「ちいさいころからはな(したかった)」

井上神恵さんの言葉の発見と見えてきた心の世界

 

国学院大学人間開発学部 柴田保之

 

1.はじめに 

 神恵さんは、未熟児で生まれ、重い脳性まひと未熟児網膜症という二つの障害と向き合う中で、成長してきた。すでに20代後半を迎える神恵さん(19811月生まれ)に私が研究所で初めて会ったのは、まだ彼女が学齢を迎える前のこと(19862月)。神恵さんは確かに寝たきりで、視覚障害も重複しており、障害としては大変重いものではあったが、内側からあふれでるようなエネルギーを感じ、自発的な運動を引き出すことはそれほど難しくはないかもしれないと思ったことを覚えている。

 そこから長期にわたる関わり合いを通じて、姿勢と運動の関係や空間の構成などについてたくさんのことを学び、それは、私の子どもに対する考え方の根幹をなしてきた。

 そんな神恵さんが言葉を持っていた。これは、私たちが近年進めてきた障害の重いとされてきた人々の言葉を聞き取る一連の試みの中で出会ったできごとだが、ここでは、言葉を通して見えてくる神恵さんの豊かな心の世界を紹介したい。

 

2.言葉の世界の発見とその展開

(1)最初の言葉(20086月)

 神恵さんに言葉の可能性を感じるようになったのは、次々と私たちの周りで言葉を表現する子どもたちが現れたからだが、視覚に障害のある神恵さんに仮に言葉の理解があったとしても、文字の理解は困難に思えた。それでも、言葉かけの内容は変え、例えば、5個の木の玉を抜きとる教材で、数を唱えたりすると反応がよく、もしかしたらという思いは、しだいに強くなっていった。

そこで、歌のタイトルの一部を入力すると童謡が流れるというワープロソフトを出すことにした。スライドスイッチの棒の取っ手を握ってもらい、例えば「どんぐり」という文字を一つずつ選んでいくのだが、非常に集中しているのがわかった。神恵さんとは、スイッチの教材は長年にわたってやってきて、チャイムをならすような単発的な運動を引き出せていたが、残念ながら文字の選択に必要な連続した反復的運動を自発的に起こして調整するのは困難だったので、文字選択の手応えは明確には得られなかった。

しかし、ちょうどその頃に、本人の自発的な動きをひたすら待つのではなく、こちらがスイッチの操作を先導してオンオフを繰り返す中で相手の意図を読み取ることができるようになったところだったので、時折そうした援助をくわえると、しだいに神恵さんの選択の意図が伝わってくるような気がしてきた。そこで2008615日、意を決して気持ちを書いてもらうことにして、綴られたのが次の言葉である。(図123参照)

いのうえかくいおとうさんおかあさんちいさいころからはな

 最初にまず名前を一緒に選び、その中に確かな手応えが感じられたので、そのまま「おとうさんおかあさん」と書いてもらった。目の見えないはずの神恵さんが確実に選んでいくので、音を手がかりにしている以外にはありえないと思ったし、文字というものだって知らないのではないかと思いつつ、確実に選ばれていくのがとても不思議だった。そして、とうとう「ちいさいころからはな」という神恵さんの気持ちが綴られたのである。

残念ながら最後の「な」のところで泣き出してしまい、内容とはうらはらにいやがっているようにも見えた。そばで見ておられたお父さんも、「先生が一生懸命がんばっているのにこんなにいやがっているようじゃあ、先生、無理だ…」とおっしゃる。この日はここで中断せざるをえなかった。しかし、書かれた言葉は小さい頃から話がしたかったという思いであることは容易に予想がつく。なぜ泣き出してしまったのかは釈然とはしなかったが、ともかく、神恵さんにも言葉があることの片鱗が垣間見られたのである。

(2)最初の長い文章(20087月)

 次に神恵さんの言葉を聞くことができたのは、翌月のことだ。実はこの月はその日の前に一度研究所でお会いしたのだが、その時はとうとうパソコンを開く勇気が出なかった。そして月末にお父さんから「うちに野菜を取りに来ませんかとお誘いがあった。

うかがうと、お父さんは、「まあいっぱいやりましょう」とお酒を出してくださった。神恵さんはすぐ脇で横になっている。話題はすぐに最近体調のすぐれないお母さんの健康のことになる。そして、神恵さんのためには、二人そろって長生きしなければならないとしみじみとおっしゃった。その後初めての出会いのことなど、話はあちこちに飛び、私もお父さんもすっかり酔いがまわった。朝の早いお父さんは、「悪いけど寝ます」ということで寝室に移られた。常識的にはそこでおいとまするべきところだが、酔っていたこともあって、お母さんに、ちょっとパソコンを出してみたいと伝え、取り出した。すでに私の手元も相当に危うかったが、神恵さんの手にスイッチを握らせると、きっとこの時を待っていたのだろう、すぐに次のように言葉を綴った。(以下、原文はひらがなだが、適宜漢字に変換し、句読点を入れる。その方が神恵さんの真意であるはずだから。)

母さんが元気でいつまでも長生きしてもらいたい。面倒を見てくれて感謝しています。父さんにはとてもいつも悪いと思っています。しっかり生きてみたいけれどなかなか思うようにならないので苦しいけど頑張ります。気持ちを言葉で表したかった。字は知っていたけど手を使って書けるとは思わなかった。

 彼女は、未熟児網膜症でほとんど見えていないと言われていて、関わり合いの中で、わずかに目の前に鮮やかな色のコップなどを提示すると反応は得られたが、視覚に訴える働きかけはほとんどしてこなかったので、この言葉には大変驚かされた。そこで、改めて「見えているのですか」と尋ねたところ返ってきた答えは次のようなものだった。

見えています。字は近いところなら見えます。漢字もわかります。

 見えているどころか漢字だってわかるという。障害が重いことをめぐる私の思い込みはすでに多くの子どもたちによって、十分すぎるくらい覆されていたが、見えていないという決めつけもまたいかに危ういものであったかを改めて思い知らされた。

そして、6月の関わりのことに話が及ぶ。

悔しかったことがありました。あんなに気持ちを表現したのに伝わらなかったことです。理解してもらえてうれしかったから泣いただけです。願いは信じてもらうことです。

 うれしい時にも人は泣く、そんな当たり前のことだった。歯がゆかったことだろう。せっかく開きそうになった扉がまた閉ざされてしまったのだから。しかも、その次に会ったときには私はパソコンさえ開かなかった…。この日もようやくパソコンが開かれたのは大好きなお父さんが眠ってからのことだった。 

世界一のお父さんです。苦しみの日々がこれで喜びの人生にかわります。父さんに早く本当の姿私を伝えたい。

 ここで、失礼を顧みず、いつもタオルを握って口でかんでいることについてその理由を尋ねた。

体が動かないからいちばん使えるところを使っているだけです。

 あまりにも明快な答えだ。こうした行動に意味があるということは以前からずっと考えてきたが、どこかでそういう行動は、言葉を理解している段階のものではないと決めつけていたように思う。文章はさらに続いた。

母さんいつもありがとう、私のことに忙しくて体を壊してしまって。願っています、母さんが長生きをすることを願っています、お父さんがいつまでも元気で働けることを。

神恵さんの心からの願いだった。お母さんの体の不調を自分のせいだと考えて誰に告げることもなく、ひっそりと胸を痛めていたのであろう。

 酔いは幸い、手もとをくるわせることはなかったが、目の前のできごとは、本当にまるで、夢のようなできごとだった。

(3)神恵さんへの質問(20089月)

 この日の文章を、中島知子先生にお渡したところ、すぐに大変感激してくださり、9月の通所日には、たくさん質問を用意してお待ちになって下さった。

 最初の問いは小さい頃からずっと「どんぐりころころ」が大好きな理由は何かである。

好きな理由はすてきな歌詞だからです。聞くと昔を思い出します

 一瞬、歌詞?と思った。しかし、改めて歌詞を思い浮かべると、ちょっと悲しい物語が埋め込まれている。どんぐりに大変な出来事がふりかかり、周囲の働きかけに半ば癒されるも、やはり悲しみは消えないという物語を彼女はどう受け止めているのだろうか。

 次は、未熟児網膜症でほとんど見えないと言われてきた目についての問い。

(見えるのは)左です。目の前なら見えます。顔はよくわかります。よく似ている人はまちがえます

 さらに、文字はどうやって覚えたのかという問いに対しては次の答えが返ってきた。

字は自分で覚えました。絵本で覚えました。気になる言葉があると繰り返し思い出していました。けっこう大変でしたが頑張って覚えました。

 学びへの渇望とでもいうべきものがここにはある。おそらく限られたチャンスをしっかりとものにして、それを繰り返し思い出しながら、独力で文字を覚えてきたのだろう。

 さらに、思いの吐露は続いた

つらいことは考えても仕方ないので深くは考えないようにしています。気持ちを伝えられて幸せです

 いろいろなことを十分すぎるほどに考え抜いた姿がそこにあった。

(4)初めての手紙(200810月)

 こうして、神恵さんとの関わり合いは、言葉を綴る時間として、再出発をした。そして、翌月、神恵さんに神恵さんのことで卒論を書いた小杉さんに手紙を書いてもらうようお願いした。快諾した神恵さんは、次のような手紙を書いた。

幸子先生お元気ですか。私は気持ちを言葉で言えるようになってとてもうれしいです。願って望んできたことだったので感激しています。今度お子さんを連れて遊びに来てください。柴田先生はずっと元気です。なつかしいです、私の家に来てくれていたころいろいろ勉強を教えてくれたことが。目を使うことはむずかしいですが幸子先生の顔はよく覚えています。ずっと私のことを気にかけてくれてありがとうございます。本当に感謝しています。電話でいつも話してくれてありがとうございます。また声を聞かせてください。/それでは寒くなるのでお体にはお気をつけください。さようなら。

さっそく、これを小杉さんに送ったところ、涙ながらにこの手紙を読んだとの返事が返ってきた。小杉さんは、本当にきちんと神恵さんに語りかけていて、卒業してからもよく電話をかけ、受話器を耳にあてた神恵さんに直接、語りかけていたとのことだが、その言葉は、すべて届いていたのである。

(5)パソコンを使わない手だけの会話法の発見(200812月)

 次に神恵さんにお会いしたのは、暮れの1230日、神恵さんのお宅においてである。お宅では、さっそくお酒をいただきながら話に花が咲いたが、神恵さんもお父さんに抱えられて一緒に食事をしながら耳をすませている。神恵さんの食事も終わり横になったところで、だいぶ酔いのまわった私は、パソコンではなく手で話してみようと突然思いついた。そして彼女と手をつないで軽く引っ張りながら、「あかさたな」と唱えていった。パソコンの画面がないので、まったく耳だけで、スイッチの代わりに手を引っ張ってもらうことになるのだが、基本的にはパソコンの方法と同じだ。まず、名前を伝えてもらうと、パソコンの時と同じように選択したいところでかすかな力がはいって、意図が伝わってきた。これはいけると、どんどん気持ちを表現してもらった。

以下は、そうして綴られた文章を書き取ったものだ。

(お母さんへひとことお願いします。)疲れている、すみません、私のことで。いつも疲労してしまって入院しないで元気でいてほしい四面楚歌の状況かもしれないけど、逃げないでがんばりましょう。うれしい、手だけで話ができて。願いがかなうとは思わなかった。おねだりしよって思わなかったけど、書きたかった。小さい願いだけど、言いたいことがあります。いつまでもお母さんには元気でいてほしい。意志が言えてよかった。(お父さんへもお願いします。)元気でいつまでも働いてください。

ここで、詩のことについても尋ねてみたところ、さらりと次の短い詩が書かれた。

北風をごきげんにして 宇宙の人間に希望を与え/北の方から人間のため 吹いてくる 北風は 願い求めて吹いてくる

彼女もまた、言葉によるコミュニケーションが閉ざされた世界の中で、言葉が紡ぎ出すファンタジーの世界を持っていた。

(6)北風の詩(20091月)

 1月の関わり合いでは、今度は彼女の方から詩のことを伝えてきた。

朝から数えていました。いい歌を聞きたいけど聞いて歌詞考えて、詩の意味仕事にして生きていけたらいいなと思います。詩を作っています。小さい頃から考えていました。聞いてください。

そして、綴られたのは2編の詩である

白い白い北風が 希望の白い雪を息のように連れてくる/北の国の人間の希望を十字架のように背負いながら/希望の小さな息で小さな夢を/苦難こぼれた少女の願いのように/人間の心に 真実のお願いいっぱい届けるために/小さい頃から信じてきた幸せを素直に受け止めるために/希望の北風の息を感じている。

聞いてもらえてうれしい。詩を作っていると気持ちが落ち着きます。

苦難多く 北からの小さな夢を待ち続けてまっ白な雪を待ち続ける/人間は小さな白い願いを夢に変えようとして/人間の苦難を小さな灰色の雲に変え小さな水色の願いに変える/希望の北風は白い息を人間に願いを持つようにと伝える/希望の北風は白い息を吐き人間に白い希望を与える。

 北風のことを多くの人が詩にしている。そして、世の中の人が冷たい北風といってきらうけれども、北風は希望を伝える風だといい、北風が希望の風である理由は、北の国に苦しい思いをして住む人がいるからだという。そして、本当の苦しみを知っている人にしかこのことはわからないという。この神恵さんの詩も、根底に流れるものは同じだ。

 詩の意味を仕事にしていきたいという神恵さんの思いに対して、「仕事」という意味ではさしあたって、答えるすべはないが、こうした表現をしていくことが神恵さんの生きていく意味の一つになっていくだろうし、そうした表現の機会をどうやって広げていくか、それが大きな課題だとも言える。

(7)いい人間になりたい(20093月)

 2か月後の文章は、次のような書き出しから始まった。

書きたいことがいっぱいあってたまっていました。小さい時に何でも言えたらいいと思っていましたが決してあきらめないで小さい時の思い出を大切にしていてよかったです。小さい時はなぜ私だけ話せないのか自分でも理解できないで悔しく思っていましたが 小さい時にはわからなかったことが大人になってわかるようになって、介護されることの意味も考えられるようになりました。気持ちが言いたいと小さい時から思ってきましたが、気持ちが言えるようになってうれしいです。自分の言いたいことが言えたらいいと小さい時から願ってきましたので願いがかなってうれしいです。

小さい時、なぜ自分だけが話せないのかという取り残されていく思いを想像すると胸が痛むが、私はその時すでに神恵さんに出会っていた。私もまた神恵さんを置き去りにした一人にほかならない。そして12年間の学校生活も終え、成人し、介護される生活の意味を考えるようになったというのだ。そこから話の方向が次のように変わる。

小さい頃から気になっていたことがあります。気になってきたのは自分のヒステリーのことです。人から言われます。自分では素直なつもりなのですが小さい頃から気にしていました。

彼女は、感情表現が激しく、喜ぶときも怒る時も全身を反り返らせてしまう。それをヒステリーと呼ばれたことがあるようだが、感情が体の動きに出てしまうのは体の障害の一部だからしかたないことで別に神恵さんの性格や人柄の問題ではないと説明した。

安心しました いつもいい人間になりたいと思いますが願ってもなかなかちゃんとした人間にはなれそうもありません。素直になれないときがあるからです。期待通りにいかないと怒ってしまいます。きちんとした人生を生きたいです。生きている意味を感じたいです。

なぜ、あえて、神恵さんは、いい人間なりたいと言うのだろうか。私たちのような存在と比べればそのぎりぎりの状況の中で懸命に生きている神恵さんは、もう十分すぎるほどりっぱな人だろう。だが、ていねいに彼女の言葉を追ってみると、介護者との関係の問題がそこにはあるように思われる。神恵さんにとっていい人間とはどんな人でも受け入れられる大きな心を持った人だと考えられるが、どうしても受け入れられない介護のやり方があり、どうしても自分を委ねられない介護者がいるのではないだろうか。それをどうやって越えたらいいのか、そこに神恵さんの理想との闘いがあるのだろう。

そして、この日の文章は次のような言葉でしめくくられた。

気持ちいいと思えるのは希望について考えているときです。望みや希望について考えていると気持ちが楽になります。願いは人間としてきちんとした気持ちをくんでもらって願いをかなえて分相応の人生を生きていくことです。自分の考えを言いたいと思います 聞いて下さい。

願いの声は睡蓮の花のように開き、願いの声は似合いの鳥のように小さな幸せを奏でる。大事なことは昨日の涙を明日の希望に変えることです。小さい時からそう思ってきました。愛されることよりも愛することが大事で、大事なことは頼みの夢を失わないことです。希望をいつまでも大切にして生きていきたいと思います。おじいさんになってもおばあさんになってもずっと座右の銘としていきたいと思います。人間として聞いてもらいたいです。自分の気持ちを聞いてもらいたいです。ぬいぐるみの生き方にはお別れです。頑張って生きていきたいと思います。願いを言えてよかったです。いい気持ちです。すーっとしました。終わります。

(8)結婚についてと一編の詩(20095月、7月)

 その後の関わり合いでも、気持ちが言えたことのよろこび、両親への感謝とおわびの気持ち、健康への気遣い、こうしたことが、毎回、綴られていった。

 5月の文章ではとりわけ次の言葉が胸をうつ。

自分が障害がなかったら今頃は結婚していい暮らしをさせてあげられたのに私のせいで申し訳ないです。いい暮らしがさせてあげられなくて。いい暮らしとは結婚して孫の顔を見せてあげることです。いい暮らしさせてあげたかったですがむつかしかったから、いい暮らしはできなくても許してください。

 また、7月には、美しい言葉で気持ちが綴られた。

悲しい小さな一人の私/不思議な小さな風に乗り/遠い世界に旅をする/みんなの知らないみんなの理想/私はかなえる旅に出る/寺院の屋根を飛び越えて/にれの花から香り来る/びいどろの模様の風を受け/みんなの理想をかなえるために/びいどろの風を背に受けて/夕方の町を下に見て/夢をかなえる旅に出る

(9)死について(20099月)

 私の教材作りを手伝うことを老後の楽しみとしていた父が闘病の末、亡くなり、その通夜に神恵さんご一家は足を運んでくださった。父とは直接面識はなかったが、教材を通して神恵さんも父とのつながりを感じてくださっていた。臨済宗の僧侶の大変心のこもった読経と説教のあとで、神恵さんの手をとって会話をしてみると、お経の一部と思われる単語の意味を聞かれた。私にはまったく意味もわからなかったが、いかに神恵さんがお経の言葉に耳をすませていたのかわかった。

その通夜からちょうど一週間後、研究所でお会いした。神恵さんは、父の死を通じて人間の人生というものについて、真剣に考えてきたようだった。

生き方に従った方だったのですね、先生のお父さんは。人生を一生懸命生きたということですね。きっと幸せだったのですね。聞くことができてよかったです。気持ちを言えてうれしかったです。きっと昔から多くの人が人生をそうやって過ごして生きてきたのですね。望みは私もそんな風に生きていきたいと思います。さんきょう(三界?)という言葉を聞いたことがありますが人間は分相応に生きて唯一の理想が極楽浄土に行くことだと聞いたことがあります。

  いい理想の世界を見てみたいです。人間のいい理想の生き方がしたいです。人間の希望はランプの光をともしたいと思います。小さい願いだけど小さくても理想を掲げて望みを大事に生きていきたいと思います。夢をかなえたいと思います。わかってほしいです、私の気持ちを。夢でした私の気持ちを言うことが。だからうれしいです。小さい時は私はわかっていると思われなかったのでとても寂しかったです。なかなか厳しい日々でした。やっとわかっていることが先生のおかげでわかってもらえたので気持ちが楽になりました。短い人生かもしれないけど精一杯生きていきたいです。

(短い人生とは、あなたの人生ですか、それとも一般的に人間の人生という意味ですか)

人間の人生です。

 彼女の言っていることは実に的を射ていたが、「短い人生」という言葉がちょっと気になった。そこで、こんな話をした。神恵さんのご両親は、まだ、神恵さんの年齢には親にはなっておられないから、ご両親にとっては、今の彼女の年齢のあとに、彼女が生まれてこれまで育った時間が来ることになる。神恵さんにとってもご両親にとってもこれまでの人生は、けっこういろいろなことがあったはずで、その長さを思えば、人生ってけっこう長いとも言えるのではないかと。

わかりました。いろいろなことがあるのを楽しみにしたいです。まだまだ私は若いですから勇気がわいてきました。(…)においのいい花が咲いたようです。きれいな花が咲いたようです。小さい頃からの夢でした。理解してくれてありがとうと言いたかったです。よい私のことを表しています。小さい時からの夢でしたからとても感激しています。

10)夕焼けをめぐって(20105月)

夏も近づいた5月の関わり合いで、神恵さんは、美しい言葉で思い出を語った。

夏を待ち望んでいます。夢は夏らしい夢をかなえることです。海水浴に行きたいです。小さい頃よく行きました。小さい頃夕方によく柔らかな夕焼けがろうそくの明かりのように見えましたがなかなか見えません、最近は。夕焼けがまた見たいです。小さい頃は散歩も簡単でしたから。じっと母さんの胸に抱かれてよく散歩をしたものです。(…)夕焼けがとても好きでした。苦しいことや悲しいことも夕焼けを見ると希望に変わりましたから。人間として満足に希望をかなえることもできなかったけど希望だけは失いたくないと思いながら今日まで生きてきました。人間として生まれて生きてきて人間らしい未来をつかみたいとよく願ってきましたがなかなかむずかしかったです。なんで私だけこんなに苦労するのかと思ったことも少なくありませんが泣かないでこれたのはいつも優しい母さんと父さんがいてくれたからです。(…)敏感ないい母さんなのでいつまでも長生きしてください。小さい夢ですが母さんに指輪を買ってあげたいです。ルビーの指輪がいいと思います。(…)何か他の飾りでいいから買ってあげたいです。自分では買いに行けないので代わりに買ってください。私の貯金で年金があれば使って下さい。(…)人間だから何かいい方法で感謝をしたいです。(…)夕焼けの悲しい色のような歌を聞いてください。

悲しい夕焼け小さい胸にろうそくのあかりをともして消えた/光の向こうの暗闇を私は澄んだ瞳で見つめ/悲しい物語をそこに見る/人生の片隅の密やかな願い/ろうそくの光をともしておくれ/光はいつも泣いている私に希望を与えて/私をあしたの見たい世界に連れていく/美から目ざめた願いの未来/ろうそくのあかりを空に/また体中まで赤くして/私らしく生かしてほしい/ランプのような夕焼けは晩の暗闇を泣かないようにしてくれる/人生の片隅で願いを未来につなぎながら/小さい夢を未来にいつか冒険のようによく実らせよう

神恵さんの深い心の世界が美しい夕焼けのイメージと重なってひときわくっきりと描き出された文章と詩だった

 

3.おわりに

私たちの錯誤によって強いられた長い沈黙の時を経て、ようやく、神恵さんは秘めてきた思いを伝えてくれた。「人間らしい未来をつかみたい」と神恵さんは言う。残念ながらか神恵さんたちの言葉は常識の壁に阻まれ、まだ世の中には届かない。しかし、神恵さんたちが人間として認められる世界を私たちは神恵さんたちとともに、切り拓いていかなくてはならない。