バランスの動的な安定の確立
かなえさんの新しい自分の発見
国学院大学 柴田 保之
はじめに
現在小学1年生のかなえさんが、重複障害教育研究所を初めて訪れたのは2002年6月23日のこと。全身を弓なりにそらせたり、手の甲や手首や指などをなめたりかんだりしているかなえさんの姿から最初に得た印象は、非常に活力のみなぎるお子さんだというものだった。
弓なりにそり返る行動は、全身にこめられた力が、体のそれぞれの部分にうまく配分されず、強い背筋の弓なりのそり返りとなって現れてしまうもので、口を手に運ぶ運動は「くの字」状に体を丸めていくことでばらばらに入ってしまう力を一つにまとめて安定させようとする現われであると考えることができるのであり、けっして、機械的に起こっている無意味な行動ではない。むしろ、かなえさんが、外界の対象や人との関係の中で何か意味あることを激しく求める結果であったと言えよう。この報告では、こうした自分の力の調整に苦心していたかなえさんが、関わり合いの中でしだいに安定した姿勢を作り上げていったプロセスを中心にまとめたい。
1.学習の経過
(1)最初の展開(2002年6月〜)
関わり合いは、かなえさんのこうした活力のみなぎる運動に対して、いったいどのような教材が意味をもたらすことができるのかというところから始まった。かなえさんのように運動が活発に起こっているお子さんの場合、働きかけのきっかけとして、自発的に起こっている運動でスイッチが入るような教材を出してみるということを考えることができるわけだが、問題は、その運動の結果として起こる音と運動との間の関係に興味を示すかどうかということになる。
その教材として最初にうまくいったものは、回転盤スイッチで、2度目の関わり合いとなる9月22日のことである。この時、取っ手を左右いずれかの手でつかませると、最初はもっとも自然な手の運動である肘の曲げ伸ばしをしながら取っ手をある範囲で反復的に動かした。この時の姿勢は、後ろから大人が抱えた状態で、手の屈伸の運動に伴って上体は前後に揺れ、時折そのままそり返るというようなものだった。また、あいているほうの手もつかむ場所を求めており、教材の上にその手が出てきたり、大人が手を差し出すとそれを握ったりする。あいている手が何かをつかんでいるほうが、姿勢はより安定していた。
図1.回転盤スイッチの操作(2002年9月22日)
10月も同様の関わり合いが続き、運動の方向分化につながるようないろいろな教材を試みたが、やはり、回転盤スイッチがいちばん手ごたえを感じていたようだった。また、2月には、回転盤スイッチにくわえて、両手の前後スイッチを初めて提示した。これも回転盤スイッチと同じように、たいへん気にいったようで、両手でしっかりと取っ手の棒をつかみ、前後に繰り返し繰り返し動かして喜んだ。こちらの教材のほうが、かなえさんの運動の起こし方、すなわち両手を左右対称に使いながら体の前後の揺れにあわせて運動を起こすというものにかなっているように思われた。
こうした教材の操作において、とても本人が納得し、いい表情をするのは、非常にリズミカルな繰り返しが生まれてくるときである。単に、運動とスイッチの一回限りの関係でなく、リズミカルな繰り返しの中で生まれてくる一つの動的な安定の実感である。
こうした運動との関係の中で得られる安定した実感は、かなえさんのふだんの行動の中では、全身をそり返らせるというものと、手を口にもっていってなめたりかんだりするというものにおいても見られるものである。
こうした安定を求める行動と、教材に対する働きかけの中で得られる安定とを比較すると、まず、そり返りについては、そりかえる場としての床面や抱きかかえている大人の身体は、外界の対象ではあるが、操作の対象というよりは、姿勢保持のための場としての対象であるということ、そして、そり返りが、加えうる最大の力を出すことによって限界に達することによって得られる安定であって、この教材の操作に見られるような、力を加え続けながらも一定の安定と全身のまとまりがあるということに大きなちがいがある。
また、手を口に持っていくというような行動においては、リズミカルな反復の中で全身がまとまりをもつという点では共通なものを含むが、対象が自分自身の身体であり、外界の対象に向かう教材の操作と比べると、固定化してしまったものであり、それだけに新鮮な喜びは存在しないといえよう。
(2)関わり合いの停滞(2003年3月〜)
こうしたある安定した関わり合いが、2000年3月には、状況は一変してしまった。おそらく、その間に、施設のショートステイが入ったことが直接の原因だと考えられるが、3月に会ったかなえさんは、不機嫌になりやすく、体もひんぱんにそり返るようになっていたのである。
すでに両手の前後スイッチが得意であることがわかっていたので、さっそく出してみたが、上手に操作しているにもかかわらず、不快の表情に変わってしまう。教材という外界に対する働きかけが、リズミカルな反復を伴いつつ動的な安定をある程度もたらすのだが、それによって得られる安定では、根底に存在する不安定な感情を打ち消すことができないというように見受けられた。
そういうふうに考えると、ひんぱんなそり返りも、単なる不機嫌の現われというよりも、どこかで体を安定させ、不安定な感情そのものを安定させたいという気持ちの現われであると考えたほうがよさそうに思われた。
せっかく上手にやっているのに、不機嫌になってしまう以上、続けるわけにもいかず、かなえさんの気持ちを落ち着けるために、好きな歌を歌うことにした。横抱きにして、かなえさんの好きな童謡「ぞうさん」を歌うと、ようやく彼女の気持ちは落ち着いてきた。そして、私の口やのどに手を伸ばして、声の振動を手のひらで受け止めようとする姿も見られた。結局、この日は、ずっと歌を歌ったり、話しかけたりすることになった。
安定ということで言えば、ここでかなえさんに得られた安定とは、体の力をぬききって全身を相手のふところに委ねることによって得られた静的な安定である。かなえさんは、自分で自分をもてあましているとでもいうような状況にあり、その中で、この日考えられることは、抱きかかえて歌うことだけだった。
この状況は、翌月も続いた。もてあましているのはかなえさん自身だけではなく周囲の大人もまた同じだったかもしれず、それは、なかなか抜け出せないマイナスの循環を生み出しているのかもしれないと思った。歌を歌ったりキーボードでメロディをならしたりなどして関わることに終始し、操作を伴う教材は提示することすらしなかった。
かつて、自傷と言われる行動の激しいお子さんが、抱かれることによって全身の力をぬいて安定する姿に出会ったことがあり、そのお子さんは、その時は、少しでも抱くのをやめるとまた激しく自傷と言われる行動を始めてしまうため、ひたすら抱き続けていなければならなかったが、この時の関わり合いでは、そのことを思い出していた。
この日のこの関わり合いの場面に関する限り、いつまで抱き続けているのかと問われれば、いつまでもと答えるしかなかっただろう。
(3)新しい展開(2004年3月〜)
一時的に生じてしまったこうした不安定な状況は日々のお母さんを始めとする暖かい人間関係を通して、もちろん好転していき、再び、教材の操作を通した喜びの世界が戻ってくることとなった。
特に納得ができているのは両手の前後スイッチと回転盤スイッチであるが、すでに述べたように、これらの教材は、かなえさんの上体の前後の揺れにかなうものであり、しばらくは、この原則にのっとった行動が続いた。
ところが、2004年3月、新しい原則に基づいた操作が見られるようになった。回転盤スイッチにおいて、上体をほぼ静止させながら、手首がなめらかな円運動を起こすようになったのである。この円運動をさらに細かく見てみると、肩や肘、手首が取っ手をつかんだ手がなめらかな円運動を起こせるようにうまく協調していることがわかる。この回転盤スイッチでは、前後運動に近い運動でも結果的に円運動が起こることがあるが、この場合は、明らかに、中心が机上に明確に存在する円運動になっているのである。
また静止しているように見える上体は、それまでの前後の揺れから、手の円運動に協調するように小さな円運動を起こして、手の運動と微妙にバランスをとりあっていると考えることができる。図2は、お母さんがかなえさんの上体を支える際に、手のひらをかなえさんの胸にあてるようにして支えた場面であるが、、ともすると後ろにそり返ろうとする動きが強いかなえさんが、身を乗り出すように前傾した姿勢で小さな円運動を起こしながら手の運動を調整している場面である。
こうした手の円運動とそれを支える上体の小さな円運動は、非常によい安定を作り出す。手と上体という二つの円運動がバランスよく起こり続けることによって生まれる安定の世界というものは、おそらく、この回転盤スイッチのような構造を備えた対象を通して初めて得られるものであり、かなえさんにとって、自分の身体に潜在的に存在していた新たな身体の可能性を発見した瞬間といってよいのではないだろうか。
そして、この安定は、力がはいりすぎることによって頻繁に崩れてしまうかなえさんの身体のバランスにとっては、新しい動的な安定のかたちであり、この運動を起こしている時には、後ろへのそり返りもほとんど起こっていないのである。前後スイッチの関わり合いにおいては、往復運動の中で一定の動的な安定が生まれてはいるものの、後ろへのそり返りが時々起きてしまっていたのとは、対照的である。
図2.回転盤スイッチの操作(2004年3月28日)
こうした回転盤スイッチにおけるやり方は、その後も続いたが、6月には、さらに次のような新たな運動が見られた。それは、両手の前後スイッチにおいて、まず、いつものようなリズミカルな反復とはちがい、ゆっくりと1回ずつ確かめるように前後運動を起こしてチャイムをならした後、取っ手につかまりながら、左に上体を倒し、体を起こしたあと、さらに今度は右に倒すということを繰り返しながらチャイムを鳴らしたのである。教材の構造が導こうとしているのはあくまで前後運動で、左右の運動は、直接教材の構造が導いているものではない。もちろん、つかまっている棒がその左右の運動を導いたわけだが、かなえさん自身の自由な選択に基づくものであるといってよい。
この左右の揺れが生まれた背景には、この前後スイッチの前に、回転盤スイッチをやったということがあると思われる。すなわち、回転盤スイッチをやる際の上体の円運動の中には、左右の揺れも含まれているということができ、前後スイッチに持ちかえた時に、前後にゆっくりとゆすっているうちに、左右の揺れが喚起されたということになるだろう。
この左右の運動は、リズミカルな反復が可能なほどには、自由なものではなく、慎重にゆっくりと起こしているため、回転盤スイッチにおける強い安定とは異なるが、力の抜けた安定の状態といってもよいだろう。
図3.両手の前後スイッチの操作(2004年6月27日)
こうした左右の自発的な揺れに対しては、その動きに対応したシーソー式のスイッチがあるので、ここで、その教材を提示することにした。子どもが示した行動がこちらが提示すべき教材を示すという、なかなか得がたい場面でもあった。
両手の前後スイッチをシーソー式のスイッチに代えると、最初は、こちらが教材を左右にゆすったが、そのうちにかなえさん自らが上体を左右に揺らし始めた。
教材を私たちが手で支えているため、やや不安定で教材が前後に揺れるということもあって、時折後ろにそるような動きも入ってくるが、それは、決して強いそり返りではなくて、左右の揺れの試行錯誤の中で生まれているように思われた。
また、この時は、椅子に座って教材を操作しているのだが、上体の動きにあわせて足は自然にそろえられ、足の裏に体重がかかるとともに、上体の揺れに合わせてその体重が左右に移し変えられるようになっていたということも重要である。そばにいたおばあちゃんが、私たちがあえてそろえさせているわけでもないのに、きちんと足がそろってしかもふだんなかなかつけない足の裏を床につけていることに驚きの声をあげておられた。
こうした一連の流れについて、身体の可能性の発見という点から見れば、前後スイッチによって、自ら発見した、棒につかまって左右に上体を揺らすという新しい身体の可能性を、シーソースイッチによってさらに発展させているといってもよいだろう。
2.考察
(1)喜びの意味
ここで、教材操作を通じてかなえさんが感じている喜びについて整理しておきたい。私たちは、教材操作の喜びをわかる喜びというかたちで考えてきたが、それをもう少し深めておきたい。
まず、わかっている内容についていえば、ここでは、まず、教材を操作することと結果として起こるチャイムの関係である。そして、この教材を操作することと結果の関係は、強さやリズムなどを含めた運動の種類や、その際にとる姿勢のバランスなどに応じて多様に変化し、その変化もわかっている内容の中に含まれているのである。すでに述べてきたように、こうした関係の理解の中には、そういう意味で、新しい身体の可能性の発見が含まれていると言えるのである。
単に、スイッチと結果の因果関係というふうにまとめてしまうと、この学習の中で感じられているおもしろさの中にある豊かさがわからなくなってしまう。また、本当に純粋なスイッチと結果の因果関係だけだったら、わかってしまったら、そのうちにあきてしまうだろう。
また、かなえさんにとって、学習の中で感じる喜びには、自分の身体に、ある安定が作り出されるということも含まれているだろう。かなえさんにとって、全身の力の調整が思うようにいかないために、納得のいく運動を、全身のバランスの動的な安定がとれた状態でなかなか行うことができない。ところが、ここで述べたような教材の操作においては、こうした動的な安定が作り出されている場面が多く含まれているのである。
こうした動的なバランスの安定ということと運動の反復ということは不可分であるということもつけくわえておきたい。動的なバランスの安定というのは、リズミカルな運動の反復という時間的な要素と非常に深く関わって生み出されているものなのである。
(2)常同行動の意味
かなえさんの日常生活の中では、口をかむ、なめるなどの常同行動と言われるものがよく起こっている。そして、安易な予測は慎むべきかもしれないが、周囲の関わり合いがもっと希薄であったなら、その常同行動の中には、自傷と言われるものに発展する可能性のあるものも含まれていたかもしれない。
私がかつて出会った激しい自傷のあるお子さんとかなえさんの間にはある類似点があり、それは、全身の力の調節が困難で、なかなか運動を止められず、止めようとすると、力を全身にみなぎらせてそり返るということや、手をかむとか手で体の一部をたたくなどして、体の部分同士を運動で結びつけることによって安定を図ったりすること、あるいは、周囲の人間に包み込まれるように抱かれることによって安定を図るというようなことである。
これらは、どれも、自分の身体をどう安定させるか、ひいては自分自身の気持ちをどう安定させるかということと深く関わっていることである。学習の中でかなえさんが作り出そうとした安定と、こうした行動における安定ということは、根底ではつながりあったものである。
それが、ある条件のもとでは常同行動や自傷へとつながり、ある条件のもとでは、意図的な外界への働きかけとして喜びへとつながっていると考えることで、常同行動や自傷というものを新たにとらえ直すことができるのではないだろうか。
(3)垂直軸の問題
上体の揺れとして記述してきたものは、かなえさんが垂直軸を構成する過程ととらえることができるが、どのような垂直軸が、どのような手もとの水平面上の空間関係と対応しつつ発展してきたかということについてまとめてみると、次のようになる。
すなわち、(1)リズミカルな反復としての前後の揺れの中の垂直軸と、明確な反復性を伴う前後の往復する直線との対応、(2)リズミカルな円運動の中の垂直軸と、明確な反復性を伴う中心の明確な円との対応、(3)リズミカルな反復にはなりえていない左右の揺れの中の垂直軸と、明確な反復性の伴わない左右の往復する直線の前段階(図5では点線で図示)との対応である。
こうした垂直軸の多様化と手元の水平面の多様化の関係は、外としての外界と内としての身体の間の相互補完的な関係を典型的に表したものと言うことができるだろう。
おわりに
かなえさんとの関わり合いはようやく始まったばかりかもしれない。かなえさんの見ているものが何か、どんなことを聞いているのか、そのことを明らかにしうる関わり合いはまだ行うことができていない。だが、それが豊かさを秘めたものであるとの予感は十分にある。その世界への入り口はいったいどこにあるのか、それを探りあてるために、また、秋からの関わり合いを進めていきたい。