国学院大学法学部横山実ゼミ


韓国の春川・ソウル・板門店での春合宿(2)


横 山 実

(この随筆は、ゼミ誌から転載しました。)

1999年3月25日(木)

 6時半に起床する。同室の中條君と、パンおよびジュースで、朝食を済ませる。シャトルバスで良才に出て、そこから地下鉄に乗って、ソウルの中心部に行く。8時半にロッテホテル内の大韓旅行社に行く。全員のパスポートを預かって、板門店へのツアーの手続をする。東京の旅行社で予約し、代金を払っていたし、また、前日に柳さんに電話で確認してもらっていたので、手続に問題はなかった。ゼミ生の多くは、この間にトイレに行っていた。

 9時に板門店行きのバス2号車に乗った。今回は、私達が一番大きな集団だったために、写真屋さんから、前の座席にまとまって座るように指示された。1号車に乗車予定の客が遅れたために、私達のバスも、しばらく発車できないでいた。この時間の損失のために、フィリッピン軍参戦記念碑への立ち寄りが省略されたのは、残念であった。バスは、立派な道路を北上していった。爆薬が埋め込まれたコンクリートの門を、数回くぐった。北側の軍が南下してきたとき、この門を爆破させ、道路を破壊することによって、ソウルへの侵攻を、一時的にでも阻止するということであった。地下鉄の終点の先で、北に向かう列車の線路は、切断されていた。バスは、その切断の地点で一時停止した。線路の切断は、南北分断の悲劇を象徴するものであった。

肉弾10勇士忠魂碑 (Memorial for Ten Brave Korean Soldiers)

 私達は、記念碑のある場所に着き、そこで休憩をとった。そこには、韓国従軍記者追悼碑、肉弾10勇士忠魂碑などの記念碑が建っていた。記念碑の写真を撮ったりしているうちに、休憩時間は終わった。バスは、さらに北上していった。臨津江支流に架かっている戦略拠点の「自由の橋」を渡った。これは、軍事拠点で、写真の撮影が禁じられていた。この付近の野山には、大量の地雷が埋められているということであった。バスは、共同警備区域の入り口に到着した。国連軍(主力はアメリカ軍)の自動車の先導で、キャンプ・ボニファスに入った。

ボニファス基地では、まず、ホールの中に案内された。私達は、スライドによる、南北分断の歴史の映像を見た。また、今回のツアーで事故などが生じても、それに対して国連軍が責任を負わないことを、了承する旨の書面に、サインをした。このような書面を用意しているのは、契約社会のアメリカの影響であると思った。次いで、国連軍の軍人が利用するセルフサービス形式のレストランに入った。そこでは、アメリカ風の料理を食べることが出来た。ゼミ生たちは、アメリカの雰囲気を楽しみながら、好きな食物を腹一杯食べていた。食事の後、売店を覗いた。私は、そこで、韓国の伝統的な衣装の人形一組を買った。本橋さんは、日本語版の板門店の写真集を、買っていた。本橋さんは、6月の教育実習の時に、その写真集を活用して、高等学校で授業を行ったところ、大変に好評だったという。

 休憩が終わると、私達のバスは、国連の自動車に先導されて、共同警備区域内をゆっくりと動き、軍事境界線へと向かった。バスの前面には、非戦闘車両であることを示す緑の旗が、掲げられていた。軍事境界線の近くで、私達はバスを降りて、まず、軍事調停委員会の建物に入った。その建物の両端で、国連軍の監視兵と北側の監視兵が、対峙していた。私達は、軍事調停委員会の建物の南側の端で、建物の陰に体を半分隠しながら、北側を監視している韓国軍の兵士を、目撃した。建物の内部にも、韓国軍の兵士が直立不動で、部屋の中を監視していた。背の高い優秀な兵士が、この監視の仕事を受け持っているということであった。國學院大学博士後期課程で宗教を専攻している李さんは、その一人で、兵役の時に、板門店で監視の仕事をしたということであった。

軍事境界線の北側にいるゼミ生 (Meeting Room on Armistice Line at Panmunjeom)

 軍事調停委員会の建物の中心には、会議用の大きなテーブルがあった。その中央に、マイクの線が東西に走っていた。まさに、そのマイクの線が、南北に分かつ軍事境界線だったのである。私達は、線を越えて北側に行き、そこで、写真屋さんに記念撮影してもらった。軍事境界線を越えることが出来るのは、この建物の中だけであった。次に、自由の家と名付けられた展望塔に上がった。すぐ向かいには、北側の板門閣という大きな建物が立っていた。また、国連軍の青色の監視哨舎に対峙する形で、北側の黄色の哨舎が、要所要所に点在していた。展望塔では、北側に指差すことが禁じられた。北側の監視の兵士が、自分たちに対して指差したと勘違いして、攻撃に出ることを、避けるためである。

 その後で、私達は、バスに乗って、国連軍の監視哨舎のある小高い丘に行った。そこからは、共同警備区域の風景を、眺めることが出来た。すぐ左下には、斧殺害時件の現場、国連軍の第5監視哨舎、帰らざる橋が見えた。さらに遠くには、北側の宣伝の村が見えた。そこには、高い鉄塔が建てられていた。鉄塔からは、宣伝放送が流されているという。

国連軍の第5監視哨舎の先は、軍事境界線の北側 (Scenery of North Korea)

 南側の非武装地帯にも、農民の住む村があった。先祖伝来の土地に住む、大成洞の村民は、200名ほどである。村民以外の外部の者は、結婚以外には、そこに移り住むことが出来ない。村民は、子供の教育を受けさせる義務を除いて、韓国国民としてのすべての義務から、解放されている。しかし、北側から攻められる危険があるので、韓国軍の兵士の監視の下で、農作業をしている。日没前には必ず家に戻り、夜間はそこにとどまっていなければならない。経済的には恵まれているが、行動の自由を大きく制約された生活を、送っているのである。

 軍事境界線付近の非武装地帯には、自然が残されている。そこは、野生動物や鳥たちの楽園となっている。一日も早く、南北の対立が解消して、この地帯が、人々にとっても楽園になるように、祈りたい。

 バスは、丘を下り、斧殺傷事件の現場である、ポプラの切り株の跡と、帰らざる橋の端にある、国連軍の第5監視哨舎の間近を通って、ボニファス基地の入り口に戻った。そこで、国連軍に提出した、自分のサイン入りの書面が、各自に返却された。バスガイドは、記念の品として、持ち帰って欲しいと述べていた。冷戦の緊張を示すものとして、大切に保存しておきたい。

 バスは、川沿いの新しい道を走った。以前に板門店のツアーに参加した谷君は、この道を知らないと言っていた。川の堤防には、延々と鉄条網が張り巡らされ、監視塔が点在していた。監視塔の兵の中には、私達のバスに手を振ってくれた者がいた。その姿を見て、1985年当時に比べて、冷戦の緊張が薄れたことを感じた。川は漢江の下流と合流したが、そこからソウルへ遡る漢江の堤防にも、鉄条網が張り巡らされていた。

3時半には、ロッテホテルに戻った。帰りのバスの中で、写真屋さんが記念撮影の写真の注文を受けていた。多くのゼミ生が注文したので、写真屋さんは大喜びしていた。そして、その晩、遠路であるにもかかわらず、ホテルまで写真を届けてくれたのである。

 予想よりも早くソウルに戻ったので、徳寿宮に入った。この場所には、もともと、李王朝の第9代成宗王の兄である、月山大君の私邸があった。ところが、豊臣秀吉の命令による日本軍の侵攻によって、景福宮が焼けたために、その代わりとして、ここが臨時御所として使われた。それ以降、ここは徳寿宮と呼ばれるようになったのである。日本人は、豊臣秀吉による侵攻について、ほとんど無知であるが、李王朝時代の人々に大きな傷跡を残したのである。

高層ビルの谷間にある徳寿宮では、李王朝時代の大きな木造の建物と、美しい庭園を保存していた。私達は、40分間、そこで散策を楽しんだ。ちょうど、韓国式および西洋式の結婚衣装を着たモデルを使って、美しい庭園で写真撮影が行われていた。1985年に私が春川に滞在していたときには、韓国の伝統的な衣装を着ている人を、時々見かけた。しかし、今では、中高年の女性でも、伝統的なチョゴリやチマを、普段着として着用することはなくなっている。ちょうど日本の和服と同じようになっており、特別の祝いの時以外は、めったに伝統的な衣装を着なくなっているのである。そのために、伝統的な衣装は、高価なものになっているそうである。

徳寿宮の中和殿 (Deoksugung Palace in Seoul)

 次いで、ゼミ生が土産物を買うのを望んでいたので、ロッテホテルの10階の免税売場に行った。そこの客の大半は、日本人である。経済の不況といっても、日本の経済力がまだ強いのを、思い知らされた。私は、40分ほどウィンドー・ショッピングを楽しんだ。

 土産を買って満足したゼミ生と共に、地下鉄で良才に戻った。ホテルで夕食をとるのは味気ないので、レストランを探すことにした。ゼミ生は、プルゴギを食べたいというので、ハングルでプルゴギと書かれた看板を掲げていたレストランに入った。ソウルの中心部と違って、外国人が来るのは希であるので、そのレストランには、英語や日本語のメニューは置いてなかった。私達は、ガイドブックを手がかりとして、手探りで料理や飲み物を注文した。酒を飲みながら、骨付きカルビの焼き肉を食べ、その後で、おいしいプルゴギを食べた。また、デザートとして、果物をご馳走してもらった。それでも、一人当たりの代金は、2千円で済んだ。その後で、ゼミ生は、バッティング・センターを見つけて、野球のバットでボールを打つのを楽しんだ。私達は、8時半のシャトルバスで、ホテルに戻った。ゼミ生は、その後も、ホテルの中でボーリングを楽しんだという。

 10時に、全員が集合した。4年生が、それぞれ、ゼミ論文執筆の構想を報告したので、私が、それについてアドバイスを与えた。その後で、ゼミの年間活動の予定表を使って、私が、ゼミ活動のガイダンスを行った。最後に、ゼミ長の選挙が行われた。投票の結果、藤澤君が、ゼミ長に選ばれた。旧ゼミ長の仲井君は、これで肩の荷を降ろしていた。その後は、夜遅くまで酒を飲み、また、話をしたりゲームをしたりして楽しんだ。

3月26日(金)

 8時過ぎに起床する。窓から外を見ると、小雨だった。そこで、南山タワーに行くのを、取りやめにする。9時にフロントに集まり、チックアウトの手続をする。荷物を預けて、ホテルを出る。地下鉄を乗り継いで、会賢駅に行く。買い物のために、たっぷりと自由時間を取ったので、南大門マーケットの中を、気ままに歩く。雨が止んだし、売り手は片言の日本語を話すので、買い物するのは楽だった。私は、焼き海苔、朝鮮人参のエキス、キムチを買った。キムチは叔父のために買ったのであるが、あやうく、高級品と銘打った日本製のものを買うところだった。韓国の家庭ではキムチを作らなくなったと、聞いていたが、日本から輸入のキムチがあるとは、驚きであった。

 集合時間に、皆が集まった後、昼食をどこでとるか、話し合った。私と中條君が、小さな食堂の並ぶ小道があることを話したら、そこに行くことになった。そこの食堂では、中高年の女性が、競い合って、蕎麦、うどん、ビビンバなどを売っていた。その一軒に入り、狭い座敷で昼食をとった。庶民ための食堂だったので、料理の味は、必ずしも良いとはいえなかった。それでも、食堂の女性は、大人数で入ったのを喜んで、冷やしソバを3皿ほど、サービスでご馳走してくれた。食堂の女性の心意気を感じた。

南大門マーケットの入り口 (Namdaemun Market in Seoul)

 昼食の後、小雨の中を明洞まで歩いた。明洞は、ソウルの代表的な繁華街である。しかし、残念ながら、そこで買い物をする時間はなかった。帰りの地下鉄の車中では、数人が商品を持ち運び、声高に宣伝して、それを売り歩いていた。江口君は、その物売りから、品物を買っていた。ホテルには、2時前に戻った。私達がホテルで荷物を受け取ったら、すぐに、飛行場行きのリムジンバスがやってきた。本橋さんが乗り遅れそうになったが、そのバスで、飛行場に行くことが出来た。日本エアシステムのカウンターで搭乗手続をしてから、自由行動の時間をとった。私は、扇の舞の女性の人形を買った。

 柳さんが、私達の見送りに来てくれた。彼は、今日の大学院の授業で報告するために、徹夜して準備したという。その報告を終えて、水原から列車に乗って、見送りに駆けつけてくれたのである。私達は、柳さんを囲んで、出発ロビーで話を楽しんだ。柳さんと再会を約束して、4時に出国手続きをとった。私達の旅行中にしてくれた配慮に対して、改めて、柳さんに感謝の意を表したい。

免税店の前で (Kimpo International Airport)

免税店の前では、韓国の伝統の衣装を着た女性が、客寄せをしていた。本橋さんと斉藤君は、その女性と一緒に写真を撮っていた。免税店で洋酒を買って、5時発の飛行機に乗った。窓際の席ではなかったので、上杉君と話を楽しんだ。食事の後で、気流の悪いところを通り、飛行機が、がたがたと揺れた。私は、このような揺れを何回か経験しているが、初めての人にとって、それは不安だったことであろう。7時に、雨の成田空港に到着した。税関を通る際に、春川で買ったパイプが、マリファナや阿片の吸引用ではないか、尋ねられた。思わぬ問で、面食らったが、事情を説明したら、すぐに通関できた。成田の飛行場で記念撮影してから、解散した。中條君は、江戸町の実家に帰るという。私は、荷物を宅急便に預けて、8時10分発の京成のスカイライナーに乗った。本橋さん、関君、谷君と話しながら帰った。

エピローグ

 李漢教先生は、少年法の研究を通して、澤登俊雄先生と昵懇の間柄である。お二人の努力により、國學院大学と江原大学校は、姉妹校の締結をすることになった。8月18日に、締結の調印式のために、江原大学校総長の河瑞鉉先生が、國學院大学を訪問された。私は、1985年に江原大学校に滞在していたときに、ときどき、河先生の研究室を訪れて、日本語で話をしたものである。河先生とは、それ以来の再会であった。姉妹校となったので、今後、韓国江原大学校と交流がさらに盛んになることが、期待される。

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