高度情報化社会の病理
森川 瑞生
目次
はじめに−なぜITは社会を変えないのか
第1章−情報トンネルを抜けて
1節−情報のトンネル
2節−トンネルに入る理由
3節−トンネルから抜ける
第2章−情報技術との共存のために
1節−情報空間にいる
2節−隠されたバランス
第3章−國學院大學のIT
1節−理想の貸与パソコン
2節−誰も使わない
3節−求められる視点
まとめ−ITが社会を変えるために
参考文献
はじめに−なぜITは社会を変えないのか
80年代から始まったIT革命による高度情報化社会の到来は、それ以前とそれ以後を分ける重要な転換点だ。だが、本当に今の状況が情報化社会というものなのだろうか。本当はもっと大きな変化が可能で、でもそれには何かが足りない。そうは考えられないだろうか。もしくは、IT革命なんて言われてどれだけ社会が変わるだろうと思っていたけれども、実際はあまり変わっていないと感じる人もいるかもしれない。それはどうしてだろうか。そして一番大事なこと、私たちの社会はこれからどうなるのか、どうなっていけば良いのか。これらの疑問にまだ答えは出ないが、少なくともこれから答えを考えていく上での基本姿勢とも言える考え方を提案しようと思う次第である。それは、現在のITに対しての疑問から始まる。なぜITは社会を変えないのか。本当にITには社会を激変させる要素があるのだろうか。あるのなら、何がそうさせていないのか。これから到来するであろうIT成熟期と呼ばれる時代を前にして、一度足を止めて考えてみたい。
第1章−情報トンネルを抜けて
1節−情報のトンネル
私達の暮らす現代社会は、高度情報化社会という別名を持っている。様々な事物についての情報が社会の構成要素の一つになっているのだ。しかし、考えてみればこの情報社会というのは何なのであろうか。私達は本当に、第3の革命と呼ばれるIT革命がもたらしたものを理解しているだろうか。ただ単に「これからは情報の時代だ」という言葉を、意識を、風潮を受け止めているだけではないか。そしてそのために、情報という新しい要素の本質を見誤っていないだろうか。
トンネルを思い浮かべて欲しい。トンネルは真っ直ぐだったり途中で蛇行したりするがそれでもトンネルの外はわからない。情報化とは、このトンネルに似ていないだろうか。周囲の風景は無く分岐点の選択も乏しくただトンネルを進むように、既存のシステムを全て情報化することだけを求められる、そんな事はなかっただろうか。このトンネルデザインとも呼ぶべき愚直な技術推進に対して、伝統的テクノロジーと呼べる情報化以前のシステムを支持する者たちは激しい抵抗を感じてきた。こうした者たちは、新しいテクノロジーに何か問題があると喜び新技術のお粗末さを嘲笑する。一方でトンネルデザインを推進する者たちは伝統的テクノロジー支持者たちを、過去にしがみ付いていると言うのである。この構図は今日に至っても何ら変わってはいない。それを大いに知らしめてくれたのが、ライブドア事件を引き起こした堀江貴文氏である。2005年に江川紹子氏のインタビューで堀江氏は「既存メディアとの融合」について語っているが、その中での表現は「既存メディアを殺す」というというものである。間違っても、共に長く繁栄していこうという考えではない。もちろんこれは情報技術に関わる人全てに共通しているわけではないが、堀江氏個人の考え方であると同時に、情報技術の中で生きてきた人間の考えであるということを印象付けるに充分である。堀江氏ははっきりと新技術が既存のモノから取って代わることを信じていたようである。この点では、大多数のトンネルデザイン推進派と同じである。思い起こせば80年代から始まったこの「情報が他を淘汰する」考えは「OA」や「ペーパーレス」といった言葉を作り出し、情報化社会という概念を強調してきた。今現在の暮らしを見てほしい。事務処理はボタン一つで済むようになっただろうか。オフィスから紙は無くなっただろうか。答えは否である。
2節−トンネルに入る理由
ではなぜ情報技術はトンネルデザインとなるのだろうか、生態学を用いて考えてみたい。それは、進化論である。ダーウィンの提唱した進化論は、自然淘汰であった。進化によって強力となった種が、既存の種を淘汰し繁栄していく。今では世界中で広く認知されているこの説だが、本当にそうであろうか。堀江氏に代表される情報技術のトンネルデザイン派は、この淘汰進化論支持者である。彼らは進化した情報技術という種が、既存の種を殺して繁栄すると信じている。しかし、これは大きな間違いである。なぜなら、進化論とは自然淘汰だけではないからである。ダーウィン進化論に真っ向から対立する概念、それが今西錦司の提唱した棲み分け進化論である。棲み分け進化論は、生物の社会的関係に主眼を置く。生物は互いに競争するのではなく、棲む場所を分け、それぞれの環境に適合し進化していくというのである。理論体系が確立されていないこの今西進化論は進化論としては広く認知されていないが、社会構造を研究する面では近年再評価が成されている。そしてこの今西進化論こそが、私たちがトンネルデザインから抜け出すための手助けをしてくれるのである。
3節−トンネルから抜ける
人は普通、何か新しい技術が発生するとすぐさま乗り換えるわけではなく既存の技術との共存を考えるものである。また、既存の技術というのは現在進行形で人々に利益をもたらしているものである。その利益が完全に無くならなければ、既存の技術が放棄されることはない。そして、これが一番の問題であるのだが、新しい技術というのは概ね全く新しいわけではなく既存の技術が前提にある発展型に過ぎないということである。どんなものにもその先駆となるものがあり、またその技術を支える周辺の環境があるはずである。しかし、多くの人はこの事実を実践しているのに気づいていない。強調される事柄が情報だけになったからである。例えば、あるニュースが私たちの手元に届くには、それを取材する人間、記事にする人間、編集する人間、私たちに届ける人間というステップがあり、その結果としてニュースがあった。しかし現在では、私たちはそのニュースという情報だけを注視するあまり、その向こうに様々なプロセスが存在することにあまり意識を向けなくなった。しかし、私たちが見なくなっただけであり、ニュースの向こうにあるプロセスは決して無くなったわけではないのである。こうした強調と無視の格差によって、トンネルデザインは違和感を放ちながら存在しているのである。
私たちはトンネルデザイン派であるべきではない。かと言って、伝統的テクノロジーを礼賛するわけでもない。もっと冷静な立場を保つべきである。そして技術の共存を可能にするのは、技術への深い理解である。何が出来て何が出来ないのか。それが分かれば、私たちが技術に対して付き合っていくべき距離が見えてくるはずなのだ。では、情報技術とは一体、私たちに何をもたらしてくれるのだろうか。
第2章−情報技術との共存のために
1節−情報空間にいる
一口に情報技術といっても種類は膨大であり、その一つ一つを考えるのは実際に問題に直面した時だろう。だが、その前に心構えをしておくことくらいは出来る。一番大事なのは、情報技術は万能ではないということである。全ての技術は何かをするために存在する。情報技術は情報を扱うために存在するのであって、それ以外をするために発達したわけではない。1章3節で述べたように、私たちは情報にスポットライトを当てられているために周囲が見えなくなっている可能性がある。「ホットデスク」というシステムの例を挙げてみよう。1994年、ある企業が従業員たちに創造的な感覚を維持させるためにホットデスクというシステムを導入した。このシステムでは、従業員たちはオフィスでの自分の机を割り与えられることがなくなった。その代わりに、毎日出社した時にノートパソコンと携帯電話が与えられインターネットに繋がることが出来る。好きな場所(家でだって構わない)で仕事をし、退社時にその二つを返却する。溜まった書類はロッカーに入れ、会議は全てデジタル化される。そうした従来のオフィス形態を一新したオフィスがつくられた。この環境で、はたして従業員たちはどのような行動をとっただろうか。
机がないという事実はそのまま、モノがないという事態へと繋がった。私たちが何かをする時、そこにはいつだって大量のモノがある。それも、ほとんどの場合種類も多い。机とはノートパソコンを置いておくだけのものではない。多種多様な書類や資料、小物、プライベートなものなどが、使う人間に合わせて置かれているものである。そして、その中でこそ使用者は自分が整理された空間にいると思えるのだ。
また、人がいないという事態も起こった。同じ仕事をしている仲間が隣にいないのである。人間が行動する上でコミュニケーションの基本は会話である。ちょっとした会話の中で、人は自分の立ち位置を始めとした環境全体を把握することが出来る。その自分を規定するための周りが存在しないため、報告や連絡といった情報の伝達はむしろ遅れたのである。
この事態に従業員たちは当然反抗した。具体的には、その自由な空間を自分たちで本来のオフィスとして作り変え始めたのである。彼らがしたのはヴァーチャルな部署作りである。物理的な空間であるオフィスだが、その中に見えない線引きをし、集団を作ることでかつての創造的な繋がりを再構築しようとしたのであるノートパソコンと携帯電話の返却は拒否し、書類や資料は各地で持ち歩かれることになった。結局5年後には、この企業はオフィスの形態を本来のシステムへと戻すことになった。
2節−隠されたバランス
さて、同じような経験はないだろうか。例えば、一見乱雑に資料が置かれた机だが、当人にとってはある順番や基準によって置かれている。また、授業の内容をノートに書き写している時に、わからない部分を隣にいる友人に教えてもらう。いつも使っているパソコンは、自分のためにアイコンの位置を変えていないだろうか。他人のパソコンを使った経験のある人なら、自分とは全く違うデスクトップのレイアウトに悩まされたことがあるはずである。パソコンだけではない。私たちの使うあらゆる物は、そのインターフェースを人に選ばせる。電卓のボタンの場所一つとっても、好みは分かれるのである。そんな些細な事だ。実は、私たちはこの些細な工夫によって、日々己のいる環境をカスタマイズしているのである。そして、この些細な事こそが、私たちの注目すべき事、「バランスをとる」ことなのだ。技術と技術との間のバランスである。とかく技術が強調されるのが現代の特徴であるとすれば、私たちが見るべきは強調の裏に何があるのかなのである。
コミュニケーションにおいては、更に顕著な部分を見ることが出来る。先にも述べたが人の一番使用するコミュニケーションは会話である。またその会話は電話のようなものではなくフェイストゥフェイスによるものである。集団で何かを作り上げるといった場合、当事者たちがばらばらに居るよりは一箇所に纏まって作業したほうが、作業がはかどる気はしないだろうか。それは、集団でいることによるコミュニケーションの充足のためである。離れている場合は、ちょっとしたことでもメールや電話で訊くことになるが、近くにいれば言葉を言うだけでいい。また、手間というだけではない。相手の顔や動作、口調や他に何をしているかなどを知ることが出来れば、質問の答え以外にも思いのほか多くの情報を得ることが出来るのである。残念なことに、情報技術にはまだ、これらの情報を誰もが満足に獲得しうるまでの発達はない。逆に言えば、この部分こそがバランスをとる部分なのである。
強調したいのは、情報技術の欠点ではない。バランスの発見の仕方だ。ホットデスクを例に挙げたのは、これが比較的典型的でありかつ大きなものであるからである。一番の近道は失敗から学ぶことである。自分の失敗でもいいし、例のような事柄を更に探せば他者の失敗からいくらでも学ぶことが出来るはずだ。
第3章−國學院大學のIT
1節−理想の貸与パソコン
2章3節ではホットデスクという他者の失敗を考察した。さて、今度は自分に当たる身近なもの、國學院大學について考察してみたい。主として本学のIT化についてであるが、主な内容は次の通り
1、経済ネットワーキング学科の入学生を対象とする貸与ノートパソコンのシステム
2、上記ノートパソコンを前提とした授業の実施
3、学内LANによる学生支援システムK−SMAPY
4、磁気データ入り学生証を使用した各種端末
の4つが挙げられる。もちろん、この4つに関連して他にも多くのものがある。それらを絡ませながら、順に見ていきたい。
まず、貸与ノートパソコンである。これについては経済ネットワーキング学科の学生でなければ詳細な事が分からない。まず貸与されるノートパソコンの説明から入ろう。この貸与制度は平成14年度から16年度までの3年間実施された。つまり、平成19年1月31日現在は14年度生は卒業してしまっているので、2学年分が稼動中ということになる。真中の代である15年度生に貸与されたのはIBM製のB5ファイルサイズノートパソコンである「Think Pad X30」であった。軽さと携帯性の観点から言えば当時のモデルとしては妥当なものであった。しかし、そのような観点からではなくもっと根本的な問題としてこのノートパソコン貸与制度は語られえるべきものなのである。
そもそも、経済ネットワーキング学科とは経済学部の中に位置しているが経済学科とは講義内容が大きく違う学科である。次代の高度情報化社会に特化した人材を目指すこの学科において、一般的なパソコンの取り扱いは必須科目である。そのため、最低限の環境を整えるためにノートパソコンを貸与するというのが、この制度の目的である。だが、このX30に外部出入力ドライブとしてあらかじめ付属されてきたのはUSB接続のフロッピードライブであった。CD−ROMドライブが無かったのである。当然だが、当時すでにほとんどの市販ソフトウェアはCD−ROMで発売されている。よって、ドライブが無いということはそれらソフトウェアが新規にインストールできないということである。もちろん、別売りの外付けドライブを使用することは出来るし、他の方法を使ってもソフトウェアのインストールは可能ではあるが、問題はそういった技術的なことではない。ノートパソコンに何を求めたかという姿勢である。
本学で貸与されたノートパソコンに求められた基準は、軽く携帯性に優れることと、無線LANを使用できる性能、授業やレポート作成で使用されるであろうソフトウェアといったものである。確かにそれらは大学という場で使用するパソコンの用途を満たすためのものとして相応しい。だが、それらの前提の上に立つのが、これが経済ネットワーキング学科に貸与されるノートパソコンであるという点である。加えて、この貸与パソコンは3年間の使用後に返却するか買い取るかを自分で決めるという契約を交わすものである。そこで問題になるのは何よりも拡張性である。2章のホットデスクの例を見てもわかるように、人は己の使用する道具をカスタマイズしていくものである。そして、パソコンこそは情報化社会において個人レベルでカスタマイズされるものの代表格であると言っていい。また、パソコンを自分が使い易いようにカスタマイズするのは、経済ネットワーキング学科が推奨する次代の情報化社会に特化した人間である。また、この行為こそ一般的なパソコンの取り扱いの一つであるはずである。理想を考えるならば、貸与パソコンの仕様をあらかじめ複数設定しておき、学生一人一人に選択させることが望ましかった。だが実際には、貸与時にこの仕様を変更することは出来ず、自己責任でCD−ROMやDVD−ROMドライブを買うか、記録媒体をフロッピーディスクとUSBメモリとして使い続けるかの選択しかなかったのである。結局、3世代に貸与されたノートパソコンだが、その後は新入生のパソコン所有率の高まりなどを理由に廃止されることとなった。
2節−誰も使わない
さて、本体については語ったが、次はその使用環境についてである。経済ネットワーキング学科の授業は主に経済についてのものとコンピュータについてのものとの二通りに分かれているが、コンピュータの授業もさらに二つに分かれていた。それが、コンピュータ教室を使用した授業と、LAN設備のある教室を使用した授業である。前者は渋谷校舎・たまプラーザ校舎両方で一般的であるが、後者はたまプラーザ校舎で部分的に行われていたことは実際に体験しているので判明しているが、渋谷校舎で行ったことがあったかは不明である。と言うのも、このLAN設備教室というのが絶対的に数が無かったのである。さらに、そのような設備を用いて授業を行うというのは教授・講師陣からしてみても前例の乏しいものであり、積極的に利用しようとする者は少なかったのである。学生にパソコンを与えておきながら、活用するための環境造りがこれではお粗末としか言いようがない。
だが、本当の問題はLAN設備教室の少なさではない。このLAN設備教室は元々少数しか計画に無いものなのである。本来は、渋谷校舎は全域で無線LANが使用できる環境になっているはずなのである。これは、平成15年度において既に学生に計画として発表されていたものであり、またこのためにノートパソコンの選定基準には無線LAN使用可能の項目があったのである。しかし、実際には平成19年1月31日現在においても渋谷校舎での全域無線LANは機能しておらず、学生の多くはコンピュータ教室を使用するか、120周年記念校舎の中にあるLANポートを使用している。これでは、何のために貸与パソコンの基準があったのかわからない。また、折角携帯性を求めたノートパソコンであるのに、LANケーブルなどといった余分な機器を持ち運ばなければならない点においては、本末転倒と言えるだろう。
3節−求められる視点
次に学内のソフトウェアに目を向けてみよう。まずは履修を始めとした学生の修学を支援するシステム「K−SMAPY」である。平成15年度前後から本格稼動を始めたこのシステムは、学内LANを使用した学生認証を前提としたシステムである。前述の2項目と比較して、このソフトについての批判は皆無に等しい。本来の目的である学生の履修を支援するという役目は導入当初から大きな問題も無く機能し、登録用紙制であった履修システムは稼動から2〜3年のうちに完全にデジタルへと移行した。入学当初からこのシステムがあった学生は、システム導入以前の学生と比べて、かなりの負担減になっていることは確実である。
では、ハードウェア面とソフトウェア面という違いこそあれ、何故前述の2項目とは違い成果を収めることが出来たのだろうか。それは、製作者の違いに他ならない。結局のところ、貸与ノートパソコンなどの案は実際にそれを使用しない大学側が一方的に考えた措置であり、そこには使用に関しての厳密な検討が成されなかったし、一部の真剣な検討は少数意見として反映されなかったのである。一方で、「K−SMAPY」の管理はコンピュータ準備室を拠点とする講師・教授陣で成されている。そこでは、学生たちだけではなく実際に自分たちが使用するシステムを構築するという前提があり、求められるべきは何よりも使う側の視点であった。この違いが、そのまま使い手に反映された違いであったのである。
では他のソフトウェアについて見てみよう。「K−SMAPY」と共に導入された学生証による出席カードリーダーシステムについてである。このシステムについては未だに運営管理の有用性が計りかねられているという不思議な状況にある。というのも、この出席カードリーダーシステムは半ば自然に、もっと言えば「いつのまにか」あったシステムであるからだ。カードリーダーのない頃から出欠用紙と呼ばれる小型の用紙が使われていたが、システム導入後も変わらず使われている。それはこの出欠システムが、教員側が使用に義務を負っていないものだからである。本来の目的は学生自身が自分の出欠状況を管理するための「K−SMAPY」との連動を前提としただけのシステムなのである。しかし、稼動が始まったのが学期明けだったため、新システムの導入が相次いでいた当時の学生にしてみれば、何の予告も無しに出欠がカードリーダーになったとしか伝わらなかったのである。また当時には、このシステムをそのまま授業の出欠システムとして利用する教員もいたため、誤解が正されぬままシステムが使用されていくこととなったのである。そのため、出欠の確認のために授業開始時にカードリーダーだけ通し帰る学生の出現や、学生証の代替使用などが行われることになった。この事態に見られるのは、大学側の説明不足という不備である。学生や講師に対して充分な運用目的や方法の説明が無かったため、現在に至るまで誤解が解けていない状況も多々見受けられ、全体的に中途半端なシステムになってしまっている。
対して、一番新しいシステムである「K−PIT」は誤解を生むことなく機能している。これは運用目的が誰からみても明らかだからである。異なった使用方法が無ければ、説明が無くとも本来の用途以外には使われないものであることがわかる。使用方法が漠然としているものこそ、その技術がどのようなものかを理解しバランスをとらなければならないのである。
以上を見て、本学のIT化は成功していると見えるだろうか。答えは部分的には是である。これは、全学生にとってという視点からに過ぎない。経済ネットワーキング学科の学生から見てであれば、答えは否である。何をもって成功とするかはまた個人間で違うだろうが、一つ言えることは、そのシステムがいかなる運用をされたとしても、その目的を達成できているかどうかこそが、システムの成功基準であるということだ。その点で言えば、貸与ノートパソコンはその本来の目的の半分しか達成できていないだろうし、「K−SMAPY」は十二分に成功を収めていると考えられるだろう。
まとめ−ITが社会を変えるために
第3の革命と呼ばれるIT革命は急速な技術革新と進化がその特徴である。情報化社会の到来が叫ばれてから今日まで30年、社会は激変したと言っていい。しかし、その変化とは本当に情報化への変化であったのだろうか。真の情報化とは、新しい技術である情報技術が既存の技術と共存し相まったものである。対して、今の情報化社会とは、情報技術と既存の技術の対立構造がそのままだ。これでは、真の情報化社会は到来しない。私たちのすべきことは、第1に既存の技術を理解すること、第2に新しい技術を理解することである。そして、第3にはその技術同士を繋ぐ掛け橋として、私たち自身が変化していくことにある。今の段階はさしずめ第1と第2の中間である。これから益々成熟を極めていく社会のでは、いち早く技術のバランスを見出していく手腕が求められていくだろう。ITは私たちの生活を、社会を、もっと変えるだけの力がある。むしろ求められているのはITの力ではない。私たちの力なのである。
参考文献
ジョン・シーリー・ブラウン/ポール・ドゥ・グッド(2002)
『なぜITは社会を変えないのか』日本経済新聞社
p3〜11,86〜95を中心に序章〜第3章
2005年02月10日
「新聞・テレビを殺します」〜ライブドアのメディア戦略
http://www.egawashoko.com/c006/000119.html
江川紹子ジャーナル
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