ダンヌプラムの障害者たち
柴田 保之
この夏、縁あってサンガムの会の主催するインドへのスタディツアーに参加させていただいた。自然の豊かな南インドの農村は、初めて見るものばかりなのに、どこか懐かしい風景だった。人と家畜と土と緑が一つに溶け合った中で、とてもゆったりと時間が流れているように見えた。しかし、その風景の中に足を踏み入れ、CSSSの実践活動の現場を通して見えてきた村の人々の生活は、今、確実に熱く動いていた。
中でも、とりわけ印象深かったのは、村へのホームステイを通して触れた、障害を持った人たちの姿だった。訪れた村は、ヒラマンダラム郡ダンヌプラム村。私が障害児・者の教育に関わっているということからお計らいいただいて、脊椎損傷の障害を持つチンナバブーさんのお宅にホームステイをさせていただいた。8月29日の朝から翌30日の朝までの短い時間だったが、私にとっては、おそらく生涯忘れることのない体験となった。
チンナバブーさんは、この村の障害者のサンガムのリーダーだ。すぐ隣接する村も合わせて20人の障害者が参加しているという。ご自身の障害をきっかけに、CSSSの援助を受け、この村に障害者のサンガムが作られたそうだ。そして、その仲間の障害者の家を、一戸ずつ案内して下さった。
文字通り老若男女のいろいろな障害を持った人たちが、村の中でとても平和に暮らしていた。目の見えない人、手足の不自由な人が大半をしめる。病気や事故のために、後天的に障害を持つようになった人が多いらしい。中には、日本でも進行性の病として知られている筋ジストロフィーの男性もいた。その男性の亡くなった姉も同じ病気だったいう。飾られていたその姉の写真が悲しかった。
だが、みんなそれぞれに、自分の仕事を持って村の中でしっかりと生きていた。日用品の雑貨を売る店を開いている人、紅茶と軽食を出すお店を開いている人、縫製をしている人、家畜を飼っている人、金属細工をしている人。今まさに技能訓練を受けている少女もいた。チンナバブーさんも雑貨屋を開いている。地域の中で、それぞれができる仕事に携わりながら生きている姿は、ユートピアであるかのようにさえ思われた。
そして、障害をあえて隠そうとはしていないように見える姿も印象的だった。チンナバブーさんが声をかけると、見知らぬ人間である私に対して、何のためらいもなく、障害の部位をあらわにしてポーズを作って下さるのだ。カメラを向けるのをためらっていた私だったのに、むしろ、しっかりとカメラに収めなければ礼を失することになりそうだった。
しかし、決して、忘れてはいけないことがある。目の前の光景は、あまりに平和で自然であるだけに、昔から変わらないような思いにとらわれそうになる。だが、それは、障害を持つ人たちが、サンガムに集うことによって作り出されてきたものだということだ。しかも、その歴史は、まだ始まったばかりなのだ。
実は、ホームステイの2日前に、私たちはこの村を一度訪れていた。そして、その時、一同に会した彼らから、その過去の歴史を聞いていたのだった。 それによれば、かつて障害者の置かれていた状況は苛酷なもので、障害を負ったことで家族からも見放され、物乞いをするしかないという現実もあったということだった。
そんな中で、足に障害のある一人の若い女性の言葉がとても印象深く心に残っている。「障害者のサンガムが作られるまで、自分は役に立たない片隅の存在のように思っていた。しかし、サンガムの活動を通じて仕事を得ることによって、自分もできることのある人間であることがわかって自信が持てた」というのである。同じような言葉を、私は確かに日本でも幾度となく耳にした。
もう一人、ポリオの後遺症で足に障害の残った若い女性のことも心に残っている。彼女は、自分でお金を借りて買ったミシンで縫製の仕事をするとともに、布地の小売商も営んでいた。自分の仕事を私たちに見せてくれる時の彼女の目は、誇りに満ちてキラキラと輝いていた。
この二人の若い女性には、ホームステイの日にもゆっくりと出会うことができた。2日前の息をのむような話がうそのように幸せそうに村の中で生きていた。そして、笑顔で暖かく私を迎えてくれた。ただ、私には、その瞳の奥に秘められている憂いと身のこなしのつつましさが、かつての苦労をしのばせているように思われた。
ホームステイの時、しきりに冗談をとばして私を歓迎してくれたゴービンドゥーさんという男性がいた。テルグ語で「泥棒」という意味を持つらしい「ドンガ」という言葉を教えてくれて、人の名前の最後にくっつけて呼び合ってはみんなで大笑いをした。(サンガムの会ニュースレター編集部の教えてくださったところによるとドンガは名詞で、「泥棒」の意味があるが、形容詞では「ふりをしている」「イタズラな」などの意味があり、人の名前の後につけると、「誰々は…のふりをしている」というような洒落になるということである。)片腕に障害を持つ彼は、チンナバブーさんの近所に住み、薄暗い土間でチャイと呼ばれるミルクティーを沸かし、お客にふるまうことで生計を立てている。彼の底抜けの楽天性は、彼の過去を推し量る機会を全く私に与えなかった。ところが、ホームステイから帰って開いたメモには、その2日前の集会で、「私たちはかつて無視されていた人間だった」という言葉がはっきりと記されており、そのスピーチを端正に語った人物が、実は、ゴービンドゥーさんだったということに初めて気づかされた。私は彼の人柄の奥行きの深さを改めて知らされることになったのである。
インドの農村には、障害を持った人が社会の中で自然に生きることのできる条件が、日本よりもそろっているのかもしれない。それは、きっと私たちが近代化の中で、置き去りにしてしまったものだろう。
しかし、そんなインドにおいても、障害を持つ人が自らの尊厳に気づきながら、自分の人生を切り拓いていくためには、やはり様々な困難があり、それを仲間と手を取り合って、一つずつ変えていくところから始めなければならないのである。そして、おそらく幸せはそういう歩みの中にあるのではなかろうか。
今日も、チンナバブーさんは、杖をしっかりと大地につきながら、仲間たちを率いて、ゆっくりと歩み続けていることだろう。そして、それは、私にとって大きな希望であり続けるだろう。