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山一証券崩壊

高山 寛仁

 

本稿は山一証券崩壊について、おもに日本経済新聞社編(1998)『日本が震えた日〜【ドキュメント】97秋 金融危機』日本経済新聞社、第1章「ドキュメント・山一証券崩壊」にもとづいてまとめたものである。

 

1 社長会見

 自主廃業を決めた971124日の午前11時半から、社長の野沢正平、会長の五月女正治、顧問弁護士の相沢光江とともに東京証券取引所で記者会見に臨んだ。

 会見最後に野沢は突然、マイクを持って立ち上がり、「私たちが悪いんです。善良で能力のある社員たちに申し訳なく思います。ひとりでも再就職できるよう、みなさんも支援してください。」1)と涙ながらに絶叫した。海外のマスコミなどにはあまり受けの良くなかった「社長号泣」だが、3ヶ月前に急きょ社長に就任してから総会屋への利益供与事件の後始末、生き残りをかけた経営再建策の模索などに忙殺され、結局は山一証券百年の歴史に幕を自ら降ろす役目を負わされた野沢の無念さが伝わってくる。

 

2 自主廃業

 勤労感謝の日の振替休日にあたった19971124日のことであった。平時であれば静まり返っているはずの山一証券の本社(東京・中央区)には、夜も明けぬ午前5時ごろから社員が出社。午前6時から始まった臨時取締役会で、野沢正平社長が、「自主廃業を決めざる得ない。決議してほしい」2)と切り出し、万策尽きたことを知っていた出席者から反論はなかった。この瞬間、創業百年の歴史を誇り、従業員7千5百人、顧客からの預り資産24兆円に達する四大証券会社のひとつ、山一証券の消滅が決まった。負債総額は3兆円を超え、事実上、戦後最大の倒産となった。

 日本経済新聞が朝刊一面トップで、『山一証券、自主廃業ヘ 顧客資産保護へ日銀特融』と報じた22日の午前8時半から、山一証券の役員たちは休日を返上して会議を続けた。経営の厳しさはわかっていながら、海外の金融機関から「出資する」3)との朗報をあてもなく待つ役員、「大蔵省が何かウルトラCを考えてくれるのではないか」3)と期待する役員もいた。しかし、この日の午後10時から記者会見した大蔵省証券局長の長野あつ士が山一証券に2千億円を上回る簿外債務の存在を明らかにすると、「これは自主廃業を急げと告げられたようなもの」3)と観念する役員が多かった。23日も断続的に取締役会を開き、この日の夜には野沢が大蔵省に、「明日、(自主廃業を)決めます」4)と伝えた。自主廃業の定義、および、その事例はつぎの通りである5)

 「自主廃業」とは一般には聞き慣れない言葉だが、証券取引法34条に規定がある。証券会社は大蔵省の認可業種。このため、新たに業務をはじめる場合だけでなく、経営を続けることがむずかしくなって廃業したい時にも自由に出来ず、大蔵省の認可がいる。顧客から預かっている有価証券などの資産をすべて返還できることが認可の条件となっており、手続きとしては、@営業休止届けを蔵相に提出。A大蔵省の検査。B自主廃業の申請。C蔵相の認可。という順番になる。認可されると会社は解散、従業員は全員解雇される。

山一証券が会社更生法の適用申請を断念した理由について、24日に会見した弁護士の相沢は「山一は規模が大きく国際的取引も複雑にある。信用秩序維持や顧客資産保護に不可欠な日銀特融を会社更生法申請会社が受けた例がない」ためと説明した。

 19978月に山一証券系列の小川証券が証券事故で経営危機に陥り、自主廃業した例がある。しかし、山一証券は顧客から預かった株式、債券、投資信託などの資産が1997年9月末で23兆9千6百億円と巨額で、しかも海外で幅広く事業展開している。山一証券破綻の国内外での影響を最小限におさえるため、大蔵省と日銀は細心の注意を払う必要があった。蔵相の三塚博と日銀総裁の松下康雄は「号泣会見」に先立つ24日の午前10時半から相次いで記者会見し、日銀が山一証券に無担保・無制限の特別融資(日銀特融)を実施するなど顧客資産保護に万全の体制をとることを明らかにした。

3 分岐点

 199612月、東京都内のホテルに山一証券の首脳陣が人目を避けるように集まった。出席者は当時の会長の行平次雄、社長の三木淳夫と五人の副社長。全員が代表権を持っており、これに一部の役員と監査役が加わった。この時の極秘の会議が、山一証券の生死を分ける「最後の分岐点」だった。

系列ノンバンク、山一ファイナンスの不良債権を償却するため、その損失に見合う千五百億円を山一証券が負担するべきか否かが、議題だった。系列ノンバンクに対しては、野村証券が1996年9月に三千七百十億円、大和証券が199611月に千二百億円を資金提供して不良債権を償却する方針を発表。市場では日興証券と山一証券の出方に注目が集まり、両社の腹の探り合いが続いていた。結局、山一ファイナンスへの資金提供が決まった。日興証券が「系列ノンバンク二千四百七十五億円の支援金を拠出する」6)と発表した翌日のことだった。

 山一証券の代償は大きく、千五百億円を1997年3月期の特別損失に計上した結果、期末の株主資本は四千四百三十四億円に急減した。証券会社の健全性を示す自己資本規制比率の危機ラインの120%を維持しながら、含み損を処理する財務的な余力を失った。

 年が明けた1997年の株式相場は景気の先行き不透明感や金融機関の不良債権問題への懸念などから下げ足を速め、日経平均株価は1月13日には1万7千円割れスレスレまで急落した。この低迷相場のなかで山一証券の業績回復は望めず、さらに一部マスコミの報道による山一証券の「飛ばし」疑惑など逆風は一段と強まった。

 4月15日に山一証券は記念すべき創業百年を迎えたが、社内の気勢は上がらない。このころ、すでに野村証券の総会屋への利益供与事件が燃え上がっており、東京地検特捜部などによる強制捜査に始まり、酒巻英雄社長の引責辞任、元常務の逮捕、そして証券界の衝撃を与えた酒巻の逮捕へと突き進んでいった。

 7月30日、山一証券本社に東京地検の強制捜査が入り、ぞくぞくと逮捕者を出した。追い打ちをかけるように、大手リース会社「昭和リース」への損失補填に絡んで当時の社長三木、副社長白井が再逮捕され、顧客の山一証券に対する信頼は地に落ちてしまう。同日発表した1997年9月中間決算は、収益基盤が弱いところに強制捜査を受けて以降、機関投資家などから株式や債券などの売買発注停止が相次いだ影響で四大証券のなかで唯一、経常損益が赤字になった。山一証券の収益環境は日に日に厳しくなり、抜本的な経営再建策が急務となっていた。

 こうしたなかで、山一証券が起死回生の生き残り策として期待をかけていたのが外国の金融機関との提携だった。

 

4 外資提携工作の失敗

 クレディ・スイスは提携先としては最有力だった。同社が東京証券取引所に上場した時の主幹事を務めるなど親密な間柄にあった。だが交渉は延々として進まなかった。次々と難題が降りかかった山一証券にとっては、ゆっくり提携を考える余裕を失っていた。またクレディ・スイスでも別の事業計画が進行していたため、山一証券との交渉を進めるゆとりはなかった。

 色よい返事をもらえる可能性は乏しくなる中、欧州のふたつの金融機関に最後の望みを託すしかなかった。しかし、最初の金融機関との接触を終えたところで、帰国の途につかざる得なくなった。22日からの三連休明けの資金繰りがピンチになっていたためであった。山一証券にとっては時間が足りなくなってきていたのだ。

 

5 引導を渡したマーケット

 山一証券が必死に外資提携も含めた経営再建策を模索したにもかかわらず、先行き不安を感じ取った市場は非情だった。最後まで生き残りのための努力を続けていた山一証券に引導を渡したのは株価の急落だった。

 山一証券の株価はバブル崩壊後、収益悪化を背景に長期低迷していたが、それでも二百円を割り込むことはなかった。この防衛ラインが崩れるきっかけとなったのが、199711月6日に米格付け会社のムーディーズ・インベスターズ・サービスが、「投資適格級」すれすれだった山一証券債の格付けを「引き下げの方向で検討」と発表したことだった。翌7日には山一証券株は一時、159円まで急落した。慌てた山一証券は取引先に呼びかけるなどして、翌週、山一証券株をやく二千九百万株も買い越したが、売りの勢いに勝てなかった。その後も株価は下げ止まらず、14日には一時百円を割り込んでしまった。7)

 四面楚歌の山一証券にとって頼みの綱はメーンバンクの冨士銀行と大蔵省だった。10月初旬、野沢は社長就任後に社内に急きょ結成した極秘のプロジェクトチームの調査結果を聞いて声を失った。「飛ばし」による簿外債務が二千六百億円にものぼっているという。これを織り込むと、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率は危機ラインの120%を下回る。大蔵省に報告すれば、直ちに業務停止命令を受けるのは確実である。「メーンバンクの冨士銀行にすがるしかない」8)。山一証券は一縷の望みを富士銀に託した。それまで、飛ばしの疑惑が報道されるたびに、富士銀は真相をただしてきたが、山一証券首脳陣は一貫して否定してきた。富士銀の山一証券に対する不信感は根強く、1997年春に要請を受けた劣後ローンも拒否した。ある時点で富士銀は山一証券を見限ったフシがある。

 自主廃業を決定する一週間前の11月7日、山一証券の野沢は長野大蔵省証券局長を訪ねた。二千六百億円の簿外債務を報告し、大蔵省に救済を求めるためだった。その朝、北海道拓殖銀行が破綻に追い込まれ、北洋銀行への営業譲渡を発表、市場が次に狙うターゲットが山一証券であることは明らかだったからだ。しかし、長野は「簿外債務をすべて把握し、できるだけ早く情報開示すべきだ」9)「証券取引等監視委員会にもきちんと報告してほしい」9)と突き放した、と後の会見で明らかにしている。

 長野の脳裏には情報開示が遅れ、国際的な批評を浴びた大和銀行の米国での巨額損失事件がよぎったという。信用不安回避を重視して、不正取引の発覚や処分を遅らせれば再び批判を浴びる。大蔵省にとって過去の護送船団行政が残したツケを清算する機会でもあった。

 19日山一証券株急落を受けて大蔵省はダメを押した。山一証券に「会社更生法の手続きを踏むには時間が足りない」10)と伝え、更正法以外の処理の最終決断を促した。その夜、証券局幹部ら10人前後が局長室に集合して対応策を確認、2021日は株式市場が開いているため連休に入ってから発表することを固めた。

 「今日はリストラ策の論議はしません」10)21日早朝から開かれた山一証券の取締役会。会長の五月女正治の言葉に出席した役員は息をのんだ。議題のはずだったリストラ強化策を論議しないということは「もう無駄になったということ」11)と皆が受け止めた。その日の夕刻、ムーディーズは山一証券債の格付けをだぶるBへと一気に三段階引き下げた。「投資不適格」の烙印を押され、週明けの資金繰りは一段と厳しくなる。野沢はじめ山一証券の経営トップは「これで万策つきた」11)と認識せざる得なかった。

 

6 簿外債務

 山一証券証券の経営にとどめを刺したのは巨額な簿外債務だった。山一証券にはかねて「飛ばし」による隠れ損失があるとの観測が絶えなかった。

 飛ばしは取引先企業の有価証券評価損を表面化させない手法で。証券会社が取引先企業から含み損を抱えている株式・債券を、時価を上回る価格で買い取る。しかし、そのまま持っていると、自らの決算で評価損が発生するため、別の会社に買い戻し条件付きで転売する。相場が好転しない限り、転売先企業から、買い戻すまでの間の購入資金の金利も上乗せした損失補填を迫られかねない危険な裏工作だ。「法人の山一」といわれるほど、山一証券は企業との取引を経営の要としてきた。法人営業が弱体化するなかで「大手四社」のメンツにこだわるあまり、有力顧客のつなぎとめを狙って「飛ばし」に手を染めたとされる。ただ、市場やマスコミで飛ばしが何度取り沙汰されても、山一証券は「ありえない」と否定を続けてきた。12)

 飛ばしによる簿外債務の存在をはじめて一般に明らかにしたのは、緊急記者会見した大蔵省証券局長の長野だった。会見の冒頭、「山一に巨額の簿外債務が存在する疑いが濃厚になり、必要な情報開示を求めた。その額は二千億円を上回るとみられる」13)という衝撃的な事実を語った。この簿外債務を実際の決算に反映させれば株主資本が大きく減少し、証券会社の健全性を示す自己資本規制比率が危機ラインの120%を割りかねないだけに、山一証券はひた隠しにしてきた。山一証券による「飛ばし」の実体はつぎのような方法をとった14)

 山一証券は、9192年を中心に決算期の異なる顧客企業数十社で有価証券を次々転売する「飛ばし」取引を行い、含み損の表面化を先送りしていた。しかし、株式低迷で多額の評価損が発生し、引き取り手がなくなり、約二千億円で有価証券を買い戻す必要に迫られた。山一証券本体が直接含み損を抱えた株式を買い取ると、含み損が表面化するため、別の方法で、買い戻し資金を年ねん出することを画策した。

 まず、山一証券がクレディ・スイス信託銀行に特定金銭信託(特金)を設定、二千億円分の国債をこの信託銀行に購入させた。特金は機関投資家などが運用方法を指定したうえで、信託銀行に証券投資を依頼する契約。山一証券はこの国債を関係会社「山一エンタープライズ」に貸し出し、さらにエンター社が子会社のペーパー会社五社に国債を分割して「また貸し」した。山一証券は最後に五社から、国債を一時的に買い取る形にして、五社に二千億円の資金を流し、それで顧客企業の株式を値下がり前の高価で買い戻させ、損失を補填した。一連の操作で山一証券側には簿外債務千五百八十三億円が残った。特金の場合、設定した資金枠が残高として計上されるだけで、資金使途がわからないほか、評価損を開示する必要がない仕組みになっている。またペーパー会社などに、買い取り資金を直接融資したり、出資名目で計上され、資金使途が追及される可能性があったという。

 一方、海外分の簿外債務(千六十五億円)は山一オーストラリアが抱える外債の含み損だ。山一証券本体が市場から購入した外債を顧客に売り、山一証券がいったん買い戻した後、山一オーストラリアに買い戻し条件付きで売却する過程で、為替取引の損失や損失補填による含み損が膨らんだようだ。山一オーストラリアから外債を買い戻せば、含み損は表面化して山一証券本体の損失になってしまう。

7 山一証券崩壊の罪

 19971127日の参院予算委員会に参考人として呼ばれた山一証券の行平次雄の発言によって、巨額な簿外債務の発生経緯や実態が明かされた。損失を隠したことについて「出てしまうと会社が存在しないため、右を取るか、左を取るかということになり、結局は山一証券の信用を保ち、収益を上げて償却できると判断した」15)と語った。しかし、相場低迷で業績は悪化する一方だった。経営トップが問題の解決を先送りしたツケが山一証券を崩壊に追い込んだ。

 大蔵省の責任も重い。1991年夏に証券会社の損失補填問題で「飛ばし」の一端が表面化した際、同省は同年秋の大手証券四社に対する検査後も実態の公表を見送った。1992年の改正証券取引法で損失補填が禁止されたが、山一証券の貸借対照表(バランスシート)には外部を浮遊していた飛ばし玉が山一証券本体やグループ企業に戻ってきた形跡が表れていた。1993年春、1994年秋の検査で財務状況の異変を見送っていた。

 さらに、山一証券が199112月と1992年1月の2回、「飛ばし」について大蔵省に相談したところ、当時の松野允彦証券局長が簿外で処理するように指示したという疑惑も表面化した。19982月4日の衆院大蔵委員会に参考人として出席した松野は「(山一の)三木さんから飛ばしの相談を受けた」と認めた。飛ばしの処理についても「仲介先として国内企業に限るということではない」16)と助言したことを認めたが、「違法な指示はしていない」16)と主張した。監督官庁の不透明な行政指導が結果的には山一証券を崩壊に導いたといえる。

 

【注】

1)日本経済新聞社編(1998:15)

2)日本経済新聞社編(1998:12)

3)日本経済新聞社編(1998:13)

4)日本経済新聞社編(1998:13)

5)日本経済新聞社編(1998:16-7)

6)日本経済新聞社編(1998:23)

7)日本経済新聞社編(1998:29)

8)日本経済新聞社編(1998:31)

9)日本経済新聞社編(1998:32)

10)日本経済新聞社編(1998:33)

11)日本経済新聞社編(1998:34)

12)日本経済新聞社編(1998:34)

13)日本経済新聞社編(1998:35)

14)日本経済新聞社編(1998:36-7)

15)日本経済新聞社編(1998:39)

16)日本経済新聞社編(1998:39)

 

【参考文献】

『日本経済新聞』 1997 11.22

日本経済新聞社編(1998)『日本が震えた日〜【ドキュメント】97秋 金融危機』日本経済新聞社

Copyright 2000, Hirohito Takayama

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