国学院大学法学部横山実ゼミ


江戸時代初期の謎の絵巻物


横 山 実

日本とオランダの交流が400年目を迎えた記念として、アムステルダムでオークションが開かれた。その出品作品の一つが、謎の絵巻物である。この絵巻物は、二枚の和紙に描かれたもので構成されており、全体の長さは28.2x265cmである。絵の写真からうかがえるように、ここには、3人の外国人、子供、女、漁師、商人、侍といつた人々の姿が、描かれている。オークションのカタログによれば、2枚目の絵の末尾には、「Hoei(?) 2年3月10日 Sadaijin Iehiro」と記入されているという。

絵巻物の絵の線には無駄が無く、使っている色は少量であり、背景も描かれていない。ここから判断すると、絵巻物の2枚の絵は、短時間の内に一気に描いたと思われる。絵で描かれている人物は、子どもたちに囃し立てられながら馬に乗って疾走するオランダ人を始めとして、右から左に動いており、躍動感がある。1枚目の人々は、皆、左に走っており、その先に2枚目の絵があることを予感させられる。この構図は、後世の浮世絵の続き絵で、よく見られるものである。

(Painted in 1705)

オークションの特徴から判断すると、売り主は、オランダ人と想像できる。そこで、絵の最初の部分に描かれている外国人は、おそらくオランダ人であろう。謎解きは、江戸時代にオランダ人がどのような形で日本と交流を始めたかを、検討することから始めよう。

17世紀になると、オランダとイギリスが、アジアの商業競争に参入した。イスパニアとポルトガルは、キリスト教の布教活動と連動して商業活動をしていたので、徳川幕府が確立すると、日本との交易を禁止されることになった。元和3年(1617年)には、まず、イスパニア人が通交を拒否された。元和9年(1623年)には、イギリスが、商戦の不利とオランダとの紛争の結果、平戸の商館を閉鎖して、日本から撤退した。寛永16年(1639年)には、ポルトガル船の来航が禁止された。このような経過によって、オランダが、日本との交易を独占することに成功したのである。

徳川幕府は、キリスト教の禁止のために、鎖国政策を進めることになった。寛永11年(1634年)には、長崎の商人に命じて、「築島」を築かせ、そこにポルトガル人を押し込めてしまった。そして、5年後には、「築島」に居住していたポルトガル人が、国外退去させられた。寛永18年(1641年)には、オランダ人が、平戸からその築島に移され、そこに閉じこめられ、鎖国体制が完成したのである。それ以降、この1.3ヘクタールほどの扇形の人口の島は、出島と呼ばれることになった。出島は、一本の石橋で、長崎江戸町とつながっているだけであった。その橋には、警固役の番士が見張っていたので、オランダ人も日本人も、出島を自由に出入りすることができなかったのである。

オランダ商館の館長は、原則として1年交替で出島に勤務した。新任の商館長は、江戸に参府し、将軍に謁見して土産を献上し、また、海外事情を記したオランダ風説書を提出した。従って、絵巻物に記されている寶永 2年(1705)3月10日の時点では、オランダ人は、江戸への参府の時以外には、出島を出て、街道を馬で疾走することなど、考えられなかったのである。

(Painted in 1705)

日本法制史を研究しておられる小林宏先生にお尋ねしたら、家熈(いえひろ)は、江戸時代の公家で、当時の第一級の知識人であったという。そこで、日本史の事典を調べてみると、家熈は、寶永元年に左大臣に任ぜられ、その3年後には関白に昇進している。それゆえに、絵巻物に書かれた肩書きは、正確だったことになる。寶永2年当時の家熈は、38歳であった。彼は、詩歌、書画、茶、花の道に通じていたので、晩年には、その道の第一人者という名声を得た。

浮世絵の元祖といわれる岩佐又兵衛や菱川師宣は、寶永には亡くなっている。寶永には、浮世絵師では、鳥居清信、西川裕信、宮川長春などが活躍していた。しかし、家熈は、これらの絵師とは系統を異にしていたであろう。浮世絵というためには、大和絵の風景の中に挿入された点景としての人物ではなく、「時様の風俗」の人物そのものを描いたものでなければならないという。この絵巻物では、「時様の風俗」の人物そのものが描かれている。果たして、公家の高官であった家熈が、この絵巻物の絵を自ら描いたのであろうか。

(Painted in 1705)

絵に描かれている外国人が、商館長とその供だと仮定すると、家熈が彼らに会ったのかが問題となる。絵に書かれた寶永 2年(1705)3月10日は、実際に会った日なのであろうか。もし、会ったとすれば、その場所は、京都なのであろうか。江戸への参府の途中で京都にやってきた商館長が、家熈に拝謁したのであろうか。一つの仮説として考えられるのは、家熈が、拝謁に来たオランダ商館長に興味を示し、彼のために、この絵巻物の絵を描いたということである。

ところで、この絵には、庶民の姿が生き生きと描かれている。家熈のような高位高官の者が、果たして、このような庶民の姿を目撃していて、それを描いたのであろうか。あるとすれば、オランダに帰国したときに見せたいという、商館長の希望に応じて、これを描いたのではないだろうか。他方、その可能性が否定されると、家熈は、オランダ商館長の求めに応じて、お抱えの絵師に即興でこの絵を描かせ、最後に署名をしただけということになりそうである。

それにしても、この絵巻物の表装は、貧弱である。また、それを入れる木製の箱もない。それゆえに、家熈が公の贈り物として、商館長のためにこの絵巻物を用意していたとは考えがたい。おそらく、即興で描かれた絵をもらった商館長が、その2枚の絵を、巻紙の状態で保存していて、後日、絵巻物に表装したのではなかろうか。表装が貧弱なのは、日本から去った後に、表装したためかもしれない。また、署名も貧弱なので、商館長が、後で記録のために、中国人にでも書かせたのかもしれない。この絵巻物は、謎に包まれており、多くの推測が可能である(2000年11月14日に記す)。

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