薬害エイズ裁判は、帝京大ルート、厚生省ルート、ミドリ十字ルート、の三つのルートで裁判が行われている。本稿ではこれら三つのルートのそれぞれについて、起訴理由、焦点、検察側・弁護側主張、判決(の予定)をまとめた。
<起訴理由>
1985年5月から6月にかけて非加熱製剤を投与し、帝京大病院で治療を受けていた男性の血友病患者を1991年12月にエイズで死亡させたとして、帝京大副学長・安部英被告を起訴した。
<焦点>
非加熱製剤を投与すればエイズウィルスに感染し、エイズを発症して死亡させる可能性を1984年当時に認識できたかということが、安部英被告に業務上過失致死を成立させる要件である。
<検察側主張>
1984年5月に、米科学誌『サイエンス』にエイズの原因のウィルスを確認したと発表した米国立ガン研究所のギャロ博士が1984年9月に帝京大学病院の血友病患者を検査した際、患者のなかにHIV感染していることが判明した。このことから1984年中にはエイズに感染・発症する危険性があることを認識できたと主張した。
<弁護側の主張>
刑事責任を問われた1984〜1985年当時は、まだHIVの特徴は明らかにされておらず、検察官が依拠する海外の学者ですら危険性を十分に予測できなかったと主張した。そして、弁護側証人として、肝炎ウィルスの専門家で厚生省のエイズ研究班やエイズ調査検討委員会のメンバーとして国内のエイズ対策に深く関与した西岡久寿弥氏が出廷し、エイズ調査検討委員会の場ですら非加熱製剤の投与中止などを議論することがなかったことを明らかにした。さらに、静岡県立こども病院の血友病専門医の三間屋統一医師は、1985年7月当時、HIVに感染した人がエイズを発症する率は5〜10%と認識していた。そのうえでHIVが発症するまで長い期間がかかるレンチウィルスに属することを認識したのは1986〜1987年になってからのこと、と検察側主張と真っ向から対立する証言をした。
<判決の予定>
この帝京大ルート裁判は、早ければ2000年中にも判決が出される予定である。
<起訴理由>
ミドリ十字 元社長 松下廉蔵、元副社長 須山忠和、元専務 川野武彦(職位は犯行時のものでいずれも社長経験者)は、1986年1月に加熱製剤を発売した後も、HIVに感染した非加熱製剤の販売中止を指示せず、同年4月に大阪府内の病院で手術の止血のために非加熱製剤を投与された男性患者を約9年後に死亡させたとして業務上過失致死罪として起訴した。
<焦点>
初公判で三人は起訴事実を認めたため、焦点は非加熱製剤の危険性を明確に認識した時期、厚生省や医療機関との過失の重さの比較などをめぐる、検察側と弁護側との情状面での争いとなった。
<被告人主張>
<元専務 川野武彦>
代替品が用意できない状況では、病院側が非加熱製剤の自主回収に応じてくれない可能性があり、回収には厚生省の指導が必要であったと主張した。
<元副社長 須山忠和>
1983年に患者や家族向けに非加熱製剤の「安全宣言」を書いたとされる須山被告は、この「安全宣言」は当時としては国内の文献などに裏付けされた内容であったと主張した。
<元社長 松下廉蔵>
どの時点で危険性が有用性を上回るかの判断は一企業には重すぎる命題で回収のためには厚生省の指導が望ましかった、と主張した。
<検察側主張>
検察側は、ミドリ十字の社内資料をあげ、エイズが米国で蔓延している事実などを三被告が1985年5月の時点で認識していたと主張した。そして、血友病患者に正確な情報を伝えるかどうかを協議した1985年3月の社内討論会でも「あえて何の措置もとららない」と決定していたと指摘した。ミドリ十字は在庫処理のために加熱製剤の発売後も積極的に非加熱製剤の販売を続けたとして、患者の生命、健康よりも企業利益を優先した、と主張した。
<弁護側主張>
血液製剤のトップメーカーとしての安定供給は至上命題であった。厚生相が回収を指示せず、非加熱製剤の危険性に関する情報を積極的に提供しなかった以上、一企業が独断で回収することはできなかったと弁論し、厚生省や医療機関も絡んだ「複合薬害」出会ったと主張し、情状酌量を求めた。
<判決>
ミドリ十字ルートの裁判は、1997年3月の初公判から2年8月を経て結審し、2000年2月24日に大阪地裁は松下廉蔵被告に禁固2年、須山忠和被告に禁固1年6月、川野武彦被告に禁固1年4月の実刑判決を言い渡した。
<起訴理由>
安部帝京大学元副学長が罪に問われている帝京大学病院内で非加熱製剤の投与を受けた血友病患者の死亡、ミドリ十字ルートで問われている大阪府内の病院で手術の際に非加熱製剤の投与を受けた肝臓病患者の死亡の二件の事件について、1984年7月から1985年6月にかけて厚生省生物薬剤課の松村元課長の刑事責任を問うために起訴した。
<焦点>
帝京大ルートと同様に、非加熱製剤を投与すればエイズウィルスに感染しエイズを発症して死亡させる危険性を1984年当時に認識できたかどうかが焦点となっている。
<検察側主張>
医師免許を持つ担当課長として医師に非加熱製剤の使用中止を求めたり、製剤会社に販売中止や回収を指導しなかったりした過失が2人の四につながったと指摘した。
<被告人主張>
<松村元課長>
当時はエイズに関する情報の評価も定まらず、学会や医療機関からの意見もなかった。代替計画もないうちに、しかるべき措置を執らなかったことが犯罪だと言われても無理だ。
<弁護側主張>
当時はエイズの原因ウィルスの性質も明らかではなく、厚生省として対策をとるほど危険とは思われていなかったと主張し、最大の焦点とも言える非加熱製剤投与の危険性を認識した時期についての検察側の主張に反論した。
<判決の予定>
厚生省ルートの裁判は、1999年4月の第38回後半での検察側の立証をほぼ終え、陪審裁判官の交代や準備期間を経て、同年7月から弁護側の反対立証に入った。早ければ2000年春頃に証人尋問を終え、被告人質問に入る予定である。