉もなかった(「北極」はあった)。この言葉はヨーロッパでは16世紀にはじめて登場するし、東洋では18世紀末に日本人(橘南渓)が造語したらしいという。したがって孔子が「北辰」で意味したものは「天の北極」と解釈すべきなのである。これらの点については福島久雄著「孔子の見た星空」(大修館書店、1997 年)という好書がある。

 

今の北極星は天の北極から現在( 2001 年)0.73 度の角距離にあり、西暦 2102 年に最小の 0.46 度にまで近づいた後、次第に離れてゆく。しかし BC 2800 年前後(縄文中期にあたる)には別な星が天の北極の近くにあった。これは竜座アルファー星(ツバン)で、4等星と暗い星だが、それでも真の北の目印としては貴重であったろう。実際、エジプトの大ピラミッドの「王の部屋」から当時この星が見えるようにトンネルがつくられているという。さらに時代をさかのぼって縄文時代の始め頃、正確にはBC 13000 年頃にはきわめて明るい北極星があった。それは織女星(琴座アルファー星、ベガ)である。ただし天の北極から最小でも4度の角距離があった。

 

織女星が北極星だったことを別にしても、縄文時代の星空は本当に素晴らしかったはずである。それは2つの理由による。第1は言うまでもなく人工の照明光に妨げられなかったからである。もっともこれは何も縄文時代にまでさかのぼらなくても、電燈による照明が普及するつい100年ほど前まではずっとそうだった。縄文時代、とくにその前半にのみあてはまるもう1つの理由がある。それは天の川がその最も太く明るく輝く部分(これは射手座にあるが日本あたりからは南の空に低くかすんでしか見えない)が天頂近くにあって全天を横切る光景が見られたことである。これは本当に筆舌に尽くしがたい壮観なのだが、残念ながら現在は南半球でしか見られない( 4 月頃なら明け方近く、6月頃なら真夜中、8 月なら 20 時頃)。個人的な思い出であるが、私は20年ほど前にはじめて天文観測の世界最適地の1つである南米・チリにある米国の天文台へ観測に行った。はじめて見る上記のような天の川の姿に私は圧倒され、望遠鏡による観測を忘れて眺め続けたほどである。これが BC 17000 年頃から BC 5000 年頃にかけて日本も含めて北半球で見られたのだ。しかもこのような光景が展開したのは冬季であったから、空もさえわたって、いっそう見事だったと思われる。その頃には星座の見え方も現在とはかなり違っていた。現在と反対に、冬には蠍座が、秋には北斗七星が頭上に輝き、南十字星も秋の南の空に見えた。反面、オリオンは地平線近くでほとんど見えず、昴(すばる)も夏の南の空に低くしか昇らなかった。これらは全て才差による変化である。

 

ひときわ明るい中心部から両側へ流れる天の川が燈火一つだにない星空を二分する光景が冬には毎夜見られたことを思うと、私は縄文人に大きな羨望の念をおぼえるのである。

 

しし座流星雨と南天の天の川

天文現象には誰の目にも明らかなほど目立つものから、大望遠鏡でしかとらえられない(物理的なスケールは別として)細かなものまで、無数にあるが、一般の人々にも強い印象を与える現象が5つある、と私は思っている。それはまず、皆既日食・流星雨・オーロラ・大彗星である。言うまでもなくオーロラは天文現象ではなく地球物理学的現象だが、ここでは空(そら)、とくに夜空に見える現象として拡大解釈しておく。大彗星は肉眼で見て尾が2,30度程度以上の場合に限られよう。これらを見ると多くの人々は心打たれるだろうし、日本から見られない場合には海外にまで出かけて行く天文ファンも少なくない。天文現象に詳しい人ならこの4つをあげることには異論がないだろう。私はこれらと並んで南天の銀河も加えて5つとするのである。一過性ではないので「現象」というのは適切でないかもしれないが、極めて印象的な光景である点では他に勝るとも劣らない。この5大現象のうち、私自身はオーロラを除いて一応全部見ており、ここではそのうちで最近目にした2つについてとりあげる。

 

流星雨とは字の通り流れ星が「雨が降るように」極めて多数出現することである。ただ、本当に文字通り「雨のように」かと言えば、そのようなことも歴史上にはなくもなかったかもしれないが、流星雨の出現例とされていても実際にはそれほどではない場合が大部分だろう。ただ、流星の記憶はいわば残像効果のようなものをもつので、後から思い起こすと空一面に雨のように現れた、という印象を残すもののようではある。昔の絵に描かれているまさに雨のような流星の光景も、おそらくこの残像効果による画家の印象に基づくものであろう。もちろん流星雨はめったに見られるものではなく、大ざっぱに言って一地点では100年に一度程度であろうか。そのような流星雨が昨年11月19日未明に日本あたりで見られたのだ。「しし座流星雨」といわれるものである。

 

そもそも流星とは、太陽系の空間に漂う砂粒かそれよりやや大きい程度の岩石質の固体が地球とぶつかって大気中で発光する現象であることはよく知られているが、その砂粒は彗星からもたらされたものである。彗星は凍結した水・炭酸ガス・アンモニアなどに岩石質の固体が混ざったものとされている(「汚れた雪だるまモデル」)が、太陽に近づくたびに前者が蒸発するとともに砂粒が軌道上にまき散らされ、その群が彗星とほぼ同じ軌道を動くようになる。もしその彗星の軌道が地球のそれと交差している場合には毎年決まった時期に流星が多く見られることになる。しかもその流星は、砂粒群の運動ベクトルと地球の公転運動ベクトルの差に対応する星座の方向から放射状に現れることになるので、その星座の名前をとって何々座流星群とよばれる。そのもっとも顕著な例は8月12日の夜半過ぎを中心に1時間あたり5,60個程度の出現を見せるペルセウス座流星群である。この他にも流星群は多数あり、年間に見られる流星のかなりの部分は何らかの流星群に属している。そうでない流星(散在流星という)も散逸して目立たなくなった流星群に起源がある。

 

しし座流星群も同類のもので、通常は11月17日前後の夜半過ぎに10ないし20流星/時間を見せる。しかし1998年秋からはより活発な出現が毎年期待されてきた。この流星群の母彗星であるテンペル・タットル彗星(公転周期33年)が1998年2月に太陽に接近したために、新たな流星物質の放出があったと推定されたからである。実際1999年には地中海あたりで見事な流星雨が出現したという。それが2001年11月19日未明には極東で大出現を見せるだろう、との予測が3,4人の天文学者から出された。同彗星が1699年と1866年の太陽接近時に放出した流星物質の塊の中を日本あたりで見やすい時間帯に地球が通過する、というのである。この出現予測には従来のそれに比べて2つの新しいアイデイアが盛り込まれていた。1つは、放出された流星物質群が運動をする過程で木星の重力によって受ける軌道の小さな変化(摂動という)を計算に入れたことであり、もう1つは、300年あるいは百数十年たっても流星物質の塊はさほど散逸しない、との推測である。しかし後者については疑問視する学者も多く、どちらかといえば、楽観的な傾向のあるアマチュアの間で期待が高まった。しかも新月期で月明かりは全くなく、晴天率も高い時期なので、絶好の条件下である。

さて当夜を私は長野県御岳山の南にある木曽観測所(東大理学部付属)で迎えた。私の専門分野は太陽系天文学ではないので、上記の予測を自信をもって評価することはできないが、もし当たって見事な流星雨が出現したのを見逃したなら生涯に悔いを残すことになるので、見てみるにしくはない。幸い私は翌夜から同観測所の望遠鏡でインドの天文学者と観測をすることになっており、そのインド人が少し早く到着したので、共同研究のデイスカッションのために、私も前日から滞在していた。もちろん流星雨を見ようというのは私だけでなく、観測所の所員やその家族もいた。ここは「光害」が全くなくて星空を見るには絶好の場所なのだ。ある予報によれば、流星出現のピークは2時20分頃と3時10分頃という。しかしすでにかなりの流星が出ているという声で、私が屋上に出たのは1時5分前だった。寒さに備えて厚着をして。流星を楽しむにはほとんど何の道具もいらない。普通の星々と違って、地球の自転に合わせて追尾して光を蓄積するようなこともできないので、写真を撮っても明るい流星しか写らないし、空全体に現れるので、肉眼で眺めるのが一番いい。ただ出現数を数えてみることにした。100個を数えたのは35分後の1時30分で、200個目は1時55分だった。その15分後には300に達して次第に活動が激しくなっているのがわかる。2時30分頃には550を数えたが、同時に2,3個も現れて数え切れなくなり、計数はやめた。東天にあるしし座の頭のあたりの輻射点から放射状に出るが、そのあたりが特に多いわけではなく、空一面の出現である。したがって同時出現でなくても当然かなり数え落としがある。しし座流星群の特徴の1つは明るい流星が多いことなので、一層見応えがある。流星が消えた後、煙状の「痕」を残すものもあり、なかにはそれが10分近く見えていたこともあった。出現数は2時30分頃から4時30分頃まで高原状のピークを示していたが、その後やや減少してきたように思われた。寒さも耐え難かったしで、4時40分頃にひきあげた。結局私がこの夜に見た流星は3000個以上にのぼるだろう。

 

しし座流星群は今年11月19日にもう1度大出現するだろう、との予測がされている。しかし残念ながら今度は北米あたりである上、月の条件は満月間近で最悪である。その後テンペル・タットル彗星が次に回帰するまでの30年ほどは流星雨は見せそうもない。したがって私にとって、今後再びあのような素晴らしい流星の乱舞が見られる可能性はあまりなさそうだ。今の私の脳裏には、前述のような残像効果により夜空一面の雨のような流星の光跡が残っている。

 

もう1つ、冒頭にあげた5大天文ショーのうち南天の銀河にもふれておきたい。わが国では天の川を見ることはかなり難しくなってしまったが、市街光の全くないところで見るその姿は美しいものである。とくに夏の宵、南の空にはその最も太く明るく輝く部分が見られる。しかしそれでも高度が低くて大気減光のためにかすんでしまっている。これが、南緯30度あたりの南半球へ行くと、まさに天頂にやってくるのだ。そしてこのひときわ明るい中心部から両側へ流れる天の川が星空を二分する眺めは、夜空の美観としては至上のものだと私は考えている。銀河天文学的にはこれは当然で、渦巻き銀河としての銀河系の中心方向とその円盤を横から見る姿なのだ。私は1985年3月にはじめて天文観測の世界最適地の1つである南米・チリにある米国の天文台へ観測に行った。はじめて見るそのような天の川の光景に私は息をのみ、望遠鏡による観測を忘れて眺め続けたほどだ。その後、チリの空にはやや劣るが、南アフリカの天文台でも見たし、オーストラリアでは何度この眺めを楽しんだことか。私の研究対象の天体は天の川沿いにあるので、出かけるのはいつもその季節なのだ。(1つ言い添えると、この光景は縄文時代前半には日本あたりの緯度で見えた。)

 

今年5月にもチリへ観測に行ってきた。昨年3月に引き続き5度目である。しかしこの2回とも17年前ほどの感動はなかった。見慣れてしまったせいではないはずだ。2つ理由があると思う。1つは、去年も今年も本来のチリの空ではなく、薄雲が絶えずあって透明度が悪かったこと。もう1つに、人間の眼は加齢と共に水晶体がわずかながら白濁してきて、白内障でなくても弱い光の感度が悪くなる、と聞いたことがあるが、そのせいもあるのではないだろうか。だとすると、これは私にとって大変悲しいことだ。5大天文ショーのうちで1つ見残しているオーロラを見ることになる時にも、もっと若かったなら、との思いをもつかもしれないし。 

 

2001

これまで主題講座を2種(”宇宙の科学02--「宇宙人はいるか」”と”コスモロジー98--「宇宙に果てはあるか」”)を開講してきたが、来年度から新たにもう1つの主題講座を開講する。テーマは”宇宙の科学03--「星座と恒星の天文学」”である。季節毎に見える星座の解説から始めて、恒星の構造や誕生から死に至る進化などについて説明する。多数の受講を希望する。ただし私の他の主題講座と同じく、講義中の私語は厳禁である。

 

1999.8

私の専門は天文学、それも光学観測である。しかし日本には強力な光学望遠鏡がないし天気も悪いので、近年私は国内ではほとんど観測をしなくなり、大望遠鏡と美しい星空を求めて海外の、地の果てのようなところにある天文台に依存することが多くなった。それらの大天文台で見る星空は、本当に素晴らしいものである。そして宇宙の果てをも見せてくれる超大望遠鏡が日本のものも含めて幾つも造られつつあるし、宇宙の誕生の秘密も解き明かされようとしている。私達はきわめて知的に幸運な時代に生まれあわせているのだ。私の授業ではこうした宇宙のロマンを君達に伝えたいと思う。

 

文科系の学部学科のみから成るわが国大に学ぼうとする君達は、自然科学、それも天文学など何の役に立つのか、と思うかもしれない。しかし、バランスのとれた幅広い知性の涵養を目標とする教養総合にあっては、天文学のように君達の専門から遠い分野ほどその 意義が大きい、というのが私の持論なのである。

 

私は力いっぱい授業をする。それゆえ私語は厳禁である。みだりでなければ出入りは自由であるから、私語がしたくなったら教室外へ出ること。

 

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