ある障害の重い子どもの言葉の世界の発見とその展開

三瓶はるなさんとの関わり合い

柴田保之

1.はじめに

2009521日、人間開発学部の第1期生を前に、現役ならば同い年である三瓶はるなさんは、自ら思いを率直にぶつけた。手にスライドスイッチの取っ手を握って、私の行う援助で彼女はパソコンで文字をつづっていく。教室のスクリーンには、一文字一文字彼女が選択した文字が映し出されていく。車いすに座り、少女のように見える小柄な同世代の女性の言葉に、学生たちは、釘づけになっていた。

 

自分の意見を言いたいと思いますがちょっと恥ずかしいです。願いがかなってうれしいです。気持ちが聞いてもらえてうれしいです。人間として認めてもらえてしあわせです。まだ私のことを信じてくれない人もたくさんいますが私も人間としていろいろ考えています。人間として認められることがまだできていない仲間たちがたくさんいるので人間として早く認めてもらえる世の中が早くくるといいなと思います。人間として認められる世界がくればいいなと思います。みんなは私のことをみてどんな印象をもちましたか。理由はいろいろあるかもしれませんが理解できている人間と見えたでしょうか。指さされたりしてきましたから慣れてはいますが、人間として見られないこともたくさんあります。ひどいときは理由もなく笑われることもあります。表現は悪いですがひどい人は指さすだけでなくみんなの前で侮辱する人もいます。夢でした。指さされるだけならいいのですが、指さされるだけでなく侮辱されるのはたまりません。人間として認められることが夢でしたのでびっくりしています。不思議な感じです。みんなの前で話ができるとは思えませんでした。びっくりしただけでなくみんなと対等に語られることが夢のようです。勇気が出てきました。みんなと話したいです。(原文は句読点のないひらがな)

 

そして、はるなさんの希望にそって、学生に質問を求めた。

 

学生「画面は見ていないのですか。」

三瓶「見ていませんが耳で聞いているのでわかります。いい感じです、気持ちをすらすら書けて。」

学生「詩はどういうときに作るのですか。」

三瓶「一人で小さいときから考えてきました。一人で未来を夢みながら考えて作ってきました。詩を作っていると気持ちが静まります。」

学生「どんな歌が好きですか。」

三瓶「小さい世界という歌を知っていますか、小さいとき大好きでした。自分にとって希望の歌でした。自分の気持ちにむつかしいことがあるとよく口ずさんでいました。小さな世界はとてもよい歌詞でした。みんなもそう思いませんか。」

学生「今でいちばん楽しかったことは何ですか。」

三瓶「自分の歌をたくさんの人が歌ってくれたときです。びっくりしました。みんなが私のことを認めてくれたので。」

学生「好きな言葉は何ですか。」

三瓶「小さいときから忍耐という言葉をたいせつにしてきました。みんなはどんな言葉が好きですか。耐えることが多いからです。いつも耐えてばかりですから。」

学生「両親のことをどう思っていますか。」

三瓶「ありがとうと言いたいです。私を育ててくれた両親に。小さいときから病気がちで迷惑ばかりかけてきましたから・非常に理想的な両親です。ぬいぐるみをたくさん買ってくれたり、小さいときから自分のためにせいいっぱい育ててくれました。」

 

はるなさんとの出会いは彼女が小学校1年生のときにさかのぼる。私たちにとって彼女は、重度・重複障害児と呼ばれる存在で、言葉を駆使する私たちとは、またちがった感じ方の世界を生きており、私たちの関わり合いの目的は、言葉よりもむしろ、いかにして自発的な動きを広げ、その感じ方の世界を豊かにしていくかにあった。しかし、彼女との関わり合いは、その目的からすると、難航したと言わざるをえない。音楽が好きな彼女に楽しく1時間を過ごしてもらうことは何とかできたものの、私たちの目的である自発的な運動を発展させていくことがどうしてもうまくいかなかったのである。

そんな関わり合いがいささか惰性のように続いていたある日、このグループの仲間の一人で、もっとも障害が重いと見なされてきた八巻かんなさんが、突然パソコンで文字を綴った。「かんなかあさんがすき めいわくばかり」というその言葉は、短いながら、深い母親への感謝に満ちた言葉だった(柴田、2005)。このことは、私たちのそれまでの考えを根底から覆すものとなった。私たちは、障害が重いという状態を発達と重ね合わせるこという思考に慣れてしまっており、目の前の子どもが明確な言葉を発しなかったり、「はい」や「いいえ」などの意思表示ができなかったりすると、言語獲得以前の発達段階にあると決めつけてしまっていたのだが、その前提がこのことによって根底から崩れたのである。しかも、言葉を通してかいま見られた世界は、非常に深く豊かな世界だった。そのことの整理もつかないままではあったが、はるなさんにも、その可能性を探らないわけにはいかなくなり、同様の関わりを行ってみると2回目で、自発的な言葉を綴ることができた。

 本稿では、はるなさんの言葉の世界がその後、どのように発展して冒頭のように、学生の前で堂々と語ることができるようになるまでにいたったかというプロセスを、その前史も含めながらまとめてみたい。

 

2. 対象者と関わり合いについて

(1)はるなさんについて

19904月生まれ。第3番染色体上部欠損症(3p−症候群)。コミュニケーションについては、発語はなく、また、発声もきわめて少ない。私たちが普通に観察する範囲では問いかけに対する応答を認めることはむずかしい。だが、好きな物を見て笑う、好きな物に手を伸ばす、好きな音楽を聞いて笑う、あるいは集中するなどの行動を通して、彼女の興味や関心のありかを推測することはできていた。また、母親の話では、今起こっている状況やこれから起ころうとする状況がいやだったりすると、母親にしがみついてその気持ちを伝えるということもあるという。

 運動については、目立ったマヒが見られるわけではないが、全般に体に力が入りにくく、対象に手を伸ばすということは起こっても、その対象物を操作することはむずかしかった。

 姿勢については、座位をとることは可能で、支えれば立位を保持することもできていた。

 このような状況から、私たちは、私たちの学習の枠組みで言えば、記号操作の基礎学習(中島、1977)の以前の段階にあると考えていた。

(2)関わり合いの時期と頻度

 関わり合いの期間は、1997年4月から現在にいたるまで。1997年4月から2002年3月までは1月に2回、2002年4月から2004年3月までは、2月に3回、2004年4月以降は1月に1回の頻度で、毎回約1時間の関わり合いを町田市内の公共施設の1室を借りて持つ。

(3)使用した教材

@言語の関わり合い以前

 基本的には、スイッチを押すと音や映像が流れるという形の教材を使用した。スイッチについては、押す、一定の距離を滑らすなどして動かすなどの操作を含んだものだが、ボールを入れると音がなるというような空中の移動を含むものではなく、動く部分(取っ手など)と動かない部分(底板など)は常につながっているもので、運動のコントロールに抵抗感を利用しうる教材であった。

A言語の関わり合い以後

言葉への関わり合いには、パソコンに組み込んだ文字選択のためのソフトとそれを操作するためのスイッチを使用した。

 肢体不自由の方のワープロソフトとしては、自動的に送られていく行や文字を一つの運動によって止めるオートスキャン方式が広く知られている。しかし、見続けることの困難やタイミングの処理の困難から、行や文字を送るスイッチとその行や文字の選択を決定するスイッチとを使うステップスキャン方式を採用した。市販のソフトは行や文字の読み上げ機能がなく、必ずしも見やすいものではなかったので、機能をシンプルにした上で、行や文字の読み上げ機能をつけ、色などを見やすくした自作ソフトに変えた(図1)。

 スイッチは、基本的に前後の運動によって二つのスイッチを入力するスライド式のスイッチ(図2)と、二つのプッシュスイッチ(図3)によって入力する場合とを用意していたが、はるなさんには、二つのプッシュスイッチを基本的には用いた。便宜的に送りスイッチと決定スイッチと呼ぶことにする。

(4)関わり合いの時期の区分

 関わり合いは、大きく言葉を通した関わり合い以前(1997年4月〜20049月)と以後(20049月〜200912月)に別れるが、言葉を発してからの関わり合いについては、1回の関わり合いで書かれる文字数の推移から、いくつかの時期に分けることが可能である。表1、図2は、大学での講義などのような特別な場合を除いた通常の関わり合いで書かれた文章の文字数を表とグラフにしたものである。

 

月日

10/8

11/12

12/10

字数

24

表1―1.書かれた文字数(2004年)

10

11

月日

1/14

3/11

5/13

6/17

7/1

9/9

11/11

12/9

字数

34

21

22

55

75

16

10

表1―2.書かれた文字数(2005年)

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

月日

2/10

3/31

4/14

5/12

6/9

7/14

8/11

9/1

10/20

11/10

12/8

字数

26

77

117

196

221

161

235

237

69

60

125

表1―3.書かれた文字数(2006年)

23

24

25

26

27

28

29

30

31

32

33

34

月日

1/12

2/16

3/9

4/13

5/11

6/1

7/6

8/3

9/14

10/12

11/16

12/15

字数

219

145

152

217

144

221

176

102

209

91

220

248

表1―4.書かれた文字数(2007年)

35

36

37

38

39

40

41

42

43

44

45

月日

1/18

2/29

3/28

4/11

5/9

6/13

7/11

9/12

10/11

11/14

12/12

字数

171

260

215

156

408

301

309

353

370

374

665

表1―5.書かれた文字数(2008年)

46

47

48

49

50

51

52

53

月日

1/16

4/10

5/8

6/12

7/24

10/16

11/6

12/18

字数

610

757

921

770

546

450

961

615

表1―6.書かれた文字数(2009年)

この表やグラフから、1回の関わり合いの中で書かれた文字数は段階的に変化していることがわかる。この変化は、対象児の側の習熟などの要因もあるが、主として、援助の方法の質的な変化が反映されている。なお、いったん増加した文字数が減少するのは、日によって体調などの問題が反映されているということを考慮しなければならないので、時期の区分で着目すべきは、文字数の増加の方にある。これらにくわえ、比較的同じ文字数で推移する13回目から38回目の時期は内容の変化の面で23回目のところで区切ることにする。援助方法の変化や内容の変化については、後述するが、それらを併せて、次の5つの時期に分けることができる。

1)第1期、1回目(2004108日)から12回目(2006年2月10日)まで

2)第2期、13回目(2006年3月31日)から22回目(200612月8日)まで、

3)第3期、23回目(2007年1月12日)から38回目(2008411日)まで、

4)第4期、39回目(2008年5月9日)から44回目(20081114日)まで、

5)第5期、45回目(20081212日)から53回目(20091218日)まで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.関わり合いの経過

(1)言葉を通した関わり合いを始めるまで(1997年4月〜20049月)

私たちの障害の重い子どもに対する関わり合いの基本は、自発的な運動を引き出すというものだった。そのために、数々の自作教材を開発し、運動を起こすことに積極的な子どもたちには、そこそこの成果をあげてきた。私自身が曲がりなりにも、障害児教育の研究に携わっていると公言できたのも、そうした成果を折に触れて公表してきたからに他ならない。

しかし、はるなさんは、私たちのそうした働きかけの方向性になかなかうまく乗ってこないお子さんだった。彼女は、好きな物には、手を伸ばし、うまく保持できる物だったら抱え込むということをする。その場面に限れば、とても自発的なのだが、私たちの教材にはほとんど運動を起こしてこない。最初は、興味の問題が大きいのだと思っていたが、しだいに明らかになったのは次のようなことだった。

はるなさんのような状況、すなわち、ボールを缶に入れるというような対象物の関係づけがうまくできないというお子さんに、私たちの用意する教材の多くは、物を取る内容の教材だったら、輪っかを筒から抜くというような課題になり、スイッチを利用したものだったら、押したり、溝の中の取っ手を滑らせたりしてスイッチを入れるというような課題になる。これらの課題に共通なのは、わずかであっても、抵抗感に対する処理を必要とするということである。

運動のコントロールにおいて重要な条件の一つは対象に働きかけた時に生ずる抵抗感の中に抵抗感がより少ない運動方向を読み取り、力を抜いてその方向に運動を起こしていくことである。輪っかを棒から抜き取る場合だったら、まず引っ張って抜こうとして棒の抵抗に出会い、そこで、棒に沿って抜く方向を選び取る。あるいは、溝の中の取っ手(溝からは外れないようになっている)を溝にそって動かしてスイッチを押すというような教材の場合だったら、取っ手をつかんで直接引っ張って抵抗に出会い溝に沿って動かす方向を選び取る。こうした運動のコントロールがより進んでいくことによって、運動はより高次なものに変わっていくわけだが、この抵抗に出会うような力を入れること自体に、はるなさんは困難を感じたということなのだ。すなわち、持つということについての最小限の抵抗感に対しては、運動を起こすことができるが、持った物を移動する際に、何らかの抵抗に出会うとそこで、運動を続けることが困難になるのである。また、押すというような移動を含まない運動であっても、押し込む際の抵抗があり、それも困難だった。

そういう状況で彼女に自発的になしえたことは、軽く引っかけるようにしてスイッチを引いたり、スイッチに肘などでよりかかって体重をかけるということだった。この運動自体は、抵抗感による調整から生まれてくる運動の高次化というものがはっきりとは起こらず、目立った変化を導くことがむずかしかった。それでも、私たちは、この運動をたよりに、関わり合いを継続していったといったのである。

最初の頃は、このスイッチに光線銃のおもちゃに音源として組み込まれる部品を利用したものをつないだ教材が気に入られていて、軽く取っ手を引いたり、プッシュ式のスイッチに体重をかけながら押したりして音を出していた。この音源を組み込んだプラスチックの箱形の容器を、満面の笑みとともにかかえこむ姿が大変印象的だった。それ以外のものでは、なかなかこれほどの興味をひかなかったし、彼女もこの容器を見つけると手を伸ばして来るので、もっぱら、これに頼っていた。そんな中で、少しずつ、オルゴールなどの音源へと広げていったが、この音源に変わるものが現れたのは、199910月である。

同じグループにはるなさんと同い年の脳性マヒの少年がおり、「はい」と「いいえ」の表現なども困難なことから、障害が重いとされていたが、目の動きなどから、言語の理解は予想され、小学2年の7月からパソコンで意志表示が可能となった(柴田、2001)。その際、たとえ言葉はなくても、簡単なスイッチ操作によってパソコンで画像や音を出せば、新しい教材の世界が開けるのではないかと考えて、試行錯誤を始めていた。そして、はるなさんは、テレビのアニメ「クレヨンしんちゃん」の画像を用いたソフトに強い興味示した。スイッチ操作自体は、相変わらず、プッシュ式のスイッチを肘で押し続けるということが中心で、大きな変化はなかったが、彼女にとっては新しい世界が開けたことになる。そして、さらに、彼女が強い興味を示す曲(最初はベンチャーズの音楽だった)があることも母親からうかがい、それをパソコンのプログラムに組み込むことにより、スイッチを自分で押して好きな画像や音楽をパソコン上に出すということが関わりの中心をしめることになった。

私たちの関わり合いの目標は、スイッチ操作の際の自発的な運動をより広げていくことにあったので、自発的な運動がなかなか容易には変化していかなことにあせりを感じる日々だった。わざわざ時間をさいてきていただいても、音と映像で楽しんでいただくことしかできないというのが、申し訳なさにつながっていったりもした。それでも、家庭生活の中で、時折、新しい好きな曲が見つかると、さっそくそれをパソコンに組み込むということを続けながら、はるなさんは中学2年生になった。

 

(2)言葉を通した関わり合い(200410月〜)

1)第1期(2004108日〜2006年2月10日)

はるなさんが中学2年生になった2004年の9月、同じグループの中でもっとも障害が重いと考えられていた八巻かんなさんが、パソコンで文字を綴るということが衝撃的なことが起こった。この頃、私たちは、別の場所で、重度と言われながらも、実は豊かな言葉を有している子どもたちに数多く出会っていた。重度と言われる以上、もっとも簡単な「はい」や「いいえ」が自由に表現できないということはあるのだが、目の動きなど、言葉の存在を予想させるものがあり、表現できない主な原因が認識の問題よりも運動の障害であることが実感され、適切なスイッチと援助があれば、自作のステップスキャン方式のワープロソフトで文章表現も可能とすることができていたのだ。

そうした関わり合いは、先に述べたこのグループの中の少年との出会いが最初だったのだが、あくまで、私たちの中では、そういう存在は、障害の重い子どもたちの中の「例外」だったため。同じグループの仲間でありながら、かんなさんやはるなさんとは一線を画していた。はるなさんやかんなさんは、そうした言葉の存在を予想させるものも少なく、また、示している運動の状況は、運動の障害というよりも、発達段階の反映であると思われ、その行動から予想される発達段階が言語獲得の以前の水準であると見なし、いっそう言葉の存在の可能性から遠いと思いこんでしまっていたのである。

しかし、八巻かんなさんがパソコンで言葉を綴ったという事実は私たちの考えを根本から覆した。はっきりとしていたことは、もはや私には目の前の子どもが言葉を有しているかいなかを事前に判断する力を持ち合わせていないということと、実際に働きかけてみて言語の存在が確認された時にのみ、その子どもに言語があったことが示されるだけで、仮にうまくいかなくても働きかけに問題があるかも知れないのだから、言語の存在について、何一つ確かなことは言えないということだった。ともあれ、かんなさんが、文字を綴ることが確認されて半月後の200410月8日、はるなさんに2スイッチワープロを提示した。この頃、はるなさんの学習は、友だちと二人平行して行っており、はるなさんを担当したのは、妻の方である。この日は、通常通りの音楽のソフトを十分に行ったあと、ワープロの仕組みなどをわかってもらうことと、はるなさんのやり方を試行錯誤で探りあてるために、2つのプッシュスイッチを使って、自分の名前とお母さん、そして友だちの名前を書いてもらった。「はるなまましょうた」がそれである。もともと自発的なスイッチ操作をめぐって関わり合いが停滞していたはるなさんだから、ここでは、全面的に手をとって一緒にプッシュスイッチを操作している。はるさんが綴っていることへのはっきりとした確証が得られたわけではなかったが、たいへん興味深そうに画面に見入っていた姿がビデオに残されている。

そして、翌月の1112日のかかわり合いで、彼女が言葉をもっていることを示すできごとが起こった(図5)。この時も関わったのは、妻の方だが、まず、音楽のソフトをやったあと、2スイッチワープロに挑戦した。この日もまず2つのプッシュスイッチを用意したが、タッチパネルの画面に向かって手を伸ばそうとしているので、スイッチは使わずにタッチパネルのタッチの機能を使った。なお、画面のタッチは送りスイッチに対応している。一緒に手をとってまず名前を書いたあと、さらにタッチを続けていくと、時折はっきりと手をひっこめるような仕草をしてくるので、それを決定の意志として読み取って文字を選んでいくと、「はるななのはな」となった。関わっている妻は、途中、「はるななの」という文字が書かれた段階で、「私ははるななのよ」という意味で解釈をして語りかけ、次の「は」はもう一度名前を書こうとしていると解釈して語りかけたりしていたが、はるなさんは、それとは別に「なのはな」を選択した。その後も何か書こうとしていたので、妻は、これが「菜の花」を意味することに気づいたのは、やや間をおいてからだった。

お母さんは、他のお母さん方と談笑しておられて、文字が綴られていく場面はご覧になっていなかったので、「なのはな」と書かれた段階でお母さんに声をかけた。すると、お母さんは、その言葉にたいへん驚かれ、「なのはな」というのは、「はるな」という名前にこめた意味で、小さい頃から折に触れて、はるなさんにそのことを話しかけてこられたそうだ。しかも、私たちにそのことをわざわざお話になったこともないので、はるなさんにしか知り得ない、しかも、大切な名前に関することだっただけに、その言葉がまぎれもなくはるなさんが綴ったものであることがわかるとともに、驚きもまた大きかったのである。

こうして、はるなさんとの関わり合いは、それまでの停滞を一気に打ち破って全く新しい領野が開かれることとなった。ただ、この頃、はるなさんは、音楽をきくことも平行して求めてきた。私たちもまだまだ援助の方法がよくわからず、試行錯誤を重ねていたので、まだまだ思い通りに気持ちを綴ることからはほど遠かったというもあるだろう。200412月に「うたしたいーととろがいいな。つよいにんげんはちか」という言葉を綴ったが、前半はそういう気持ちを表現したものである。なお、スイッチの操作については、時折、タッチパネルの50音表の文字を直接指さすようなことも見られるので、タッチパネルのタッチ機能よりも2つのプッシュスイッチを用いる方法に決めて行うようにしていった。

ところで、八巻かんなさんが、言葉を綴ったことをきっかけにパソコンの2スイッチワープロに挑戦するようになったのは、このグループにあと2人いる。それぞれ障害の状況は異なるが、それまで、こうした言語による気持ちの表現は困難だろうと考えていたお子さんだった。かんなさんとはるなさんを含めて4人の子どもたちの言語の可能性が短期間の間に開かれたということは、私たちにとっては、きわめて大きなできごとであった。

そんな矢先、2005年2月20日に、かんなさんが突然急逝された。これからたくさんの言葉を聞き、仲間たちと新しい世界を切り開いていくことを期待していただけに、大きな悲しみと衝撃が私たちを襲った。かんなさん自身、どれほど無念だったろうか。私たちは、子どもの死を前にすると悲嘆の中でなすすべを失ってしまうが、かんなさんが開いた扉をくぐってコミュニケーションの世界へ抜け出ることができた仲間がいるということは、かんなさんからの大きな贈り物だった。

お通夜の席で私ははるなさんにお会いした。私は、お母さんのお許しをえて、はるなさんをかんなさんの棺まで連れていき、ともに、かんなさんに最後のお別れを告げた。そして、その別れ際に、かんなさんへの思いを次に会う時に書いてもらうようにお願いした。

そして、そのことを承けて2005年3月11日には、「はるなかんなさんのしをかなしいとおもった」という文を綴った。短い文ではあるが、ようやく言葉を綴り始めたはるなさんの深い思いがそこにはこめられているように思え、かんなさんの死をしっかりと受け止めていることが伝わってきた。

はるなさんの文が少しずつ長くなり、口吻のようなものが感じられるようになったのは、2005年6月17日の「あいたかったかもしたせんせいがあいにきたね。ほそいがつよいさ。またあいにこないかなぁ。かもしたせんせいへ」である。終助詞や小文字を交えた「なぁ」の表記など、それまで、どちらかというと定型に近い言葉遣いが多かったが、しだいに表現が自由さを持ってきたと言えるだろう。

これには、もちろん私たちの側の援助の変化も非常に大きく関わっている。この頃の援助は基本的には当初から同じではあったが、はるなさんの運動の意図の読み取りには習熟してきたので、それだけ、スムーズに文字を選ぶことができたのである。そして、はるなさん自身もそのことに気づいてきたので、より自由な文体で語ることができると考えて、表現内容を変えてきたと考えることができる。

2)第2期(2006年3月31日〜200612月8日)

そうした関わり合いにさらに大きな変化が起きたのは、2006年3月31日のことである。(なお、この日から、中心的な関わり手は妻から私に代わった。)それまでは、送りスイッチのそばに彼女の手を誘導して押しやすくし、押そうとする意志を感じ取りながらその動きを支え、決定スイッチの方に移動しようとする運動が起こったら決定スイッチの方へその運動を助け、決定スイッチを押すのを援助するというものだったのだが、決定スイッチに移るタイミングが、実際の移動の運動が起こる前にわかるようになってきた。それは、決定スイッチへの移動が起こる直前に、それまでの送りスイッチを押すー戻すという反復運動が止まって、スイッチが入りっぱなしになるからだった。これは、移動する運動を起こすための準備として、いったん送りスイッチを押し込むような力を入れるからだと考えることができた。しかも、この準備のための力は非常にわかりやすいので、実際の決定スイッチへの移動運動をあえてはるなさんが時間をかけてやるよりも、私が、はるなさんの代わりに決定スイッチを押せばよいということになったのである。

そうなると、もともと決定スイッチへの移動の準備の身構えだったものは、実際は私が代行してしまうので、準備ではなくなり、純粋に合図のための小さな力ということになったわけだが、準備から合図へとその役割が変化することについては特に問題はなかった。

なお、文字の選択の際の視覚と聴覚の役割について、はるなさんは、この段階まで、画面上の50音表の文字をじっと見つめたり、文字を指さそうとするしぐさを見せたりしていたので、視覚も大きな役割を果たしていたのだが、こうしたやりとりを始めると、はるなさんは、音に注意を集中させるようになり、ほぼ全面的に聴覚が大きな役割を果たすこととなった。

この偶然発見した方法は、これまでの方法とは質的に異なるものを持っている。これまでのものはあくまでも本人が二つのスイッチを押し分けて文字を選択していくプロセスを援助していたのに対し、私が継時的に提示するパソコンの音声の選択肢に対して本人が手で合図を送って選択の意志を伝えてくるというプロセスになっているからだ。これは、いわゆるオートスキャン方式のワープロのしくみに非常に類似していることがわかる。はるなさんの送ってくる合図がスイッチの入力にあたり、パソコンが行っているスキャンと決定をパソコンの代わりに私がやっているということになるわけだ。だが、決定的に異なるのは、決定の合図が意図的なスイッチ操作ではなく、実際の運動を起こす前の準備という小さい力になっている点である。現時点で開発されているスイッチはどんな軽いものでも、実際の運動を起こさなければならない。ほんのわずかのちがいであるが、準備と実際の運動とは大きく違っているようで、実際の運動を求めると、とたんにうまくいかなくなるのであった。

こうして、文章の長さが長くなるとともに、質的に深まった文章が書かれるようになった。次の文章は、文章が長くなってから2度目の関わり合いにあたる2006414日の関わり合い(図6)のものである。

 

よきひよきときににゅうがくしきまたむかえることができましたよ。そろってにゅうがくできなかったおともだちがいたのがざんねんでした。のりもののじこでなくなりました。ほんとうにおしいことです。まよわずそのたましいがてんごくにいけますように。

 

高等部の入学式の日のできごとだった。地域の中学校から養護学校高等部へ入学してくるはずの少年が入学の直前に電車事故で亡くなったことをめぐって書かれたものだ。文章の最後にある「まよわずそのたましいがてんごくにいけますように」という一文は、彼女が人の死について、きっちりとした理解を持っていることを明らかにするものだ。かんなさんの死に際して書かれた短い一文の背後に、こうした死をめぐるはるなさんの思いが隠されていたことを改めて知ることができた。

さらに、翌月の512日には、見学に来られた学校の先生を前に、次のような文章を書いた。

 

くいちがうことがおおくてなみだいっぱいでましたよ。せんぱいのひとにからかわれておおきなかなしみをかんじました。のはらくんいてくれてたすかりました。みかさんもやさしくてわかってくれてうれしくおもいました。なかまのかなしみをわかってくれるともだちがいてかなしみもやわらぎましたよいことでした。

(のはら君とみかさんって誰の問いに対して)わたしのこころのなかのえんぎしゃです。わたしがつくりました。(私が先生方にはるなさんの動きについて説明していると)からだはうごかなくてもかんがえていています。

 

私の知らない友だちの名前が書かれたので、実在する生徒の名前だろうと思うとともに、彼女自身が書いていることの証拠になるだろうと思っていたところ、学校の先生方は、そういう名前の生徒はいないとおっしゃる。そして、そのことを彼女に問いかけると「こころのなかのえんぎしゃ」だという。「のはら」という名前は、小さい時から好きだということでパソコンのソフトにも組み込んできたアニメの主人公の姓である。気持ちを表すことのできない中で、想像上の友を作り、その友に自分の悲しみを伝えてやわらげているということは、それだけ彼女が孤独な世界を生きているということでもあった。すでに長い関わりを経ていながら私たちはこうしたはるなさんの寂しさにまったく気づくことさえできていなかったということに愕然とした思いがした。その後、こうした想像上の他者を心の中の対話の相手として作り上げている人たちに何人も会うことになった。人は一人では生きてはけないということを如実に示す事実と言ってもよいのかもしれない。

714日には、次のような音楽に関わる気持ちを書いた。

 

いいおんがくをいっぱいおかあさんとききたいようなきがします もっとたくさんしらないおんがくをえらびたいです ほんものがききたいとおもう。ともだちができてわすれてしまってもよいおんがくはかならずそこにあります。りかいすることができてもうたえないのでざんねんですがもっとききたいです。

(「例えばどんな曲?」という問いに対して) るろうのたみです。

(「歌がないのは?」という問いに対して) きがくもすきです。

 

 はるなさんにとっては、音楽もまた孤独をいやすためのものだったのだろう。だから、友だちができたら音楽を忘れてしまうかもしれないと思ったりもしている。もちろん音楽はそういうものとは限らないのだが、想像上の友だちとともに、その意味がよく伝わってくるものだった。そして、この日登場した「流浪の民」は、811日の次のような不思議な文章につながっていった。原文はひらがなだが、わかりやすくするために漢字やカタカナを適宜あててみる。

 

小さな命が集まり寝ている静かな夜なのに粉雪が降り私ルボンネ苦しみ強いられて苦悩の日々。年齢を謎、早々にロノンゲル聞いて戸惑って眠れないでいた。やさしい風が吹いて聞く者たちにネヘーヨユ王子接見する。森の中に流浪する民のそうやって生きている。のもよけ(まよけ?)の呪い絵の中に残っていた。雪はよすー(夜もすがら?)やまず眠りの時間だけが過ぎていった。

 

 そして、次のような説明が添えられた。

 

がいこくのものがたりがだいすきだからとわたしのためにおかあさんがきかせてくれました。

 

これは、まさに、はるなさんが心に描いた「流浪の民」の心象風景にほかならない。使われているむずかしい語彙や創作したと思われる人名など、私たちの予想だにしなかった世界がそこに広がっていた。その後、彼女は、何度か同じ趣向の文章を書く。それは、以下のようなものだった。なお、ここでも適宜、漢字とカタカナをあてる。

 

すてきな石(?)の言葉ねたむようとメエクルはアアメテウスやヘミテを見て言った。根の雨がふってきて、もぐらのテユームはママに見てほしいの、手もろろにくみ、毎日留守番をして指焦げるお湯のにおい、ニレイレにまねているそのせいいっぱい頑張っている姿にここまでしてくださったことに感謝した。(2007216日)

 

小さすぎる息ばかりしてノモヨアシヌシス大きな夢ばかり見てはほのかにレレルルネに笑われていたよ。次にヤイソムが明るい顔で言い、ケムムゆるい笑い声になって、静けさとめったにはヨヘータロウ声を立てず、なすすすべなく、ヒケエヤダスキケコ無意識が出るすきに、すっかりいい昔を思い出していた。(2007年3月9日)

 

今ひとつ、意味は不明ながら、どこか、自分の気持ちがこの不思議な心象風景には投影されているようで、「感謝した」「いい昔を思い出していた」などという言葉にもそれがうかがえる。こうした、私たちの世界からはずいぶん縁遠い不思議な心象風景の表現はその後姿を消し、もう少し表現はわかりやすくなっていく。それは、私たちの世界から遠く隔たった孤独だったはるなさんの世界が、私たちとの世界との距離を狭めてきたということなのかもしれない。

ところで、時期はいったんもとに戻るが、2006年9月1日には、次のような文章を書いた。私たちの仲間で、途中から一緒に関わり合いを続けてきた味戸さんが、結婚してその写真をみんなにお披露目したときの文章である。

 

おめでとうございます。あじとせんせいのふくそうはとてもきれいでしたよ。わたしもいつかきてみたいわよ。でもよいひとがあらわれないとむりですのでそのひがくるのをまちつづけてみたいとおもいます。そのひはこなくてもずっとまちつづけていくたとえよもすがらなみだにくれてしまってもわたしはきぼうをうしないたくないぜったいにそんなひがくることをゆめみていこうとおもう。(…)

 

最初に「味戸先生」に向けられた賛美の言葉は、自分の将来の姿と比べられ、自分の現実を厳しく見つめ直している。写真はある意味では残酷なものだったかもしれないが、それを覆い隠すことが何かを生むわけではない。私たちができることは、はるなさん自身が長い時間をかけてみずから答えを導き出していく過程に寄り添うことができるだけである。「たとえよもすがらなみだにくれてしまってもきぼうをうしないたくない」という言葉は、はるなさん自身がみずからを奮い立たせようとして語った決意の言葉だと思われるが、「なみだ」と「きぼう」との振幅はたいへん大きなものがある。その振幅の大きさの中にあるはるなさんの苦悩の深さとそれでも前を見つめ続けようとする意志の強さとをしっかりと受け止める必要を感じた関わり合いだった。

3)第3期、(2007年1月12日〜2008411日)、

2007112日に書かれたのは、次のような詩だった。なおこの日は句読点がうたれてないが、次のように改行で記されることを意識していたのかもしれない。

 

のにさくはなのようにばてないむりをしないでいきていかなければいいこともある 

とおくにまいおりたとりのようにみえるきぼうにむかってよんでみよう 

ねがいはひとつたとえみちはとおくてもゆめさえなくさなかったらなあとおもう 

らくなみちではないけれどへんてこなわたしだってたたかいつずけていきたい 

もしなやみがあまりにおおくてまえがみえなくなってしまってもぜったいにあきらめない 

のにさくはなのようなけだかさでもっていきていこう

いつまでもへこたれないで

 

これが詩であることは、実は、初めはわからなかった。それが気づかれたのは「とおくにまいおりたとりのようにみえるきぼう」という言葉だった。希望は舞い降りたけれど、それは、すぐ目の前にあるものではないという絶妙な比喩に、これが詩であることを確信した。また、「へんてこなわたし」「へこたれないで」という言葉は、詩の言葉としては、けっして美しい言葉ではないが、この詩に強いリアリティを与えているように私には思われた。

なお、この頃、町田市公民館の障がい者青年学級のメンバーを中心に隔年で開いているコンサート(柴田1998)の音楽劇の台本づくりを行っていたので、これを劇中の歌として、若干の字句の調整を行って「野に咲く花のように」という歌にした。それは、これまで、一人の閉ざされた世界の中で紡がれていた言葉の世界に広がりをもたらすきっかけとして、はるなさんの世界を広い世界に開いていく上で、大きな意味を持つことになった(資料1参照)。

そして、その3ヶ月後の4月、はるなさんをコンサートの練習会場に誘った。はるなさんの通っていた養護学校は知肢併設と言われるのだが、その会場には、知的障害部門の先輩や肢体不自由部門の先輩が100名近く集まっていて、はるなさんの「野に咲く花のように」も含めて障がい者青年学級の中で作られた自分たちの歌を歌っていた。先輩たちは、自分たちが練習している歌の作者を暖かく迎え入れ、歩み寄って歌詞をほめる方々も見られた。そして、練習を見終わったあと、はるなさんはその場で次のような感想を綴った。

 

けっこんできることもわかりましたもっとたくさんべんきょうしてなやみがなくなるとうれしいめだつのはきらいだけどほめられとうれしいなやみがなくなることはないかもしれないけれどがんばっていきたいとおもう(2007422日)

 

「けっこんできる」とは、先輩たちの歌っているオリジナルの歌の中に、「けっこん」という言葉が出てきたことを受けてのことである。もちろん、それは先輩たちにも決して容易なものではないが、そのことを堂々と歌にして歌っていることがはるなさんには驚きを与えたのだろうと思われた。さらに、5月11日は、いつもの関わり合いの場で、次のような文章が書かれた。

 

のにさくはなのようにのうたをみんながうたってくれてとてもうれしかったです。すもうのときによくなみだをながすばめんがあるけどむかしからほんとうなのかとおもってきたけどほんとうであることがわかりました。よくできたうたでしたよ。うたいたいくふうができたらのぞんでのぞんでうたいたいとおもいます。

 

これまで、表現の場は、私たちとの関わり合いに限られていたが、こうして、自分の詩が歌われることを通して大きく開かれ、さらに、その表現の内容に関する手応えのある反響を感じることによって、確実にはるなさんの世界は広がりを持つことができたのである。実際にステージ上で歌が歌われたのは、この8日後の5月19日のことだが、はるなさんは客席にいて、自分の歌が歌われるのをしっかり見守っていた。

こうして、一つの詩を通して広がりを見せたはるなさんの世界だが、学校では一部の先生の理解にとどまる状況が続き、そのもどかしい思いを綴る日が増えていった。

 

このあいだなかないでいきていかなければとかいたけれどひとりくやしいおもいでいます。がっこうでせんせいがしんじてくれないのではやくそつぎょうべつのしせつでうきうきしたきになりたいとかんがえていますよべんきょうのわかるひともなにもおしえてもらえないけどほんとうはなんでいちばんこのべんきょうするのがたいせつなじきにさぎょうがくしゅうばかりほかのくよくよするたのしくないです。せっかくねがいがかなえられてねらったぐるーぷにはいれたのにざんねんです。2007年6月1日)

 

高校2年生のなったはるなさんには、卒業後の進路のことも頻繁に話題に上り、実習も目前に控えている。限られた学校生活の時間、もっと、たくさん学びたいという思いがこの文章にはにじみ出ているといえるだろう。

そんな中、あるPTAの研修会で、私とはるなさんのお母さんとが、共同で報告をすることになった。そこで、私は、その報告の中ではるなさんの「野に咲く花のように」の歌を紹介しようと考え、1116日の関わり合いの際に、その場にいたメンバーで歌を歌って録音することにした。ところが、その日のはるなさんの文章は、意外な一文から始まった。

 

わたしのしをこえをだしれんしゅうしてみてもはるなをほんとうにりかいしてもらえるかしんぱいです。くしんしてもつたわるかどうかまったくわかりません。うたがわれてもいいけどわかってもらえたらうれしい。

 

5月のコンサートに関わった障がい者青年学級のメンバーや関係者はみんな理解してくれたが、世間一般は必ずしもそうではないことを痛感していたはるなさんの懐疑だった。そこで私は、その研修会の報告のために準備していた資料をはるなさんに見せることにした。それは、言葉がないと考えられてきた様々な年齢層の20数名の方々が綴った文章をいくつかのテーマに分類した資料だった。私は、その資料を通して、幼い頃からずっと表現手段を奪われてきて、私たちとの出会いを通して初めて表現手段をかちとった人は、他にもたくさんいるということ、そして、それぞれの表現内容がいかに深いものであるかを伝えた。すると、はるなさんは、ようやく、再び勇気と希望を取り戻して、次のように書いた。

 

ほっとしました。そんなにたくさんのひとたちがいるとはしりませんでした。とてもゆうきがわいてきました。のぞみがわいてきました。きぼうがでてきました。みんなわかってないとおもわれていたときがあったけれどりかいしてもらえてしあわせになれとてもよかった。(20071116日)

4)第4期(2008年5月9日から20081114日)

200859日に、文字数は、406文字と飛躍的に増大した。内容面では、しばらく、心象風景や詩を綴ることから遠ざかっていたが、再び、次のような文章を書いた。前半は学びへの渇望を述べたものだが、終わりに不思議なイメージの文が綴られたのである。

 

ほかのひとのことはよくわかりませんがわたしはもっとまなびたいとおもっています。りそうはべんきょうがのぞみどおりにできいつもたのしくできてものすごくよくわかるようになることです。りかいしてもらえないのでまるでゆめのようなことですがなかなかかなわないのでよろしくおねがいしますとしかいえません。(…)うちでのせるすずにすてたねこがねがいどおりすいせんこむそうをけらいにしてもっととおくまでのがれせいたかすみれそうのさくくににいきたいとおもったもののにげることができずかなしんでいぜんすばらしいうちだとおもってがまんすることにした。

 

 そこで、翌月の613日に、こちらから、「すいせんこむそう」と「せいたかすみれそう」の意味を尋ねた。

 

すいせんこむそうのいみはつらいことがあるとしおれてしまうはなのようなこむそうです。つまづいてしまうとおきあがることができなくなってしまうほどひとりぼっちでちいさなともだちです。こどものころからいっしょでした。すいせんこむそうはとてもせがひくくてとてもやさしいさむらいです。このまえそばでともだちのわたしをげんきづけてくれました。せいたかすみれそうはとてもいいにおいのはなでせがたかくていつもいのりをそらにむかってこいこがれながらさいています。いつもせいたかすみれそうはねがいをもちながらねがいがかなうことをゆめみています。()

 

「すいせんこむそう」「せいかたかすみれそう」という形象は、かつて「のはらくん」「みかさん」と呼んだ想像上の他者と同じように、はるなさん自身が作りだしたものである。小さいときから元気づけてくれた同伴者としての「すいせんこむそう」。空に向かってひたすら祈りを捧げ続ける「せいたかすみれそう」というイメージを、なかなか動かない厳しい現実に対置することによってはるなさんは、未来への夢をつなごうとしていると思われる。美しさと悲しさがひしひしと伝わってくるイメージの世界だが、かつての物語世界に比べて、どこか明るいのは、それだけ未来への夢があるからかもしれない。

ところで、2008年の9月12日の文章以降、句読点が消えるということが起こった。以前にも、句読点のない文章もなくはなかったが、一貫して消えることになったのである。この変化に先立って、文字数の面では、2008年の5月以降、非常に増大しているわけだが、この文字の入力速度を決めているのは援助者の側なので、この頃に援助の方法が変わったことを意味している。それは、お互いの熟練による単純なスピードの増加だったわけだが、句読点の消滅という段階にきて何らかの質的な変化が生まれたことが推測される。

実は、私がスピードをあげたのははるなさんに対してだけではない。私が積極的に送りスイッチ押すー戻すを繰り返して小さな力を読み取る方法は、他の子どもが多用しているスライドスイッチにおいても有効であったので、他の子どもとの関わり合いにおいても、少しずつ応用していった。すると、一様にスピードが上がっていき、ある時点で句読点が消えるという現象が起こるようになった。そして、何名の子どもたちからは、力を入れていないのに不思議だと問い返されるようになったのである。そこで、こちらが逆にどういうことをしているのかを尋ねると、みな一様に「みみをすませていてここだとおもうとよみとられる」というような答えを返してきた。はるなさんも「ふしぎですきもちがそのままことばになっていきます」(20081212日)、「じのねんじるのよみとれるというのはほんとうです」(通園施設の職員研修会の際のスイッチ操作のデモンストレーションにおける発言)(2009年7月6日)と答えている。

おそらく、それまでは、確かに小さな力であれ、本人自身が運動の準備に相当する何らかの力を入れたという自覚があったのに対して、この援助の段階になると、力を入れた自覚はなくなり、あるのは、ここだと思ったという自覚だけになっているのである。

それでは、なぜ句読点は消えたのであろうか。ある子どもは、スピードをあげると「ことばのはやさにちかづくかららく」とも答えている。おそらく、句読点をつけていた時期は、表現内容をちょうど書き言葉のように文字に置き換えていたのに対して、話し言葉のように変化することによって、句読点は消えていったのではないだろうか。

はるなさんが、意識的に詩を書いている以上、単純に書き言葉と話し言葉という対比で考えることはできないかもしれないが、少なくとも、句読点という問題については、そういう変化があると言ってよいのではないだろうか。

読み取りについては、すでに運動を起こす前の準備の力自体がすでに大変小さい運動であり、その力を感じ取るには、直接その力を静止状態で感じ取るのではなく、私たちが行っている押すー戻すという小さく軽いリズミカルな反復運動が、その力によってさえぎられるということを通して感じ取っていたものであるが、ここでも基本的には同じで、本人は力を入れた自覚がないわけだが、その反復運動がさえぎられるような力が入るのは同じである。通常は、判断という心的な働きと身体運動は切り離して考えられるわけだが、判断というものがほんのわずかな身体の緊張状態に表れているということができるだろう。

また、スピードについては、すでに述べたように、スピードをあげたほうがむずかしくなるだろうと思っていたが、スピードをあげたこと自体で困難になる子どもはおらず、むしろ楽になっているように思われるのだが、おそらく、ゆっくりの場合の方が、目的の行まであとどのくらいなどの様々な思考が入ってくるのに対して、スピードが一定以上あがると、ただ、ひたすら耳に入ってくる音を聞きながら、ここだと思うだけなので、心内に浮かんだ言葉を一音ずつ順番に思い浮かべることのみですみ、むしろ作業は減っていると思われる。

おそらく、内面に豊かな言葉を有しながら、それを表現することができないという状況は、心内に浮かんだ言葉を表現行為としての身体運動に置き換える段階で私たちが想像する以上の困難が生じているはずだが、ここでは、判断するだけなので、非常に楽に文章を綴ることができていると考えることができる。

方法の発展によってより多くの言葉を語ることができるようになっていったはるなさんだが、あることをきっかけに、自覚的に詩を作るようになっていく。それは、星野富弘の作品との出会いである。20081114日の文章は、次のようなものだった。

 

このあいだがっこうにつくりもののきれいなしょどうのよいさくひんがはってありました しょどうのさくひんにはなにかかいてありましたが ていねいすぎてわかりませんでした うちにかえってしらべてもらったら くびからしたがうごかないひとのさくひんでした とてもきれいなえもかかれていてすごくよいものでした はい なまえはわかりませんがすばらしかったです しのないようはしらないのですがおぼえたいです おち(し)えてください りかいできたらうれしい こんどみせてください ふしぎなしですね しはとてもよいものです それによいきもちにさせてくれます しらないせかいやしらないひとにあわせてくれます すばらしいのはとくによんでみたいです ねがいはもうすこししのべんきょうができるようになることです べんきょうをしてほんとうのよろこびをつかみたいとおもいます ほんとうのよろこびをつくれたらうれしい(原文はスペースなし)

 

「うちにかえってしらべてもらったら」というところの具体的な経緯はよくわからなかったが、はるなさんが改めて詩に興味を持ったことは明らかだったので、さっそく、星野富弘の詩集を送るということがあった。そして、この日のやりとりを機に、はるなさんは、翌月から、2009年6月と10月を除いて、200912月にいたるまで、毎回、詩を書くようになった。はるなさんが、詩の創作に一つの活路を見いだしたことはまちがいないだろう。

5)第5期(20081212日〜20091218日)

 詩の創作を始めた20081212日は、また、文字数が飛躍的に伸びた日にもあたっている。私の援助の方法がさらに速度を上げたこともあるが、はるなさん自身の創作への意欲の高まりもそこには関係しているといってもよいだろう。

 まず、1212日と116日の詩を紹介したい。なお、それぞれの回とも、別の文章を書いた後に、以下の詩を書いた。

 

ひかりといのちのこうさくがそよぎとびかう

しょうじょはなにかをまっている

しらないせかいのねがいがかなえられ 

すべてがちいさなさいわいにやがてかわっていくことを

そしてきのうのなやみがとおざかっていく

のぞみどおりではないとしても 

たくさんのべにさくののはなはときをしり ときにあわせてねがいをそらにいのっている

きぼうのかぜがやさしくふき ふしぎなさけびがきこえて

みたこともないようなまっしろなはなが きぼうのよかんをつたえてきた。

(原文はスペース改行なし。)(20081212日)

 

ちいさなわたしにきたかぜがふく

にんたいしてきたわたしにとってきたかぜはしんじつをつたえるかぜです

ちいさいわたしをつつみこみちいさいわたしはちいさくわらう

みみをすますときこえるのはみみのきこえないひとのねがいだ

ちいさいわたしはいちずにきのうのさわることのできないゆめをおいもとめる

ちいさいわたしはねがいをねがったにんげんやねがいをわすれたにんげんたちに

にんたいのすばらしさをしずかにつたえる

ちいさいわたしはしずかにきたかぜのこえをききながらひとりにんたいをつずける

きたかぜはゆきとともにやってきて

ゆきのちいさなつぶでにんげんとちいさいわたしをひっそりしろいねがいにかえる

ちいさいわたしはちいさいころのちいさなねがいをしずかにしのびながら

しろいみみをつけたしろいきたのくにのしかにひとりねがいをたくす

ひっそりとしずまりかえったゆきときたかぜのなかで

いいちいさいわたしはしろいゆきとともにきぼうのきたかぜのおとをきいている

いいちいさいわたしはねがいのみちあふれたくうきのなかで

しろいゆきをみつめながらにびいろのそらからおちてくるひとひらのゆきをみている

りんとしたくうきのなかでちいさいわたしはゆめとねがいにみたされて

にんげんのしあわせをもとめる

ちいさいわたしはしずかににんげんのひとりとしてしずかにゆめをみている

ひとりのわたしはねがいをねがいながらちいさなゆめをつむぐ。

(原文は改行なし。)(2009年1月16日)

 

ともに、はるなさん自身のおかれた状況を鋭く見つめる中から生まれた詩である。忍耐の中から紡ぎ出されるぎりぎりの希望を歌い上げた詩と言ってよいだろう。

 ところで、2009年は、2年前にはるなさんの歌が歌われたコンサートが開催される年に当たっていた。コンサートが開催される5月には、学校を卒表しているので、私ははるなさんをコンサートの出演者として誘った。前回、劇中の歌として歌われた「野に咲く花のように」は、今回は合唱の1曲として歌われる。練習は日曜日に数回行われるのだが、はるなさんもその練習に参加するようになった。今回、大きなことは、障害者青年学級でも、2008年7月以降、それまで気持ちを表現するすべを持っていなかった障害の重いとされた方々が、はるなさんと同様の方法で言葉を表現できるようになり、合唱のステージ上で、その方々の詩から作られた歌が歌われ、詩の朗読が行われることだった。そして、練習に参加した直後の4月10日に、1編の詩を記した後、次のような言葉を述べた。

 

びっくりしました ひとりでなやんでいたことがばかばかしくなりました みんなおなじことをかんがえていることがわかりました いいばしょでした いいなかまたちでした みんなとずっといっしょにいきていきたいとおもいます みんなとであえてよかったです きぼうがわいてきました ゆうきがでてくました びっくりしました ひかりがさしてきました みらいがひらけてきました(原文はスペースなし)

 

 「ひとりでなやんでいたことがばかばかしくなりました」という言葉は、いかに、仲間の存在が重要であるかを示している。個別的な関わり合いでは、確かにはるなさんの気持ちを受け止めることはできる。しかし、同じ立場でともに悩む仲間の存在にはとうてい及ばないということだ。私たちは、多くの障害の重い子ども、障害の重い方々から、言葉を引き出してきた、それらの言葉が、当事者の間で共有されていくプロセスについては必ずしも力をさいてこれていない。しかし、本当に希望や勇気をもたらすものは、仲間との出会いなのではないかということを強く感じさせられた。

 そして、はるなさんは、コンサートの直前の5月8日に、「野に咲く花のように」の紹介文として次の文章を書いた。

のにさくはなのようにはわたしがこうこうせいのときにつくったしです せいいっぱいいきていければいいなとおもってつくることにしたものです ゆめをわすれずにいきることができたらいいなとおもいます きいてください ゆうきがでてきました みんなもおなじきもちできぼうをうしなわないようにしていきていることがわかりました みんなもちいさいときからはなしたかったということがよくわかりました ゆうきがでてきました りそうはりかいしてくれるひとがふえていつでもどこでもはなせるようになることです にんげんとしてみとめられたいです じんせいをゆたかにいきたいです みんなとあたらしいせかいをきりひらきたいです ゆめがかなってうれしいです じぶんにじしんをもつことができました ちいさいときからのゆめでした じぶんらしくいきていきたいです ゆめでした ふしぎです にんげんとしてうまれていきてきてふつうのがっこうにいきたかったけどねがいがかなったようなきがします(原文はスペースなし)

 

 学校を卒業して社会人となり、同じ立場の仲間と気持ちを通わせ合えたことが、大きな希望を与えたということがひしひしと伝わってくる。そして、冒頭で紹介した、人間開発学部の同い年の若者たちに授業で思いを語ったのは、5月21日のことだが、こうした経過の中で確立してきたたくましい自己があったからこそ、はるなさんは学生たちを前に堂々と語ることができたのだと言ってよいだろう。

 コンサートは5月24日に開かれたが、母親の話によると、大学の講義からコンサートの当日にかけて、これまでに目にしたことのないような笑顔を浮かべながら4日間を過ごしたという。そして、実際、私も、その笑顔を見、これまでに聞いたことのない喜びの声を耳にした。ほとんど発声することすら困難なはるなさんの心の底からの声だった。

その後、はるなさんはさらに詩だけではなく、曲も作ってくるようになった。曲については、目下のところ、はるなさんが書いた階名をもとに、リズムは推測をしているので、忠実な再現ができているかどうかはわからないが、再現した音を聞いてもらうと、彼女はそれに納得してくれた。次の作品は、2009年7月24日のものである。(資料2参照)

すばらしいえまきがひろがった わたしのれんごくのようなせかいに

ゆめのようなひかりがさしてきた へいわのはとがはばたくように

らっぱのおとがなりひびき わたしはにれのはなをこえ ようせいのようにそらをまう。

ミレドレファファミミレレドレ ラドシラソシラソミレドレド

ラシドレドレドミレドミレ ラシドレドレドミファミレド

ラシドレドレドミファドミレ ミミドレドファミレミレドレド

(原文は、スペース、改行なし)

 

 そして、さらに、詩の創作も続いている。次の詩は、2009116日のものである。

 

ゆきのようなろうそくに ゆきのようにこころのきれいなひとがひをともし

よくりそうのかなうひかりをともし りそうのようなゆめをかなえ

わたしはくらやみのなかよりけっしんする

れきしはながれ れきしはくりかえされ わたしはろうそくのひかりをたよりに

みのまわりのぬいぐるみのようななかまたちをすくいだして

みんなでみらいにむかってろうそくをたかくかかげていきていこう

ろうそくのあかりはとてもあかるく わたしたちのりそうのみらいがひらけてくるだろう

 

「ぬいぐるみのようななかまたちをすくだして」というはるなさんの夢は、私たちの夢でもある。長い沈黙の末に表現手段を得てもなお、容易には切り開かれていかない状況の中で、仲間と出会い、たどりついた境地がここには示されている。だが、このたどり着いた場所をこの詩のように力強く歌い上げることもあれば、また、次の詩のように現状の厳しさに嘆息をつく場合もある。

 

きえたひかりをさがしもとめ わたしはみどりのもりをさまよう

うつくしいくものながれるそらは いったいどこにいってしまったの

うつくしくものながれるそらを わたしはみんなでみたい

ゆうきがひつようだということを わたしはみんなにつたえたい

うつくしいくものながれるそらを わたしはさがしもとめ

うつくしうたをうたいながら わたしはいまなきながら

ひかりをもとめてさまよっている

みどりのもりのそのなかに わたしのみらいのくるしみを

ときはなってくれるひみつのむかしのうつくしいわすれさられたほうせきのような

きらきらひかるゆめがある  (20091218日)

 

 時には力強く、時には現実に押しつぶされそうになりながら、それでも、確実にはるなさんの歩みは前に向かって続けられてきた。はるなさんはもうすぐ二十歳を迎える。もっともっと生きやすい世界をともに、どうやって築いていくのか、課題はとてつもなく大きいが、これまでの試行錯誤に満ちた歩みをこれからも、積み重ねていく以外に道はない。

 なお。この詩についてはパソコンを用いていない。スイッチを使用せず、スイッチ操作と同様の動きをはるなさんの手を取りながら空中で行い、パソコンの音声の代わりに私が「あかさたな」と声を出していくと、スイッチ場合と同様にはるなさんの意図はかすかな抵抗の力として読み取ることができる。こうやって一文字ずつ読み取ってノートに書き留めたものだ。この方法は、200812月に、たまたまパソコンが手元にない状況で別の方と関わらなければならないことがあって、とっさに思いついたものだが、パソコンをいちいち開かなくてもよいという点で、大きなメリットがある。日常生活の中に、自然とこうした方法が位置づけられ、当たり前の会話として成立するようになるには、まだまだ課題は多いが、こうした方法の導入を通して、そちらに一歩近づくことが可能となった。

 

4.まとめとして―障害の重い人の秘められた言語の問題―

 本稿でまとめたはるなさんのように、それまでとても豊かな言語表現が可能だとは思えなかったような障害の重い子どもが、ある工夫された援助を行うことによって、豊かな言語表現の力が明らかになるという事例は、近年様々なかたちで報告されるようになった。その中には、科学技術の進歩によりまばたきなどのような微細な動きや脳波といたものまで利用して入力スイッチを操作し、パソコンなどの機器で文字を綴るというものがあり、補助代替コミュニケーション(Augmentative and Alternative Communication:AAC)として、近年福祉や教育の現場で急速な広がりを見せている。

 一方、本稿のはるなさんのように、手を支えたり、一緒にスイッチの操作をするなどの手厚い援助をもとに、文字表現が可能になる事例がある。この方法としては、文字を書写することを援助する方法、文字盤を指さすことを援助する方法、及び、われわれのステップスキャン方式の文字選択の援助と、3つの方法が存在する。

 文字の書写の援助は、ソフトタッチングアシスタンス(STA)(国立特殊教育総合研究所2000、笹本2003)や筆談援助(筆談援助の会2008)と呼ばれる方法が国内では知られており、重症心身障害と呼ばれる人たちや自閉症者への取り組みが報告されている。また、この方法で重症心身障害と言われてきた大越桂さんは、自らの体験を本に綴り(大越2008)、また、この方法で言葉の表現が可能になりその後独力でパソコンのキーボード入力ができるようになった自閉症の東田直樹さんは、自らの体験や創作を出版している(東田2007など)。また、学校教育では、東京の特別支援学校において、複数の教員による筆談に成功し、ある子どもに対して異なる援助者間でも筆跡の共通点があるなど客観性の問題も含めて、大きな成果をあげた報告がある(稲美2008)。なお、こうした流れとは別に独自に、母親が手を添えて絵を描く中で偶然本人の動きを感じ取り、そこから文字へと発展していった2組の親子が、私の周囲にはいる。

 文字盤の指さしの援助は、ファシリテイティッドコミュニケーション(Facilitated Communication:FC)と呼ばれ海外でも広がりを持っているものだが、わが国では、日木流奈さんという少年が、この方法でみずから体験を綴った本を出版して注目された(日木2002)。なお、本稿でもふれた私自身が関わっている一人の少年は、テレビで日木さんの映像を見た(1998年に放映)ことをきっかけに、この方法でコミュニケーションがとれるようになった。

 3つめのステップスキャン方式に基づく方法は、本稿や他の報告(柴田2005,2006,2007,2008,2009a,2010b)で紹介した通りであるが、パソコン等の機器を使わずに、関わり手が相手の体に触れながら読み上げ、選択の意図を読みとるところまで発展させることができた。対象も、目立った肢体不自由を伴わないが重度の知的障害があるとされた方々や自閉症とされてきた方々、さらには知的障害と視覚障害が重複しているとされた方々などにも広がった。この方法は、まだ広がりは小さいが、学校教育の現場からの報告も存在する(松尾2008)。

 こうした援助を必要とする方法は、本人の意志を尊重しながら独力では遂行が困難な行為を援助するという意味で、日常生活の様々な援助と何ら変わるものではない。私自身も、自分がとっている方法は、あくまでも本人の自発的な行動を援助する働きかけを追求した結果、到達した方法だ。

 しかし、残念ながら、これらの援助の方法は、必ずといっていいほど、まず厳しい真偽の議論にさらされる。真偽を問うこと自体はむしろ当たり前のことでそれ自体は当然のことだが、残念ながら、真偽の問題で議論が止まってしまうことが多いのである。それは、一つは、客観性の証明が予想外に容易ではないこと、今一つは、論理的にそういうことが起こりうるという根拠となる合理的な説明もまた容易ではないことである。

 まず、客観性の問題が、目の前の1事例に限定したものなのか、援助の方法自体の客観性を問題にしているのかということがある。実は、一人の事例だけに即した場合、一定期間関わり合いを続けていけば、本人にしか知り得ないことが書かれることは少なくなく、また、別の関わり手が同様の関わり合いを行うことができる場合もあるので、そのことからおのずと、その言葉が本人の意志の基づくものであることは、明らかになる。

 だが、それは、すべての人に有効であるかどうかの証明には論理上はならない。障害のある人は、障害の種類や程度がそれぞれ様々である以上、Aという人に有効だったとしても、別のBという人に有効であるかどうかは、改めてBという人に対して個別的に問題にされなければならないのである。

 そして、残念ながら、一回限りの関わり合いでその証明を行うことは容易ではない。自然に書かれた文章が本人にしかわからない情報を含むということは一回のみの関わり合いではむずかしいということや、テストのように尋ねた質問にうまく答えられなかったりすると(経験的には身近な家族の名前などを間違えたりすることもあった)客観性の証明ということからマイナスになってしまうこともある(本人が間違えたとすれば必ずしも客観性の否定にはならないのだが)。

 このように客観性ということでは、現状では一事例ずつの積み重ねを続けていくしかないが、こうした状況を越えていくためには、もう一方の合理的な説明をどのように進めていけるかということになる。

 現状では、行動観察や心理検査などにおいて、その人が表出した行動や反応は、発達段階の反映とされることが常であり、それは現在強固な常識となっている。しかし、私たちが出会っている事実は、この常識と大いに反するものだ。おそらく、この常識に変わりうる合理的な説明を構築しない限り、この方法自体の妥当性や言語表現の秘められた可能性についての幅広い合意を得ることは不可能であると考えられる。

 おそらく、方向性としては、障害理解における発達のモデルをいったん離れて、言語が意図されてから表出されるまでのメカニズム、さらには運動が意図されてから発現するまでのプロセスを精緻に整理して、障害がそのプロセスをどのように滞らせるかという視点から整理してモデル化する必要があると思われる。これまで発達の遅れとして整理されたものは、すべてとは言わないが、こうした表出されるプロセスのどこかの障害ということでとらえ直していく必要があるのではないかと思われる。発達モデルが通時的なものだとすれば共時的モデルが必要と言ってもよいかもしれない。

目下のところ、こうした問題にもっとも有効な知見をもたらしてくれるものとして失語症の研究などがあるが、すべては今後の課題である。

 いずれにしてもこのように、一つ一つの確かな事例を積み上げていくことと、広く納得を得られる合理的な説明の構築の両面の仕事を積み重ねていかない限り、こうした事実が広く受け止められて行くにはいたらないだろう。当事者にはそれほどの時間の猶予があるわけではないが、残念ながら、まだまだ時間が必要である。しかし、それでも、一筋の道は見えていると私には思われる。

 

おわりに

 小学1年生のはるなさんたちと学習を始めた時、まさかこういう場所にたどりつくとは夢にも思わなかった。10名ほどのメンバーで始まったかりんくらぶだが、就学前の通園施設時代の障害の重い子どもたちのグループを母体にして生まれた自主グループだったから、それぞれ多様なメンバーではあるが、みんな障害は重いように見えた。しかし、今、すべてのメンバーがパソコンで自分の気持ちを語るようになった。始まったとき、39歳だった私は、そこそこに経験を重ねてきたつもりでいたから、それなりに見通しを持てているつもりだった。しかし、開けてきた眺望は、まったく新しいものだった。障害とは何かということについて、私は、このかりんくらぶの子どもたちによって根本的な見直しを迫られた。おそらく、今私の立っている場所も、また、決して終着点ではない。これからも、全く新しい眺望に出会うことになるのだろう。

 また、私が学生時代から続けてきた障害者青年学級の活動とかりんくらぶの場所が同じ町田であったということはまったくの偶然だったし、長いこと両者は接点を持つことはなかった。しかし、はるなさんの歌を通じて、二つが出会うことができ、それは、まったく新しい展開を両者にもたらした。これもまた、予想だにしなかった世界である。

 可能性は限りないという言葉がある。かりんくらぶとの13年の歩みは、まさにその言葉通りのものだった。

 最後に、こうしたかけがえのない実践の場を提供してくれたかりんくらぶのみなさんとはるなさんやご家族には心より感謝を申し上げたい。今回、論文にまとめるにあたり、名前や写真、障害の状況などの公表について、お母さんから、堂々と掲載してほしいとのお言葉をいただいた。そして、はるなさんにも同意していただいた。それは、こうした文章が、はるなさんという一人の人間の存在の証につながるということが根底にあるからだろう。この文章がその課題に十分に答ええたとは思えないが、はるなさんの世界のすばらしさを少しでも伝えるものになっていればと願う。そして、こうした展開にとても大きなきかけを作ってくれて、志なかばで倒れた八巻かんなさんにも心から感謝したいと思う。

 参考文献

稲美裕子(2008)「脳性まひに起因するコミュニケーション障害のある児童の書字・描画の手段の確立について」重複障害教育研究会第36回全国大会発表論集

大越桂(2008)『きもちのこえ』毎日新聞社

国立特賞教育総合研究所(2000)『障害のある子どもの書字・描画に関する研究』 国立特殊教育総合研究所

笹本健(2003)「表出が困難な脳性麻痺児のことばの理解」 『はげみ』291号 社会福祉法人日本肢体不自由協会

柴田保之(1998)「障害者青年学級の創作歌」國學院大學教育学研究室紀要第32

柴田保之(2001)「深く秘められた思いとの出会い 表現手段を手に入れるまでの純平君の歩み」國學院大學教育学研究室紀要第35号

柴田保之(2005)「かんなさんの言葉の世界の発見」 重複障害教育研究会第33回全国大会発表論集

柴田保之(2006)「障害の重い子どもの言葉の世界の発見 あおいさんの言葉の世界の広がり」國學院大學教育学研究室紀要第40

柴田保之(2007)「物に触れることから文章を綴るまで 元気君の10年間の歩み」國學院大學教育学研究室紀要第41

柴田保之(2008)「かなえさんが切り拓いた言葉の世界」國學院大學教育学研究室紀要42

柴田保之(2009a)「研ぎ澄まされた心と言葉」國學院大學教育学研究室紀要第43

柴田保之(2009b)「解き放たれた言葉の世界」重複障害教育研究会第37会全国大会発表論集

中島昭美(1977)『人間行動の成りたち』重複障害教育研究所研究紀要第1巻第2号 財団法人重複障害教育研究所

東田直樹(2007)『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール出版部

日木流奈(2001)『人が否定されないルール』講談社

筆談援助の会(2008)『言えない気持ちを伝えたい』エスコアール出版部

松尾有紀(2008)「るみさんの言葉の世界」重複障害教育研究会第36回全国大会発表論集

 

資料1.野に咲く花のように

 

資料2.夢のらっぱと楡の花