国学院大学法学部横山実ゼミ


鳥居忠雅が描いた九代目市川團十郎の絵の謎解


横 山 実

鳥居忠雅が描いた「鹿島立」の掛け軸の裏には、九代目團十郎を描くと記されています。ところで、九代目は、1838年生まれで、1903年に64歳で没しています。他方、鳥居忠雅は、彼が没した翌年に生まれており、1943年から歌舞伎座などで看板絵を描くようになり、1949年に鳥居家の姓を名乗ることが許されています。その彼が、なぜ九代目團十郎の「鹿島立」の絵を描いたのでしょうか。

この絵には、忠雅の落款がありますので、忠雅が、襲名披露の口上を述べている九代目團十郎を想像して描いたのでしょう。その絵の上には、「かし満立 今日を寿く 海すずし」の句と「七代の流風に倣いて 辛卯夏日 三升題 印」の画賛が書かれています。当時市川家の芸を継承する責任者であった五代目市川三升が、この句を作り、賛を書き入れたと、私は推測しています(國學院大學の岡田哲教授は、三升がこの句を作った可能性を指摘しています)。

五代目三升は、九代目團十郎の娘婿でしたが、銀行家出身でしたので、市川宗家の継承者として長らく認められてきませんでした。しかし、彼は、九代目の人脈を引き継ぎ、第二次大戦後に歌舞伎を復興させるのに、多大な貢献をしたのです。その一つが、歌舞伎座の建物の新築でした。歌舞伎関係者の苦労により、その建物は、1950年12月に竣工して、1951年1月には、こけら落としの興業が行われています。それを目撃した忠雅が、歌舞伎の発展を願ってこの絵を描き、同じく発展を願っていた三升に「鹿島立」(鹿島神宮での旅立ちの祈願)の句を作成してもらい、それを絵の中に書き入れてもらったのでしょう。

七代目團十郎は、幕末の天保の改革で、贅沢禁止令の生贄として江戸払いの刑を受け、江戸から退去して成田山新勝寺に蟄居しています。彼は、天保の改革が終わると、その苦難から脱して、舞台に復帰しています。そして、名優としての名声を得て、1859年に没しています。彼の五男である九代目團十郎は、兄の八代目團十郎が自殺したのち、1855年に九代目團十郎を襲名しています。彼は、明治維新後の西欧化の中で苦労を重ねたのちに、日本文化の見直しの機運の中で、歌舞伎が隆盛になるのに貢献したのです。その象徴的な出来事が、1887年に明治天皇の前で彼が演じた初の天覧舞台でした。 忠雅は、このような経緯を踏まえて、歌舞伎隆盛の礎を築いた九代目團十郎の姿、おそらく、37歳での襲名披露の姿を描くことによって、第二次大戦後に新築された歌舞伎座での歌舞伎の隆盛を、五代目三升とともに願ったのでしょう。

五代目三升は、この絵に画賛を入れてから5年後の1956年に没しています。告別式には、彼の業績をたたえるために、十代目團十郎の称号が追贈されています。他方、忠雅は、市川宗家に養子に入った九代目市川海老蔵が、1962年に十一代目團十郎になったことを見届けて、歌舞伎の隆盛の中で、1970年に没しています。

今回の鎌田コレクション館での新春浮世絵名品特別展(2015年1月2日から4日の間に開催)では、歌舞伎役者による獅子舞の「石橋」の絵4枚(政信、春章、春信、歌麿が描いた絵)とともに、皆様の今年の「鹿島立」を願って、この掛け軸を展示いたします。以上の謎解きを参考にしながら、鑑賞していただければ幸いです。(2014年12月25日に記す)

(この随筆は、2014年12月30日の房日新聞で掲載されました。)

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