可能性の源泉としての上体のゆれ

安斎君のあふれる笑顔にふれて

 

国学院大学  柴田 保之

《はじめに》         

 ここで発表させていただく安斎正浩君は、現在東京都立小平養護学校高等部1年生である。私が最初に見かけたのは、彼が小学部に在籍していた時のことだ。別のお子さんのことで見学に行った教室に彼はいた。すっぽりと体がおさまるクッションチェアに座って終始体をゆすっている姿が印象的で、私は、それまでに出会ったいく人かのお子さんの同様なしぐさと重ね合わせていたように思う。そして働きかけるとしたらどんな方法が可能であるかということについて、その体の前後のゆれこそがその手がかりにちがいないと考えたことを記憶している。

 その後、いろいろな経過を経て、3名のお子さんを中心に小さな自主学習会が作られ、休日の土曜日の学校の一室で、活動を始めた。そしてしばらくして会に参加されたのが、安斎君だった。会ったとたんにあのお子さんだと思った。そして、体を前後にゆする仕草に、自分には何とかうまく関われそうだと、不遜にも思ったことを覚えている。

 ところが、その予想に反して関わり合いは決して容易なものではなかった。私には、この体のゆれと一緒に動いている手や足に適切な教材を提示すれば、そこから関わり合いが開けるという考えがあったのだが、それは、私の安易な予想にすぎず、関わり合いは容易に進展しなかった。そんな時期、うまくいかないのは彼の調子の問題だという言い方がされることがあった。それは、うまく関われない私には、救いの言葉のようにも響いたが、それは決して事実ではなかったことが、今では、わかる。関わり方こそが問題だったのだ。

 そのもどかしい関わり合いに光が射したのは、2002年の4月のことだ。すでに1年5ヶ月が、経過していた。詳細は、後述するが、この日、安斎君は、体を前後にゆすりながら、教材を操作して、本当に楽しそうに笑った。そこには、新しい発見の喜びがあり、様々なことを理解して納得した喜びがあるように思われた。そして、この日を境に、安斎君とは、毎回とても楽しい時間が過ごせるようになった。

 どんなに障害が重いお子さんも、奥行きのとても深い存在であるという信念を、私は、ことあるごとに、人に語ってきた。しかし、この1年5ヶ月の間、安斎君に向かい合う時、その信念は、いささか揺らいでいたと言ってもいいかもしれない。安斎君の前には厚い壁が立ちはだかり、存在の奥行きに迫る手がかりは、なかなか得られなかった。だが、今、安斎君は、私の信念をゆるぎないものとして、支えてくれている。

 この報告では、安斎君の、その奥行きの深い、緻密で繊細な世界について、まとめてみたい。

 

1.             長い試行錯誤(2000年11月〜2002年3月)

 すでに述べてきたように、安斎君は、最初の関わり合いの時から、座位で前後に上体をゆらすということをやっていた。これは、一般に常同行動と言われてきたものだ。いずれにしても、明確に自ら運動を起こしているわけで、そこに、わかりやすい結果が生まれるような教材を提示すれば、何らかの理解が得られるだろうと考えられた。

 実際、図1や図2の糸車スイッチのように、軽く手をかけていると体のゆれにそってスイッチがはいるような教材を提示すると、体のゆれに応じてスイッチが入って、チャイムが鳴り始める。ここまでは、いいのだが、それが安斎君の喜びにつながっていかない。そして、そのうちに、頭が前傾しすぎて教材や机などにふれて、頭をそこにうちつけてご機嫌が悪くなったりしてしまうのである。

 また、手だけではなく、足に教材を出してみるということも行った。体のゆれとともに、リズミカルに動いている足もまた、重要な関わり合いの糸口であることは、これまでも多くの子どもとの関わり合いを通して明らかだったからだ。だがこれも、なかなか彼の関心を引くにはいたらなかった。

 そういう展開を続けるわけにはいかないので、チャイムを彼の好きな音楽に変える。すると、彼は気にいったものであれば、じっと聞き入ったりし、また、そこに図3のようなオルゴールやパソコンのように、視覚的な興味を呼ぶものがついていれば、そちらをじっと見つめるということも起こり、時には笑顔も浮かんだりした。こうした関わり合いを通じて、彼が音楽が好きであるということと、そこできちんとした区別をしているということはよく伝わってくるのだが、運動の自発という問題があいまいなままになっていた。音楽や視覚映像は、自発の結果というよりも、向こうからやってきたものを運動を止める方向で受け止めるということになっているのである。運動の自発ということでは、前後に体をゆするといういつも行っている運動の方が圧倒的に自発的なのだ。しかし、この動きがこちらの思うような外界の確かめにつながっていないのである。

 それでは、この自発的な体のゆれとは、いったいどういう意味があるのだろうか。こうした運動は、ふつう、常同行動などと呼ばれて、無意味な運動や問題行動として、否定的な意味しか与えられないことが多い。しかし、これが、本人の自発的な行動である以上、そこに何らかの意味を認めないわけにはいかない。

 おそらく、こうした常同運動というのはその起源にさかのぼれば、外界や身体を確かめる運動であったはずだ。体をゆするというのは、ようやく座位が確立し始めたころに、上体が垂直になる感覚的印象を、前後の動きの中で確かめるというものだったはずであり、それを最初に発見した時には、とても新鮮なものだったことだろう。そして、それを繰り返し確かめているうちに、そこに、一定のリズムが生まれてくる。人間の運動において、リズミカルな反復というのは非常に重要な要素であり、それは、ある心地よさや安定感というのをもたらすことになる。それは、人の世界に最初にもたらされる時間的秩序の一つであり、このリズミカルな反復からなる時間的秩序は、始めと終わりがない円環的な時間的秩序として、始めと終わりによって生まれる線分的な時間的秩序とは、相補的な関係にあるといえる。

そして、リズミカルな反復が確立すると、それは、まず、自分の活動の範囲の中に意味ある対象が存在しない時、意味ある時間を作り出すことに役立つようになる。また、何かが原因で不安定な状況におかれたとき、この反復を生み出すことは、一定の安定を回復することにも役立つ。しかもこうした反復を生み出すために必要な自らの身体は、常に存在しているので、姿勢さえ整っていれば、この反復はいつでも容易に作り出せるのである。

しかし、これは、意味ある対象がなかったり、不安定な状況が続く時、ある一つの行動が固定化してしまうということでもある。常同行動やさらには自傷行為と呼ばれるものが、どうして生まれるのかという理由の一端は、おそらくここにある。

 また、こうしたリズミカルな反復はよいバランスというものが生まれることにも深く関わっている。バランスが悪いと、リズミカルな反復は生まれにくくなるからである。

 さらに、リズミカルな反復の中で、姿勢のバランスということに関して体は一つのまとまりを持っている。それは、別の言い方をすれば、リズミカルな反復の中で、体の様々な部位が意味を与えられているということであり、リズミカルな反復をしている場合の方が、それぞれの身体部位の意味が、その子どもにとって明確になっているということになる。身体は、像として理解されているわけでなく、こうした運動の中で持つ意味として理解されていると考えれば、たとえば、手は、リズミカルな反復の中での方が、その存在がはっきりとしてくるということになる。

2.      新しい展開(2002年4月〜)

(1)上体のゆれの新しい意味づけ

 2002年4月に、これまでの関わり合いのもどかしさを一掃するような、安斎君の新しい姿に出会うことができた。

 いつものように、私は、図4のような前後のゆれでチャイムがなるスライドスイッチAを提示した。すると、5回ほどチャイムを鳴らしたところで、にっこりと笑い、動きを一度止めて、考えるようなそぶりを見せた。そして、ゆっくりと体をゆすり始め、だんだん、力を入れていった。この時の体のゆれは、単に全身が一体化した動きというよりも、顔の表情に、ゆれている自分の体を確かめているようなものも見られていた。非常に、気持ちよさそうに前後運動をしながらチャイムをならしている彼をほっとした思いで見ながら、肘と肘掛の間の摩擦がやや運動の妨げになっているようにも思われたので、肘の動きがスムーズになるようにと、そこに、図5のスライドスイッチBを入れたところ、彼は、大きな笑い声をあげ、つかんでいた教材の取っ手を離して、肘でスイッチを押し始めた。その教材にはチャイムを接続していなかったので、あわてて、チャイムをつないだところ、彼は、とても楽しそうに肘で教材を操作し始めたのである。しばらく、肘で教材を操作した後、手でつかんで操作する教材にもどして、さらに教材を変えたりしたが、ずっと大きな笑い声を出しながら、チャイムを鳴らし続けたのである。

途中、念のためチャイムをオルゴールに変えてみた。しかし、安斎君の運動のリズムとオルゴールのリズムとは合わず、スイッチの開閉時にカチカチとなる音(オルゴールの中に組みこんである電磁石の音)を鳴らして喜んでいるように見えたので、再びチャイムに戻すことにした。自発的な運動を通して外界や身体を発見する喜びは、この時、音楽よりもまさっていたのだろう。

 この日、彼は、何かを発見したように思えた。それまでの上体のリズミカルな反復に、新たな意味が付け加わったといってもよいのではないだろうか。

 こうした1回の出会いは、私にとって大変貴重なものだった。関わり合いの中で具体的にめざすべき目標が明確になったからである。まずは、この場面が生み出されるように自分の様々な働きかけを組み立てていけばよいというわけだ。それまでの関わり合いにつきまとっていた、今日は、どこから始めればよいのかという迷いが、払拭されたと言ってもよいだろう。

 そして、翌月も、関わり合いは、うまく展開していった。そして、少しずつ、彼にとって私と過ごす時間の意味が変わり始めたと思われる。

 7月には、また、たいへん驚くべきことに出会った。それは、発端は、私の単純なミスである。私は、教材とチャイムの接続に、2系統の接続端子を使っている。100ボルトのコンセントのプラグと、ミニジャックである。彼が気に入っている教材の端子はミニジャックの端子の方なのだが、これに接続できるチャイムを持ってくるのを忘れてしまったのだ。

そこで、まず、いつもの教材のチャイムの代わりに、パソコンの効果音を用いてみた。しかし、硬い表情をして体を動かすこともしない。そこで、同じように握った取っ手を体の前後運動で操作できる教材で、チャイムにつなぐことのできるものを出した。すると、今度は前後運動を始めたのだが、表情は硬く、楽しそうな表情にはならない。その前後運動も、単なる反復ではなく、前に少しためを作って確認するように体を起こしチャイムを鳴らしているにもかかわらずである。それでも、彼は、喜ばない。そこでさらにより軽い糸車スイッチに変えたが、やはり喜ばない。まさかとは思ったが、ずいぶん見た感じはちがっているけれども同じようにすべりがよくて、チャイムに接続できる両手スイッチ(図6)を出して、2、3回こちらが安斎君の手をとって操作したあと、自分で1回ひいたところ、手を離し、にっこりと笑い、それから改めて手を出してきて、楽しそうに教材を動かし始めたのである。運動は、前後運動はほとんどなく、手を上から取っ手に向かってふりおろしてきて、棒に親指以外の4本の指がひっかかるようにしたところで手前に引き寄せるというものである。それから、徐々に上体の前後運動が始まり、リズミカルないつもの動きへと変化していったのである。

 この区別の厳密さは私たちにとって本当に驚くべきことであった。笑わないのは、体調など何か別の理由であると、なかば考えていたのである。しかし、安斎君は、いつもと教材が違うといぶかしがっていたのだった。

 この区別は、手に伝わってくる滑りやすさの感じ(抵抗感)についての区別であり、そこで使われている感覚は、運動感覚である。そして、この運動感覚は、安斎君の通常の動きでは、上体のゆれと密接につながりあっており、前後のゆれに伴って生じる感覚の内実(上体の運動感覚、平衡感覚など)と一体化したかたちで手の運動感覚も生じていることが多いのだが、この場面では、むしろ、上体の前後運動が止まっていたところから、手の運動感覚の区別だけがきちんとなされているということも、明らかになったのである。

 このように喜びの対象に対して厳密な区別が存在しているということは、翻って言えば、日常生活の中でも実に多様な区別がなされているということを予想させる。こうした細かな区別の力を備えた存在として関わるのかどうかということは、おそらく関わり合いの質を大きく変えていくことだろう。そして、こうした喜びの表情に出会うまで、私自身、理念としてはわかっていたとはいえ、こうした厳密な区別をしている存在として、現実に安斎君に相対していたわけではなかった。これでは、お互いの関わり合いがかみ合わないのも無理からぬことだった。

(2)体のゆれの停止と横方向の運動

 上体の前後のゆれを通じて生まれた右手の前後の直線運動を、どのように発展させていくかについて、両手を使う前後運動、右手の回転運動など、いろいろと試行錯誤を重ねていったが、右手の横方向の運動というのが、前後運動の中から生まれてくるのが少しずつ見られるようになってきた。これは、上体の前後運動と腕の運動が少しずつ分化し始めてきたことを意味しており、具体的には、脇をしめるような力が抜けてきて、上腕の運動の自由度が増したことを意味している。なお、横方向の運動として提示したのは、スライド式のスイッチA、Bや筒のスライドスイッチである。

 そのような中から、筒のスライドスイッチで、上体の前後運動を起こしつつ、徐々に上体をひねっていくということが見られた(2003年1月)。また、さらに、上体の前後運動とともに、手は横方向の運動を起こすという中から、上体を止めたところで、手だけを上から下へとたたくような運動を起こしながら、横方向に動かすということも見られるようになった。この時は、空いている左手の人差し指が口をつつくようにそえられているのも印象的だった(2003年2月)。

 なお、こうして上体の前後運動が止まったり、やわらかくなったりした時に、チャイムを前出のミッキーマウスのオルゴールに変えると、操作して、音楽を聞くというような、それまでとはまたちがう教材と音の関係の理解のしかたというのも生まれるようになってきたということも付け加えておきたい(2003年6月)。

 こうした横方向の動きと姿勢の関係は、安斎君の上体のゆれというものが、最初は、いろいろな対象を自分自身が作り上げた一つのゆれのかたちの中に取り込んでいく性格が強かったのに対して、外界の状況に応じて自分自身のゆれのかたちを変えていくという性格が強くなっていることを意味しており、安斎君の世界がそれだけ外に向かって開かれたということを意味しているとも言えるだろう。

(3)つかむことに関して

 また、つかむということでは、関わり合いの当初から、右手が取っ手にひっかかるようにしてあげれば、前後運動とともに指にも少しずつ力がこもっていくるということがあったわけだが、たたきながらひっかけるようにして操作していた手がしだいに取っ手を握るように力がこもっていったりするという変化が、少しずつ起こるようになり、さらに、たたくようにして取っ手を探してしっかりと握りなおしてから操作するというような場面も見られるようになってきた。そして、それは、あたかも自分で探してつかんだというようなものだった。

 このつかむという運動は、普通に物を空中で握ることとは異なっているということにも注意しておきたい。ガラガラのようなものを握るという時、手は空中にあり、ガラガラにいくぶんたりとも体重を預けるというようなことはない。ところが、ここで見てきたような教材操作においては、取っ手に対して「つかまる」という要素が含まれており、わずかではあれ、取っ手をつかんだ手に体重を預けている。安斎君は物をあまり持たないと言われているが、そういう状況にある場合でも、このように、つかまるという要素を入れることでつかむことが起こるお子さんと出会ったことが何度かある。つかむことの始まりを考える一つの大切な事実として強調しておきたい。

 また、左手の使い方についても、最近つかむということで新たな展開が始まっているのでまとめておきたい。

 上述した教材操作は右手を中心に行ってきたものであるが、左手は、そのバランスをとるために、空中に差し上げられたり、脇をしめて体に近づけたり、顔などをさわるというようなことが見られていた。そして、手が前方に差し出さられた時は、左手の指が引っかかるように教材を出すと、上体のゆれに合わせてスイッチがはいるというようなこともできないわけではなかった。しかし、右手の握り方の確かさなどから、あえて左手に教材を出すということはほとんどしてこなかった。

 ところが、お母さんが、家でよくやわらかい筒(介護用品としてスプーンなどの柄につけるものとして市販されている。)を右手で握り、握る力を入れたりゆるめたりすることがあるということをおっしゃったので、フレキシブルスイッチの先端につけて提示したところ、他の教材と同じようにつかんで、手を動かした。そして、押したり引いたりする時に握りこむ力も変化していることがわかった。そこで、この教材を左手にも出してみることにした。左手は、手首がぐっと曲がり、手掌は指先がのびたままになって力がはいっているため、そのままでは物をつかめる状態ではない。そこで、4本の指先を筒にかけ、前後のゆれに合わせてスイッチが入ったり切れたりするように提示すると、しだいに指先に力が入っていき、ぐっと折り曲げていた手首が少しずつ伸びてきた。さらに、指先に入っていた力が、指の付け根を曲げてつかむような力になっていき、そこで親指が対向するように握らせてあげると、筒を握りこむような手の形になっていった。(2003年7月26日)

 ささやかなできごとではあるが、これは、つぎのような示唆を含んでいる。手首を曲げて前方に出した時の手は腕全体に未分化な力がはいっているわけだが、これは、肩から先の腕全体を前方に出しつつも、腕全体は、それぞれの関節を伸ばしてつっぱるように突き出すのではなく、肘、手首、指が、緩やかに内転するようにしたもので、あたかも腕の先端は手首のまがったところになっているのである。これは、上体をゆする動きのバランスをとるのための手の使い方としては理にかなったもので、一見したところ不自然に思われる手首の曲がりや手掌は、主体的に作り上げられたものだったのである。だからこそ、教材がそこに介在することにより外界の状況が変化すると、それに応じた手のかたちも生まれてきたということになる。

 

《まとめとして》

 最近、安斎君は、私の顔をじっと見つめることが多くなった。いちばん最近の関わり合いでは、最初に顔を合わせた時、じっと私の顔を見つめ、しばらくしてにっこりと笑うということも見られた。安斎君が何を思ったか、その本当のところはわからないが、顔を見ただけでにっこりと笑ってもらえたことは、望外の喜びだった。

 この報告では、感覚や運動、姿勢の問題を中心にまとめてきたが、そうした側面における広がりや深まりとともに、このような関係の深まりが得られたことも、関わり合いの大切な成果である。

 安斎君の存在の奥行きの深さを、さらに、追い求めていきたいと思う。

 

 

 

 

(2003年 重複障害教育研究会全国大会における発表より)