言語の生成に関する知的障害の新しいモデルの構築に向けて

柴田保之

Toward the reconstruction of concept of mental retardation.about generation of language

 

Shibata Yasuyuki

キーワード:知的障害 重症心身障害 コミュニケーション

 

私は、言語獲得以前の段階や言語獲得の初期の段階にあるとされる障害の重い方々と関わり合いを持つ中で、その見かけ上の姿にもかかわらず、その方々が豊かな内的言語の世界を有するという驚くべき事実に出会ってきた。初めは、その中でも外見上もコミュニケーションの力の存在をうかがわせる人たちとの関わり合いを通してであったが、しだいにより重度の人へとその範囲が広がっていき、重症心身障害と呼ばれるような人たちにおいては、少なくとも私が出会った限りにおいては、ほとんどの方々が豊かな言語の世界 を有していることが明らかになった。

しかし、この段階では、言語表出を阻んでいるのは、言語表出のプロセスの最終段階である発声という身体運動の困難と考えられ、私たちの援助は、その困難な身体運動を補うものとして理解されていた。

ところが、援助の方法の発展や対象の範囲の広がりとともに、私たちの言語表出の援助が、言語が表出される直前の身体運動の困難に対する援助では説明しえない事実に出会うようになり、それらが、言語を表出するメカニズムの再考や、知的障害に対して暗黙の内に存在するモデルの問い直しを含むものであることが明らかになってきたのである。

そこで本稿では、言語表出のメカニズムや知的障害モデルの再考のために、現在明らかになりつつあることを試論的にまとめてみたい。

1.基本的な方法 〜使用したソフトとスイッチ〜

 ソフトについては肢体不自由の方のワープロソフトとして知られているステップスキャン方式の自作ソフトを使用した(図1)。ステップスキャン方式では、行や文字を送るスイッチ(以下送りスイッチとする)とその行や文字の選択を決定するスイッチ(以下決定スイッチとする)とを用いるが、前後の運動によって二つのスイッチの入力を行う場合にはレバー式スイッチやスライド式のスイッチ(図2)とを使用し、押す運動によってスイッチの入力を行う場合には、二つのプッシュスイッチ(図3)を使用した。

 

2.方法の発展と対象の範囲の拡大

対象の範囲の拡大は、援助の方法の発展と密接に絡み合いながら起こったものなので、ここでは、援助の方法の発展を整理する中で、それにともなって起こった対象の範囲の拡大について整理したい。

なお、障害の種類や程度については、必ずしも厳密に区別しているわけではなく、重度・中度・軽度といった区別は、関わり合いの印象に基づくものである。

(1)実際に起こされた自発的運動がその意図通りに遂行されるように援助する〜言語の可能性が想定される重度の肢体不自由児・者からすべての重症心身障害児・者へ〜

 私たちがパソコンを使った言語表出の援助を最初に行ったのは19985月のことで(柴田、2001)、それから少しずつ言語表出が可能になった事例は増えていった(柴田、2006)が、それは、あくまで障害の重い人たちの中でも例外的な存在として考えられていた。しかし、20049月私が関わっている中でもっとも障害が重いと考えられた10歳の女児が文章を綴ったことによってその考えは完全に覆され、重症心身障害と呼ばれるすべての人々に言語の可能性を前提として関わらなければならないことに気づかされた(柴田、2005)。

この間の援助は、一貫して本人が自発的に起こした運動を援助するというもので、援助の内容はそれぞれの障害の状況に応じて異なるが、より小さな自発的な運動を読みとることができるようになったり、不随意運動と自発的な運動との区別がより的確にできるようになったりしたことが、対象の広がりには深く関わっていた。また、最初の少年にはその視線等の反応から言語の存在が容易に予測できたのに対して、しだいに、見かけからは言語の存在の予測がむずかしい人々に対してもその可能性が少しでも感じられれば働きかけるようになっていったことも対象の広がりに関わっている。

 ところで、援助の内容について、最初は自発された運動の中にこめられた意図(送りスイッチと決定スイッチのどちらのスイッチを押そうとしているのかなど)は、独力ではその運動を遂行できなくても、明白にその意図が見て取れる運動を援助していたが、しだいに、援助の中で意図の読み取りにも習熟してきて、自発的運動の中に含まれる様々な手がかりをもとにしてその意図を読みとって積極的に援助を増やしていくようになっていった。(後述のモデルT参照)

(2)自発的な運動の準備を読み取って援助する〜読みとりの高速化〜

1)方法の発展 運動の準備の読み取り

 上述した20049月の関わり合い以降、いわゆる重症心身障害と呼ばれるような障害の重い人々には言語が存在する可能性があるとの立場で関わるようになり、そのことによって対象は大きく広がることになった。そして、その過程の中で、20063月に偶然、自発的な運動の準備の段階でこもる力を読みとるという新しい援助の方法を発見した(柴田、2010a)。これは、最初はプッシュスイッチの介助において起こったことだが、その相手の力が非常に弱いために一緒に送りスイッチを押していたところ、決定スイッチに移ろうとするとき移動を準備するための力が手に加わり、送りスイッチが押しっぱなしになるということが起こった。これは、実際の運動を待つよりもわかりやすかったので、この力をもって選択の意図として読み取り、決定スイッチは私たちが押すことにすると、手続きも省略されスピードもあげていくことができた。また、最初は本人の動きが主で私の添える手の力は補助的なものだったが、だんだんと本人の力が抜けていき、私の動きに委ねるようになっていき、むしろ私が積極的に相手の手を動かすというようになっていった。なお、この段階で、この力は、準備のためにこめられたものから、合図としてこめられたものへとその意味が変わったが、そのことは特に問題にはならなかった

 ただし、当初は、こうしたやり方が彼女にのみ適用できるものだと考えていたのでそれが一般性のある方法として確立するとは思っていなかったが、スライドスイッチでも送りスイッチにあたる手前のスイッチを入れるための引く運動を一緒に行ってみると、引く運動から押す運動へ切り替えようとする時に、やはり押す運動の準備をするためにスイッチが引かれたまま戻らなくなるということが起こった(柴田2008)。そして、やはりこれも自発的な運動を待つよりも非常にわかりやすく、徐々にスピードをあげていくことができ、本人の力はどんどん抜けていき、私の方が積極的に動かすように変化していった。(後述のモデルU−1参照)

2)対象の広がり

@とめどない反復運動が起こる人たち

 こうしてこれを一つの方法として確立できると、プッシュスイッチでもスライドスイッチでも、いったん押す運動や引く運動を始めると、とめどない繰り返しのような反復運動となってしまって適切な運動の停止ができなかった人でも、スイッチを操作する手を一緒に動かせば、送りスイッチから決定スイッチへ移ろうとする意図を的確に読み取れるようになり、さらに対象は広がっていった。なお、こうした運動の特徴を持つのは、ある程度手が使える人たちで、座位の保持の可能な人も含まれている。また、いわゆるレット症候群と呼ばれる人たちもここに含まれていた。(後述のモデルU−1参照)

A簡単な会話の可能な肢体不自由児・者

 ところで、スイッチの援助のスピードが上がっていく中で、さらに新たな対象の広がりがあった。それは、幼少期より簡単な言語の会話が可能であった脳性麻痺の女性に対する関わり合いからである。彼女は、幼少期より輪郭線の絵の認知やひらがなの認知に困難があったけれども、中学部のころからいくつかのひらがなが認識できるようになり、タッチパネルの50音表を一緒に指さして文字を選ぶようなことを続け、スライドスイッチを用いた2スイッチワープロで簡単な文を書くようにしていった。最初は、口頭で言ったものを改めて書き写すところから始めたのだが、2007年の秋から口頭で述べた簡単な言葉とは別にもっと複雑な気持ちが綴られ始めたのである。私たちは、語っている言葉が彼女の内面すべてではないにしても、内面の言葉の水準をかなり反映したものであると思っていたので、外に表出した言葉と内面の言葉の大きなずれがすぐには納得できなかったが、彼女にパソコンで書かれた文章は正しいのかと尋ねてみても、「はい」と明確な返事がかえってくるので、この大きなずれの存在を認めないわけにはいかなくなった。そして、このことは、同じような障害の状況にある人においても同様の結果が得られた。(後述のモデルV−1参照)

 また、彼女については、パソコンで文字を綴りながら、その綴っている内容とは別のことを発話するという不思議な現象も見られた。口をついて出てくるのは、例えば目の前の弟を叱るものだったり、今日の一日の出来事にふれたりするものだった。発語は彼女自身から発せられる紛れもない彼女自身の言葉なので、あたかも援助によって綴っているパソコンの文章の方が本人のものではないかのようにも見えてくる。そこで、その一件奇妙ともいえる状況について、直接本人に、「パソコンで書いている気持ちはまちがいないよね」と聞くと、口頭で「うん」と答えが返ってくるし、また、ときおり、「これであってる」とか、こちらが操作ミスをしたりすると「ちがう」などという発言もしてきて、発語は別のことを語りつつも、それとは独立した文章を綴ることができるということが厳然とした事実であることが示されたのである。(後述のモデルV−2参照)

(3)「ここだ」と思った時にこもる力を読みとる

1)方法の発展

@これまでの方法の延長線上の展開として

上述した新しい方法を用いると速いスピードでより正確に読みとることができるので、スピードをさらにあげていく中で、私はただスピードを速くしただけなのに、本人にとっては、質的な変化と感じられているらしいことが本人自身の報告から明らかになってきた。それは、まずなぜわかるのかという問いかけと自分は音を聞いていてここだと思っているだけだという説明だった。そしてこの頃から書かれる文章の句読点が消えていった。2008年の夏前後にかけてのことである。

 これは、準備の力ないしそれと同質の合図の力には自分自身でも入れた自覚があったが、その自覚が消えたということである。考えられる説明は、力を入れるということとここだと思うということは、運動と思考ということではまったく質の違うことのように思われるが、ともに脳内の一つのプロセスであり、ここだと思うということでほんのわずか体に力が入っているというものしかありえないことになる。

A肩など手以外の場所にスイッチを押しつけたり離したりする方法

 2008年の12月、自分の手の拳で顔をたたいてしまうという自傷行為の激しい人にプッシュスイッチの方法を初めて試みたところ、相手が明らかに文字の選択をしているにもかかわらず、手を持たれることをいやがるので、とっさにプッシュスイッチで送りスイッチを相手の肩などに押しつけたり離したりしてみた。すると選ぶときには体にわずかな力がこもってスイッチが押されたままになり、選択の意志を読み取ることができるようになった。この偶然思いついた方法は、手を触れられたくない人に対する方法として、新しい広がりとなった。

B手を振りながら「あかさたな…」と声を出す方法

 そして同じく2008年の12月の末のことだが、援助のスピードがあがると手がかりは音声であることが明らかだったので、スイッチとパソコンを使わずに、相手の手首や手のひらを持ってプッシュスイッチのオンオフと同様の動きとなるように手を振り、その動きに合わせて肉声で「あかさたな…」と唱えていくと、選択したいところで手にかすかな力が加わり選択の意志を読みとることができるようになった(柴田、2010b)。これは、特にパソコンを開きにくい状況でコミュニケーションをとることを可能にすることとなった。

C肩など手以外の場所を軽く揺らしながら「あかさたな…」と声を出す方法

 上述の二つの方法を併せたものとしてこの方法が生まれた。手をふれられたくない人や手を振ることが体の緊張を呼んだりする人などとパソコンを開かずともできるコミュニケーション方法となった。

2)対象の広がり

@中度の知的障害者

こうした中で、歩行も可能で知的障害の特別支援学校の高等部に通う女子学生がパソコンで気持ちを綴った。彼女とは小学校の低学年のころより文字や数の学習をゆっくりと進めてきて、ひらがなの読み書きや10までの数などの学習ができるようになっており、コミュニケーションについても、2語文程度の表出や絵の指さしなどでだいたいの意思疎通は可能な状況になっていた。ところが、200810月、なかば偶然、この方法を試みたところ、まったくちがう内面が綴られたのである。彼女は、この数年にわたって同じグループの仲間たちが次々とパソコンで気持ちを表現できるようになっていくのを目の当たりしていたわけだが私たちは、話もできて字も書ける彼女には無縁のものだと考えていたのである。(後述のモデルX参照)

A重度の知的障害児・者

ところで、こうしたことと平行して20087月から町田市障がい者青年学級という集団活動の場にこの方法を持ち込んでいた。それまでは、個別の関わり合いの中で言葉を聞き取ることをやってきたのだが、スピードがあがることによって集団活動の場での実践の可能性が開けてきたからである。そして、実際に持ち込んでみると、まず、車いすを使用し目立った言語表出のない方々で成功し、実際にその方々が話し合いなどに参加することも可能になった。私にとっては、この方法が有効なのはそうしたメンバーだけだと考えていたのだが、若いスタッフに、歩行は可能だが簡単な単語の表出しかない重度の知的障害と呼ばれている人の気持ちを聞いてほしいと言われて、実際に試みてみると、すらすらとパソコン上に気持ちを綴るということがあった。11月の初めのことだ。私自身は、目立った運動障害はないけれどほとんど簡単な単語程度しか発することのないこうした方々はこうした方法の対象外と考えていたので、自信はなかったのだが、上述の高等部の女子学生と会わせて、言語表出は限られているが目立った肢体不自由を伴うわけではない知的障害の方々を対象とする大きな展開のきっかけが生まれた。(後述のモデルW参照)

Bほとんど発語のない重度の自閉症児・者

 そして、その半月後の2008年の1116日、自閉症の作家として注目されている高校生の東田直樹さんの講演会に参加した。すでに自らのことを述べたいくつかの著作を通して私は自閉症の概念を根底からゆさぶられていたのだが、実際の彼の姿を目の当たりにして二つのことを感じた。それは、彼は決して特別な存在ではなく私が出会っている自閉症と呼ばれる方々と同じだということと、自らの思いを表現できないことの苦悩の深さだった。援助による筆談によって言葉による気持ちの表現が可能になり、パソコンのキーボード配列の文字盤や実際のキーボードを独力で指して表現が可能になった彼の方法はさしあたり私には未経験の領域だったが、私も何かしないわけにはいかないと考え、すぐに小学生の低学年から関わりを続けてきたまったく発語のない自閉症と呼ばれる成人の方にタッチパネルの文字盤を指さして簡単な言葉を一緒に綴る方法を試みたところ、独力では不可能なものの、とてもいい表情でのってくるということがあり、12月には2スイッチワープロでの気持ちの表出に成功した。

 そして、同時平行的に、障がい者青年学級でも、重度の知的障害の方々にくわえ重度の自閉症と呼ばれている方々に対する取り組みも始まった。

 こうした重度の自閉症と呼ばれる人たちの中には、大事な書類でも破いてしまう、食事中となりの人の食べ物に手を出してしまうなど、本人が社会的ルールを認識することができないかに見える人たちが含まれていたが、そのことについて質問をすると、返ってきた答えは驚くべきことに「かってにからだがうごく」というもので、こうした行動面における私たちの理解についても根本的な見直しを迫られることになった。私たちは、これまで、こうした行動にはすべて意味があることとし、そこにはその人の思いが反映されていると考えてきたので、そうした行動も可能な限り受け入れようとしてきたのだが、実はその行動に隠れて見えないきちんとした認識と思いがあり、私たちが尊重すべきなのはその隠されている本当の気持ちであるということが明らかとなった。(後述のモデルW参照)

C視覚障害と知的障害をあわせもつ盲重複障害児・者

 さらに、おなじ200812月には、盲重複障害と呼ばれる中学生の少年に対しても試みてみると、音声だけを頼りに文字を選んで気持ちを綴ることができるようにもなった。この少年については、コミュニケーションにも困難があり、パターン化した発話を好むなどの特徴を持っているが、この時、パソコンで言葉を綴りながらその内容とは違う発話をしており、また、そのことについて尋ねるとパソコン上で「くちわかってにうごく」(ふだん点字表記で学習しているので助詞は「は」ではなく「わ」となっている)と答えが返ってきた。(後述のモデルY)

 その後、視覚障害者を中心として受け入れている施設である福井県の社会福祉法人光道園における多数の盲重複障害者との関わりも含めて、多くの盲重複障害児・者とこうした関わりを行った。そして、上述した少年のようにパターン化した言葉を話しやすい人も含まれているが、まったく発語のない人、特にパソコンの内容と食い違いのない人など様々である。

C発話可能な自閉症者

20092月、発語が可能で、文字の読み書きも可能な自閉症者に対しても対象が広がった。これらの人たちは、ふだんからそれほど活発に話をせず尋ねられるとそのままオウム返しをしてしまう方から、あるパターン化したやりとりをしてくる人(「柴田さんはうちのお父さん知っていますか?」など)、あるいは、特定の話題(電車の話題など)をしてくる人など多様だが、共通していることは、うまく気持ちが表現できていないということだった。そして、一見自発的に話しているように見えるパターン化したやりとりや特定の話題のやりとりも、本当に話したい意図を正確に反映しているのではないということも明らかとなった。

また、特定の話題をしてくるある男性は、通常のコミュニケーションはいっぷう変わっているという印象を私たちに与える程度なのだが、あえて、自分からパソコンの援助を求めてきて、自作の詩を綴る。なぜ、それだけ書いたり話せたりするのに一人で詩を書いたり口頭で述べたりしないのかを尋ねると、私の援助でなければ詩は表現できないという内容のことを伝えてきた。

Eかなりコミュニケーションのとれている知的障害児・者

さらに、12月には、青年学級において、軽度の知的障害と呼ばれ、比較的コミュニケーションもとれているが、流暢に話しているとはいいにくい知的障害の方々に対して、会話中に手をとってこの方法を試みてみると、実際に発話として表現された内容よりもさらに詳しい内容の発話を得ることができた。それは、まったく偶然のことだったが、実際に障害の重い方と私が手を振る方法でやりとりをしているのを見ている女性がいて、この女性とはふだんから通常の会話が成立しているのだが、ふとあなたにもこのやり方で聞いていいかと尋ねたところ、承諾したので試みてみると、すらすらと言葉が表現されてきたのである。

この場合、表現された内容は、音声による発話と内容的には同じなのだが、その内容が量的にも多くなり、質的にも深まったのである。

 

3.提起された問題

 上述したような方法の発展と対象の広がりの中で、私たちはこれまで常識とされてきた考え方に対する問い直しを迫られることとなった。

(1)重症心身障害=重度の発達遅滞という見方の誤り

 まず、私の出会った重症心身障害と呼ばれるような存在がみな言葉を有していたことから、彼らはこれまで考えられてきたような発達の初期的な状況にあるのではなく、コミュニケーションに必要な運動のほとんどが制限された重度の身体障害の状況にあり、言語的には年齢相応の認識を備えていると考えたほうがいいのではないかということである。もちろん認知的側面において何らかの障害が存在する可能性が排除されたわけではないが、それは今後の課題である。

(2)意図に反する様々な運動の存在

 次に、上述の重度の運動障害の中には、からだが動かないこととは別に、不随意運動と呼ばれる意図に反した運動がある。そして不随意運動にはいくつかのかたちがあり、これまで、意図に沿った運動と見なされていた運動の中にも、不随意のものがあることが明らかとなってきた。

1)筋緊張の問題による不随意運動

 腕を伸ばすなどの運動を起こすと、意図に反した強い筋緊張が起こってその運動をうまく方向づけることが困難となる場合がある。この場合、手を伸ばそうとした意図の存在はわれわれにはよく伝わるとともにその意図を阻む不適切な荕緊張が起こったこともまたわかりやすい。したがって、その意図さえわれわれが読み違えなければ援助は必ずしも困難ではない。

2)意図しないふるえの存在

不随意運動には、たえず、ふるえのような小刻みな運動が起こっているというものがあり、そのふるえのような動きの中にかすかな自発的運動や合図が含まれているという場合がある。ふるえと自発的な運動との区別がつきにくいものの、ていねいに関わればその区別は不可能ではない。

3)意図した運動が反復運動になって止められなくなる

プッシュスイッチでは押すー戻す、スライドスイッチでは引くー押すという反復運動をしていると、意図的に止められず、とめどない反復運動になってしまうという不随意運動がある。これは、外見上、わからなくなってめちゃめちゃに動かしているとか遊んでいるなどととらえられることも多く、大変誤解されやすい。何とか停止できる場面があっても、それはただの偶然と思われてしまうのである。

これは、山鳥(1985)によれば20世紀の初頭に保続現象の系統的分析を行ったリープマンが間代性保続(clonic  perseveration)として分類したものに類似している。それは、「ある行為を一旦始めるとその行為がくり返し続く」(山鳥、同)とあり、それが引き起こされる理由として、「ある行為が行われると、その行為発現に関与する神経過程は興奮状態(あるいは賦活状態)になる。次の行為に移るとこの興奮状態は抑制を受けるが、消失せずに残る。この抑制機構がうまく働かないと、次の行為の開始に際しても前段階の興奮過程がそのまま出力されることになる」(山鳥、同)との仮説を提示している。

4)物に触れたり物を見たりすると勝手に手が伸びる

 コードなどに手が触れるとさっと握る、あるいはペットボトルを見ると手を伸ばすというような目的的に見える行動が、実は意図に反しているということがある。これが意図に反しているということは、本人からの報告がない限りわからないものだが、そうした意図に反して自動的に起こってしまう行動から本人の認識のレベルを推察すると低く見積もらざるをえず、また、運動の範囲が広い場合には他人の食べ物に手を出したり書類をくしゃくしゃにするというようなこともあって、社会的ルールの理解が困難と見なされやすくなってしまう。

 また自傷行為や指しゃぶりなどの常同行動についても勝手に手が動いているという本人からの報告もあった。指しゃぶりなどは、姿勢の安定という意味などがあることは明らかだったが、こうした身体の安定のための行動は、無意識的な過程として意識とは相対的に独立したかたちで起こっていたのである。

 これに類似した事例は、道具を見ると思わずその道具を使用してしまうという「道具の強迫的使用」(山鳥、2007)などに見られており、それとの関係は定かではないが、意図に反した行動を起こすという可能性が人間にはあることが示唆されていると言えよう。

以上、大まかに意図に反する行動として4つの類型をあげたが、このような意図に反する運動の存在は相手の理解を非常に困難なものにする。特に3)と4)の類型の行動は、本来の意図を覆い隠してしまい、顕在化した行動からのみ相手を理解することになってしまうのである。

(3)発語に移行する段階で思考内容や表現内容が損なわれる

 発語する前の内言として存在する思考を表現するということは私たちではほぼ無意識的に行われており、その移行の過程で内言が損なわれるという認識はないが、内言を発語へと移行する過程に何らかの障害があった場合、その障害のために内言が損なわれるということがあるのではないかという仮説を私たちは持っている。

 その障害の一つは、脳性マヒ等による言語障害である。ある発語の可能な脳性マヒの子どもに、22×3という問題を尋ねて、口頭では答えられないにもかかわらず、ペンを持たせて関わり手が手を添えると66と数字が書かれ、パソコンでも正解が書かれる。そこで、その説明を求めると「くちでいおうとするとしきがきえてしまってできなくなる」とパソコンで答えが返ってきた。

 これは、おそらく、発語するということ自体が障害のために脳内のたくさんのプロセスを動員せねばならないため、式を短期記憶に保持しておく余裕がないと考えると説明がつくと思われる。これは、当然発話にも大きな影響を及ぼしており、複雑な思考内容があっても、発話をしようとするとその複雑な思考内容が損なわれてしまって簡単な内容の発話しかできないということがおこっていると考えられるのである。

なお、盲と肢体不自由を重複していてかなり発語の可能な人で、独力でパソコンのキーボードの6つのキーを使った点字入力を行っている人が、独力の入力ならば、なかなか複雑な思いを綴ることができないのだが、援助による2スイッチワープロで複雑な思いを綴るということがあった。この時、2スイッチワープロでその理由を尋ねてみると、「いちどにふたつのことはできません」という明確な答えが返ってきた。これは、6つのキーを独力で押すという作業によって複雑な思考内容を表現することが妨げられているということを意味していると言えるだろう。(後述のモデルV−3参照)

(4)意図とは違う発語が生まれる

 自発的に発語がなされている以上、それは本人の意図に沿ったもので、もしその発語が何か通常の私たちのコミュニケーションからすると違和感を感じるものであった時、私たちの常識ではなかなか計り知れない独自の内面を想定することが通例であった。しかし、なされている発語は、必ずしも意図に沿ったものではないという場合があるのである。

肢体不自由の障害で意図と反する言葉を発してしまうという自らの体験について述べた大野剛資さんは、みずからの状況を「二層の経験」(大野、2011)と表現し、次のように述べる。「小さな静かな声だけど伝えている。二層の仕方なのでむずかしい。伝えたいことと言っていることが違ってしまう。」(大野、同)実際、彼は、限られた単語を様々な感情表現に用いたり、周囲の状況とは無関係に発したりすることがあるのだが、その言葉とは別の伝えたいことが存在するということはなかなかわからなかった。

また、先に紹介した自閉症と言われる東田直樹さんの場合も、「話したいことは話せず、関係のない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまう」(東田、2007)とあり、同じような事情が語られている。

また、同様の事例が盲重複と呼ばれる事例の中にもあることは先に述べた通りである。

 もちろん、まったくすべてが機械のように他律的に起こっているというよりも、その言葉を発することで落ち着くなどの意味を持っている場合もあると思われ、無意識下でその発語が持つ意味はていねいに明らかにしていく必要があると思われるが、そうした発語の奥に、私たちとほとんど何ら変わらない気持ちの世界が広がっているということがこれまであまりにも顧みられてこなかったということを強調しすぎてもしすぎることはないだろう。

 なお、神経心理学においてもこうした現象に類似したものとして「自動性言語と意図性言語」(山鳥、2001)という区別や「不随意的発話と随意的発話」(山鳥、同)という区別がなされており、様々な説明が試みられている。ここで述べている現象との関係については不明確な点も多いが、こうした現象がすでに知られたものとして存在していることは注目に値する。

(5)知的障害=発達遅滞という見方の再考

 知的障害は、従来、発達の遅れと見なすのが通例で、何歳レベルの知能というような言い方が当たり前のようになされる。しかし、こうして明らかになってきた事実は、そうした見方への再考を厳しく求めているように思われる。

 パソコン等による表現の援助により明らかになったことは、表現された言語内容は相手の認識の内容をきちんと反映しておらず、内なる思いを表現しようとすると、その内容が損なわれたりまったく別のことが表現されたりすることがあるということである。見た目や表現された言葉からは推し量れない複雑な思いが存在するにもかかわらずそのことが伝えきれない苦しみとともに、わかっていない存在として誤った理解をされることによって、人間としての尊厳を奪われるということが起こっているのである。

 その障害が、表現のプロセスにのみとどまるのではなく、外界の認知や社会的な認知のプロセス等にも及んでいる可能性は否定されるわけではなく、その問題は今後の課題だが、表現されずにいる内なる思いについての正しい理解をすえ直すところからすべての問い直しは始められなければならない。

 

4.言語表出のプロセスのモデル化の試み

当初、私たちの援助は、言語表現の一連のプロセスの最終の段階における純粋な運動障害に対する援助であると考えていた。しかし、上述した通り、方法の変遷と対象の広がりの中から、徐々に、言語表現の過程の複雑さが明らかになり、これまでの通念を問い直すいくつかの問題をつきつけられてきた。ここでは、そうした諸問題を整理するために言語表現のプロセスで起こっている様々な障害に関していくつかのモデルを提示して整理してみたい。

まず、これまで発話のモデルとして、失語症研究に基づく神経心理学における山鳥のモデル(2001)を参照しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図4.山鳥重の発話のしくみのモデル

 

このモデルついては次のような説明がなされている(山鳥、2001170頁)。

 

   発話過程はまず、概念形成(あるいは思考形成)から始まる。まず概念が形成され、

その概念が言語形式の原型(言語祖型)を生成する(Vygotsky(1971)のいう内言語にあ

たる水準)。言語祖型は具体的な言語表現形式の前段階で、輪郭を持っているが、具体

的な表現形式には成熟していない。ついでこの言語祖型がいくつかの具体的な表現形式

(レパートリー)を賦活する。この賦活群の中から最初にもっとも適合した表現形式(

音韻系列)が1つ選択される。この選択された音韻系列の音声化に向けては、さらにそ

れぞれの構成音韻について、必要な過程が進行する。この音韻単位が順次構音素に変換

される。構音素は運動ニューロンを駆動して、構音を実現する。

 

 まず、基本的な流れとして、私たちがパソコン等によって聞き取った言葉はすでに文としてかたちをとっているので、モデルにおいては、〔意図・観念・思考の生成〕から〔音韻系列の生成〕への過程はすでにいったん完了したということになる。そこで、この段階のものを<原初的な内言>とする。これは山鳥が述べる「Vygotsky(1971)のいう内言語」にあたる言語祖型とは異なるが、さしあたり適切な用語がないのでこのように述べておく。

この生成された<原初的な内言>は、私たちの場合は、特別な障害なしに、そのまま、〔構音運動〕へと移行し言葉として発せられるわけだが、その場合、<原初的な内言>は言葉以前の〔意図・観念・思考の生成〕のプロセスにも影響を遡及的に及ぼし、そこから再び新しい、<原初的な内言>が生み出されてくる。そして、それは同じくまた、一方は音声言語化のプロセスへと向かい、もう一方は〔意図・観念・思考の生成〕のプロセスへと遡る。こうしたプロセスをきわめて高速にくり返しながら私たちは言語表現という行為を行っているということになる。

もちろん、私たちは、すぐに音声化せずに内面で言葉を吟味するということも少なくないし、書き言葉として表現するためにはそうしたプロセスが不可欠である。これは、<原初的な内言>が〔構音運動〕へ移る前に、さらに発展した<変換された内言>となっていくということである。ここで、<原初的な内言>から〔構音運動〕へ移るところに障害がある場合、<原初的な内言>がスムーズに〔構音運動〕に移行するのは妨げられるが、〔意図・観念・思考の生成〕へと遡ることは起こり、その往復的なプロセスの中で<原初的な内言>は発展をとげ<変換された内言>となっていく。

なお、このモデルにおいては、〔意図・観念・思考の生成〕から〔音韻系列の生成〕に至るプロセスには、〔言語記憶(発話レパートリー)〕への参照も重要な役割を果たしている。この参照は通常は語彙や文法事項や発話の約束事等と理解されるが、意図とは別の発話が生まれる場合などには、この参照のプロセスと何らかの関係のあるプロセスが起動していると仮定することもできるだろう。

さしあたり、こうしたところを出発点にして、私たちが出会ってきた様々な言語表現の障害のかたちをモデル化したい。

(1)重度の肢体不自由児・者や重症心身障害児・者における低速の読み取りのモデル

図5.モデルT

まず、相手の自発的な動きを読みとっていた時期のモデルは図5のようになる。ここでは、スイッチ操作は現在よりも低速で、一回の関わり合いで表現される文字数が限られているために、<原初的な内言>はいくつかの変換を経て圧縮された内言となって、それをパソコンによって表出していると考えることができる。ただし、この圧縮は何かが失われるというよりもより密度の濃いものになることが多かった。また、変換の過程は本人にとっても自覚的なもので、書き言葉的なものである。

 また、低速での表出の場合、高速の場合と比べると、スイッチを入力するごとにこの行はちがうとかあとどのくらいで目的の行かなど、本人が自覚的に行う内的な判断などがかえって多くなっている。そのため、高速では起こりにくい文法的なミスなどがかえって起こってしまったりすることもある。

(2)重度の肢体不自由児・者、重症心身障害児・者における高速の読み取りのモデル

図6.モデルU−1

 

 

 

 

図7.モデルU−2

まず、図6のモデルU−1は、モデルTに比べて援助のスピードがあがることにより、表現された内容は<原初的な内言>に近づいたものとなっているが、表現された内容は<原初的な内言>そのものではなく何らかの変換を経たものと仮定しており、一応、準備のための力を読みとるという援助の段階に対応するものと考えている。一方、図7のモデルU−2は、モデルU−1よりもさらにスピードがあがって、直接<原初的な内言>が表出されていると仮定したもので、援助法としては、「ここだ」と思った時にこもる力を読みとるものに対応している。<原初的な内言>がそもそも何なのかということの厳密な議論を経ずにこのような仮定を置くことに問題はあるが、多くの当事者自身が思っただけで読み取られて不思議だというような感想を述べているので、そのイメージをこういうかたちでモデルにしておいた。すでにふれたように、山鳥自身が述べたモデル説明の文中のヴィゴツキーの内言とされるものは、山鳥の考えでは、〔音韻系列の生成〕のプロセスの前の〔輪郭的言語形式の生成〕に対応するものだから、ここで言う<原初的な内言>とは異なっている。ただ、援助のスピードをいくらあげても、今のところ、〔音韻系列の生成〕以前の言葉が表出されたということはない。

ところで、<原初的な内言>からの変換が短いもしくはほとんど存在していないということは、(1)の言葉が書き言葉に近いのに対して、こちらは話し言葉に近いものとなっていると言ってよいだろう。

(3)簡単な会話のできる肢体不自由児・者

図8.モデルV−1

図8のモデルV−1は、簡単な会話の可能な肢体不自由児・者として述べたモデルで、<外化された言語>がそのまま認識内容を反映しているととられてしまうが、パソコンによって表出を援助すると<外化された言語>とはちがった、もっと豊かな言語や認識の内容が表現されることとなる。<原初的な内言>が音声言語へと変換されていく内的なプロセスの中で、表現内容は損なわれていくわけだが、ここでは、身体障害のために発語という身体運動に多くの努力を必要として表現内容を保持することが困難になっていると考えられる。しかも、表現内容は、単に損なわれるだけではなく、ある<パターン化した言語の産出過程>を参照することにより、ステレオタイプな言葉になりやすいという現象も起こっていると考えられる。

なお、この<パターン化した言語の産出過程>は、障害を持たない者の場合むしろ発語をスムーズに行わせるものと仮定することができ、上述の山鳥のモデルにおける〔発話レパートリー〕に何らかのかたちで対応するものと考えることができる。

図9.モデルV−2

図9のモデルV−2は、そういうパターン化した言語が、<原初的な内言>をうまく反映せずに、発せられてしまう場合をモデル化したものである。先に紹介した「二層の言語」がこれにあたる。<原初的な内言>を反映しないパターン化した言語は、モデルYのそれに対応していると考えられる。

 

10.モデルV−3

 図10のモデルV−3は、盲と肢体不自由を重複した事例で、自力による点字入力の作文がパターン化したものであるのに対し、援助によるパソコンでは豊かな<原初的な内言>が表現されている。一定の複雑な操作を必要とする点字入力の介在が、変換の途中で<原初的な内言>の豊かな内容を損なってしまっていると考えられる。なお、この事例の場合、音声言語による表出も豊かな<原初的な内言>に比べて単純なものとなってしまっている。これは、モデルV−1と同様で、肢体不自由という障害が影響していると考えられる。

(4)発語のない重度の知的障害者、発語のない重度の自閉症者

11.モデルW

11のモデルWは、特別なマヒなどがあるわけではなく、簡単な日常生活動作等はできているにもかかわらず、発語のない場合のモデルである。豊かな<原初的な内言>のあることがパソコンによる表出で明らかなのだが、音声言語の表出が見られない。簡単な音声言語の表出がある場合と合わせて考えると、発声器官の問題というよりも、内的な変換のプロセスに何らかの困難があると考えられる。

(5)簡単な発語のある中度の知的障害者、軽度の知的障害者

12.モデルX

12のモデルXは、発語の可能な知的障害者のモデルで、<外化された言語>の内容の複雑さの程度は様々だが、変換の過程で豊かな内容が損なわれていくと考えられる。しかも、モデルV−1で述べたように、ただ損なわれるだけではなく、<パターン化した言語の産出過程>が介在することにより、パターン化した言葉になりやすいと考えられる。

(6)発語のある自閉症児・者、パターン化した発語のある盲重複障害児・者

13.モデルY

 図13のモデルYは、発語はある自閉症児・者やパターン化したな発語のある盲重複障害児・者のモデルである。<外化された言語>の内容の程度は様々だが、その言葉は、本来は豊かな<原初的な内言>を正確に反映してはおらず、<原初的な内言>は、<パターン化した言語の産出過程>によりパターン化した言語が表出されるために、音声言語として表現されるにはいたらない。

 このパターン化した言語の表出は、パソコンによる<原初的な内言>の表出と同時並行的に起こることも多く、両者がかなりの程度、独立したプロセスになっていることをうかがわせる。それはまた別の言い方をすれば、そのプロセスを意図的にコントロールことがむずかしいということでもある。

ただし、このパターン化した言語はある場合には、何らかの気持ちを反映していることも少なくはない。

 

おわりに

 様々な障害のある人たちの閉ざされてきた言葉を聞き取る仕事は、偶然の積み重なりから生まれてきたものだが、それは、私たちを次々とこれまでの常識の通用しない世界へと導いてきた。強固な常識の前に、見かけの姿に惑わされて多くの誤解にさらされ、伝えたい気持ちを伝えられずにきた人たちの無念の思いに世の中が気づき、本当の意味で人間として認めるためには、誤った障害者像をくずしていかなければならない。本稿は、いまだ試論の域を出ないが、本当に苦悩している当事者の思いに寄り添っていくためには、私たちの方法の可能性を検証し、一般化していくとともに、そこから得られた様々な事実を一つずつ検討していく作業を積み重ねていかなければならない。

 重度の知的障害があるとされるある男性の言葉を引用しよう(原文は句読点なし)。30代で初めて気持ちを伝えることができた方の、喜びと悔しさの交錯する文章と詩である。

 

 なかなかでんとうのあかりがともりませんがどのようにすればいいのかなやんでいます。ちいっともかわっていきません。どんなやりかたでもいいからつたえたいです、きもちを。(…)ちいさいころにべんきょうしたのでじはおぼえていますがちいさいときにはかけたけれどいまはかけません。じのほかにはこえもだせません。なぜかはわかりませんがなかなかこえがでないのです。なかなかつたえられずにこまっています。(…)ぼくたちはばかにされるけれどとてもよくわかっていますがなみださえでません。たぶんなにかをしようとおもってもからだがうごかないのだとおもいます。できることはにちじょうせいかつだけでなかなかのぞんだとおりにはいきません。だからなにもわかってないとおもわれてしまいます。なかなかぬいぐるみせいかつをぬけだせません。(…)ゆびさすのもたいへんでしたからなにもわかっていないといわれてきました。がっこうじだいはたいへんつらかったです、じぶんのきもちがいえなくて。でもやっといえてうれしいですがはやくだれとでもはなしができるようになりたいです。しをかきます。

 

   ちいさいぼく

じもわからないとさげすまれ じぶんひとりでいきてきた

まぶしいひかりがさしてきて ひかりがわたしをとおいせかいへといざなう

じのないせかいことばのいらないせかいにいきたいとおもってきたけれど

ぼくはやっぱりにんげんだ

ちいさいときからあこがれた じのかけるにんげんになることを

だけどなかなかそれはかなわなかった

しかしようやくひかりがさしてきた

ぼくにもきかいがおとずれた

なやにとじこめられていたけれど

どうにかそこをぬけだして

にんげんらしいねがいをてにすることができた

みんなでともにみらいにむこう

ちいさいちからしかないけれど みんなでちからをあわせてあるきだそう

じんせいをもっとゆたかにするために

 

参考文献

大野剛資(2011)(印刷中)『きじの奏で』日本文学館

柴田保之(2001)「深く秘められた思いとの出会い 表現手段を手に入れるまでの純平君の歩み」國學院大學教育学研究室紀要第35号,1〜19

柴田保之(2005)「かんなさんの言葉の世界の発見」 重複障害教育研究会第33回全国大会発表論集<第2日目>,1〜14

柴田保之(2006)「障害の重い子どもの言葉の世界の発見 あおいさんの言葉の世界の広がり」國學院大學教育学研究室紀要第40号,1135

柴田保之(2008)「かなえさんが切り拓いた言葉の世界」國學院大學教育学研究室紀要42号,2138

柴田保之(2010a)「ある障害の重い子どもの言葉の世界の発見とその展開―三瓶はるなさんとの関わり合い―」國學院大學人間開発学研究第1号,3954

柴田保之(2010b)「『ちいさいころからはな(したかった)』 井上神恵さんの言葉の発見と見えてきた心の世界」重複障害教育研究会第回全国大会発表論集<第1日目>,2938

東田直樹(2007)『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール

ヴィゴツキー(1971)『思考と言語(上)』明治図書

山鳥重(1985)『神経心理学入門』医学書院

山鳥重(2001)「失語症から見る脳の言語機能」(『認知科学の新展開3 運動と言語』所収)岩波書店,157188

山鳥重(2003)『脳のふしぎ』そうろん社