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多摩地域の歴史研究

 三鴨 嘉彦

 

目次

 

1.           はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2ページ

2.           多摩地域移管の背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2ページ

3.           飲料水問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2ページ

4.           玉川上水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3ページ

5.           日本版シルクロード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6ページ

6.           多摩の鉄道
6−1甲武鉄道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6ページ
6−2大戦後の鉄道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8ページ

7.           立川基地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9ページ

8.           まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9ページ

 

1.            はじめに

近年、多摩地域の変化は目覚しくどのように変化し発展してきたのか近世から研究し・考えることで得られるものがあると思いテーマにした。

多摩地域は平成5年4月1日に東京移管百周年を迎えた。明治26年(1893)に神奈川県の三多摩から東京都の三多摩に移管された。

多摩地域はめざましい変貌をしてきました。移管当時ほとんど農村であった多摩地域は、震災や戦火を経ながらもしだいに都市化し、やがて昭和三十年代から四十年代の十年間は百万人づつ毎年人口が増加する状態にあった。

これに伴い、教育・福祉・道路・上下水道整備といった行政需要への対応があった。

今後の多摩地域発展の為に歴史に対する理解が必要になった。

 

2.多摩地域移管の背景

なぜ三多摩は神奈川県から東京都に移管されたのであろうか。移管は、スムーズに決定したのではなく、そこにさまざまな問題がからまっていた。政府が移管法案を国会に提出したのは、明治26年2月18日でした。多摩ではこれに対して猛烈な反対運動が起こりますが、提案からわずか10日間の短い審議で法案は通過してしまった。

 提出時の政府の説明は玉川上水の水源を管理するために多摩三郡を東京府に移管することが必要だと説明。当時、東京ではコレラなどの伝染病対策として改良工事が進んでいた。

 しかし、水源管理が目的ならば玉川上水と関係のない南多摩まで移管する必要はありませんので三多摩全部を移管したのに別の理由があった。

多摩は民権運動が盛んで当時の自由党が強い地盤であった。明治25年の総選挙で自由党潰しの工作が行われましたが失敗し神奈川県知事の追放問題になり知事が自分を追放するなら三多摩を逆に神奈川県から追放を考えて東京府に移管を提案し東京府も政府に要求するようになった。これは東京府の定数75の議席を政府の改進党が圧倒的に強く三多摩を政党支持分野で分断し自由党の影響力を相対的に低下し神奈川県の自由党員も減るので神奈川県での勢力も削げると考えた。

自由党創設者の板垣退助は「自由党の砦」であると多摩地域を高く評価していたところで、地盤を行政区画変更という手段で解体しようとした。

この政治的な問題の他に北多摩郡では玉川上水と共に甲武鉄道が関係してきた。

 

3.飲料水問題

 多摩と江戸は、上水によって結びつきを強めていました。多摩と江戸を結ぶ上水には神田上水と玉川上水があった。

神田上水は、天正18年徳川家康は関東入国に先立ち、江戸の上水便が悪いことから、家臣の大久保に水道の開削を命じた。この水道は現在の江戸川橋の上流約800メートルの目白台の下の関口に堰を設けて上水と余水とに分けた。

この上水水域は、南は京橋川、東は隅田川、北は神田川、西は大手町から一橋までの江戸下町の北半分という広範囲なものであった。

 

4.            玉川上水

玉川上水は、江戸前期の江戸発展に伴い、水の需要が更に増加したため、承応2(1653)年に羽村から四谷大木戸までの上水路が開削され、翌年には江戸市中に通水を開始した。

  玉川上水は、多摩川上流の羽村取水堰から94区(羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区)を通り、新宿区の四谷大木戸に至る総距離約43kmの上水路です。 現在でも上流部は、現役の導水路として活躍していた。

玉川上水は羽村から小平監視所までは現在でも水道として使われているが、上水小橋から下流は下水の処理水で水量も少ない。

 この玉川上水は、明治三年から2年間羽村から四谷大木戸までは約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配を、羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地のりょう線に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する自然流下方式による導水路で、工事には多くの労力が費やされた。
 承応3(1654)年6月には虎ノ門まで地下に石樋(せきひ)・木樋(もくひ)による配水管を付設し、江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市内の南西部一帯に給水しました。
 玉川上水開設から3年後の明暦3(1657)年、江戸の町は火災(明暦の大火。俗に振袖火事)により大半を焼失してしまいます。このとき江戸城天守閣も焼け落ちてしまった。
 幕府は、この災害を契機として大幅な復興再開発を行い、江戸はさらに周辺部へ拡大発展し行った。
 拡大した江戸周辺地域に給水するため、万治・寛文年間(16581672年)に亀有(本所)上水、青山上水、三田上水が相次いで開設され、元禄9(1696)年には千川上水が開設された。
 亀有上水は中川を水源とし、他の3上水はいずれも玉川上水を分水して水源とした。亀有上水は本所・深川方面に、青山上水は麻布・六本木・飯倉方面に、三田上水は三田・芝方面に、千川上水は本郷・浅草方面にそれぞれ給水された。このように、元禄から享保にかけて6系統の上水が江戸の町を潤していた。
 ところが、8代将軍吉宗の時代の享保7(1722)年に亀有・青山・三田・千川の4上水が突然廃止されてしまった。これは当時の儒官、室鳩巣(むろきゅうそう)の「江戸の大火は地脈を分断する水道が原因であり、したがって上水は、やむを得ない所を除き廃止すべきである」という提言が採用されたものであるといわれている。また、上水を廃止しても、堀削技術の向上によって堀井戸から清浄な水が得られるようになったことや、水道維持の困難性なども理由の一つに挙げられていますが、幕府直轄領である武蔵野の新田の田用水への配慮から、4上水を廃止したのではないかという説も今日では有力となっている。
 こうして江戸時代の後半は、神田上水と玉川上水が100万都市江戸の人々の暮らしの基盤となり、この2上水が江戸から明治へと流れ続けていく。

多摩川上水に新水路が登場した時期がありました。「玉川上水は、老朽化や流域の状況変化により水質悪化が進み、明治19年のコレラの大流行で水道の衛生面が問題となり、近代水道の敷設が急務となった。当初の計画案では、玉川上水の水をそのまま利用して、千駄ヶ谷(現在の高島屋タイムズスクエア付近)に浄水場を作り配水するという案であったが、地質等の調査により淀橋台地に変更され、そのため新たな水路が必要になった。この新水路は、蛇行していた玉川上水を、和田堀から淀橋までを直線的に結び、築堤上を流すものであり、渋谷区内の笹塚、幡ヶ谷、本町を通ることになった。明治26年(1893年)に淀橋浄水場の建設と新水路の開削が起工され、明治31年(1898年)に竣工した。

この新水路は中間の区域が浄水場より低いので、土手を築きその上にコンクリートづくりの開渠を乗せることになりました。新しい水路の通る地域の住民としては、水路により生活域が分断されるし、川を越えるために高い土手を登らなくてはならないし、不便を強いられたようです。さらに決定的だったのは、地震による堤防の決壊です。大正10年の地震により水路の一部が決壊し、大洪水となって周辺の民家・農地に甚大な被害を及ぼした。鉄網コンクリートによる補強を行いましたが、2年後の関東大震災の被害はさらに甚大で、復旧通水に13日かかった。この間、予備水路として残されていた玉川上水旧水路が使用された。

玉川上水は、飲料水としてだけではなく、武蔵野地域の生活用水・灌漑用水としても利用されていた。

その中でも、商業として利用されており、内藤新宿まで通船の許可がされている。これは飲料用水水路に通船を許す常識ではありえないことである。

上水事務の所轄が民部省土木司から大蔵省土木寮という国の機関に属していた期間のみ許されていた物で東京府の所轄に戻ったのと同じ明治5年5月30日上水に不潔であるという理由から通船停止になった。

船の持ち主と商人にとって死活問題であり再会を求める運動を行いましたが、明治5年8月と明治8年8月の二度に分けて船を停泊させたり人や積荷の場卸しをした船留りが埋め立てられ再開されることはなかった。

5.日本版シルクロード

 安政5年、日米修好通商条約が結ばれ、それまで漁村に過ぎなかった横浜が外国貿易の拠点として発達した。

 幕末から明治にかけて日本の輸出産業の中心となる生糸なども横浜へ動くようになった。

 当時の生糸産地である甲州地方と横浜とを結ぶ中継地点である八王子などは大いに賑わいを見せた。

そのルートは現在の国道16号線沿いで日本のシルクロードが出現した。この新しいルートは、江戸と強い結びつきの中で作られていた北多摩を中心とする経済圏に対して、横浜と南多摩の結びつきによる新たな経済圏を生み出した。

 

6.多摩の鉄道

6−1甲武鉄道

明治5年、新橋〜横浜間に鉄道が開通しました。陸上の大量輸送を初めて可能とした鉄道は、生糸輸出にも応用されて来た。

明治17年に日本鉄道(現 高崎線)が開通し上毛生糸を運ぶルートとして高崎〜上野が結ばれ、翌18年の日本鉄道品川線(上野〜新宿〜品川)の開通により高崎〜横浜までの生糸の運搬が鉄道路線で結ばれた。甲武鉄道はこうした流れの中で計画されて行った。

明治224月(1889)新宿〜立川間の甲武鉄道といわれた今の中央線が仮開通した。当時の明治政府は幹線鉄道の建設で資金が不足し、地域の鉄道は民間からの出願を許可する形がとられていた。明治の実業家の岩田作兵衛、雨宮啓次郎の2人がその資金集めをして出願した。そして、下記の条件が提示された。
@ 政府の鉄道局による建設
A すでに赤羽〜新宿〜品川の鉄道を持つ民営の日本鉄道の傘下に3年間入る
という2つの条件で、開業に先立つ2年前に新宿〜八王子間の建設許可がおりた。
 ルートは荷物と乗客が期待できる街道筋の甲州街道か青梅街道沿いを目論んでいたものの、どちらの沿線住民も反対の声が強くそれが難航するとわかると、鉄道局の技師の提案により東中野から立川までの一直線コースを採用した。
 このコースは原野と桑畑が一面に広がり、山や川の自然の障害物や集落が少なく最も経済的だったのである。そして相場より高額な補償費を奮発することで買収のトラブルもなく、着工から僅か9ヶ月で新宿〜立川間を開業している。
 その時の中間駅は中野、武蔵境、国分寺だけだったが、同年8月に八王子まで延長され、荻窪、日野が追加され駅はほぼ5km間隔で設置された。これらの駅については地元から土地の提供やアクセス道路を提供してくれる場所を優先した。
 開業後の必要経費は収入の1/3程度で済み、営業はいたって好調であった。そして
Aの条件の日本鉄道との3年の契約が切れると自主経営を鉄道庁に申し出た。しかし鉄道庁から厳しい条件をつけられたが、それをクリアして念願の独立自営が実現した。
 そして次の目標として東京中心部への進出を目論んだ。多摩地方と東京中心部を結ぶ役割を持った甲武鉄道であったが、新宿で日本鉄道に、品川で官営鉄道に乗り換えて新橋へという不便さがあった。その市街線コースとしては大久保と市ヶ谷を一直線で結んだコースを考えていた。今の高田馬場を通るメトロ東西線のコースである。
 当時、陸軍は東京中心部の軍隊を速やかに全国に輸送するという課題を抱えていた。水道橋(今の後楽園)に陸軍砲兵工廠が、千駄ヶ谷(今の神宮外苑)に青山錬兵所があり、輸送手段がなかったのである。
 そこで陸軍幹部との話合の中で、南に大回りして千駄ヶ谷を経由するコースなら軍の協力が得られることになった。また軍の後押しで宮内庁の了解もとりつけて、今の新宿御苑の南側を通り四ツ谷へ、そして皇居外堀の内側の崖の中腹と神田川沿いに市ヶ谷、飯田橋、水道橋(三崎町)、御茶ノ水のコースが、いろんな条件付ながら認められた。
 条件の1つに四ツ谷のトンネルがある。ここには赤坂御所(今の迎賓館)があるので、その下を掘るのは不敬に当たるとして、掘割にしてから上部を埋め戻す手法がとられた。
 また東京市からは道路との関連で支障のあるものは会社の費用で改修すること、外堀堤上の樹木はなるべく伐採しないこと等である。さらに代々木で日本鉄道(山手線)と立体交差で跨ぐこととされた。これは今もそのまま残っています。
 こうした多くの難題を克服して、明治27(1894)新宿〜牛込(市ヶ谷駅の東京より)間が開業にこぎつけた。さらに明治28(1895)に飯田橋まで、明治37(1904)にはお茶の水まで延長された。

かし明治39(1906)に甲武鉄道は国に買収され名前も中央線に変更された。国有化は時代の趨勢であることを承知していた岩田、雨宮は買収に快く応じ、その資金で新たに全国各地の鉄道事業を生涯にわたり展開し、私鉄王と云われるまでになった。

甲武鉄道が多摩地域に与えた歴史的意味は極めて重要です。近世以来街道筋を発展させてきた宿場町を置き去りにして、新宿から鉄道によって一直線に切り開き、新しい停車場を町に出現させたのです。

これにより、川越鉄道(西武国分寺線)・青梅鉄道(青梅線)・横浜鉄道(横浜線)・南武鉄道(南武線)などが開通し発展していきました。

鉄道のお陰で、経済発展もあり立川基地・中島飛行機・昭和飛行機・立川飛行機といった軍部関係の発展は大きかったがこの影響で、大戦中はアメリカの攻撃目標に多摩地域はなっていました。

この頃に発展した自動車会社にプリンス自動車という企業がありこの会社から現在でも有名な、スカイラインなど多数の名車が作り出された。

 しかし、この後に日産自動車と対等合併するがまもなく名前も消え近年、本社のあった村山工場も閉鎖・売却されている。

 

 

6−2大戦後の鉄道

 1960年代以降多摩地域では急激な人口増加が起き日の出や五日市の山間部にまで影響を及ぼした。特に中央線は多摩地域を東西に貫く幹線鉄道であり輸送量が他線に比べて非常に多い状況にある。その為、甲武鉄道が国鉄、国鉄からJRになるまでの時代の中で列車の増発・乗客数の増加・高速化が進められました。更に効率化するためには、高架線化・複々線化が言われ続けているが実現には、費用と人口減少の問題もあり難しい所が現実である。

 多摩地域にはこうした生活鉄道の他にレジャー鉄道がある。御岳山や高尾山では京王電鉄がケーブルカーを運行している。他には奥多摩湖(小河内ダム)の建設にあたり工事資材運搬に東京都専用鉄道が作られた。ダム完成後は運休の形で残り奥多摩工業が所有していたが、観光鉄道として活用する事が考えられ西武鉄道に譲渡されたが計画が実現されないまま奥多摩工業に再譲渡され現在も開発されることなく線路は放置されている。

 そして新たな鉄道として多摩都市モノレールがある。多摩地域は南北方向への開発が遅れており陸の孤島と言われている地域がいくつか存在する。こうした地域と中央線・京王線・西武線との連携が必要と考えられ中量輸送システムとしてモノレールが適当となった。現在、多摩都市モノレールは多摩センター〜上北台間が結ばれており多摩センターの京王線、立川のJR中央線・南武線・青梅線、玉川上水の西武線が結ばれており一応完成した。しかし多摩地域を結ぶ意味から今後延長され環状型にする事が考えられている。

 

7.立川基地

 1915年埼玉県所沢に陸軍航空大隊を新設した。1921年陸軍は首都東京の防衛を強化する意味から東京周辺に飛行場を開設すること決定した。その中で幾つか候補があがったが、@平坦地、A鉄道の交通便、B水利の面から立川が適当とされ開設が決定されました。飛行場が開設されると石川島飛行機、立川飛行機、中島飛行機、昭和飛行機などの航空機関連工場が多数進出し登場し、立川飛行場は補給・技術の中核となった。第二次大戦時にも立川基地はフル稼働し多くの工員が使われていた。そのため多摩地域の中でも被爆が激しい場所となり大戦の後期には滑走路から飛行機が飛ぶのも難しく何処か他の場所から飛ばさなければならない状態にまでなった。

 正式な記録としては残っていないが、立川基地の専用線や地下を使用して戦闘機を基地から国立まで移動させ国立の大学通りを滑走路として使用していた話は小学校の頃から聞いていた。実際の形状も飛行場のように真ん中にメイン通りと左右に道路がある形に作られている。

 また米軍が立川基地を占領した後、基地の拡大と充実を考え用地拡大政策を行った。その際、村で大反対を行い死傷者を多数出した砂川闘争などもあった。

 

8.まとめ

 今回の卒論では多摩地域を広く浅く研究すると言う観点から玉川上水や立川基地が、かなり浅く扱った。本来ならばもう少し深く扱わなければならないのであるが、歴史研究より多摩地域の全体の流れと今後について書きたかったので短く扱った。

 今後の流れとしては、立川基地跡の再開発もほぼ終わりに向かいつつありその資産を生かしていくことが考えられる。現在、立川基地跡には多摩都市モノレール車両基地・防災センター・消防署・昭和記念公園・昭和天皇記念館・都営アパートなどがある。この場所は、災害時の広域避難所であるのと同時に永田町・霞ヶ関・新宿の機能が麻痺した際に指令基地として使用される事が決まっていまして地下には様々な施設が存在する。

予備機能として多摩地域が選ばれ活用されるのは非常に良い事だと思うが、自分自身心配なのはこの立川基地の真下及び中央線沿線には立川断層が存在しており関東大震災時には活動が心配されている断層です。大震災時には立川も壊滅的な状態にあり使用出来ないのではないかと考えている。

 今後、安全と開発を考えていく中で多摩地域が経験してきた事は生かせることが多くあり考えて行く必要があるのではないかと思った。

 

参考資料

羽村市郷土博物館

東京都水道局 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/tamagawa/index.html

多摩と江戸 大石 学編 けやき出版 2000年2月24日

中央線誕生 中村 健治著 本の風景社 2003年8月10日

多摩の鉄道百年 野田・原田・青木・老川著 日本経済評論社 1993年11月5日

 

copyright 2007, Mikamo Yoshihiko

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