在職42年、2000年の3月本学を去る。この希有の区切り年に際会することなく逝かれた方たち、その言葉を織り交ぜながら、書きしるしてみたい。
「道のべに咲くやこのはな花にだに えにしなくして我が逢ふべしや」。学内でお見掛けしたことのある言語学の碩学、金田一京助博士(没年昭和46年、享年89)のうた。幾たびか板書した。
就任(昭和32年)以来謦咳に接した瀧川政次郎先生(平成4年、94歳)。日本法制史の大家、「実定法を研究する者は歴史を、法制史をやる者は実定法を勉強せねあならん」。
昭和38年政経学部から法学部が分離発足、昭和40年にボン大学留学の機会に恵まれた。英留学帰途の中島昭三さん(法)(平成7年、67歳)と堀晋作さん(政経、のち昭和41年経済学部)(平成7年、65歳)。助手時代以来の仲間3人、ライン河畔でグラスを傾けた。
翌年帰国、間もなく大学紛争に入る。昭和44年、いわゆる6・27事件。私の学生部初参加、齊藤博さん(経)(平成3年、65歳)が副部長であった。大学は、学則処分によらず、「教育的処理方針」をもって対処した。その中心的役割を担ったのが、堀さんである。「同郷高杉晋作の言に做えば、生徒が事を起こせしは我が身の至らなさ、馬手(めて)をもって弓手(ゆんで)を鞭打つ」。昭和40年代の紛争の時期、学長として長期に亘り陣頭指揮に当たられたのが、佐藤謙三先生(昭和50年、64歳)。個人的には全く面識はない。しかし公的作業では実に身近な方、心に深く刻印されている。
昭和55年度、学生部長を委嘱された。職員の方達の協力が有難かった。忘れ得ないのは佐藤英一さん(平成3年、43歳)。学生にも慕われた人、一文を草し悼んだ(本紙373号)。昭和56年1月18日、大雪の年、越後三山遭難の山岳部員4人が、25日ぶり奇跡的に生還。全学喜びに沸いた。当学生達のTV対応ぶりを松尾三郎理事長(当時)(平成元年、87歳)が、殊の外喜ばれたという。「何事も無理のないように」と声をかけ下さった。著作『玉車』には、三船久蔵十段の箴言(しんげん)「最悪の中、最前を見い出す」がある。
2期8年の学長職後、程なくして倒れられた春田宣さん(平成11年、68歳)。御苦労とともに、飾らず、力まず、ありのままな、常に他者を気遣う人柄が偲ばれてならない。1年祭が近い。
創立118年の3分の1強、思い出は両手の包みに有り余る。さくらの花の頃、国学院大学を離れる。その土壌に見せられながら。